日米半導体摩擦の背景
以前に日米半導体協定とその影響という記事で日米半導体協定についておおまかに解説しました。
しかし自由貿易主義を標榜するアメリカがいかにして保護主義的な協定を推し進め、また日本側がどう対応したのかについてはあやふやでした。
米中半導体戦争と言われる昨今、次のアメリカ大統領選の結果次第では大きく流れが変わるかもしれない節目に際し、今回改めて日米半導体協定の状況を掘り下げた資料を元に、当時の流れを振り返ってみたいと思います。
・アメリカの半導体産業の特徴
半導体発祥の地、アメリカの半導体はシリコンバレーで様々なベンチャーがスピンアウトして発展しました。
限られた地域に当時の最先端研究者が集結しており、人的交流や転職が容易な事も黎明期における開発競争促進に寄与したようです。
第二次世界大戦後の世界が東西に分かれ対立する東西冷戦期、アメリカの競争相手であるソビエトが人類初の人工衛星打ち上げ(1957)、所謂スプートニクショック、それに続く有人宇宙船打ち上げ(1961)で国防が強く意識された時代にロケット技術で後れをとるアメリカは電子機器の小型化、高性能化にも取り組まねばならず半導体分野への政府からの研究開発予算が優先的に配分された事から軍需と航空宇宙産業は要求水準は厳しいものでしたが基礎研究が進み、また予算の制限についてはさほど厳しくない有力な納入先としてアメリカ半導体産業の立ち上げ時期に貢献しました。
この時期には次の時代を担う技術者を多く要するフェアチャイルド・セミコンダクター社などの有力企業が立ち上がっています。
やがてベトナム戦争の縮小、核軍縮条約批准など世界情勢が変化すると国防予算は縮小され半導体分野も予算削減などの先細りが見え始めていたタイミングで起きたドルショックで業界再編が加速し産業機械や民需への転換が図られ半導体各社は軍需依存を脱却していきます。
$$
\begin{array}{|c|c|c|c|c|c|c|c|} \hline
&1962 & 1963 & 1964 & 1965 & 1966 & 1967 & 1968 \\ \hline
軍需(百万ドル))& 4 & 15 & 35 &57 & 78 & 98 &115\\ \hline
軍需航空宇宙(%) & 100% & 94% & 85% & 72% & 53% & 43% & 37%\\ \hline
\end{array}
$$
この結果、自社で需要を満たすキャプティブ企業と半導体製造専業のベンチャー企業が半導体業界を構成することになりIBMやAT&Tなどのシステムを開発、販売する巨大企業、現在主流のシリコン半導体を量産したフェアチャイルド・セミコンダクターから生まれたIntelやナショナル・セミコンダクター、半導体生産技術の進展に伴いそれを実現するための装置メーカー、素材産業など数多くの半導体関連企業が補完的に設立され市場競争を通じて世界の半導体業界を牽引する下地が形作られました。
しかし基礎研究分野で抜きん出ていたアメリカですが、民需を牽引する肝心の製品は次々と日本などにマーケットシェアを奪われており、これらの製品に対応する半導体を積極的に開発していくという状況ではなくなりつつありました。
・日本の半導体産業の特徴
日本では終戦間もない頃からアメリカの半導体研究に着目している研究者は居ましたが外貨持ち出し制限などもありアメリカ発の書籍や論文などの最新情報を入手する事自体が困難を極めました。
ソニーのトランジスタラジオの成功をみた通産省は電子工業振興臨時措置法などを通じ産業振興に関与しますが当初は半導体に特化したものではなく電子産業全般の新興が目的であった事もあり日本の総合電気メーカー各社は半導体部品の将来性を模索するため若手の技術者をアメリカに派遣して精力的に情報収集にあたらせ、日本での研究を本格化させました。
電卓用ICと並び外販ではなくテレビやオーディオ機器なと家電メーカーの自社製品IC化といった需要が喚起され日本の半導体産業は効率的な開発とコスト競争という競争原理にさらされる事になり多様な新製品への対応と歩留まり向上のインセンティブ、生産効率の改善が研究開発では強く意識されていました。
既にライバル関係にあった各社は品質向上とコスト削減に切磋琢磨していきます。
日本が貿易自由化を受け入れると政府の貿易面での直接の産業支援は終了するものの、その後は間接的に研究開発に焦点を当てた支援に重点がおかれ、日本の半導体産業開発力底上げを目的とした「超LSI技術研究組合」(1976-1980年)が組織されます。
これは参加企業による半導体共同開発ではなく基礎研究や製造技術の研究と情報交換に主眼が置かれたものであり、ここでの蓄積が後の日本の半導体製造全般にわたる強さに繋がっていきます。
(同様の取り組みは組み立て工程請負から製造立国を目指した時期の韓国や台湾でも見られ、後にアメリカでもSEMATECHが組織されます。
やがてアメリカでの半導体需要増加で日本製の半導体が注目され高品質であると評価されるとアメリカのシステム企業が日本製半導体の採用を増やしていきました。
・SIAの設立
アメリカで日本製半導体の貿易輸入超過が顕著になった1970年代後半になると巨大システムメーカーと違い、直接競合するIntelやモトローラ、ナショナル・セミコンダクターといった半導体チップの製造を専業とするアメリカのデバイスメーカーは危機感を募らせます。
しかしこれらの企業は新しい企業体であった事や政治介入を嫌う風土などから政治と距離をとっており国の貿易や外交政策に影響を与える立場にはありませんでした。
1977年に訪米する福田赳夫首相に直訴する団体の必要性を感じたこれらの企業のトップが会合を持ちSemiconductor Industry Association(SIA:半導体産業協会)が設立されました。
デバイスメーカー6社、専従職員2名で始まったこの団体が後に日本の半導体産業の運命を大きく変えていく事になります。
・貿易、公共政策におけるアメリカ産業の利益を代表し対外折衝を行う
・業界を結集し全体問題の解決、機会を創出する
といった目的を掲げ、対日貿易問題を提起していきます。
訪米した福田赳夫首相と面会を持ち、日本のダンピング、政府の補助金支援の不公正さ、日本の構造障壁などを指摘しましたが、日本からはこれらの問題は存在しないと言う返答が返ってきます。
また、アメリカでの半導体の最大の利用者である巨大システム企業は高性能でもコストパフォーマンスに優れた日本製チップを安く調達できるという点でも自由貿易信奉者であった事から日本半導体を危険視するSIAとはまだ利害が一致しませんでした。
政治家への伝手も無く政府高官らに次々と問題を提起しますが政治家は狭い分野、狭い地域に集積していた半導体産業への関心は低く官僚機構も半導体に対する理解が乏しい状況にありました。
政界への積極的な働きかけは却って議員から「会う度に違う事を言うが半年前の問題はもういいのか?」と言われる程の物だったようです。
SIAのITC調査依頼が議会の貿易関係小委員会に届き、サンノゼでの公聴会が開催され、これが自己実現的に「日米半導体摩擦」が政界に周知される一つの切っ掛けとなったようです。
・日本側の対応
高まる日米貿易摩擦を背景にアメリカのメディアで日本の半導体の脅威が取り上げられた事が日本に伝わると日本側にも対応の必要性が認識され始めました。
SIAの主張が単なる貿易問題にとどまらず、日本の構造的問題を指摘していた事が重く受け止められ、これを認める訳にはいかない通産省は競争を繰り広げていた各社に「秩序ある輸出」を求めましたが政府介入にならないように配慮してか、それ以上の踏み込んだ措置はまだ行われません。
日本電子機会工業会はアメリカ側に接点のある議員を通じて調整に乗り出しましたが働きかけが軟調に終わるとアメリカ各地で日本側の主張を広めるセミナーを開催し独自の反論を試みます。
安かろう悪かろうのダンピングとの批判にヒューレットパッカード社の副社長が日本製のメモリはアメリカ製メモリより格段に不良品率が低いと講演で話しています。
・SIAの変遷
政界への働きかけが不調だったSIAは戦略を見直し「日本政府の半導体を優遇するターゲッティング政策」と系列取引により排他的な商習慣やダンピングが構造障壁として現存するという主張に集中していきます。
実際、日本が保護貿易主義をとっていた1960年代は通産省は外資企業の日本参入に対して高いハードルを設定して実質的に締め出していました。
例えばIBMが日本に法人を設立しようとした際、通産省側は
・IBMの将来分も含む特許を特許料売上高の5%で日本企業に使用させること
・IBMの日本法人は輸出を主として日本国内では通産省の数量制限に従う
といったような国内企業保護を念頭にした制約を課していました。
弱小だった日本の半導体産業が巨人アメリカに滅ぼされると恐れられていた時代でした。
1960年の「貿易為替自由化大綱」策定以降、日本も自由貿易の枠組みに加わり少しずつ制限は撤廃され1975年には半導体分野も自由化されていましたがアメリカ側には根強い不信感が残っていた事もその後日米での議論が紛糾する一因となります。
SIAの報告書『マイクロ・エレクトロニクスの国際的挑 アメリカの産業、大学及び政府による対応』では外国政府が半導体産業へ国家的支援を行い本来自由市場で得られる以上の利益を上げている例として日本の超LSI技術研究組合の成功例を挙げ、アメリカ産業が重大な挑戦を受けているとの論旨を展開しています。
別の報告書では「日本政府の保護、支援がなければ日本企業がアメリカ市場に挑戦する程の成功はしなかった」とし「過去の支援とそれに基づく慣行が構造化しており、米国産業が自由化以前のシェアから拡大できないのがその表れである」とGATT東京ラウンド紛争処理手続きの補助金コード違反を指摘しています。
1981年、アメリカにレーガン政権が発足すると官僚の一部は入れ替えられ日本留学経験者やマーチャント企業で対日交渉を担当していた者なども多く任用され、彼らは経験的に日本の構造的障壁を「理解」していました。
SIAは日本の構造的障壁を明確にするためアメリカ製品の「シェア」を持ち出します。
米国では98%、欧州市場では78%のシェアを持つ米国製品が貿易自由化の関税の引下げや為替変動にも関わらず日本では10%前後で推移しており日本市場でアメリカ製品が本来得られるシェアは30~40%と推定しています。
これが後に問題になる数値目標20%の根拠になっていきます。
国家間交渉にビジネス界の慣習である「シェア」の概念は当初、関係者には奇異に映ったものの「日本の構造的国内問題」とそれを示す「シェア」、その対抗策であるアファーマティブ・アクションは論理の正当性を抜きにして問題の所在を明確にし関心を喚起するものとアメリカ議会内でも受け入られていきます。
これらの活動を通じて影響力を増したSIAでは通商法301条での日本提訴が検討され始めていました。
半導体に関する関心が低く自由貿易を標榜するレーガン政権では当初中心的人物は関与しておらず日本側に対応を求める商務省や合衆国通商代表部(USTR)と外交関係への悪影響を懸念する財務省、国務省、それに国家安全保障会議などで対応を巡り省庁間で意見が対立していました。
ダンピング防止措置のための価格データ収集も反トラスト法違反に抵触しかねないものとして当初は法的な問題が議論されています。
日本政府との間で「日米先端技術作業部会」を設置し、法的な拘束力を持つ「協定」ではなく自発的な「勧告」といった落しどころを模索していきます。
協議を重ねる日米両政府は1982年、半導体、スパコン、光ファイバー分野において政府の市場介入を最小化する、貿易・投資機会を相互に保障する、市場参入機会を保障する、企業への便益は外国企業にも適用するといった妥協で落ち着きます。
これらは穏健な日本側の輸入自主拡大(Voluntary Import Expansion:VIE)の他、市場調査など緩い輸入自主規制(voluntary export restriction:VER)も含んだものでした。
1983年に中曽根首相が訪米した折、半導体分野において再び日本政府の是正が求められ、10月に日米は関税撤廃などに合意しています。
しかし両国政府は自由貿易の理念と自国内制約との板挟みによって結果を保障するような措置を避けたかった事情がありました。
そこで責任の所在を曖昧にし決定的な拘束を避けるため日本語と英語のニュアンスの違いなどが充分に検討され「奨励(encourage)」という文言が用いられました。これは通産省審議官から商務省顧問らに宛てた議長覚書きという「サイドレター」という非公開な形式のものでした。
・日米半導体摩擦
これまでの一連の騒動はまだ倒産や大量解雇といった状況にない、将来の懸念に対する未然の措置でした。
しかしメモリの一種であるDRAMで「シリコンサイクル」という需要が一巡し余剰在庫で価格が下落する半導体産業が数年おきに好況不況を繰り返す不況期に陥いるとアメリカの半導体デバイスメーカーには実際の危機が訪れます。
1980年の16kDRAMの在庫過剰による半導体不況では日本メーカーが比較的スムーズに次の64kDRAMへ切り替えていったのに対し、アメリカでは64kDRAMの需要が盛り返しても切り替えが遅れていました。
日本の半導体メーカーが総合電気メーカーなどの1部門でグループの資金力を背景に先行した資本投入が出来ていたのに対し、アメリカの半導体メーカーは在庫率が1.5~3.5%で変動していた日本メーカーより低位の0.5%と安定していたにも関わらず半導体専売であるため好不況の波をもろに受けて不況期には投資がままならなくり景気回復を待たねばならなかった差とも言われており、既に半導体業界が技術集約と資本集約的な色合いが強くなっていた事を物語っています。
この当時は3年で全工程の装置を刷新しなければならなかったとされていますが、これは日米の主力半導体の種類が違っていたため、特に日本での旺盛な設備投資がアメリカのそれを上回っており、遅れを取ったアメリカ企業が追い付くのは投資額からも困難な状況になりつつありました。
人件費の比率が高いパッケージングの後工程ではアメリカ企業は人件費の安い海外に工場を移転していたのに対し日本企業は工程の自動化を進めました。
アメリカの海外工場で作業員の介在が必要な半自動の第一世代や第二世代のボンディングマシンを使っていた時に、日本企業は完全自動化された第四、第五世代の機械を導入しています。
日本企業が自動化を推し進めた背景には高い技術力を支える産業構造が国内にあった事もありましたが、外貨割当規制で海外進出が制限されてきた事から東南アジア諸国などでの企業運営ノウハウが無く、国内に留まる以上、業績の変動で解雇して労使関係を損ねられなかったという事情もありました。
そしてシェアが縮小した企業は利益を減らし、開発や設備投資を縮小するので更に生産性や競争力が落ちてシェアを減らすという悪循環に陥り、ここから抜け出すのは時と共に困難になります。
1985年の半導体不況ではアメリカで8社あったメモリメーカーは再編や従業員のリストラが横行し、また世界で初めてDRAMの商品化を行ったIntelはリソースをMPU(マイクロプロセッサユニット)に集中する為、遂にDRAM事業からの撤退を決めた事が報じられます。
当時、DRAMはアメリカ半導体産業の生命性であると認識されていた時代でもあり、日本が官民で一体になってこの分野を奪いに来ており、アメリカのDRAMメーカーが尽く日本に敗退し、IntelはMPUという将来性も不確かな分野に賭ける有り様で日本半導体の脅威の再来として問題視されるようになります。
1985年、SIAは日本政府を閉鎖的な市場による参入障壁で米企業に損害を与えているとして通商代表部に通商301条で提訴します。
産業界や議会もこれを支持します。
レーガン政権の受け止め方は301条提訴に理解を示す商務省や労働省は好意的であったものの財務省、国務省、それに国家安全保障会議などはアメリカ産業界の努力不足を指摘し、外交関係悪化を懸念していました。
政権としては受理はするものの対日協議の調査過程での政治的解決を念頭に置いていたようです。
日本政府はこれを事実誤認であると遺憾を表明。
日本側半導体企業各社は構造問題から調査が取引情報や会計に及ぶことを懸念しましたが、カラーTV摩擦を経験した家電メーカー、対米進出の経験や企業内での半導体部門の位置づけ、実際に低価格を容認してきたかなど各社に温度差がありました。
しかしアメリカとの過度の摩擦を懸念する通産省の指導を受け入れることで政治的に解決される道を模索します。
日本電子機械工業会はSIAの主張に日本側に反競争的な要因は無いとして反論し、数値目標を批判します。
またアメリカ議会へのロビー活動や米AEA(American Economic Associationアメリカ経済学会)に接触を図っていましたが今や半導体デバイスメーカー以外も参加する一大勢力となったSIAの影響力拡大を前にしては遅きに失した感がありました。
また産業界は通産省の指導は受け入れていたものの、SIAのような自発的な政策提言などの支援には消極的だったのは各社が競い合うライバル関係であった事影響しているようでした。
他方、政府間協議においては日本国内の構造問題の有無と自由貿易レジームに焦点が置かれたため政府調達やGATTの補助金コードには踏み込まれなくなっていきます。
日本側官僚がデータを駆使して反論してきたため、SIAは業界の専門家からなる顧問団を組織し協議を補佐したため米政府の主張はSIAの政策意図に沿ったものになっていきました。
ちょうど米商務省は組織拡充が構想されていた時期に差し掛かっており、穏健に落としどころを探る合衆国通商代表部(USTR)に対し好機とみてか、独自のダンピング調査を実施します。
しかしアメリカ側が日本のダンピングとして指摘した「フォワードプライシング」は製品の生産習熟による効率向上分を見越し予め製品のライフサイクルを通じての平均的な価格を設定しておくもので米企業も行っており、後にはGATTウルグアイラウンドの焦点になりましたが対日批判の前では米企業の問題は争点化される事はありませんでした。
米商務省はダンピング調査をある種の「ショック療法」として日本側から譲歩を引き出す目論見であったようですが、不意を突かれた格好になった日本側は態度を硬化させこの時の協議を打ち切ってしまいます。
米側のタスクフォース組織などもあって商務省に後れを取ったUSTRの主張は以降アグレッシブになっていきます。
1986年に米国からの申し入れで協議が再開されるとしかしUSTRは日本市場での米国製品シェア30%の数値目標を要求します。
更に同様の措置を自動車や事務機器などの各企業にも求め原価割れは日本国内、第三国輸出に関わらず警告するとします。
日本側は企業秘密の開示に繋がるとして難色を示していましたがEPROMでダンピング課税が科される事になると、それ以上の影響範囲の拡大を恐れアメリカの提示するダンピング提訴中断手続きの「サスペンション協定」に応じ市場参入での譲歩を模索するようになります。
しかし通産省主導で対応にあたったのでは日本の構造問題を公に認める事になるため民間の当事者による協議団体を設立して市場参入は民間で決め、政府間は紳士協定とする二重合意という構想が模索されています。
日米半導体業界会合はソニーの盛田昭夫会長と旧知の友人関係にあるモトローラのロバート・ガルビン会長の発案と伝えられていましたが、実際には通産省の機械情報局担当者の発案で森田氏がガルビン氏に働きかけたものでした。
会合にオブザーバーとして送り込まれた通産省次長は「1990年にはアメリカ製品は20%を超えるだろう」と発言しています。通産省統計では既に19.1%といった数字が出ていたので達成は容易で問題は解決できるものと楽観視していた事が伺えます。
しかし民間会合は双方の隔たりが大きく決裂しています。
アメリカのレーガン大統領は当初、半導体を巡る日米摩擦にあまり関心を寄せていませんでしたが大統領周辺への働きかけによりこれを問題視するようになったと伝えられています。
そしてレーガン大統領と日本の中曾根康弘首相の「ロン・ヤス首脳会談」後、中曽根首相の意向で日本側が譲歩する方針が固まりました。
首相の意向を受けて通産省では実行のための産業界の受容度などが計測されましたが、業界からは半導体は組み込む完成品のその時々の需要に大きく左右されるため事前にシェアを予定するのは困難との意見が出され、後日対米協議でその点を主張することとされました。
その頃、米商務省、USTR、SIAでは対日の数値目標でシェア何%を獲得できるかが話し合われています。
30~50%と様々な数字が浮上していましたが、それらには必ずしも明確な根拠があるものではありませんでしたが、最終的にアメリカ企業側が日本の主要企業を超えるシェアを獲得できれば充分に解放された市場であると認められるとの理由から20~25%を目標と定めています。
しかしそれは米国内でも許容されない可能性があったため 「問題の本質は日本で市場が機能していないためで、それを機能させるにはシェア拡大という手段しかなく市場介入せざるを得ない責任は深刻な日本側の構造問題にある」 という理論武装を試みています。
対日要求決議は下院で賛成408、反対5で可決されています。
アメリカの要求を受け入れざるを得ないとしていた通産省の内情が合意案作成段階で外務省条約局に知られると驚きと共にGATTの貿易ルールに合致しているのかという疑問が噴出します。
数値目標が法規に適合するのかや第三国市場価格も含むダンピング予防措置などを問題視されたため、問題が起きる可能性がある公式文書ではなく再び「サイドレター」という形で扱うとされました。
渡辺通産相とヤイターUSTR代表の13時間に及ぶ緊迫した会談でアメリカ側は20%の数値目標盛り込みを執拗に要求した事に日本側は難色を示します。
ヤイターUSTR代表が
「これは市場介入ではない。本来20%のシェアがあるべきななのだ」
と迫ると渡辺通産相は
「一定の水準に近づけることは出来るだろう」
と応じ日本側は最後まで数値目標を盛り込ませなかったと自負していましたがアメリカ側はこの返答で数値目標を日本に飲ませたものと誤解されてしまいます。
このような認識の齟齬でその後の交渉も難航しましたが通商301条提訴やダンピング提訴の期限が翌月に迫る6月末、日本側は譲歩の姿勢を示し、 日本企業8社は米商務省に原価と輸出価格の報告の義務を負い、米側はダンピング違反の適用を5年間中断するといった内容のサスペンション協定に仮調印します。
ダンピングの基準になる公正市場価格は製造原価に10%の一般管理費を加え15%の利益率を加算したものを米商務省が算出し、日本政府は輸出品の原価と価格を監視する事になります。
しかし半導体は原材料を製造ラインに投入してから数百の工程が完了するまで数ヶ月を要し、更に不良品の出方で取れ高が変わるものなので都度の報告を求められる各社の担当者を悩ませる事になります。
最終合意期限の7月31日を迎えても未だ合意に至っておらず、夜が更けた頃、誰が言い出したか「時計を止める」という妙案を思いつき、双方がこれを採用して8月1日の未明にようやく合意に達する事が出来たと伝えられています。
これが第一次日米半導体協定までのあらましです。
多くの関係者が「サイドレター」の存在を知って驚愕するのは後の事になります。
・まとめ
最初はロバート・ノイス氏やロバート・ガルビン氏といった一部の人が危惧した高品質でコストパフォーマンスに優れる日本半導体の脅威からSIA(米国半導体協会)を組織し組織や人材を拡充し理論武装を研ぎ澄ましながら政治力を増し、やがて大統領も巻き込んで日本に自由貿易を制限してでも要求を飲ませる事に成功していく様子の一端が垣間見られたかと思います。
協定が更新された第二次半導体協定ではアメリカ側念願の数値目標を明文化することにも成功し、クリントン大統領は最大の外交交渉成功例と誇っていたと伝えられています。
また日本側は構造障壁やダンピングを認められない事情から対応が後手に回り、日本の事情を研究してきたアメリカ側との交渉は苦しいものでした。
その後、日本の主要半導体メーカーは再編の中で続々撤退の憂き目に遭い、半ば強制的に役割分担を強いられ結果的に棲み分けた事で現在の日米は利害の多くを同じくするものですが、アメリカが目指しているものを見誤った場合のペナルティを忘れる事なく、上手く立ち回る必要性が今後益々高まっていくように思われます。
・資料
書籍
日米韓半導体摩擦: 通商交渉の政治経済学 大矢根 聡 (著)
日米韓台半導体産業比較 谷光 太郎 (著)
逆転のダイナミズム: 日米半導体産業の比較研究 伊丹 敬之 (著), 伊丹研究所
日本半導体 復権への道 牧本 次生 (著)
web資料
牧本資料室
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