「昭和史サイエンス」(94)

近衛新体制という幻想

 米内光政内閣期の昭和15年5月26日、「新党樹立に関する覚書」が作成されました。この覚書作成に関与した人物として、近衛文麿以外に、木戸幸一や有馬頼寧などがいました。
 ドイツのナチズムやソ連の共産党による一党支配体制が、それらの国力を強力なものに押し上げているという幻想に魅了された人々は日本国内にもいて、そうした勢力が既成政党を排除して、近衛をトップとする一元的支配システムをつくり、国内体制を全体主義に近いものにしようと構想したのです。これが「近衛新体制」と呼ばれるものです。
 昭和15年6月には、木戸が内大臣に就任し、近衛は枢密院議長を辞任します。その翌月には、米内内閣が退陣し、いよいよ近衛による第2次内閣が発足しました。この時期政友会や民政党などの既成政党の解党が相次ぎ、いよいよ「近衛新党」の誕生かという期待もありましたが、政党の離合集散にすぎないという既成概念を打破するため、あるいは近衛新党では近衛幕府になりかねないという批判もあって、(近衛)新体制運動と呼ばれるようになりました。
 新体制運動は、強固な挙国一致体制を目指しましたが、それぞれの組織の利害が複雑に交錯し、まとまりに欠けたものに終わってしまいました。
 犬養毅内閣の退陣後、政党政治が終わりを告げ、新たに発足した内閣はいずれも、寄せ集めのため足並みがそろわず、統一した政策を打ち出すのが困難となりました。そうした状況を一挙に覆せるのは、5摂家筆頭という近衛の声望に期待するしかなかったのです。ただ、その近衛にしても、目標達成にはハードルが高かったのが現実でした。
  10月12日には大政翼賛会が発足します。ただ発足当日になっても政治結社としての綱領はまとまらず、首相であり大政翼賛会総裁でもある近衛は、開会のあいさつにおいて「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる」という旨だけを述べる始末でした。翌年の帝国議会で大政翼賛会は憲法違反の存在として厳しく批判され、昭和16年2月には、公事結社と認定されるとともに政治活動も禁止されました。「一大強力政党」をつくるという目標は挫折し、新体制運動はここに事実上の終焉を迎えました。

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