「昭和史サイエンス」(59)

対英米協調の面もあった田中外交

 昭和2年4月、政友会党首の田中義一が内閣を樹立しました。原敬内閣などで陸相を歴任した田中は、同じく政友会の高橋是清を蔵相に据えて、金融恐慌を収束させました。そして、外相も兼任した田中首相が展開した外交には、対英米協調の側面もありました。井上寿一・学習院大学教授の『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書)から引用します。

 第二は対米政策である。田中はこの演説でつぎのようにも強調している。「欧米諸国に対する外交も新思想に由【よ】る新式外交に改善するのが妥当」である。ここにいう「新式外交」がアメリカ主導の新外交であることは、明らかだろう。要するに田中は対米協調政策を唱えていた。
 新外交のアメリカは多国間条約による軍縮と平和を求める。政友会内閣の首相の座に就いた田中の下で、日本は対米協調外交を展開する。たとえば軍縮である。日本は一九二七年のジュネーヴ海軍軍縮会議に参加する。あるいは平和である。一九二八年にアメリカのケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相が不戦条約を提唱する。日本は一五の調印国の一国となった。
 他方で中国大陸では蒋介石が武力によって国内統一を進めていた。蒋介石軍は途中で軍事衝突を引き起こす。各国の権益が危機に瀕するおそれが出てきた。一九二七年三月、南京で事件が起きる。外国人数人が犠牲になった。田中は居留民の生命と財産の保護を目的として、五月二八日、山東出兵を決定する。山東出兵はイギリスを含むアメリとの三国協調出兵だった。アメリカの中国駐在公使マクマリーは日本の山東出兵を肯定的に評価してる。軍縮であれ、軍事介入であれ、田中はこのように対欧米(とくに対米)協調を重視した。

 田中内閣期の山東出兵は3度あります。第2次山東出兵において済南事件が起こり、数千人規模の中国人が犠牲になってこともあり、中国のナショナリズムの対象がイギリスから日本に移りました。ただし、排外主義的風潮が高まった中国において、居留民保護の問題で日本を含む欧米列強が困惑していたことも事実で、同じく井上寿一・学習院大学教授の『昭和史の逆説』(新潮新書)から引用します。引用文の「マクマリー」とは、アメリカの中国公使です。

 第二次山東出兵とその後に起きた済南事件によって、日中関係が悪化したのはたしかである。しかし、米英等の反応は肯定的だった。たとえばマクマリーは、済南事件が他人事ではなかったとして、つぎのように記している。
「日本軍が、済南の居留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は、神の恩寵がなければ、上海か天津で我々アメリカ国民に起こったかもしれないことと少しも変わらないはずのものだった」
 マクマリーは日本軍の行動が国際法の規範に準拠する「適法」なものだったと理解を示した。さらにマクマリーによれば、列国の反応はつぎのとおりだった。
「この事件で最も現場の近くでいた外国代表団の人々は、米国の極めて有能な済南領事を含め、日本軍が居留民の生命・財産保護のために、その任務を達成するべく誠意をもって行動したものと信じていた」
 済南事件にかかわらず、列国は山東出兵を支持していた。

「幣原外相期の外交について協調外交という呼称があるが、イギリスとの関係でいえば、協調的だったのは幣原外相期よりも田中内閣・外相期の方である」(佐々木雄一『近代日本外交史』中公新書)でした。「済南事件の最中および直後に、イギリスは全般に中国よりも日本に同情的だった」(後藤晴美『上海をめぐる日英関係1925-1932年』東京大学出版会)との記述もあります。 
 そして、済南事件の直後の1928(昭和3)年6月4日、奉天軍閥のトップ、張作霖が関東軍によって殺害されました。張作霖爆殺事件です。この事件からほぼ1年後、田中首相はこの事件処理をめぐって、退陣を決意しました。

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