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21/7/24_2

こんにちは、myrthéです。
このnoteには、植物や動物の写真と、生活の中で感じたことや病気について綴った文章を掲載します

(続き)
ふと、浮かんだ問いがあった。

痛みを押してもやりたいこと、やっていることは、今、自分にはあるだろうか。
旅行に限らず。

痛みは確かに生活に制限をもたらす。でも、痛みを理由に、諦めるふりをして逃げて、手放していることはないだろうか。

実際にやれなくても、「やっている」という状態がある。
今は手を動かせない、けれど心は確かにその行為のために動き続けていて、「諦めている」という感覚はなく、あくまで「今、それをやっている」という意識でいる状態だ。

そんな行為が、ひとつ、思い浮かんだ。
それから、細かい日常生活のあれこれが、浮かんだ。
料理、掃除、家事一般…

そのとき、思いがけないことだが、深い安堵を感じた。
痛みは、病は確かに今在るけれど、私は私の人生を生きている、と実感したのだ。

現状、料理にしても、掃除にしても、私は「普通」にはできていない。
実際、身体的な問題で台所に立つことができないことも多い。
今の自分の生活を客観的な尺度で評価したとき、「生活に必要なことが独力で、自発的にできている」というカテゴリーには入れないだろう。
正直、あまり認めたくないけれど、やはり症状は重い。

いつまで続くか分からないその現実に、自信を失い、まるで病に生活を乗っ取られたように感じ…圧倒されていたと思う。この頃は、特に。

安堵したのは、それでも、私は生活を手放してはいないのだ、と確かに感じることができたからだ。
例えば、家族の健康を預かること。相手が元気で過ごせるようにと、あれやこれや、足りない栄養を足したり、頭を捻りながら料理を作ること。
フルでできないにせよ、できることは僅かにせよ、自分は諦めて、手を引いてはいないのだと、手放してはいないのだと、自然に、すっと感じられた。

やらなくてはいけないからしている?
そうではない、したいからしているのだ、とも。

できていないことが多い、ということは、全てではないにせよ冷静に把握し、認識している。
その一方で、こうして感じられたことは、普段意識することのない自分自身の心の在りようというか、
vitalityを知った、ということなのだと思う。

(今回の記事は、書いて、お伝えするのが難しい内容になりました。
私の表現力不足のため、読んでくださったあなたにどこまで伝わるか、分からないのですが…迷いましたが、こんな文章も、どなたかの足がかり、何かしらのヒントになるかもしれないと思い、投稿することにしました)