バズりゃバズりゃで面倒くさい

※先週に続き今週も「ラジオな日」はお休み致します。

お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。

おなじみイソップの「酸っぱい葡萄」のあらすじである。この話は心理学でも防衛機制や合理化の例でも使用される機会もあるだろうから、聞いたこともあるだろう。

最近、身の回りでツイートや作品が大きく話題となっている。いわゆる「バズる」というやつである。
そんなバズっているのを見ると、「なぜ自分は…?」と嫉妬めいた気分になるのだが、果たしてバズるのがいいのだろうか。

とあるラジオ関連のアカウントが、某歌手の薬物使用問題を機に、テレビの報道を批判するようになり、彼が批判しているコメンテーターと同類のようになってしまった気がしてならない。
このように、周囲から脚光を浴びることで性格が変わってしまうのではないか。そう思ってしまうのである。

そんなことは無いだろうと言われるのが大半だろうが、もう一つ懸念されるのが身内バレ。
札幌という土地は思っている以上に狭く、イベントやギャラリーでかつての職場の同僚や顔馴染みとバッタリということが度々ある。
そのため、あまり話が大きくなっても困るのである。

故に「バズりゃバズりゃで面倒くさい」という訳だが、「バズりゃバズりゃで面倒くさい」は「こんな葡萄は酸っぱくてまずい」ということと一緒なのだろうか。

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