【論考】疎外(alienation)について/ハーヴェイ

以下は、Crisis-Sacpes: Athens and Beyond所収のデイヴィッド・ハーヴェイ「疎外と都市生活」(David Harvey, Alienation and Urban Life)からの一部訳です。誤訳についてのご指摘、精緻化、向上のご提案をいただけたら幸いです。(T)

(http://crisis-scape.net/images/conference/CrisisScapesConferenceBookWeb.pdf)

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alienate(疎外/譲渡する)という動詞は、さまざまな意味をもっている。

1. 法的用語としての疎外(alienation)。私的財産権を他の所有者へと移譲することを意味する。私が一片の土地を売るとき、私はそれを譲渡する (alienate)。それゆえ譲渡(alienation)とは、すべての商品化と市場交換にとって、本来的なものである。しかしながら、交換 によって手放されたものと等価の価値を手にしうるという意味では、それは買い戻すことができる。売り手は、特定の使用価値から切り離されるが、その見返りに等価の価値を(通常は貨幣形態で)受けとることができる。マルクスが「疎外における相互性(reciprocity in alienation)」と呼んだものの可能性が存在するわけである。しかし、そのような交換は、一方の側による他方の側の搾取となりうる。そして、資本主義のもとでは、そのような搾取による剰余価値の抽出が、めぐりあわせによるものではなく、システム的なものとなるのである。非相互的な譲渡/疎外(alienation)は、市場メカニズムによっても、あるいは略奪による蓄積によっても生じうる。

2. 社会的関係としての疎外。それは、一方の個人または機関から他方へと、どのようにして情動や忠誠、信頼が移転されうるのか、または 盗みとられうるのか、という点をめぐるものである。(個人に対する、または、市場・法・銀行・政治システムに対する、そしてなにより貨幣形態に対する)信頼の疎外(喪失)は、社会的組織(social fabric)をいちじるしく破損しうる。

3. 受動的な感情の状態としての疎外。なんらかの価値ある結合状態から、救いようもなくはじきだされようとしている、または、そのように感じることを意味する。それは、喪失や悲哀、嘆きや憂鬱といった感覚を特徴とする。また、取りもどすことが不可能とまではいかずとも困難であると思われるような、現実上のあるいは知覚された喪失に対する悲嘆や、代わりとなるような価値がないことに対する悲嘆を特徴としている。受動性は、圧倒的な力を前にして、無力である、とか、どうしようもない、と、いった感覚によって強化されるのが典型である。この疎外の形態が表現の政治を見いだす場合、ときに暴力的な怒りと抗議を、突発的で予測不可能なかたちで爆発させる傾向がある。だが、それらは急速に受動性へと後退してしまう。

4. 能動的な条件としての疎外。その場合、疎外は、明白な怒りや敵対を意味している。そのとき、人は、価値を――そして価値あるとされる結末を追い求める能力を――奪い取られ、 略奪された状態にあって/むけて行動する。疎外された存在は――ときには確定的な理由や合理的な理由をまったく欠いたまま――敵とみなされる者たちに対して、みずからの怒りや敵意をぶつける。または、かれらは、(労働者から資本によって盗まれた剰余価値のような)失われたものや、(家事のための適切な報酬のような)不公平にも拒絶されたものを奪いかえし、取りもどすために、計画をねり、政治的組織や運動を構築するかもしれない。最終的に、疎外された存在は、疎外の廃棄された世界、疎外から回復可能となる世界、あるいは疎外が相互的なものに転換する世界をつくろうとするかもしれない。都市への権利を取りもどす運動が意味するものとは、略奪された者たちにとっては、そのような主張にほかならない。



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