【レイシズム、US】ファーガソンにおける神的暴力/ジジェク

ミズーリ州ファーガソンで黒人青年が警察に殺害されたのをきっかけに激しい抗議行動の波がアメリカを襲いましたが、そのきっかけになったマイケル・ブラウンの殺害から一年、本日付(8月10日)の新聞によれば、昨日、その一周年の追悼行進が警察との衝突に発展し発砲によって一名が負傷したということです。

「米ファーガソン、黒人青年射殺から1年の追悼行進で発砲 1人負傷」

(http://www.afpbb.com/articles/-/3056918)


以下の文章は、The European誌2015年3月9日付のスラヴォイ・ジジェクによるファーガソン事件についての論評(Slavoy Zizek, Divine violence in Ferguson)の一部試訳です。誤訳についてのご指摘、精緻化、向上についてのご提案をいただければ幸いです。(M)


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2014年8月、暴力的な抗議行動が、セントルイスの郊外であるファーガソンで爆発した。警察官が、強盗の疑いをかけられた丸腰の黒人ティーネージャーを射殺したあとのことである。数日のあいだ、警察は、そのほとんどが黒人からなる抗議者を蹴散らそうとした。事件の詳細は曖昧模糊としていたが、この町の多数派である黒人の貧困層はそれを、自分たちにむけられた体制と骨がらみの警察の暴力についての証拠であると受けとった。アメリカのスラムやゲットーでは、警察は実質的にますます占領軍のように行動している。まるでヨルダン川西岸のパレスチナ領土に侵入したイスラエルのパトロール隊のようである。メディアは、警察の使用する銃すら、ますます米軍使用の武器と共通のものになっていることを発見しておどろいてみせた。・・・

そうした状況では、警察はもはや法の執行人や法秩序の体現者としてではなく、たんなるもう一つの暴力を行使する社会的機関にすぎないと知覚されている。そのようなとき、支配的な社会的秩序に抗する抗議者もまた、異なった態度をとるようになる。つまり、「抽象的否定性」———みじかくいうと、目的のない生のままの暴力を爆発させるのである。「集団心理学と自我の分析」においてフロイトは、社会的絆を解体する「否定性」(社会的結合の力であるエロスに対するタナトス)について論じているが、フロイトはそこであまりにもたやすくこの解体を「自発的/自然発生的」群集(教会と軍隊のような人工的群集と対立する)のファナティシズムの表現としてしりぞけてしまっている。フロイトに対抗して、われわれはこの解体の運動のあいまいさを保持しなければならない。つまり、それは政治的介入のためのスペースをひらくゼロレベルであり、その点では、すべての固有の政治的介入は、あたらしいプロジェクト(あるいは主シニフィアン)に身を投じながら、すでに「一歩先を行きすぎている」のである。

かれらは無実の人間を襲ったのか

今日では、この一見抽象的にみるトピックがふたたび重要なものになっている。「解体」のエネルギーのほとんどを、新右翼が独占しているということである(アメリカにおけるティーパーティー運動。そこでは共和党はますます<秩序>とその<解体>に分裂している)。しかしながら、ここでもまた、すべてのファシズムは失敗した革命のサインであり、この右翼による解体と闘うためには、左翼は、自分自身による解体に着手するということが必要なのである———そのサインはすでに存在する(ギリシャからフランス、イギリスにいたるまでの2010年のヨーロッパ全域で生じた大規模デモ。そこでは学費値上げに反対する大学生のデモは予期せざるかたちで暴力に転換した)。現存秩序への「抽象的否定性」の脅威を、決して止揚されえない永続的特徴とみなすことで、ここでのヘーゲルはマルクスよりも唯物論的である。戦争(と狂気)についての理論において、ヘーゲルは暴力的に社会的結合を解体する「抽象的否定性」の反覆的回帰について認識している。マルクスは暴力を<新秩序>がそこから生まれるはずのプロセスへと再結合した(新しい社会の「産婆」としての暴力)。その一方で、ヘーゲルにおいて解体は止揚されないままにとどまる。

いかなる具体的なプログラム的要求ももたないそうした「不合理な」暴力は、たんに正義へのあいまいな要求によって行使されているのだろうか? それはヴァルター・ベンヤミンの「神的暴力」(法創設的暴力である「神話的暴力」に対立する)と呼んだものの模範的事例ではないのか? ベンヤミンのいうように、それらは長期的戦略の一部ではない、目的なき手段である。ここで即座に反論がくるだろう。そうした暴力的なデモはしばしば不正なものとなって、無実の人間に打撃をあたえているのではないか?

みずからの類的な歴史的責任を果しているのだから神的暴力の犠牲者はそれに見苦しくあらがうべきではない、というようなかなりトンでる<政治的に正しい>説明を回避したいなら、唯一の結論は、神的暴力は冷酷なまでに不正であるという事実を受け入れることである。つまり、それは、神聖なる善や正義による崇高な介入ではなく、しばしばおそるべきもの、なのである。シカゴ大学のリベラル左派の友人が、自分の悲しい経験について語ってくれたことがある。かれの息子が高校生になったとき、かれは多数が黒人のゲットー附近の大学キャンパスの北にある高校に入学させた。しかし息子はほとんどいつもあざをつくるか歯を折って帰宅するようになった———かれはどうすればよかったのだろう? 白人が多数のべつの学校にやるべきか、とどめるべきか? 重要な点は、このジレンマは間違っているということだ。このレベルではジレンマは解消されない。というのも、私的利害(息子の安全)とグローバルな正義のあいだのギャップそのものが、総体として克服されねばならない状況の存在を証し立てているからである。

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