それから、君へ
本当に、当たり前だった。
今が苦しくなるくらいには。
彼女は昔から不思議な人だ。女子が普通興味のある服装のおしゃれや流行には全く興味が無い。基本的に一年中ジーンズとスニーカーをはき、Tシャツは某有名安価衣服店の無地な色のものばかりだ。それでもジーンズが少し足りないほど彼女の脚は長くて真っ直ぐなので、地味すぎて都会に埋もれてしまうどころか度々彼女を振り返ってみる人がいるくらいである。小さい時に一回「なんでいつもジーパンなの?」と彼女に尋ねたことがあるが「うーん。家にたくさんあるから」と答えてきたので、それ以降彼女の服装については言及しないことにしている。日本人離れしたこげ茶色の髪の毛と肌の白さは二歳の時から変わらなくて、すらっとした身体には綺麗な筋肉がうっすらとついている。
バレエをするために生まれてきたような子ね」と色んな人に言われているのをよく見かけるが、実際は骨格と髪の毛以外は彼女の努力で出来ている。夏でも日焼けをしないように昼間は薄い長袖を着用し、体調管理には人一倍気を遣っていて、寝る前の柔軟も欠かさない。そんな声をかけられると「周りは全然わかってないなあ」と帰り道で僕にしか聞こえない声で彼女は呟く。
「先生と、諒くらいしか分かってないと思う」
それで充分だけどね、と少しはにかんだ笑顔を見せて彼女は二重寄りの奥二重の瞳をこちらに向ける。充分でしょ、と僕も呟く。
僕と彼女は二歳の時からバレエを始めた時からの付き合いだ。かれこれもう十五年近くになるだろうか。始めた当初、同じ年代の子が彼女しかいなかったので性別は違っても仲が良くなるのは自然なことだった。今では前より人数は増えたが、彼女はその中でも飛びぬけて上手なのであまりその子たちと関わりが無い。僕は彼女ほど上手ではないというのは重々承知しているけれども、彼女はトウシューズで立つと身長が170センチを少し超えるので年齢や技術を考慮しても彼女が組んで踊るのは僕しかいない。
バレエを習っている男子、というのはサッカーを習う女子くらいまだまだマイナーよりだと僕の中では信じているのだが、僕と彼女が習っている教室は全体的に見て中規模くらいの人数にしては男性比率が高い。プロの教室でも男性ダンサーを招待して公演を行ったりすることがよくあるのだが、ここには幼稚園生から働いている人まで数えると合計十人もいる。それでも、組んで踊るとなると身長とかが関係してくるというわけだ。
有名なバレエの作品の中では組んで踊るパートが必ずと言ってもいいほどよく出てくるが、実際は本当に大変だ。技術がある程度認められたうえに男性が女性を支えなければいけないから、今以上に筋力をつけてそのための身体の使い方を学ばなければならない。さらに、女性が回転するのを支えたり女性を上にリフトしたりするのも二人の息が合っていないと出来ない。その点僕らは良いペアなんじゃないかと思う。僕がこのままバレエを続けていれば。
ふと見上げた空は既に真っ黒なのに蝉は昼同様元気に鳴き続けている。暗すぎる空を嫌うように、街にはネオンが溢れている。じとっとした暑さと練習の後で拭いきれていない汗が結びついて今すぐにでもシャワーを浴びたい衝動に駆られる。本日二本目のペットボトルを一気に飲み干しても喉は渇いたままだ。横に歩く彼女は相変わらずジーンズを穿いている。
「暑くないの?」
「だって上はTシャツだもん」
「そういう問題じゃないでしょ」
夜の繁華街には想像以上に人が溢れていた。同窓会だったりサークルの飲み会だったりするのだろうか、陽気に笑う人々が道にたくさん集団を作っていた。そんな人たちを横目で見ながら僕たちにいつも通り駅へ向かう。もうすぐ夏は終わるというのに今日の夜はいつもに増して蒸していて暑い。
「後一週間か」
信じられない、と彼女はあくまで明るく笑った。毎年夏に行われる僕たちのバレエ教室の発表会が一週間後に迫っている。そのせいで僕たちの夏休みはほとんど練習でつぶれた。彼女と組んで踊る曲はもちろん、組まないでみんなで踊る曲もある。彼女は僕以上にたくさん踊るはずだ。それでも彼女はすべての踊りに一切手を抜かず、毎朝早くから一人で練習していた。それに負けまい、と僕も朝から自主練をした。
「俺も信じられないよ」
僕も笑って返した。
「今日かなり支えさせちゃってごめん」
「いや。というか千紘、前より痩せた?」
「痩せた……かな、三キロくらい」
千紘痩せすぎだよ、と俺は彼女を強い口調で戒めた。彼女はいつもそうなのだ。発表会の直前になるとがくんと体重が落ちる。普通の人でも発表会前は体重が落ちるがキ、元々痩せている彼女がそこから三キロ落ちるというのは危険だ。それぞれの踊りの練習が続いていたので今日久々に彼女をリフトした時、彼女の軽さにちょっと拍子抜けしてしまった。
「大丈夫よ。毎日食べてはいるしね」
変に明るい彼女ほど怪しいのは十五年間で培った勘だ。
「……倒れるなよ?」
「あはは、本当に大丈夫だよ。あ、じゃあね」
いつの間にか駅に着いていた。彼女は僕とは逆方向の改札の人込みの中へ消えていく。僕はイヤホンで耳を塞いで彼女とは逆方向に身体を向ける。心の中で呟いたはずの言葉が思わず唇からこぼれていた。
「言えないよな」
この発表会でバレエをやめる、なんて
そんなことをぼんやりと考え始めたのは高校生になってから少し経った時だった。バレエの帰りの電車の中でいきなり「もうそろそろいいかな」という思いが湧き上がってきた。余りにも突然のタイミングで自分でも驚くくらいだった。それでも一度そのことを考え出すと止まらなくなってしまった。もちろんバレエを始めた時はここまで続くと思っていなくて、それほどバレエは楽しかったし勉強になることが多かった。決してバレエの先生や仲間や彼女に嫌気がずっとさしていたというわけではない。しかし、自分の中ではプロのバレエダンサーになろうという思いは全くなくて「あくまで趣味だから」と言い聞かせてきたのだが、趣味とはいえ週四日のバレエの練習が高校生になってからの想像以上に忙しい毎日に徐々に支障をきたし始めていた。また、少々高望みであっても自分の志望する大学に進学したいという気持ちがあったので趣味に区切りをつけなければいけないと思っていた。それでもやっぱりバレエは楽しくて、結局ここまでその時期を引っ張ってしまった。先生には五月にこのことを話して「発表会までは全力出しなさいよ」と先生らしい強気な言葉を頂いた。「まあ、千紘も強くならなきゃいけないからね。ずっとリョウが傍にいるわけじゃないんだから」と言われて、僕は黙って頷くことしか出来なかった。まだそのことを話していないのは彼女だけだった。僕と彼女はただの「バレエの友達」にしかすぎなくて、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、どちらかがバレエを辞めてしまったり、他のバレエ教室へ変わったりしてしまうと自然消滅してしまう関係なのだ。だから、ここで彼女にちゃんと自分が辞めることを伝えておかないと、発表会後はほとんど永遠に会えなくなってしまうのだ。だからこそそのことを彼女に告げようと何度思っても、明るくして強がっている彼女を見てしまうと喉で言葉が詰まってしまった。やりきれなさで絡まった気持ちを奥底に鎮めるために僕は音楽の音量を上げた。
日に日に彼女は無理やり作った笑顔を僕に向け、
日に日に僕の心は重たくなっていく。
それでも変わらず彼女は朝早くから練習をして
それに僕も付き合った。
時間はびっくりするほど早く経って、もう発表会の日を迎えてしまった。
先生はずっと彼女の背中を見て「ねえ千紘、やっぱりホックつめよう」と彼女を早着替え専用の小さい屋台の中に入れた。彼女は「一昨日くらいにちゃんと直したのになあ」と言いながら舞台の様子を見始めた。舞台では小さい子供たちが大きい舞台に戸惑いながらも先生たちの指導を受けて一生懸命踊っていた。普段は厳しい先生も自然に優しい口調になって「じゃあ次は曲をつけて踊ってみるからねー」と声をかけている。
「あの時が一番幸せだよな」
低くて落ち着いた声に戸惑っている僕を見ることなく彼女は言葉を続ける。
「ただ、純粋に楽しいだけだよな。痛くもないし、責任もない」
僕は何て返せばいいのか解らない。
「踊らなくても可愛いのに踊るからより可愛い。幼稚園までは、な。小学校になるとそうはいかなくなる。ましてこの年齢と身長になるとなおさら」
僕は何て返せばいいのか解らない。
「でも、その分美しくて感動させる踊りができるのは、痛みを知っている人だけ。痛みを死ぬほど堪えて、だけどみんなの前ではそんなこと感じさせないくらい笑顔の人だけ」
まあ笑顔になるかどうかは踊る曲次第だけどさ、と彼女が付け足すように呟くと「じゃあ次は千紘とリョウの曲やるわよ」と先生の声が聞こえた。
「ああ、ごめん。あのリフト上手くいかなかったね」
彼女は顔をしかめて、舞台用の付け睫毛で見えにくくなっている瞳をさらに細めた。「私が、早すぎた」
「いや、さっきは俺が早まった。ごめん」
それより、彼女がさっきから右脚を痛そうに何度も振っている方が気になった。
「……右脚、痛いの?」
「うん。いつもより、調子悪い」
「そう」
僕と彼女は互いを必要以上に気遣わない。相手の大丈夫なラインと大丈夫じゃないラインの区別はとっくにできている。僕にだってそれなりに仲のいい友達はたくさんいるけれど、これが判別できるのは彼女しかいない。その彼女とも、今日でお別れなのだ。彼女の姿を無意識に眺めていると、怪訝そうな顔をして
「どうしたの?」
彼女は察しがいい。
「ううん、なんでもない」
なんでもない、はずがないじゃないか。
「へえ、そう」
彼女は不服そうに、自分の楽屋へと戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、発表会が終わってからちゃんと言おうと決意した。
子供たちはリハーサルで疲れてしまったのか、ぼうっとした顔で舞台袖に座っていた。僕と彼女も出番が最初の方なので舞台袖に控えることになっていた。僕がそこに来たときには、彼女は地面に座って大量の絆創膏を足に貼っていた。少しすると「まもなく本番です」と監督さんが明るい声で僕たちに呼びかける。「よろしくお願いします」と僕は監督さんに頭を下げる。彼女も透き通るような声で言うと、子供たちも僕らに続いて監督さんに挨拶をした。
照明が徐々に暗くなって、舞台の端のライトだけが微かに舞台を照らす。
踊る前に色んなことが僕の頭の中を駆け巡った。練習で受けた注意を一から思い出して、基本的なことを頭の中で繰り返した。つま先、手、回すときの手、リフトする時の手、必ずプリエをしてから踏み込んでジャンプ、このジャンプは右脚を早く左足に付ける、この時の膝は直角に曲げて
「はあ、緊張する」
彼女はいつの間にか絆創膏を貼り終えて、僕の隣に来ていた。彼女の衣装のスパンコールのビーズが舞台のライトにあたって輝いていた。
僕は彼女がいつもと違うことに気付いた。いつもなら毎年ここ辺りで彼女が極端に弱気になる。リハーサルでの自分の非をひたすら責め続けて、泣くこともあった。そんな時は僕と先生たちで「大丈夫だから。千紘はたくさん練習したんだから」と彼女の背中をさすりながら前向きな言葉で励ましていた。しかし、今年は違う。先週まであれだけ強がっていたはずなのに、今隣にいる彼女の顔はそう見えなかった。
「そうよ。今の全力を出せればいいのよ」
これは僕に話しかけているのだろうかそれとも彼女の心の声なのだろうか。解らないけど、彼女がふっと頬を緩めた。それを見て、僕はなんだか安心した。
その時、ブザー音が低く鳴り響いた。
そしてこれから僕は十五年間続けたバレエに終止符を打つ。
舞台で優雅に踊っている彼女はいつもに増して美しかった。僕は頭の中で念を押した注意を心掛けて、それでいて自由に踊っているように見せようと心掛けた。今のところ振りも間違えていないし、音にもずれずに順調に踊れている。彼女が僕の手をとって、バランスをとる。彼女の泣いているような笑顔が目に飛び込んだ。一瞬、痛みをこらえているような顔を見せたと思ったら、花が咲いているような笑顔を客席へ向けた。頭の中で、脚を振る彼女の姿と舞台袖で邪魔にならないように小さく座って絆創膏を貼っていた彼女の姿がふっとよぎった。
その瞬間だった。
彼女のことが好きだと気付いたのは。
もう本当にどうしようもなかった。「どうしよう、何この気持ち」なんて慌てふためく少女漫画の主人公のような気付き方じゃなくて「ああ、やっぱり好きだなあ」と嘘をついて偽るようにしていた自分を崩して確かめるような気付き方だった。心の奥底から湧き出る温かい何かが心の中にある壁を越えて溢れていった。恋愛感情、なんていう甘い感情ではなかった。彼女のことが性別関係なく人間として大好きだった。でも、そこからどう発展したいとは思わなかった。ただただ、好きだ、という感情それだけだった。十五年間、好きだった。憧れていた。自分の好きなことに素直に頑張ることが出来て、それに応じるかのように実力が着々とついていって、羨ましかった。僕が抗っている壁を、千紘は軽々と越えていって、僕は複雑な気持ちになりながらもなんとか壁を越えてみると、時々弱気になって壁の下でうずくまる彼女を見つけた。その彼女の手をとって、二人で壁を越えた。でも明日から僕は彼女と離れて別の世界の壁と格闘し始めるのだ。彼女はどんどん上の段階へと登りつめていくだろう。そんな彼女をこれから傍で見守れないのは悲しいけれど、彼女にとって僕が一番の理解者であって欲しい、なんていうのは自惚れに過ぎないだろうか。
何度も二人でこの部分を練習した。
何度も二人でこの手の動きが揃うように二人で確認して
何度も二人でこのタイミングを合わせた。
千紘、君と出会えて僕は本当に幸せだった。
こうして、僕らは最初で最後の二人での踊りを終えた。
この後も三曲ほど踊ったが、自分のできる限りを出し切った。発表会が終わると疲れを感じさせる間もないまま、ばたばたと慌ただしく楽屋と衣装を片付けて先生に挨拶をした。最後に彼女に別れを告げようと、楽屋前の同じ学年の女子に彼女の行方を尋ねた。
「えーっと、千紘ちゃんもう十分前くらいに帰っちゃったよ」
え。
「あ、そうか。ごめん、ありがとう」
僕の混乱が悟られないよう、何とか普通の返事をした。しようと、努めた。
ああ、どうしよう
自分の背中に後悔と罪悪感と情けなさが一気に覆いかぶさってきて、それでも何とか倒れることなく階段を下りて会場から出た。外は湿気が多く、日が暮れてから随分経っているようだった。駅まで歩いている間も彼女への申し訳ない気持ちだけが僕の頭をもたげた。今日の踊りの出来よりも達成感よりもバレエを終えたという虚無感よりも、彼女への悔いだけが僕の心の底にずんと沈んで残った。彼女の連絡先も、彼女の最寄り駅も知らなかった。バレエを続けている間は週四日も顔を合わせているのだから、別に知らなくても良かったのだ。今日までは。
もうすぐ駅に着くというところでぽつぽつと雨が降ってきた。急いで駅まで走ろうと思ったが、足が重くてなかなか速く動けなかった。早歩きでなんとか駅に駆け込もうとすると
「諒」
名前を呼び止められた。振り返ると
「今までありがとうございました」
お辞儀をしていたのは、彼女だった。
「千紘……」
「私、諒とバレエやっていてすごく楽しかった。十五年間本当にありがとう」
雨が強く降ってきた。
「……知っていたのか」
「六月くらいに、聞かされたよ」
もう、知っていたのか。
「上のクラスに上がってから年下の子たちに先輩として少し注意することも多くなった。どんどん踊るパートも難しくなって、何とか食らいつこうとして頑張った。前よりは大人になれたと思うけど、それでもすぐに弱気になってあなたの前で泣くこともあった。自分に対する周りの評価とか期待に納得いかなくてあなたに不満をよくぶちまけた。たぶん、私は、すごくあなたに迷惑をかけた。」
彼女はずっとしゃべりつづけた。雨で身体が濡れても僕はその場から動けなかったし、彼女も動こうとしなかった。
「あなたに助けられているのに、助けてもらってばかりなのに、バレエをやめるのを聞いて正直あなたを非難しそうになった。もうちょっと一緒に練習していたかった。永遠ではない、と頭の中では解っていたのだけど。私ね、あなたのこと全然理解してなかった。あなたは私のこと理解してくれていたのにね」
彼女の顔に流れる水は、雨なのか、涙なのか。その水を彼女は拭って拭って拭って、僕を見た。
「私も色々考えた。私も何度もやめようと思ったもの」
意外な答えだった。彼女に限ってその答えはないと思っていた。
「バレエ中心の生活になることを望んでもいたし、拒みもした。バレエが楽しくて早く上達したいと思うこともあれば、自分の自由が奪われて嫌だと思うこともあった。紙一重だもんね、感情って。こんなに紙一重で移り気な感情のせいでバレエをやめたくなかった。でも、私は一生バレエの歯車の中から出られないのかなあとかも考えるの」
僕と、一緒だった。彼女はその繰り返しを今まで千回以上はしてきたんじゃないかなあ、と言いながら雨の降る空を見ていた。
「趣味だったら限界があるよ、職業じゃないんだから。それで、決意した。私、コンクールに出る」
「へえ! そうなのか。すごいよ」
素直に驚いた。僕たちのバレエ教室はコンクールとは無縁で趣味でバレエをする人たちのための教室だと思っていたからだ。
「その結果次第で、決める。プロを目指すか、諦めてバレエをやめるか」
「千紘なら大丈夫だよ」
即答してやった。彼女は十五年間、周囲よりも人一倍真面目に取り組んできたのだ。
「ありがとう」
そして彼女は視線を上げた。きりっとした瞳、きゅっと結んだ唇。当たり前に顔を合わせていたのに、久しく、会えない。
「私は私の道で頑張るから、諒は諒の道で頑張って。自分の選択が間違いじゃなかったって自信持って言えるように、頑張ろうね……お互い」
僕にこの言葉は優しすぎた。みるみる視界がぼやけ始めた。
「諒は昔から一筋に頑張る人だから、ちゃんと勉強して大学行きたいんでしょう」
僕が頷いた。声を出そうとしたけど、出せなかった。彼女は笑いながら、泣いている僕の背中をさすった。
「最後くらい、私が励まさせてよ」
雨の中で立ち尽くす僕たちを止める人は誰もいなかった。夏の雨は、気温に似合わず少しだけ冷たかった。
ぐっと身体を伸ばすと、肩がぽきっと乾いた音を発した。とりあえず、数学はきりのいいところまでいった。羅列した計算式が書いてあるノートを閉じて、もう一回伸びをした。とりあえず自分の部屋から出てキッチンへ向かい、ぐっと喉に牛乳を流し込む。ついでに少し休憩でもするか、と携帯を取り出した。案の定誰からも連絡は来ていない。「そりゃそうだよな」と思ってネットニュースを見てみると、気になる記事を見つけた。
「東京都の高校3年生が、優勝―全国中高生バレエコンクール」
試しにリンク先を開いてみると、
『十二月九日に行われた全国中高生バレエコンクール(中学1年~高校3年)の決勝大会において、東京都の都立○○高校3年の若田千紘さん(18)が優勝した。同コンクールには全国から中高生が合計1203人応募し、8月からの一次・二次審査を経て、40人が最終選考に残り決勝へと駒を進めた。若田さんは東京都の「松倉バレエ教室」の生徒で、今回が初の応募だった。若田さんは来年行われるパリの国際バレエコンクールのビデオ審査を通過すれば、出場が決定するという。』
紛れもなく、千紘だった。
「うわあ、すげぇ」
思わず声に出てしまった。さすがだ、と思った。千紘は自分の夢を自分で掴もうとしている。自分の決断を悔やまないために、必死に踊っているのだ。
『若田さんは「このような賞を頂けて本当に光栄です。両親、先生、そして私のほとんどを支えてくれた一番の親友に感謝しています」と述べた。』
自然に口元がほころんだ。
「俺も、頑張らなきゃな」
その画面を保存して「次は化学だな」なんて独り言を言いながら僕は自分の部屋へと向かった。
fin.
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2013/8に書いた作品をこねこね直しました。すごい昔の作品ですが、唯一あの時代の自分が納得できた作品かもしれません
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