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まっすぐな世界を生きたい。


これまでの人生で、最も苦しい1週間を過ごした。
これからの人生でも、これ以上苦しい1週間は過ごしたくない。

ご飯が食べられなくて、涙が止まらなくて、呼吸が苦しくて、外に出られなくて、正直、生きた心地がしない1週間だった。生きていたのかな、と少し記憶が曖昧なほどに。


この世の中には、攻撃的な大人も、理不尽な大人も、意地悪な大人も、無意識に弱い者を追い詰める大人も、それなりにいるらしい。弱い立場の人間を守ってくれるどころか、責任転嫁をしてくる大人もいる。どうしてもひっくり返すことのできない上下関係が、そんな歪んだ大人をさらに歪ませていく。歪んだそれが、正義に、正解に、なっていく。そしてその渦中にいると、歪んでいることにすら気付かないことがある。気付いていても、自分の無力さだけを痛感することになる。気付いてしまったが故に、自分を否定されることになったりもする。正しさを失い、心を殺すことが、一番楽な生き方だとすら思えてくる。

わたしはそんな世界で、壊れてしまった。
でも、今は、壊れることができた、と思えている。壊れることで、自分を守れた。自分が帰ってきた。
先日、今までで一番の、特大理不尽を投げられた。これまでギリギリで張り続けていた糸が、完全に切れた。その瞬間から涙が止まらなくなって、次の日から動けなくなった。でも動けるようになった先がまた地獄だから、元気な自分に戻りたくないなとすら思ってしまっていた。ここまで自分を追い込んでしまった自分も悪いけど、でもこれは、歪んだ世界で歪まずにいられたということだ。理不尽で心ない言葉に傷ついた。ちゃんと傷ついた。傷ついて涙が出るということは、私はまだまっすぐな感覚を持った私でいられている、私の心はまだ生きている、ということだ。そして、一度壊れてしまったことで、歪みのないまっすぐな世界に、ちゃんと助けを求められた。

自分が苦しんだ世界の外側には、まっすぐで優しい世界があった。「これはその大人がおかしい、あなたはなにも悪くないよ」と冷静に言ってくれる大人もいたし、「無理をしてほしくない。何ならできそう?」とわたしの状態を最優先しながら協力してくれる先輩もいた。「大丈夫だから。ほんとによく頑張ってるから。」と理解してくれる先輩もいた。わざわざレンタカーを運転して迎えにきてくれる友人もいたし、「連絡くれてありがとう」と感謝すらしてくれる友人もいた。

信じられないくらい優しい世界だなと思った。あと少しでこの優しさを優しさとして受け止められなくなっていたかもしれないと考えると恐ろしい。わたしが「優しさ」として受け止める類のものを「甘え」と捉える人もいる。すべてを自分の価値観で、自分の尺度で、推し量ろうとする人たち。人にはそれぞれ、合う環境がある。合う人がいる。でもそんな、合う人たちに見つけてもらうには、自分の信念や価値観を自分で守り続ける必要がある。わたしは今回、歪んだ環境の中でも、できる限り自分の正しさを信じた。おかげで自己否定ばかりの日々だったけど。大人たちの言葉も、真正面から受け取った。おかげで何度も傷ついたけど。自分にはこれしかないというくらいの気持ちで、真面目さと正直さだけは守り続けた。そうしていると、話したこともなかった隣の研究室の先輩が、見つけてくれた。助けてくれた。大丈夫だから、と安心をくれた。ちゃんと気付いてくれる人はいる。

自分はひとりぼっちだと勝手に思い込んでいたけど、見てくれている人も、手を差し伸べてくれる人も、今はたくさんいる。真面目にやって損することなんてなかった。生きるの下手だし力の抜き方わからないし、すぐ追い込んでこん詰めてやりすぎて、ほんと自分ダメじゃんって思うことばかりだったけど、ちゃんと真面目にやってきてよかった。今はそう思える。

そして自分も、だれかの頑張りとか思いやりとか、人に気付いてもらえると嬉しいなって思う類のものを、なるべくたくさん拾えるような人でありたい。そして困ってる人に手を差し伸べられる優しさとゆとりを持っていたい。そんなことを、改めて考えている。


以上、とりとめのない話でしたが備忘録です。この出来事を記憶として残しておくとちょっと苦しいので、記録しておこうかと。絶望から希望へとどうにか復活できた1週間でした。まずはご飯をたくさん食べるところから頑張りたいです。

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