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余章

終章という記事を書いてから、4年が経ちました。4月、別れの卒業です。文章が若いというか青い。

4年間をじっくり振り返りたくて、この記事をしたためてます。書き始めたのがちょうど卒業式の日なので、4月になる前までには書ききれると信じています。頑張れ自分。 ※ごめんよ書ききれなかった…


まず、もともとこの大学にいることは私の本望ではなかったです。4年間いればかわると信じてましたが、このコンプレックスだけは変わることがなく、重い足かせとして今も、そしてこれからも引きずっていくのでしょう。
勘違いしてほしくないのは、これは学校や先生や友達が悪かったということではなく、私の問題だということです。
それでも、私は今、この大学を出たことを誇りに思い、良かったと思ってます。ありがとう。

最初の2年は怒涛のごとく過ぎ去っていきました。入学式があったと思ったら、すぐに英語のわけわかめな授業が始まり、慣れないサークルなどをこなしながら超短期留学の準備も並行して、やっときた夏休みはほぼアメリカへ……。でもほんとに楽しかった。
授業も死ぬほど忙しくてきっつーっていうこともあったけど、図書館の話せるスペースや食堂でバカみたいな話や議論を延々としたのは何にも変えられない思い出です。ともにめっちゃ頑張る友だちもできて、おかげで高校の成績からは考えられないGPAで、頑張ることの楽しさがわかってきました。

そして冬頃、留学仲間との集まりで自分の人生が大きく変わりました。

FR0SCの活動に出会い、参加を決めたのがそこです。私にとって、嘘やお世辞抜きに、1番面白い体験でした。これ以上貴重な体験をすることは、たぶん人生でもうないです。断言してもいい。

2年生はほぼその活動に人生かけてた気がします。途中諸々のバイトや授業とかはありましたが、昆布を採りに北海道へ行った旅が私の中ではすごく印象的です。こうして言葉にすると薄いけれど、1杯のラーメンをついに作りきって、食べたあの瞬間のことは忘れられないです。

3年に上がる少し前、1月頃から色々あり、正直全部捨てて新しい環境にしたいと、大学を変えようとしていたことがありました。結果大学はそのまま継続することになり。ただ職場のほうは完全に変えて、今でもその際のたくさんの人に感謝しています。関係者様方、ご迷惑をおかけしました。

実はこれすごくタイミングがよく…?悪く…?、コロナが流行りだした頃と重なって、わりと参っていた精神に追い打ちをかけられて、3年の初めの方は精神的にほんとに安定しなくて大変でした。必死に目の前のことをやる環境を作ってあまり考えないようにしてたんですが、どうしても夏頃に辛くて辛くて、それでもなんとか縋って生き延びてました。

それから秋頃はちょっとよくて、FR0SCの活動でオリーブオイルを採りに行ったのも欠かせない体験です。

それから先、卒業研究でなんだか必死にやったり、たまに旅行や友だちと会ったりな4年生をなぁなぁに過ごして、卒業です。あっけない。


私はコロナが流行りだした頃、「コロナだからできなかった」とは言いたくないという話をしてた気がします。何か代案は常にあるはずだと、もがこうという意識だったんですが、振り返ってみるとコロナでできなかったことだらけになってしまいました。
大学3, 4年と、コロナだからできた体験もありましたが、コロナでできなかった体験の価値を考えないことはどうしてもできなくて、青春を終えることんできない、ぬるっとした生活が嫌になります。
なにか区切りがほしい。そう思って参加した卒業式で聞いたパイプオルガンが、唯一心に響いて、強制終了の合図になりました。

最近心が本当に動かなくて、悲しくなることもないけれど、嬉しくなることや、感動することがなくて、なにもかもが平坦で連続な、地平線テープみたいな感覚です。
何もかもに区切りがない。区切りがないから切り替わらない。切り替わらないと心が準備できない。そうして感じることを諦めて閉ざしてしまう感じが自分の中にあって、最近は焦りばかりが残っています。

私の大学4年間のテーマは、「複雑なものを複雑なまま受け取る」ことでした。
もし複雑なものというのが連続していて巨視的視点で平滑化されたような世界観なら、それはすごくつまらないことだということは1年生の自分に教えてあげたいです。ある一点に踊らされる生活は、滑稽にみえてもすごく幸せな力だと思います。

一方で、4年間で複雑なものを複雑なまま受け取る体験を私はたくさんしてきました。ときにそれは感情であり、思考であり、手から伝わる感触や、誰かの声、さっきまで生きていた動物の体温。矛盾する感情や行動を飲み込んで、まるっとこれでいいと認めること。案外その裏にある、それを突き動かすものは単純だったりして、そういうものがふとみえるとすべてがわかったような気持ちになること。
でも本当は、それを知ってもなにも面白くなくて、自分の手を動かすこと、何かをたどること、自分で解決すること。
結局受け取るには、自分の中で消化するしかないのです。その大きな塊がそのまま消化できるかは、何をこれまでに体験して、どう感じて、どう思ったか。他の人の体験や言葉で語られたものではなく、自分の行動を通して、自分がどう感じるかを正面から知ること。あたりまえのことに気づくのでもいいんです。それを自分であらためて、ボトムアップで気づくことにこそ、複雑なものを複雑なまま受け取ることなのだと私はそう思いました。

またいつか、この旅の続きができることを楽しみにしてます。その時はみんなで北海道にチーズを作りに行きましょう。
4年間をありがとう。

おわり

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