「昭和史サイエンス」(43)

対華21か条要求とアジア主義

 この時期、大隈重信内閣が袁世凱率いる中華民国政府に対し、加藤高明外相の主導により対華21か条要求を出しました。ただ、その点はよく知られている周知の事実なので、ここでは1点だけ言及することにします。
 対華21か条要求とアジア主義との関連です。小林道彦・北九州市立大学教授の『近代日本と軍部』(講談社現代新書)から引用します。

 二十一ヵ条要求は近代日本外交史上最大級の失策である。日本は国際的な信認を自ら傷つけ、中国、とりわけ北京袁世凱政権との関係は全く険悪なものとなった。それは大隈とその内閣のポピュリズムがもたらした外交上の大惨事であったが、その基底には日露戦争の勝利をきっかけとする大国意識の高揚、とりわけ日本は有色人種の代表として、白人のアジア支配に異を唱えるべきであるとの「人種競争論」、あるいは「亜細亜モンロー主義」が存在していた。

 加藤外相については、プライドが非常に高かったことはよく知られています。しかし、自己肯定感は案外、低かったのではないでしょうか。日本の国際的信用には、関心がありませんでした。伊藤之雄・京都大学名誉教授も『大隈重信(下)』(中公新書)において、加藤の心理面を以下のように指摘しています。

 その最大の責任は、要求を膨大なものにしていった陸軍と対外硬派らにある。しかし、なぜ加藤外相や外務省は、類似した構想を持っていた大隈首相や元老に協力を要請し、彼らを抑えようとしなかったのだろうか。すでに見たように、加藤外相は抑える努力(交渉)すら行っていない。この点で、外務省と立案を取り仕切っていた加藤外相も、陸軍や対外硬派などと同様の責任を負わねばならない。
 加藤は自負心のみ強く、元老からは「狭隘【きょうあい】」とか「偏狭」とか評され、大隈からは「新兵」や「腕白小僧」と見られていた。国政のトップリーダーとして最も困難な問題を扱うには、精神面が弱すぎたのである。

 伊藤名誉教授は同書の別の箇所で、「加藤の動きは幼稚とさえ言える」とも語っています。加藤外相のパーソナリティーには、政治家としての資質のうえで問題がありました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?