「昭和史サイエンス」(85)


 2・26事件が収拾され、後継首班の大命が下ったのは広田弘毅でした。広田内閣発足の経緯について、麻田雅文・岩手大学准教授の『日露近代史』(講談社現代新書)から引用します。

 一九三六年二月二六日に陸軍の部隊が起こしたクーデター(二・二六事件)も、内大臣秘書官長の木戸幸一は、「三五・三六年の危機」が関係していると分析した。満洲に派遣されることが決まっていた部隊が反乱の中心だったので、決起した背年将校たちは、ソ連との戦争になった場合、装備の劣勢な自分たちは犬死すると考え、その前に重臣たちを襲撃したと、木戸は推測した。
 的を外した分析だと思うが、重要なのは、木戸がソ連との関係改善を重視して、クーデター後の組閣をリードしたことだ。
 まず一木喜徳郎【いちききとくろう】枢密院議長が、広田外相を推薦する。
「広田さんはどうでしょうか。あの人ならソ連に大使としていって居たから、ソ連との関係もうまくやっていけるのではないかと思うが」
 広田ならば、「ソ連との国交調整に当り充分なる成果を期待し得る」と、木戸も納得する。そこで木戸は、首相就任を断っていた親友の近衛文麿などを動かし、広田への大命降下に至る(中略)。 

 引用文にある「一木喜徳郎」ですが、もともとは山県有朋系の内務官僚でした。ただ第2次大隈重信内閣において文相や内相に就いたことで、大隈の政治信条に近い立場になりました。それゆえ本書でいうところの「戦前リベラル」の一員とみなして間違いないでしょう。一木は帝国大学教授として教鞭をとり、法学者として天皇機関説を唱え、美濃部達吉など後進の育成に努めました。学究肌の一面もあったのです。と同時にソ連との関係改善のため、一木が後継住班として広田を推薦したことは、やはり注目すべきことです。
 戦前リベラルといえば、広田と加藤高明との関係についても言及すべきでしょう。服部龍二・中央大学准教授の『広田弘毅』(中公新書)から引用します。

 統監府赴任前の秋に広田は、月成静子と結婚した。すでにふれたように静子は、玄洋社の領袖【りょうしゅう】月成攻太郎の次女であり、静子は攻太郎と上京していた。(中略)
 実のところ広田には、その前に縁談があった。それも駐英公使や外相を歴任し、のちに首相となる加藤高明からの申し入れである。三菱財閥の創立者、岩崎弥太郎の長女と結婚していた加藤は、岩崎の四女と結ばれたエリート外交官の幣原喜重郎と義兄弟になっており、その加藤から三菱財閥の令嬢との良縁が広田に舞い込んでいた。

 広田は加藤の申し入れを断りましたが、加藤は広田の人間性を高く評価していたのです。
 ところで、広田内閣の政策が親軍的であったと考えられる最大の理由は、蔵相に馬場鍈一【えいいち】を登用したことにあります。中村隆英【たかふさ】・東京大学名誉教授の『昭和経済史』(岩波現代文庫)から引用します。

 広田内閣の大蔵大臣は馬場鍈一であった。それは高橋財政の転換を意味した。官僚出身で日本勧業銀行の総裁を務めていた馬場は、財政にも明るかったが、機を見るに敏な人物で、もはや陸軍の要求を抑えることはできないのではないか、それなら、はじめから陸軍の要求をうけ入れて、政治をうまく運営していく方がよいと判断したようです。
 広田内閣に対して、陸軍、海軍ともに大規模な軍拡要求――陸軍は六年計画の軍備拡張として総額三〇億円、海軍は大和・武蔵を含む第三次補充計画として七・七億円――を出してきた。馬場が編成した昭和一ニ年度予算の結果だけをいうと、高橋時代の二二億円台から一挙に三〇億円を超える三〇・四億円の予算になり、軍事費も一〇億円台から一五億円弱という、四割以上の増加を認めるというのです。この数字がまとまったのは年末のことですが、馬場が就任した直後から、次は軍拡ぶくみの大予算になるということは明白だったのです。

 軍部に迎合する予算案であることは明白です。そもそも広田首相が最初に示した組閣リストに陸軍が不満を示し、その干渉を受け入れたというのが内閣発足の経緯です。2・26事件の直後ということで、陸軍の横暴を抑えるチャンスでもあったのですが、そうした機会は活かされませんでした。
 軍部大臣現役武官制が復活し、帝国国防方針の改定によって陸海軍拡張計画が認められ、「国策の基準」策定により、陸軍の大陸進出と同時に海軍の南進計画が認められたのも、この広田内閣期です。そして、「この決定の背後に、太平洋無条約時代を意識した海軍の強いイニシアティブがあったことはむろんのことである」(矢野暢『日本の南洋史観』中公新書)なのです。
 準戦時体制の確立といって過言ではなく、外交面では、日独防共協定が締結されました。昭和11年11月のことです。しかも前月には、ドイツとイタリアという全体主義国家の間で、両国の協力関係を約する議定書が調印されています。いわゆる「ベルリン・ローマ枢軸」です。
 広田首相は元来、親ソ的な政治信条の持ち主でしたが、どうして反ソ的性格をもつ防共協定をドイツとの間に結んだかといえば、中国とドイツの連携に楔を打つ狙いもあったのです。田嶋信雄・成城大学教授の『ナチズム極東戦略』(講談社選書メチエ)から引用します。引用文にある「大島浩」はこの当時、陸軍から派遣されたベルリンの日本大使館付武官であり、その後はドイツ大使に昇格しますし、また「リッベントロップ」は、ヒトラーの外交政策アドバイザーという立場にあり、やはりその後は外相に就任します。

 一九三五年夏の大島浩の日独協定提案により日独協定交渉が始まるが、この大島提案は、かねてよりなんらかの形での日独提携を構想していたリッベントロップの支持をえるとともに、他方で、極東国際関係に関するドイツ国防軍内部での潜在的不一致を顕在化させ、国防軍主流派=親中派と異端的親日派=カナーリスとの政策的対立を惹起せしめた。リッベントロップとカナーリスは以後政府内での政策連合を形成して共同で日独協定実現をめざす活動を展開することになる。
(中略)
 すなわち、ここで、日独協定に関し、リッベントロップ・カナーリス連合と国防軍主流派・外務省連合の対立という政府内の政治状況が生まれたのである。一方、ヒトラーはすでに「権力掌握」以前より潜在的にイデオロギー的な親日イメージを抱いていたため、一九三五年十一月、リッベントロップ・カナーリス連合はヒトラーの支持の調達に成功する。

 こうした折、帝国議会、とりわけ衆議院では、政党と陸軍の対立が激しくなり、いわゆる「腹切り問答」にまで至りますが、広田首相は指導力を発揮することなく、昭和12年1月総辞職を選びました。
 後継首班に選ばれたのは、陸軍出身の宇垣一成でしたが、陸軍の横やりもあって組閣できず、幻の内閣に終わりました。大命拝辞という事態に陥ったのです。そこで後継の首相に就いたのは、同じく陸軍出身の林銑十郎でした。ただその内閣についての記述は、短期で退陣したため省略します。

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