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生誕150年 大下藤次郎と水絵の系譜

2020年10月10日から2020年12月13日まで群馬県立館林美術館で「生誕150年 大下藤次郎と水絵の系譜」が開催されている。
日本における水彩画の地位を確立させ、明治期を代表する水彩画家として活躍した大下藤次郎の生涯と画業、そして影響を受けた作家や同時代の画家たちを改めて振り返る展覧会だ。

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プロローグ 三脚登場

本展覧会は大下が愛用した三脚が「僕」の一人称を用い、「主人」の大下や周辺の仲間たちを案内するというユニークな設定となっている。この設定は大下が「汀鷗」の筆名で1910年1月発行の『みずゑ』第58号から連載した「三脚物語」から引き継がれている。

大下は1891年、当時肖像画で名を成し神田猿楽町に私塾を構えていた中丸精十郎に入門する。この画塾では主に室内での模写や石膏写生が中心となったが、1893年に結成した「写生同盟」では定期的に戸外で写生を行った。プロローグでは「吾カ最初ノ写生」と記された、十数回続けられたという写生会の記念すべき第1回目の写生地である護国寺境内を描いた《護国寺内》や、写生会で描かれたと思われる《十二社裏》、写生同盟のメンバー森脇英雄、真野紀太郎の作品を中心に展示されている。(1)

そしてこの頃大きな影響を受けた三宅克己の水彩画を模写したという《南品川》も展示されている。

第1章 生い立ち

大下は1970年、陸軍の御用達として馬を扱う仕事や、旅館や下宿の営業、貸家の運営などを営む家に生まれた。さまざまな家庭不和に悩まされ、特に継母との確執については1890年に「ぬれきぬ」という手記を残している。これを元に後に森鷗外が小説「ながし」を執筆している。(2)

1890年の第3回内国勧業博覧会で原田直次郎の作品を見たことが大下が画家を志すきっかけとなった。1891年に中丸精十郎に入門した後、1894年に原田直次郎の画塾「鍾美館」に通い始める。本章は大下が20代前半で描いた鉛筆での人物スケッチや水彩画、そして中丸、原田という二人の師の作品を中心に構成されている。

第2章 修業時代

大下は写生同盟での活動で戸外での写生を繰り返し、風景画を多く描くようになる。そして中丸精十郎の画塾で外国人作家の描いた水彩画を多く目にしたことがきっかけとなり、大下は水彩画に魅了される。展覧会図録『生誕150年 木下藤次郎と水絵の系譜』(2020)のコラム4「中丸精十郎旧蔵の水彩画について」では、この水彩画の旧蔵者が内田正雄であったことが記されている。内田は「江戸幕府が幕末にオランダに依頼した軍艦『開陽丸』建造進捗確認のため、留学生の一人として派遣されたことでも知られる(1862-1867)。内田は在蘭中に、本来の任務だけでなく、滞在地のハーグで美術品や写真を数多く収集して持ち帰った。」(3)

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本章はヨハネス・ボスボーム、ヤン・ヘンドリック・ヴェイセンブルフなどハーグ派の作品群や、大下に大きな影響を与えた三宅克己が水彩画の技法に目覚めるきっかけにもなったジョン・ヴァーレー・ジュニア、そしてアルフレッド・イースト等イギリスの水彩画家たちの展示も充実している。章の終盤には1898年に明治美術会の特派員として、遠洋航海に出る軍艦「金剛」に便乗してオーストラリアへ旅に出た時に描かれた貴重な水彩画もある。

第3章 水彩画家として

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半年ほどの海外生活から帰国した大下の作風は色彩が豊かになったといわれる。1901年、大下は『水彩画之栞』を出版する。水彩画の技法や道具を紹介した本で、この年のうちに2万部が売れたという。その後1904年に増補版として『水彩画階梯』が発売された。
この章では大下が息子正男や妻春子に宛てた水彩画が描かれた絵はがきや、この頃転居した青梅で制作した水彩画、そして1898年に出会ってから生涯を通じて交流のあった丸山晩霞の代表作《高原の秋草》を含む6点ほかを展示する。

第4章 水彩画之栞

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ベストセラーとなった『水彩画之栞』によって、水彩画は多くの人に広まった。影響を受けた中には若かりし萬鉄五郎も含まれる。
この章では森鷗外が書いた『水彩画之栞』題言の実物や、本文の中から内容の一部を抜粋し、実際に大下がどのような描き方をしたのか実物の作品と見比べて鑑賞できるように、作品とテキストを隣り合わせにして展示されている。例えば雲の描き方であれば「空を塗るとき注意して(紙の地色の白を)残しておき、もし雲に黄色や紅色の色が含まれていた時は後から淡く着彩すること」(4)など具体的な色使いなどが記されている。

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大下藤次郎《秋の雲》1904年 水彩・紙 島根県立石見美術館蔵

第5章 普及

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1905年に大下は自宅を発行所として水彩画の専門雑誌『みずゑ』を刊行する。内容は水彩画の技法や紀行文、そしてアルフレッド・パーソンズなど外国人作家の紹介を中心とした内容で、絵葉書の競技会も企画された。1907年には丸山晩霞、河合新蔵、真野紀太郎等と日本水彩画会研究所を設立し、水彩画の指導をしたり日本各地で講習会を開き、その合間を縫って写生も行っていた。
この章では『みずゑ』に掲載されたハガキサイズの原画や、様々な土地の風景画、浅井忠など同時代の水彩画、そして日本水彩画会研究所の先生や生徒たちの作品を展示している。生徒には大下の内弟子である赤城泰舒や小山周次、後藤工志、古賀春江、河上左京などがいる。

エピローグ 旅立ち

ここまで精力的に活動してきた大下だが1911年に瀬戸内、福島、松江、福井などを訪れ講習会から帰ると床につきがちになる。そしてその年の10月に42歳という若さで亡くなった。
大下は全国各地に出向いて写生をし紀行文を書いてきた。そんな中「かつて雑誌で読んだ『無人の境、風光極めて佳絶である』との記述に惹かれ、画家として初めて、当時ほとんど知る人もないこの地に行く決心をする。道は一本あるものの一夏に往来する人が十数人という状況で、宿泊する場所もない」(5)という尾瀬への旅行を敢行した。その後大下の紀行文を見た平野長蔵は、東京まで会いに出向いたという。大下の死後、平野は大下の記念碑を尾瀬沼畔に建てた。

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終章である本章では、大下の紀行文と水彩画から写生した場所を推定し、汽車の降り駅から写生地までの道程と絵を描いた方角までを示したパネルが展示されている。広大な尾瀬の一部を擁する群馬県の美術館ならではの試みだ。図録にはパネル内容の記載がないのでぜひ美術館で見てほしい。

本展は会期が前期と後期に分けられ、大幅な展示替えも予定されている[総展示数343点、前期219点・後期220点]。約20年の画業人生と出版人・水彩画ブームの立役者としての大下を師匠・友人・そして弟子や資料など、様々な角度から読み取れる展覧会だ。


(1)『生誕150年 大下藤次郎と水絵の系譜』p.8、コラム1「写生同盟について」左近充直美
(2)『近代日本美術家列伝』p.86
(3)『生誕150年 木下藤次郎と水絵の系譜』p.23、コラム4「中丸精十郎旧蔵の水彩画について」熊澤弘
(4)『生誕150年 木下藤次郎と水絵の系譜』p.51
(5)『生誕150年 木下藤次郎と水絵の系譜』p.73、コラム11「大下藤次郎と尾瀬」伊藤香織

参考資料
『生誕150年 大下藤次郎と水絵の系譜』島根県立石見美術館・群馬県立館林美術館、2020
『近代日本美術家列伝』神奈川県立近代美術館編、美術出版社、1999

展覧会情報
会場:群馬県立館林美術館
会期:前期:10月10日(土)~11月8日(日) 後期:11月10日(火)~12月13日(日)
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※入館は午後4時30分まで
休館日:月曜日(11月23日は除く)、11月24日(火)(詳細はこちら→http://www.gmat.pref.gunma.jp/info/close.html
住所:〒374-0076 群馬県館林市日向町2003
電話:0276-72-8188
FAX:0276-72-8338
料金:一般830円(660円)、大高生410円(320円) ※( ) 内は20名以上の団体割引料金 ※中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料。
URL:http://www.gmat.pref.gunma.jp/index.html

会場風景撮影:筆者

レビューとレポート第18号(2020年11月)

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