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嘘をついたアメリアは、自分に罰を与えた


1927年リンドバーグが、大西洋横断飛行に成功。ヨーロッパとアメリカが、新しいビジネスチャンスの到来を祝った。

ニューヨーク〜パリ飛行(5,800Km/33.5時間)成功を讃える群衆
ハンサムな英雄チャルールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)

一方、祝杯をあげられない大西洋飛行レースの負け組がいた。プロジェクトへの
出資者から起死回生策を求められていた。

リンドバーグの飛行とは違うインパクトを与えて、注目を集める。そして、ビジネス参入の機会づくりをする。

このプロジェクトのプロデューサー、ジョージ・パットナムが考えたことは、”女性初の大西洋横断飛行”だった。

興行師及び出版業のジョージ・パットナムGorge Putnam

ヒーローのリンドバーグが、人気者になれたのは、彼の端正なルックスもあったと、パットナムは読んでいた。

パットナムの美女探しが始まった。

パットナムにとって、女性の飛行機操縦の上手い下手を考慮する必要はなかった。ただ、美しければよかった。男性パイロットが操縦し、彼女は後ろ座席に静かに座っていればいい。成功すれば、”女性初の、大西洋飛行者”として報道される。

飛行士訓練所の卒業生リストを調べた。パットナムの目にかなう女性が一人いた。

アメリア・イアハートAmelia Earhart

アメリア・イアハートは、美人だった。そして、苦労していた。
21才の時、看護師助手として社会人をスタートさせた。患者から猛威をふるったスペイン風邪に感染し、治っても後遺症に悩まされ、クビになった。

失業中の23才、父親に連れられて行った航空ショウへ。飛行機に乗り、地上90mから下を見て、息をのんだ。地上のあらゆるものが、遠く小さく見え、悩みもほんの一瞬消えた。

飛行訓練所のレッスン料が、12時間500ドル(現在価値は16倍の、8,000ドル(120万円)。1時間10万円、彼女にとって大変な負担だった。

トラック・ドライバー、カメラマン、速記者などのアルバイトをして、必死にレッスン料を稼いだ。

25才の時には、女性飛行者として、高度記録(4,300m)を達成した。

アメリア26才で、パイロット・ライセンスを取得。

女性パイロットの連盟を提案した

しかし、女性パイロットに就職先はなかった。

貨物輸送、農薬散布、人命救助、あるいは飛行ショウの曲乗りとしても、男性が独占していた。金持ちの遊覧飛行でも、女性パイロットには声がかからなかった。

空を飛べないアメリアは、先生や、ソーシャルワーカーをして機会を待つしかなかった。


パットナムから仕事をオファーされた時、5年もののライセンスを握って、アメリアはアドレナリン全開だった。この仕事のためには、なんでもすると思った。

リンドバーグの偉業達成の翌年1928年、パットナムのチームは、北米の北端から(パリではなく、荒天のため)イギリス南端に不時着した。大西洋横断20時間40分の記録だった。

パットナムの仕組んだ通り、”女性初の大西洋横断飛行”としてアメリアは、取材を受けた。

しかし、アメリアは「横断飛行を成功させたのは、男性パイロットで、私は、袋に入った芋のようにじっとしていただけです」とインタビューの第一声。

パットナムは渋い顔をした。彼女にレクチャーしなければと思った。

しかし、記者たちは、パットナムが広報していたように、パイロットとして少しは操縦したと、都合よく解釈。

読者受けする”女性初の大西洋横断飛行成功”として報道した。

”女性初の大西洋横断単独飛行”と報じられ、世紀のフェイクニュースで祭り上げられた

その日から、”レディ・リンディ(リンドバーグの略)”とか”大空の女王”と呼ばれ、ホワイトハウスの大統領歓迎晩餐会に招待された。

アメリアの商品価値があるうちにと、パットナムは、ドキュメント「20時間40分」を書かせ、書籍販売を兼ねた講演依頼を全米各地でプロデュースした。

アメリアはつくられたヒロインだった

アメリアが飛行機を操縦し講演地に向かい、ローカル紙をにぎわせた。アメリアは、嘘をつき続けるしかなかった。それだけでもとても疲れた。しかし、自分を拾ってくれたパットナムに文句は言えなかった。

情けないことに、パットナムの筋書き通り演じたアメリア。笑顔の聴衆を騙していた。良心が痛んだ。

自分のパイロットとしての能力を証明するために、そして自分を納得させるために、誰も成し遂げてないことをするしかないと思った。

リンドバーグの大西洋は、5,800Km。これに比べて、北アメリカ大陸の幅は、8,000Km。アメリアは、北アメリカを1往復16,000Km女性単独飛行の記録を打ち立てた(大西洋初飛行のインパクトにかなわなかった)。

アメリアの良心の痛みは少しやわらいだ。

この飛行実績で、ローカル路線の航空会社2社から副社長を委嘱された。そして、女性パイロット組織の初代会長に就任した。

女性パイロットのファッションにも敏感だった

また、女性のワーキングウエアにさまざまな提案をしていたことから、ファッション誌”コスモポリタン”の副編集長にも就任した。

ラッキーストライクの広告タレントとして
アメリアは切手にもなった

女性ファッション誌”マッコール”もモデル起用を考えていたが、タバコのコマーシャルに出演したため起用を断念。アメリアは、タバコ広告の出演料をすべて、海軍将校でパイロットのリチャード・バードの南極大陸探検の費用に寄付した。

華やかで幸せなことが、アメリアに集まってきた。タイム誌の「今年の100人」に選ばれ、名実ともにセレブになった。

TIME誌<1935年100人>に選ばれ”勇猛果敢な飛行士”と呼ばれた


32才になって、アメリアは、結婚を考えるようになった。

彼女には、化学エンジニアの婚約者がいた。一方、パットナムは既婚で2人の子供がいた。

パットナムが2人の子供を連れて離婚し、アメリアに6度のプロポーズをした。

34才のアメリアは、婚約を破談にし、パットナムを選んだ。

マスコミは、仕事優先の彼女らしく”便利な結婚”と報道した。

アメリアは、パットナムなくして今の自分はないことを一番知っていた。

また、結婚しなければ、パットナムに過去を暴露される恐れも不安もあった。

笑顔はない仮面夫婦

結婚式当日、アメリアからパットナムを驚かせる「結婚誓約書」が渡された。

「私は結婚という古風な鳥籠で、我慢して生きることはできません。自分だけの
自由がある場所を持ちたいと思います。そして、二人はお互いの行動を干渉せず、自由に生きましょう」

「私の収入は私のもの。財布は別にしましょう(パットナムの収入は、彼女のマネージャー料しかなかった)」

そしてとどめは、夫婦別姓。

ニューヨークタイムズ紙の記者が「ミセス・パットナム」とアメリアを呼んだ。
彼女は「ミセス・イヤハート」と訂正させた。そのうち、パットナム本人が「ミスター・イアハート」と呼ばれるようになった。

ひたすら大空が好きだっただけの女性に、嘘をつかせた男への復讐状だった。

自己嫌悪を繰り返していたアメリアは、もういない。

1932年、結婚の一年後、自由なアメリアは、念願の”女性初の大西洋横断単独
飛行”を成し遂げた。

天候不順と機械の故障で、(1回目の男性パイロットによる飛行より手前の)アイルランドに不時着。目撃したアイルランド人が「遠くから来たのかい?」「アメリカからよ」とアメリアが陽気に答えた。

リンドバーグの快挙から5年、彼女の嘘が、ようやく本当になった。


1937年、39才のアメリアは、”女性初の世界一周単独飛行”(最長距離の赤道上47,000Kmを、有視界飛行する45日間のルート)を目指すことにした。

リンドバーグですら考えもしなかった、命がけの飛行計画だった。しかも、アメリアの、この挑戦を陳腐なものにしてしまう、日進月歩の航空機技術の革新が予測されていた。

なぜ、こんな無駄で無謀なことを考えついたのか。そして、夫も誰も止めなかった。とても疑問が残る。

世界一周飛行の直前に撮影された二人。夫はよそよそしく、アメリアは幸せそうに見えない

世界に嘘をついてデビューした罪を、神をも恐れない冒険に挑んで、罪のつぐないを求めていたのか。

パットナムが仕掛けた新聞広告があった:
”歴史的な太平洋単独飛行中に、彼女はホットチョコレートをコックピットで飲んでいる”

80%の航路を飛行し、世界一周を目前にした南洋で、アメリアは消息を絶った。

40才のアメリアは、不可能などないと思い続けて頑張った。この高揚感が、可能の限界を見誤らせてしまった。


当時の捜索隊は、落下機体を発見できなかった。パットナムは、捜索にすら加わらなかった。

そればかりか、パットナムは「不時着した南海の孤島で、日本軍の捕虜になって殺された」と根も葉もない仮説をでっちあげ、捜索を切り上げさせようともした。

失踪から2年後、アメリアの死亡が法的に判定されて、半年も経たないうちにパットナムは新しい女性と結婚した。

海中ドローン撮影©︎DEEP SEA VISION,TIME誌2024年1月

2024年になって、4,877mに沈んでいたアメリアの機体と想定される機影が、
深海捜索企業によって発見された。引き上げるための準備に入ったとの報道がある。

87年経った今でも、アメリアを忘れない人たちがいることの素晴らしさを感じる。




※長文にお付合いいただきありがとうございました。






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