【USA, レイシズム】ファーガソンからどこに向かうべきか/アルヴァロ・レイエス、マイケル・ハート


以下は、Michael Hardt and Alvaro Reyes, Where to go from Ferguson, EuroNomade誌2015年1月1日付記事の一部訳です。誤訳のご指摘、精緻化、向上のご提案、いただければ幸いです。

なお、マイケル・ハートは著名な政治思想家ですが、Alvaro Reyesについては寡聞にしてわかりません。ご教示いただければこれも幸いです。(M)

(http://www.euronomade.info/?p=3907)

Michael Hardt(以下M)
ファーガソンからはじまりアメリカ全域に拡大した警察の暴力に対する抗議行動の波の一つの重要であたらしい側面は、その人種的構成です。抗議行動は人種的不公正という争点に焦点をあわせているというだけではなく、またそれらが有色の人々によってリードされてきるというとことです。白人の急進派・リベラル派の活動家も参加しています———実際、いくつかの地域では多数派を形成しています————が、有色の人々が中心にいるのです。

これはここ数十年の主要な合衆国の社会運動とは大きく異なる点です。1980年代から90年代のエイズ危機への対応によって生まれた運動(ACT-UPやクイア・ネーションのような)やゼロ年代の反グローバリゼーション、反戦運動、そして10年代のオキュパイと、それに加わる有色の人々の相対的なすくなさはしばしば問題視されてきました。これらの運動にかかわる多くの白人の活動家がアメリカの政治における人種問題の中心性を認めていましたし、黒人やラテン系の参加を追求すらしてきましたが、たいした成果はあがらなかったのです。ファーガソンからはじまった運動では、黒人が中心です。すべての人種の活動家が結集し、このような規模で展開した運動は、SNCCやブラックパンサー党のような創造的な黒人組織がすべての人種の活動家をそのプロジェクトに惹きつけた極を形成していた1960年代、70年代以来、はじめてのことだとおもいます。

Alvaro Reye(以下A)

私が重要だとおもうべつの側面があります。このことすべてが、きわめて特殊な社会的文脈への全般化された応答であるということです。つまり、この国を覆っている抗議行動の波をめぐるナショナルな語りの多くが、ファーガソンの事例とマイク・ブラウンの殺害をめぐって組み立てられているということです。エリック・ガーナー、タミール・ライス、アカイ・ガーリー、ジョン・クロフォードの事例への応答を考慮にいれれば、「ファーガソン」が、取り締まりを通して黒人やラテン系にむけられた信じがたいほど暴力的な国家の抑圧を、もはや全般的に許容できないという思いの爆発を名指す名称になったことはあきらかです。

しかしながら、黒人とラテン系コミュニティのより広い状況を考えるならば、この契機を取り締まりや警察の暴力という争点に還元することはまちがっています。むしろ、これらの抗議行動を、ここ五年にわたる大規模な刑務所ストライキの拡大、最低賃金労働に対する国家規模の運動、国外退去体制への不満という文脈においてみるなら、私たちが目の当たりにしているのは、この契機が、人種化された社会統制という特殊な形態が限界にきているということをあらわしているようにおもわれます。この社会統制は、黒人への反感[アンチーブラックネス]をその中核にもち、私の見方では合衆国における「ネオリベラリズム」の拡大の主軸なのです。つまり、経済「成長」の名のもとの公共インフラの解体がこれまでのような大衆的支持を獲得できたのは、その「公共」が黒人と重ねられていたからではないか(すくなくとも60年代末以来)、ひるがえって「黒人」が犯罪者と同一視されていたからではないか、とうたがっています。この意味では、取り締まりへの抗議である以上に、黒人であることへの犯罪(者)化に対抗する全般化した揺り戻しのシグナルだとおもいます。そしてそれはひるがえって、ネオリベラルのパラダイムへのたかまるあからさまな敵対へと道を開くものなのです。白人中産階級ですらネオリベラルのパラダイムの約束は完全な幻想であると気づいているようにみえますが、いまはこういう時期なのです。


M 警察の暴力がいま起きている事態にとっての十分な説明ではないというのはたしかにただしいとおもいます。警察による有色人への暴力はもちろん、アメリカ(そしてそれ以外)ではなにもあたらしいところはありませんし、近年、顕著に悪化しているというわけでもありません。こう考えると、現状を理解するためにはより一般的な構造的条件を検討した方がいいということがわかります。それに、黒人であることがどのように制度的限界として機能し、黒人であることがこの統制の体制の多方面にわたる性格をどのように表現しているかもわかります。さらにいえば、概念的レベルで、それが賃金、人種的不公正、大量投獄、市民権にまつわる多様な社会運動と抗議行動をむすびつけることに寄与しているありかたもわかります。

とはいえ、現在の抗議行動の波によせる私の関心の一つは、すくなくともこれまで、それらが組織的観点から、これらの既存の他の運動と、接合(articulate)できていないということです。どのようにすれば、警察の暴力に対抗する抗議行動が、最低賃金をあげる、移民の権利を保障するなどを目標にした運動とむすびつき、それらの一部になることができるのでしょう?

A おもうに、「接合」という観点からは、カギとなるのはアメリカにおける黒人への反感です(あるいはフランツ・ファノンに依拠して、おなじく「白人男性の目からみた」黒人であること[ブラックネス]ともいえます)。つまり、もし黒人であることを厳密な意味で「人種」にかかわるものと考えるなら、黒人への反感は黒人大衆への暴力的な統制に関係しているということになります。これまでもいま現在でも黒人大衆にむけられている国家暴力の真に犯罪的といえる総量からすると、この黒人への反感の定義はひかえめな結論であるようにみえるかもしれません。しかしおもうに、これは誤りなのです。私には、黒人の身体への物理的な暴力を通してあらわれる黒人への反感は、実際には「人種」にかかわりなく、私たちの社会総体の可能性の限界点として機能しているようにおもわれるのです。つまり、黒人への反感は自己規律の装置であり、それによってこの社会はオルタナティヴな平等である社会構造の可能性そのものに背を向けるよう———つまりこれらオルタナティヴをたんなるアナーキーとカオスであるかのよう————にみなすように教え込まれるわけです。こうして、黒人大衆がみずからにむけられた暴力に抵抗し、この暴力のもつシステムと骨がらみの性格を問いにふしつつ動きはじめるとき、この社会のすべての人に、はるかに明確な仕方で、自分たちの闘争がたんにその直接的な状況の特殊性から生まれた不満にとどまらず、不平等な構造そのものに挑んでいるのだということを表明する(articulate)可能性をふたたび開く、ユニークでまったく桁外れの(数という点で)力があるのです。19世紀における奴隷の自己解放以降にもおなじことがいえましたし、1960年代と70年代の黒人の蜂起の最中にもおなじことがいえました。今日でもこれが真実であることはやがてわかるでしょう。だから、黒人への反感への挑戦は、他の闘争と接合される必要はなく、むしろこの国では、接合の可能性そのものの前提条件として機能するような一つの闘争なのです。もちろん、だからといって、すべての「接合」(特定の争点、人間、組織間の)の実践的問題を未解決のままですが、たぶん、私たちはこうした過去の運動から、みずからの強さの程度がこの点をどれほどよく把握していたかにいかに直接依存していたことを学ぶことができます。

M なるほど、こうした理論的・制度的地点を第一に認識することなしに、組織と接合の実践的問いは未解決でしょう。ひとつの障害は、それらが、黒人であることの社会的・政治的役割についてのより一般的な枠組みから、黒人にむけられた警察の暴力という問題にたんに還元されてしまうことです。・・・

A その通りです。黒人への反感はたんに黒人大衆の統制にまつわる問題ではないけれども、黒人大衆によってリードされない、黒人の肉体への暴力を終わらせるという直接的目標をもたない、黒人への反感に対抗する運動のようなものは存在しないのです。おそらく、このことは黒人大衆が中心にいあるという事実のためにこの運動がちがって感じられているという最初の指摘に立ち戻ります。たぶん、黒人への反感の機能のこの認識は、オキュパイのような、あるいは2006年の移民による行進のような運動(後者は私からするとはるかに大きな影響をもたらしましたが)のもつ中心的限界を見定めるツールをあたえてくれます。それらが黒人への反感の問題を批判することができず、みずからを構造総体へのあるアンビヴァレンスにとどめたという点において、です。

オバマの登場をこの文脈におくことができるかもしれません。2006年から7年をふりかえってみれば、私たちはまったく同じような不満の状態にあり、表現型的には黒人である大統領への熱狂は(すくなくとも一部には)黒人への反感への挑戦と構造的変革のあいだのこの結合を認識する混濁した試みであったように感じられるのです。もちろん、これらすべてが、深い失望に終わりました。・・・

M 私たちはまた、この抗議行動の波のさらなる展開をブロックするそれ以外の一連の障害も認識すべきです。一つの外的障害が、12月20日のニューヨークにおける二人の警官の殺害です。運動の一般的支持もセレブたちを巻き込みながらきわめて拡大しましたが、警察の殺害はすくなくとも一時的に運動の拡大や一般的支持を抑えてしまいました。


この抗議行動の波にみられる重大な内的障害は、伝統的な指導の形態の拒絶が組織そのものへの拒絶と混同される傾向があることです。アメリカでは黒人の政治は、他の領域にもまして、カリスマ的男性リーダーに依拠することが自明視されてきました。黒人の政治の歴史は、偉大な男性の歴史です。マーティン・ルーサー・キング、マルコムXなどなど。若い活動家はいま、しかしながら、カリスマ的リーダーの役割を強力に拒絶しています。ファーガソンにおいて、そしてこの波を通して、力あるリーダーは傍観を維持しています。


しかしながら、伝統的なリーダーシップを拒絶することは、組織的活動が必要ではないということを意味しているわけではありません————反対なのです! それはより多くの組織的活動を必要としているのです。私たちは伝統的な組織形態が拒絶されているが、あたらしいそれはいまだ形成されていないという時代を生きています。これはファーガソンから発した抗議行動の波にも、オキュパイや反グロ運動をふくむ近年の多様な社会運動にもいえます。


A これらのトピックについての議論は、まさにこの数週間で展開されており、それをみるのはきわめて興味ぶかいものがありました。私の感じでは、あたかも、こうした近年の出来事をへながら、私たちはゆるやかに抗議行動、モメント、運動、組織のあいだの違いを学びなおしているかのようなのです————この数十年には、これらは手のつけられないほど混同されていました。私はこれが二つのきわめて特殊な理由からたやすいことだとはおもえません。まず第一に、この国における「政治」と選挙主義のほとんど完全な混同です。それは自律的な政治的組織化の努力すべてを民主党の気まぐれに従属させるという効果をもっています(民主党はうたがいなく、この最近の抗議行動の波にのっかり、同時に、中和させるでしょう。2006年の移民の行進のときとおなじように)。こうして選挙的なものを越えた組織化に必要なノウハウすら消去されてしまうのです。

第二に、政治的有効性と可視性、とりわけソーシャルメディアにおける可視性のあいだの混同です。自明にみえますが、しかしいま確実にいうべきことは、ハッシュタグ、いいね、フラッシュモブの数は、勢い[モメント]、運動とはおなじものではないし、ましてや組織とは異なるということです。これら二つの障害と決別することが、あなたのご指摘の創造的な組織形態の袋小路を克服するためのカギとなるでしょう。しかし、あらたな警察のよる狙撃が起きるたびに、許しがたさの一般的な感覚をさらに確証するだけという事実をおもえば、これらの争点を乗り越える時点はあるのかもしれません。

M この運動の波のもう一つの内的障害は、活動のさまざまな様式のあいだの両立不可能性ないし摩擦です。しばしばこの両立不可能性は、暴力と非暴力の観点から提起されていますが、しかし、本当に問題であるのは、警察とのやりとり、警察の攻撃への応答にかかわる、異なる戦術のようにおもわれます。この緊張あるいは摩擦はもちろんあたらしいものではありません。オルタグローバリゼーション運動においては、それはしばしばブラック・ブロック・対・平和的抗議者の観点から表現されました。現在の抗議行動の波においては、しかしながら、緊張は人種的分割ゆえに異なる色彩をおびています。街頭で警察と闘っているのが有色人であることはめったにありません。かれらは警察の暴力にもっともさらされやすく、デモではもっとも逮捕されやすいのです。あやうい点は、白人の活動家が警察との摩擦にかかわる一方で、黒人の活動家がもっとも危険にさらされるということです。


これらの障害はもちろん、決して宿命的なものではありません。しかしながら、次の問いは残ります。ファーガソンに発する抗議行動の波がたんに失速するのではなく、これらの障害を乗り越えることができるとしたら、それはどのようなものになるのか?


A 運動の進路はどうありうるのかを考えるためには、これらの抗議行動のもっとも人目をひく部分も、ネオリベラリズムの危機と密接にからみ合ったアフリカ系、ラテン系のサブプロレタリアートのより一般化された不服従の氷山の一角にすぎないようだ、という点に立ち戻ることが重要です。これらの抗議行動が「人種」を越え、その「階級的」基盤を見いだす必要について、多くの人々が提起しているのは、そうしたわけです———しかし、私は、まさに私たちを袋小路にみちびくであろうものはこのタイプの分析ではないかとおそれています。この運動のポテンシャルはまさに、アフリカ系アメリカ人と先住民、アフリカ系とラテン系が、アメリカの「労働者階級」ともってきた信じがたいほどのつながりの弱さ(レイシズムによってつくられた)から生まれているのです(いわゆる「最後に雇われ、最初に解雇される」現象です)。アメリカにおける「労働者階級」の政治がほとんどもっぱら賃金の再分配に集中し、それは資本主義的価値の拡大の継続を前提としていた・・のに対し、アメリカにおける黒人急進主義の強みは、再配分をこえて物事をとらえることができ、それゆえ、より広い社会的意味で「価値」の問いをふたたび開くことができる、その能力と直接にむすびついているようにおもわれます。つまり、キングの「愛の共同体」であろうがブラック・パンサーの「インナーシティ・コミューン」であろうが、こうしたヴィジョンから獲得できる教訓は、それらの強みが資本主義を三つの同時に展開する戦略をとおして疑問に付す力能とむすびついている、ということなのです。すなわち、まず物質的必要の自律的な実現(マルコムXが好んで述べたように「われわれのことはわれわれでやる」)。あたらしい制度的生活の諸形態の形成。そして最後にこれらを通して、資本主義的生産の核心部で「価値」を再配分するのではなく、それに挑戦することをめざすあらたな価値の生産。それゆえ私の目には、この運動に未来があるかどうかは、アメリカの黒人急進主義があたえてくれるこうした歴史的教訓をふりかえり、それを吸収する能力に直接にかかっているとおもえます。まさにいま、資本主義的価値のさらなる拡大が現実的な構造的限界そのものに直面しているかのようにみえる(一時的に?)そのときだからこそ、です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?