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サムスンに見る戦略の重要性

「日本を真似して薄利多売の焼き畑で成功したに過ぎない」「たまたま運が良かっただけ」と民族的な意識からサムスンの成功を直視しない向きもあります。
確かに日米半導体摩擦で日本の半導体メモリ事業全体が準管理貿易体制になった事やIMF危機に上手く立ち回った運の良さ、韓国が採用していた移動通信規格のCDMAが携帯電話通信規格として世界的に普及したというのは成功の要因と見る事は出来ます。
しかし単に運が良いだけではチャンスが到来してもそれをモノにする事は出来ません。

「運を味方につけるだけの準備が出来ていた」と解釈するのが妥当でしょう。

強い労働強度による疲弊はそのまま見習うべきではないし韓国財閥企業の特徴である会長の強権的な「皇帝経営」とまで言われる企業統治体制やその副作用とも言える後発企業のキャッチアップ戦略などは基礎開発力に重きを置いてきた日本企業にそのまま当てはめる事は出来ないかもしれませんが、急成長の要因を探る事は何かにつけ役に立つはずです。

サムスングループの代表企業であるサムスン電子の売上高を見てみると1990年代後半から大きく伸び始めた事が分かります。

2004年には売上高でSONYを上回り、今では日本の代表的な大手家電メーカーを合わせたよりも大きな企業グループに成長したと言われ一部新興国ではSONYやPanasonicのブランドは知らなくてもサムスンは知られているという地域もあると聞きます。

創立50周年を迎えたサムスン電子、次の50年への備え(電子デバイス新聞 第324回)
https://www.sangyo-times.jp/article.aspx?ID=3140

韓国は1997年にアジア通貨危機に端を発する俗に言う「IMF危機」という国家財政危機に陥り、中小のみならずいくつかの財閥系企業も消滅の憂き目に遭っています。

サムスンも例外ではなく従業員の三割をリストラするなど事業の整理・再編が断行されていますがサムスンは比較的うまくこの危機を乗り切りいち早く立ち直ったと言われており、こうした経緯が今の発展にどう影響して来たのかを見てみたいと思います。

尚、今回取り上げるのはサムスン二代目会長である李健熙(イ・ゴンヒ)時代である1987年から2010年頃までを取り扱っており、企業や法律は最新の状態を反映したものではない点はご了承ください。

また逸話のいくつかは多少伝記的に脚色され伝わっている可能性もあります。

韓国財閥の特徴

「財閥」と聞いてイメージするのは同族経営による企業グループの支配かと思います。
韓国の場合、会長、総帥と言われる創業者やその後継者が強大な権力を保持している事は有名ですが、そのトップダウン経営を補佐する「秘書室」「総合企画室」といった数百人規模のエリート部局が会長の指示が実現するよう関係各所に働きかける調整をしたり系列各社、各部署を監査、評価し会長の人事権行使を補佐する事で企業統治を実現しています。

組織的な特徴としては創業に関わるコア事業体を中心とした多角経営が挙げられようかと思います。
これは韓国政府が打ち出す五ヶ年計画などの産業振興政策に財閥グループが参画し市場構造、市場行動、市場成果を牽引して来たのが日本人がイメージする「財閥」との際立った違いになっています。
また時期が進むと非関連分野についても有望な企業を積極的に買収して急成長を目指す韓国企業の特徴になっています。

韓国の「独占規制及び公正取引に関する法律」によると企業集団の支配の基準は「発行株式の持ち分が30%以上を保有するか、或いは役員の任免によってその会社の経営に対して影響力を行使していると認められること」となっていました。

このためグループ系列企業の社長や役員であっても会長の意に沿わなければ簡単に罷免されてしまう事が間々ありました。

支配体制としては会長や親族が株式独占する「オーナー独占型」、創業企業などが母体となり多角経営に乗り出す「中核企業支配型」、グループ企業同士が互いに株式を持ち合う「相互持合い型」があります。

ここで取り上げるサムスングループはオーナー一族の株式占有率はそれほど高くありませんがグループ企業の株式の相互持合いが進んでいるのが特徴です。
こういった組織的特徴やコーポレートガバナンスが足かせになり海外では証券取引所に上場する事が長らく困難になっています。

躍進の立役者 李健熙(イ・ゴンヒ)会長時代

それまで韓国国内こそ知られていても世界的に見れば二流メーカーの一つに過ぎなかったサムスンを国際的な競争力がある企業連合に育て上げたのは創業会長である李秉喆(イ・ビョンチョル)氏から会長職を引き継いだ李健熙(イ・ゴンヒ)氏と言われています。

李健熙(イ・ゴンヒ)氏は東京で学生生活を送り、ジョージ・ワシントン大学でMBAを修了後、当時サムスン傘下の中央日報・東洋放送取締役から三星物産副会長、三星グループ 副会長を経て、会長一族の「お家騒動」のため1987年に三星グループ会長に就任しました。

グループ会長就任までの経歴で国際的な感覚を養ってきたため、国際競争時代に置かれる韓国の現状や物量販売から質が求められるようになるとサムスングループを大改革をしなければ生き残れないと予見し数々の改革を提案してきましたが現状に安住していた系列グループの社長団や側近、特定技能を持つと認定されれば兵役免除になる特権的なエリート従業員の意識を根底から改革するには至らなかったようです。

それまで聞き役に徹する事が多かった李健熙(イ・ゴンヒ)会長が激怒したのは1993年に秘書室SBCチーム(社内放送局)が製作した自社の洗濯機工場が不良品を造っている約30分のレポートビデオを見た時だと言われています。

フランクフルトに到着してホテルでその映像を確認した李健熙(イ・ゴンヒ)会長は

「私が何年もの間、質の経営を強調して来たのに、これはどういう事ですか。社長と役員全員をフランクフルトに集合させなさい」

と幹部クラスに緊急招集をかけ今後の指針を示す「新経営」宣言、俗に言うフランクフルト宣言を発出しました。

李健熙(イ・ゴンヒ)会長がフランクフルトに発つ直前、東京でのグループ会合後、日本人顧問らと夜を徹してのサムスン電子技術開発対策会議を行い、率直にサムスンが抱える問題を指摘した「福田レポート」を受け取っていた事で予てより感じていた抜本改革を実行に移す時だと判断したようです。

李健熙(イ・ゴンヒ)会長は第二次世界大戦後、東西に分断された分断国家であるドイツと同じく分断国家になった韓国を想起して戦後ドイツの復興の象徴である「ライン川の奇跡」に「サムスンの奇跡」の想いを込めたとも伝えられているフランクフルト宣言では「量から質へ」の転換が理念として掲げられ

「国際化」
「複合化」
「情報化」

がグループ全体が目指すべき重点戦略目標として示されています。

そして幾度かの試行錯誤を経て三つの「P」のイノベーション、「3PI運動」として掲げられた改革運動では
パーソナル・イノベーション(人材育成)
プロダクト・イノベーション(製品開発)
プロセス・イノベーション(生産プロセス)

を全社レベルで取り組むものものとされました。

これはそれまでの日本製品をベンチマークとして部品の仕入れ先に至るまで完全にコピーした日本追従戦略では品質やコストでは到底本家の日本企業には太刀打ちできず、いつ淘汰されるかもしれない二流、三流企業から脱却するには世界に通用する一流の独自企業を目指す必要があると改革の必要性をずっと訴えて来た李健熙(イ・ゴンヒ)会長の考えをより具体化したものでした。

・国際化
国や地域によって国情、ニーズが違うので異なるマーケティング戦略が必要であり現地企画、現地開発、現地製造、現地販売を実行する現地法人とそれを統括するグローバルな経営体制、地域専門家による「ワールドベスト」戦略が模索されました。
海外生活を一年間、有給で体験させるグローバル人材育成制度は欧州出張先で集められた重役達が会長から「特別休暇を与えるので各国の生活を体験して来るように」という指令で欧州各国を巡ったのが切っ掛けとなって制定された「地域専門家制度」。

生活費は会社が負担しますが到着した日からその国で住む家を探す事も手続きも支援はなく自分自身で半年~一年間自活していく厳しいものでした。
こうして身に付けた「現地感覚」によって、インドで売る冷蔵庫には「冷蔵庫を買う家は富裕層であり使用人が冷蔵庫から食べ物を失敬するのに辟易としている」ことから鍵を付けたりという現地ニーズに基づくきめ細かい製品開発に生かされていくことになりました。

イスラム圏ではメッカの方角が分かる携帯電話、多民族国家へは多言語対応テレビなど現地の「要求機能」と「制約条件」から求められる最適な商品開発は、性能や製品が優れていれば商品力が高いという「モノ中心」で発想する日本とは異なる戦略であり、それは会長の世界でも一流の企業にしていかなくてはならないという決意の表れでもありました。

・複合化
多角化したグループ企業を統合する事でシナジー効果を求めていますが部品調達で融通するだけでなくデザイン、販売、広告までを包括し、進出先の「工業団地」に系列企業群を集約して経済規模のメリットを最大限狙ったものだったそうです。

・情報化
デジタル革命の到来を予見し対応していく必要性から社内の情報システムの大改革が行われました。

それまでは現場中心で製品が造られ、アジェンダやドキュメントの共有などは軽視されていました。
そのため現場は事務処理に時間を割かれ効率的ではなく社内で情報共有するため3DCADの本格導入を機に社内で情報共有を目指すE-CIM(Engineering – Collaboration and Innovation management)センターが設立されます。

会長が韓国に戻る機上でファーストクラスでの喫煙許可を求めた相手が偶然講演を行うためな韓国に向かっていたMITのジョン・ドノバン教授だった事から二人は意気投合し講演の後、自社の幹部相手に情報化社会の影響をレクチャーを依頼しサムスンの情報化システム構築の必要性が幹部にも広く認識されました。

このシステム構築には日立でソフトウェア開発に従事していた吉川良三氏が招聘され、主導的な立場で同社の情報化改革を実現しました。

韓国社会で記録の文化が根付いていない時代において記録するのみならず、データを共有し開発や契約などあらゆる企業活動をデジタル化した資産管理システムで「見える化」した事で、生産管理が徹底され在庫を半減させたり電子商取引も活発化しています。
・完璧な顧客情報管理の構築
・供給網をビジネスパートナーと共有
・電子商取引拡大
・株主価値、顧客価値、社員価値を最大化する「価値経営」と「知識経営」
・情報技術のインフラ拡充

これは単に社内で設計資産などのアセットが共有されるに留まらず、ウォーターフォール的に順番に進む製品開発を設計や企画、製造現場などの各部署レベルが協力会社も含め一元的に並列的に同時に着手する「チーム設計」で必要な部品を先行して発注したり製品改善案を取り入れたりといった大幅な時短、つまり生産までの効率が向上しました。
従来の製品開発では各段階で発生していた仕様変更が「チーム開発」ではあらかじめ必要な情報が共有され各レベルが同時に対応出来る事になり、差戻しによって発生する開発遅延の時間ロスが大幅に減ったとの事です。

改革断行前は文化的に「記録」が重視されず製品番号も部署が違うと異なるフォーマットとなっていて製造工場では使用した工具や部品が乱雑に収納されていたため作業着手に手間取る事も多く、日本人技術者が整理整頓清掃の「3S」しか教えないと不満を言っていた時代からすると隔世の感のある進歩でした。

改革の手法を取り入れた新しい試みとなる会長肝いりのエスワンプロジェクト「名品テレビ」はヒット商品となり、この成功によって改革の有用性が証明された事で「総論賛成、各論反対」の態度で改革の実行に後ろ向きであった系列グループでも全社的な改革が進められるようになります。

これは物事を表面的に見がちな世の中で本質を見極める事を重視していた逸話として伝えられています。

またこういった改革が多様化するニーズを網羅する多品種同時販売を可能にして後のスマホ開発などでは商品力を高めた事でライバル企業に対して「選ばれるサムスンブランド」になる要因となりました。

サムスンが半導体事業やFPD(フラットパネルディスプレイ)事業といった中枢製品で優位を築いていた事で水平展開しやすい事業形態になっていた事も改革効果が大きく寄与したようです。

これらの李健熙(イ・ゴンヒ)会長の示した「新経営」宣言などの会長の大号令は秘書室が改革タスクフォースチームを組み、会長の命により8500ページの会長の演説を要約した冊子を編纂し、世界十ヶ国語に翻訳されサムスン全社員が輪読するものとして配布されました。

その後、会長は延べ1800人もの社員を引き連れ各国を視察し、クループ会社社長団には販売店で日本製品の隅に追いやられた自社製品の現状を視察させています。

「7・4制」

「パーソナルイノベーション」として全従業員一人一人の意識改革の必要性を感じていた李健熙(イ・ゴンヒ)会長は出勤時間を朝7時、そして16時には退勤する事を求める「7・4制」を打ち出します。

直接的な効果として朝夕の通勤ラッシュを避けての業務効率化や「朝活」効果で仕事に区切りがつくという面もありましたが本当の狙いは従業員一人一人に毎朝起きる度に「改革」を意識させる事にあったと言われます。

そして世間よりも早めに退勤した後は個人学習やジムでの運動などの自己啓発や家族との時間を有効に活用するQOLの向上が推奨されました。

これにより外国語資格取得者が従前から倍増する3.5万人に増え、情報関連資格取得も1900人から18倍も増え、専門である仕事以外の幅広い見識を備えた人材育成という成果を挙げました。

この制度についてインタビューに答えた李健熙(イ・ゴンヒ)会長は

「サムスンが半導体事業に乗り出した時、博士学位の人材を大金を投じてアメリカから多く呼び寄せ役員に就かせたが、彼らは総合的な見識に欠けた一分野の専門家に過ぎなかった。立体的な思考や総合的な見識を備えた人材こそが企業には必要だと感じた」

と述懐しています。

個人主義と平等主義が重んじられていた韓国社会では李会長の組織改革には抵抗や戸惑いも多かったようでが家族との生活など従業員の満足度も個人の能力も高まりましたが韓国国内での過重労働問題などもあり、制度導入から8年後、フレックス制度に移行して今は朝7時の出社は強制されていないようですが、ショック療法にって社員の意識を変化させ、質的な向上をもたらした事はサムスンの精神的支柱となったようです。

IMF危機

「新経営」による改革期を迎えたサムスンでしたが先進国が落ち込み途上国が存在感を高める国際情勢の到来を予見した会長の「このままではサムスンが消滅するかもしれない」という危機感はサムスンに就職すれば御安泰、落ちた者が官僚を目指すと言われた程のエリート集団の意識にはなかなか浸透しなかったようです。

しかし1997年、韓国を通貨危機が直撃し韓国ウォンが半分以下の価値に暴落し韓国はIMFの経済管理と引き換えに救済を受ける事になります。
前年に加盟したばかりのIMFに救済されることになった韓国は「IMF危機」として国民が危機感を共有する大事件であり、韓国一位二位を争う財閥グループであるサムスンもIMF救済条件である財閥再編などの影響を免れる事は出来ず16万人のうちの3割の社員が突然解雇されるなど大混乱しました。

この時、会長命令で収益を上げていても将来性が無いと判断された事業を中心に整理され、福利厚生も削減され、次々と解雇される同僚を目の当たりにして真の意味で社員全員に危機意識が共有された事で会長が掲げて来た改革に文句を言う者は殆ど居なかったそうです。

またIMF危機前からスタートしていた改革がこの危機に際して大きく変革する事を可能としていました。

デジタル革命

サムスンに有利に作用した要因として「デジタル化」時代の到来がありました。

1980年代、欧米から技術を習得した日本の製造業は「コツ・勘」や「擦り合わせ」という現場のノウハウの蓄積によって品質と効率を高めました。

アメリカや欧州の製造業は、この日本の特異な技術優位に勝ち目はないと白旗を上げましたが韓国も日本を手本として立ち上がった製造業も日本に対して及ばず高品質で世界市場を席巻した日本製品に対して「安かろう悪かろう」という立場に甘んじ、ディスカウントする事でなんとかシェアを確保してきたに過ぎませんでした。それを続けていても事業は頭打ちになる事は自明でした。

しかし3DCADやデジタル通信などの「製造プロセスのデジタル化」によって、それまで日本メーカーが得意としてきた「擦り合わせ」などのノウハウがデジタル化で共有され、公差などの製造情報もCADデータに内包された事で図学の習得が必ずしも必要とされなくなった事でどこで造っても同じアウトプットが期待できる均質化の時代になります。

厳密には1/1000、1/10000の差異を感触や音、あるいは色などの五感を駆使して見極める職人の技能に対してコンピュータ制御の工作機械では1/100、1/1000程度の精度の再現に過ぎませんが、それでも最終消費者がその違いを意識できる事は稀であり、製品に落とし込む制御のデジタル化でも安定した品質や動作を確保できるようになり、製品の品質ではなく、製品の使い勝手や着想などで後発組が先行して来た日本の製造業に対して急速にキャッチアップする事が出来る土壌が整いました。

この「デジタルモノ作り」によって製品の陳腐化が加速し、適切な投資を怠りデジタル化のスピード感に追従できていないと脱落を余儀なくされる競争時代に突入し、それまでの固定化されたシェアが変動する事になります。

これは個人が極力責任を取らないで済むように幾重にも段階を踏み責任の所在をあいまいにする日本企業に対し総帥の強権によるトップダウンで成果を急ぐ韓国企業にとって有利に作用したと見られます。

更に「コンテンツのデジタル化」でも、過去のコンテンツ資産にとらわれ新しい試みや大胆な改革が進まなかった日本企業などに対してMP3プレイヤーやユーザーフレンドリーな携帯電話などの新時代の製品で電化製品市場を切り崩していく事になります。

中でも携帯電話事業はユーザーが常に身に付け、買い替える時もブランドが強く意識されるという特質から重点製品として位置づけられ、仕向け地のニーズを取り込んだ多様な製品が展開されグローバルブランド戦略を担う事になります。

これらは新規参入脅威、競争業者、代替製品、買い手、売り手を評価する「ファイブフォース分析」からスタートした戦略的なものでした。

ブランド戦略

サムスンはまだコモディティ化していなかったり技術革新で市場を動かせる可能性がある分野に対して集中的な投資でシェアを獲得しに行く事を得意としましたが、それはブランドイメージでも同様の集中投資戦略が取られます。

世界的なスポーツ大会のスポンサーを獲得しトップブランドのイメージを高める戦略を取ります。
またプロゴルファーや卓球などでオリンピッククラスの国内選手を育成しながら関連する製品展開でブランドイメージ強化を図りました。

これらは「グローバルマーケティング室」が主導し2003年にはブランド価値が31%上昇する企業になりました。

ライバルが新商品のお披露目をすると、直ぐに対抗する上位機の「開発」を発表するというのもブランドのイメージを維持する手段としてよく用いられました。

一方で製品の品質を高める努力と共に、カスタマーサービスの方にいっそうの注力していきます。
韓国国内では、ソウルなどの大都市では常にサービスマンが巡回しており、顧客からの修理依頼が入るとすぐに駆け付けるようにしました。

ここでは製品のモーターや制御回路基板などを携行して、その場で診断して故障部品を交換し、その場で修理が困難な故障の場合は代替品を手配して交換対応をしています。

これにより顧客は製品の故障というネガティブなイメージよりも使用が中断されずに済んだというポジティブな印象で体感不良率は高くならずに済み、製品やブランドに好意を持つという経験則からきている対応になります。

これは「品質は企業が決めるのではなく消費者が決める」という李健熙(イ・ゴンヒ)会長の哲学を反映したものでした。

自動車事業の失敗

先見の明で打ち出す施策が次々と功を奏した李健熙(イ・ゴンヒ)会長でしたが、失敗が無かった訳でもありません。

かねてより経営多角化の一環として自動車産業に意欲を見せていましたが政府や社内での反対をはねのけ1994年に日産自動車からの技術導入を受ける形で自動車生産に乗り出しました。

しかしその時には既に自動車産業は巨額の設備投資を必要とする割には利益が少なく業界再編が始まっている時期にあり1997年の「IMF危機」で急速に採算が悪化して最終的には自動車部門はルノーに売却されました。

これはタイミングが悪かった事もありますがサムスンのコモディティ化していたり成熟した市場に対してのアプローチは苦手な側面の表れであろうと思います。

サムスンの中核事業である半導体やFPD事業が8割の利益を稼ぎ出しているという体質になっている要因と言えます。

哲学者、李健熙

李健熙(イ・ゴンヒ)会長は他の韓国財閥同様よく強権的であったと見られがちですが、その企業統治はトップダウンとボトムアップを組み合わせたものでした。

会長は目指すべき大項目を提示すると、重役以下従業員それぞれが課題に向けて動き出す組織が出来上がっていました。

サムスンでは「指示待ち人間」ではすぐに職を失った事でしょう。
しかし、時にこの「会長の指示」を実現する為に対外的に強引な手法が取られる事があり問題となった事もあったようです。

それは企業中心の論理はすべてに優先するという事で今の世の中では批判も多くあると思いますが、企業が大きく発展する過程において先行する事を組織全体として優先した姿勢の表れであったように思います。

また、李健熙(イ・ゴンヒ)会長はどのような人物であったかと言うと、面会した人の多くが「哲学者のようであった」と言っています。

社内に対して改革案を提出させたところ、右腕とも言うべき秘書室長の交代が避けられない情勢となった事から主力企業幹部の生え抜きではなく社外から登用していたグループ会社の社長を抜擢し、さらに退任する秘書室長はグループ企業で重用されるようしてこのように人事においても配慮をする人物であったようです。

事業以外の幅広い分野に知見を持ち、相手の話を聞く姿勢など巨大財閥グループのリーダーというカリスマ性を超えて人を惹きつけるものがあったのだろうと思います。

最後に

企業改革は国情や経済状態、企業の規模や成長サイクルのどのステージに差し掛かっているかなど、抱える課題も違い、サムスンや会長の手法を真似ればうまく行くというものではないのだろうと思います。

また性急に結果を求めがちな韓国の国民性と、じっくり取り組み本質を突き詰めていくのが得意な日本の国民性とでは最適な手法というのも違っていて当然であろうと思います。
また他で採用実績があると採用されやすい日本と、新しい試みのものが採用されやすく、失敗したら原因を探るより次を考えていく韓国と言う商習慣の違いから、自ずと打ち出せる施策というのも変わって来るでしょう。

正直な所、製品の品質やサービスそのものが見劣りすれば「ブランドイメージ」を取り繕っても顧客には見抜かれてしまうでしょうし、韓国企業が富士山や力士をモチーフにした広告を打つ事には反発を覚える方も多い事と思います。

しかしサムスンの改革を見ていく時、後追い二流戦略とは一線を画すお客様第一の企業家精神に松下幸之助の「お客様大事の心」に通じる日本精神を見出す事は出来ないでしょうか。

それは長引く経済低成長の中で、日本から失われつつある商売で成功する為のエッセンスではないかと思います。

李健熙(イ・ゴンヒ)会長は国家、企業、国民の三位一体性を説く文脈で「韓国の政治は四流、官僚や行政は三流、企業は二流」という北京発言で物議をかもし、時の政権と反目したことがありましたが、それはグループ企業会長としてではなく国際人のスケールで俯瞰した率直な見方だった事でしょう。

奨学財団を創り、従業員以外にも海外留学の門戸を開き、イラクで落札した埠頭建設費が落札額の2倍以上になってでも断行し、親北的だったイラク政府の信頼を勝ち取り韓国寄りにシフトさせた事からも、国家的な視点を持ちながらも経営者は政治に関わるべきではないという信念を持った稀有な企業家精神の人であったのだろうと思います。

事業を見る時、短期での損得勘定にとらわれるのではなく、国家観レベルで俯瞰して大局で考えることのできるリーダーが、今の日本には必要なように思いました。

資料

書籍
・サムスン高速成長の軌跡―李健煕10年改革 キム ソンホン (著), ウ インホ (著), 小川 昌代 (翻訳)

サムスンの改革を主導した李健煕の足跡をたどる

・危機の経営 サムスンを世界一企業に変えた3つのイノベーション 吉川 良三 (著), 畑村 洋太郎 (著)

サムスンのシステム改革を請け負った日本人元役員を通したイノベーション解説

・サムスンの決定はなぜ世界一速いのか 吉川 良三 (著)

サムスンのシステム改革を請け負った日本人元役員の回顧録

・ソニーVSサムスン: 組織プロセスとリーダーシップの比較分 張 世進 (著)

ソニーとサムスンのという異なる企業を対比する事でそれぞれの成功の要因、問題点などと解き明かすビジネス分析を展開

・技術発展と半導体産業―韓国半導体産業の発展メカニズム 宋 娘沃 (著)

韓国における半導体事業の成り立ちと発展史

web資料
・サムスン電子の「新経営」の展開 李 美善
https://wwwbiz.meijo-u.ac.jp/SEBM/ronso/no10_1/12_LEE.pdf

・家電業界における日本企業の凋落 藤井 成秀
https://www.kochi-tech.ac.jp/library/ron/pdf/2012/03/14/a1130479.pdf

・サムスン電子の高収益を生み出す源泉 猪狩栄次朗 糸久正人 吉川良三http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC155_2007.pdf

・サムスン電子のグローバル人材戦略 李 兌賢
https://kindai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=12239&item_no=1&attribute_id=40&file_no=1&page_id=13&block_id=21

・元サムスン顧問・福田民郎氏「会長の号令で一斉改革」 日経新聞(有料版)

・サムスン電子の経営戦略と組織能力 李 亨五https://www.jstage.jst.go.jp/article/amr/3/7/3_030705/_pdf/-char/en

・創立50周年を迎えたサムスン電子、次の50年への備え


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