「進化政治学による日本近代史」(22)

第2章

              外に帝国主義 内に立憲主義

アジア主義者であった大隈重信

大隈重信の政治信条を知らなければ、日本近代史の正しい理解は不可能でしょう。ある意味、大隈はそれほどの重要人物だったのですし、第2章の冒頭に大隈を取り上げた理由もそこにあります。奈良岡聰智・京大教授の『対華二十一カ要求とは何だったのか』(名古屋大学出版会)から引用します。

 大隈の外交構想は、ときにこのような情勢に流され、世論を煽る傾向にあった。また、大隈の対中政策はアジア主義的傾向を帯びており、日本の権益拡張を「中国に対する指導」「東洋の平和」「東西文明の調和」を目的としたものとして正当化しがちであった。

 第1次世界大戦が勃発したのは大正3年7月であり、この時期首相に就いていたのが大隈でした。第1次世界大戦により欧米列強はアジア情勢を顧みる余裕がなくなり、日本が中国大陸での権益拡大を図る絶好の機会が到来したと大隈は判断したのです。ただ、その機会便乗的な第1次世界大戦への参戦と対華21カ条要求は、国際協調に反した危うさがつきまとう外交構想でもありました。日米関係史などを専門とする高原秀介氏は『ウィルソン外交と日本』(創文社)において、以下のように指摘しています。

 このように、日本にとって山東半島における対独戦とは、単にドイツ勢力を膠州湾から駆逐することだけでなかった。それは、中国本土において日本の権益拡大のための橋頭堡を確保することを意味し、同時に日本による中国大陸への進出という究極目標への布石であったのである。そして、日本の抑圧的な施政は中国側の反発を一層強め、その反作用として日本が対華二一箇条要求を提示するという事態を惹起する結果となった。換言すれば、日中対立の相互応酬の原点は、まさに山東半島における対独戦役に始まり、対華二一箇条要求の提示によってメルクマールを与えられたといえよう。

 廣部泉・明治大学教授の『人種戦争という寓話』(名古屋大学出版界)も参考になりますので、引用してみます。

 日本のアジア主義に対する懸念が深刻化していくのが、第一次世界大戦中である。欧州列強がヨーロッパの戦争に追われ、東アジアにおける勢力圏の防衛が手薄になると、日本が欧米人を追い出して勢力拡大を図ることが現実味を帯びていった。ここにおいて、それまでは半ば机上の話であった日本の汎アジア主義に対する懸念が増大していくことになる。その懸念を裏づけるかのように、日本政府は中国に対して二十一カ条要求をつきつけ、またイギリス政府の再三の要求にもかかわらず、インド独立派を支持するような勢力を厳しく取り締まろうとはしなかった。

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