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本山ゆかりインタビュー(1/2)

2015年以降、山や川、棒人間などをモチーフに大量のデジタルドローイングを作成し、その画像を題材に透明アクリル板に描くという「画用紙」シリーズを制作してきた本山ゆかり。9月14日(土)から10月19日(土)までYutaka Kikutake Galleryで個展「その出入り口(穴や崖)」を開催中の本山に話を聞いた。

聞き手:平間貴大


──YKGギャラリーでは今回が初の個展になります。今回展示している作品は全て新作ですか?

本山ゆかり:9点出しているんですが1点だけは2017年の作品で、それ以外の8点は2019年の作品で新作になります。穴にボールが落ちている絵が旧作です。

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画用紙 (ボール) , 2017 ©本山ゆかり
Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

──あの作品をまず見たときに隣の新作と比べて白い色がちょっと変わっていて、白い部分が少し黄色っぽく見えます。絵の作り方は基本的に同じだと思うんですが微妙な色の違いはどう考えていますか。

本山:色についてあまり考えないようにしていて、それが作品の制作の基本的なルールです。2017年の頃はリキテックスの白のジェッソを白として使っていて、その頃はまだこのシリーズを始めたばっかりで、いろいろ試している時期でした。とりあえずリキテックスでやってみたという感じです。今はホルベインを使用しています。もっと描きたいという気持ちが優先していたので、いろんなメーカーの白い絵の具を買って試すことはしていません。(リキテックスの)黄色っぽさは少し目立つんですが、ある時ホルベインを使ってみたらホルベインの方が蒼白っぽい感じがして良かったので、こっちの方が正しいかもと思って使っています

──黒はペンで描いているようにも見えたのですが。

本山:筆で描いています。アムステルダムのアクリル絵の具です。粒子がたくさん入っていないのでジェルっぽさがあり、その感じが好きなんです。というのも描くときに細い筆を使っているんですが、絵の具が筆についてくる感じがジェルっぽいほうが描きやすいんです。良い絵の具を使うと、高級な良いかすれが出てきてしまって、それは今の私の絵にはいらないんです。アムステルダムの黒に加えてホルベインのアクリルで伸ばして、さらにメディウムを足してしゃびしゃびにしています。水で溶いた時と違って弾いたりとかがなくて、透明度が増してサラサラになっていくんです。極端に混ぜてしまうと弾いてしまうのですが。

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画用紙 (風になびく草) , 2019 ©本山ゆかり
Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

──黒が伸びて緑っぽくなったり青っぽくなったりして見えているところがあるのはどうしてなんですか。

本山:色を考えていないと言いながら、黒に緑とか青を足しています。黒に青や緑を足すのは、白にメディウムを足すのと同じ感覚です。それが滲んだ時に影響が出てくるのですが、かなり繊細な作業になります。線全部に混色した色が出るわけではないんですが、薄いところだけ青や緑に見えます。自分で制御しきれない部分もあります。ここには確実に緑が出ないといけないという部分はなくて、出る時は出るという感じです。線自体は薄いメディウムが何層も重なっているようなところが多いです。
同じ層に白と黒を配置する場合、黒に青や緑を混ぜない状態でやると主従関係がはっきりとしてしまうんです。白の上に黒が乗っているように見える。黒が締まって見えるのもそうなんですが、白と黒との関係性の緩衝材の役割を青や緑にさせています。馴染ませることができるので、白と黒が別れすぎずに画面に出てくれるんです。

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画用紙 (三つの岩) , 2019 ©本山ゆかり
Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

──新作では下地である白い部分が無く、黒だけがアクリル板に塗ってある部分があります。以前はあまり見られなかったと思うのですが。

本山:最近「絵に穴が開き始めた」というか、今までは、白(色面)がうしろにあって黒(線)が手前にある関係ということではないですが、白と黒が一緒になく「線」だけではさすがに「色」として居させることができないんじゃないか、トリッキーな感じになりすぎるんじゃないかと思っていました。それにアクリル板の透明さを利用しすぎている気がしていて、もともと透明な存在感を出したいわけではなかったのでやってなかったんです。
でも、最近は加減をすればトリッキーな感じにもならずに、アクリル板を通して透けて見える「背景」の部分も絵の一部に取り込むことができると思っています。「背景」は白い壁を前提としています。「背景」として取り込むことを最初から意識しているわけでは無いんですが、白い壁がうまいことその部分を埋めてくれれば穴が開いても大丈夫なので、線があっても黒が浮いているなという感じよりは絵の背景に乗っているなと考えるようになりました。

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画用紙 (机上) , 2019 ©本山ゆかり
Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

──白の塗り方が新作はこれまでの作品よりもより激しくなっていると思いました。過去の作品を見ると平面的に塗っているように見えるのですが、しかし新作は薄く塗ってあるところも多く、あるところはかなりべったり塗ってある。筆跡も結構見えていたりして、新作は遊びが多いように見えました。

本山:本当は以前からそれがやりたかったんです。でも白が薄いとか「穴が開いている」状態というのは、白が弱いことで主従関係がすごく出てしまい、白が汚れとしてあるような印象になってしまう。そうすると黒が強くなりすぎてしまって、薄い白と濃い黒の関係をうまく作れなかったんです。しかし最近は技術的にそれが操作可能になってきたと思います。最近やっとわかってきました。単純にメディウムをどれぐらい混ぜたらこうなる、とかそういうことです。

──技術力がついてきたことで実験もしやすくなってきたんですね。

本山:やっと絵を描く舞台が整ってきたような感じです。今までは「モチーフはあんまり深い意味のないことを描いています。」と言うことで逃げてきたような、オッケーにしていたというか。でも最近は意味がないとか楽しいとか、ぼんやりとしているけど確実に感覚として存在することについて、もうちょっと細かく考えることができるようになりました。それによってモチーフも変わってきました。舞台が整ったから、モチーフのことを考えられる場所に今立っているという感覚があります。

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──以前はそれをわからなくするようなシステムとして、ドローイングを描きまくってその後に時間を置いてからそれを見て、あまり思い入れのないものを選んで描く、という作業を通して意味のなさを自分の中で作り上げてこられました。本山さんの中で特徴的な作風は、その作業が分離しているということだと思います。デジタルの時にドローイングを大量に描き、アナログに移すときにそれを展示できるような状態にする。作業が2つある。シュールレアリスムの自動筆記のようにそれが完成なのではなく、システム的に無意味な状態にできる。今はそういう作業を通さなくても絵を描けるようになったんじゃないかなと思いますが、いかがでしょう。無理矢理作業を分離させて自分で分からないようにしていたのを、無意味さを身体的に理解したことで、ストレートに絵を完成させられるんじゃないかと。

本山:それはおっしゃるとおりでなんですが、今はさらに新しい分離みたいなものが起こってきています。ある程度意味がないものをいっぱい描けるようにはなってきたんですが、描くものに偏りみたいなものがあって、すぐに川や山を描いてしまう。最小限の線で表せるわかりやすいものだから手を動かしたら山とか川とかになってしまうんですけど、そればかりになってしまうのもよくないんです。楽しいというのと意味がないというのをしっかり分けないといけない。
絵として描いたら楽しいだろうなというモチーフは何個か出てきているんですが、その楽しさは趣味的に風景画を描いたら楽しいというのと同じなんです。これが描けるのは楽しいだろうなぁで終わってしまうのも良くない。そこは我慢が必要です。1週間ぐらい「描こうかな、でもだめな気がする」みたいなことを繰り返してやっぱりダメだ、みたいになることもあります。最近は何回もイメージトレーニングをして、ダメかもと思ってしまっている自分がいる、という時間の過ごし方をしたりします。

──実際に選ばれるイメージというのは石や岩、山など牧歌的なイメージが多いような気もします。ぱっと見てわかるようだけど、わかりやすいようには描かれていない。例えば本山さんの絵は記号的と言われることもあり、確かに記号的な省略はあるのですが、わかりやすくは描かれていない。

本山:記号的という言葉の使い方自体が人によって違うというのもあると思います。私の絵は確かに記号的ではあるんですが、記号的であることと記号である事は違うように、そこには表現も入っています。他人とは共有できない私の中での簡略化のルールみたいなものが最近生まれてきていて。棒人間を描いているときに、棒人間を見切るというか、首から下だけの棒人間とか腕だけの棒人間があるのですが、初見ではそれはわからない、ただの抽象画にしか見えない。というかただの線に見えるのですが。
具象から抽象化していくというのは(美術史の)王道だと思うのですが、しかし静物画を簡略化するという話ではなくて、一般的に共有され、既にあるだろう概念としての記号を簡略化しています。それを自分だけがわかる記号にすり替えていくという作業が入っています。
でも山とか川とかはめちゃめちゃ簡略化された状態のものをイラスト等でも普段よく目にするので、それは一般的に共有できるゾーンのものです。

──例えば山などは簡略化の作業が本山さんの中ですごく進んでいて、線が3本あるだけのような、一瞬何だかわからないものもあります。

本山:その辺の自覚みたいなものを失いつつあって、最近煙の絵を描いたのですが、それが1番他人になんと言っていいのかわからないような気持ちになりました。煙自体、形がそもそも不定形です。燃えているものから出ていて、それによって規模も変わってくるし、すごくふんわりとしていて記号化することが難しい。喫煙所のタバコのモクモクマークや、雲みたいなマーク、温泉の湯気マーク、あと漫画で人が顔を赤らめたときに顔から出るポッという線。状況によってふわふわマークが湯気ではなくただの曲線になってしまうことも、ある記号自体を具象的に描くということにもなる。しかし、ある文脈上にあれば機能するような記号の事はもちろん頭の中にあって、作品では煙の絵を描いているわけですが、状況説明のパーツがなく、単なる煙を描いても他人から見ると波線だけに見えてしまう。

──他の絵もそうなんですが線がシンプル過ぎるといろんなものに見えてしまうということもあります。絵自体が簡略化されているので理解の仕方が多く、それが難解さにつながってしまうような気もします。

本山:昔は絵の難解さを避けたくて誰にでもわかるようなちゃらんぽらんなモチーフを選んでいました。難解さを生んでしまう事は不本意ですが、記号を自分に寄せて描く楽しさが上回ってしまうと、難解になってしまってもしょうがない事でもあります。
しかしそうなってしまっても私自身は難しいことをやっているつもりはないし、「記号で何かを表したいということがあるわけではない」というスタンスは変わっていません。もっと作品をたくさん作るなかで、難解かもしれないけど難しいことは大事じゃないという前提がみせられたらと思っています。


次号に続く


・本山ゆかりwebsite:http://motoyamayukari.net/

・平間 貴大(ひらま たかひろ)Takahiro Hirama
元・新・方法主義者(2010-2019)。2010年8月、個展「第1回平間貴大初レトロスペクティブ大回顧展」、「『反即興演奏としてのマラン・メルセンヌ+ジャン=ジャック・ルソー』『10年遅れた方法音楽としてのマラン・メルセンヌ+ジャン=ジャック・ルソー』同時開催展」、2018年「パラレルキョンシーズ」。2015年6月より野方ハイツメンバー。

「レビューとレポート」 第5号 2019年10月
 (パワードbyみそにこみおでん)

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