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中編ファンタジー 【ドードー鳥、見つけた】 ⑴

阿佐野桂子



伝説の龍

 実際そいつは困ったやつだった。
 遥か天空でイトミミズみたいにくねくねしている時は、まあいい。 
 空の一画が突然として一筆書きの抽象画になってしまうのは何とも妙な気がするものだが、それならあえて空を見なければよろしい。
 大体の者は主に自分の目の高さを基準にして見て暮しているから、しみじみ空を仰ぎ見るなんて一日に一回か二回くらいだろう。
 従って無視しようと思えば無視できるし、忘れてもいられる。しかし、かのイトミミズはやがてのろのろと動きを止めるとこそとも動かなくなり、硬直した一本の線と化す。
 本当のところ、それからが大変なのだ。
 突然不気味な雷鳴が響き渡り、雲の欠片もない空がたちまちのうちに不穏な色を浮かべ始める。あれよと言う間に暗雲立ち込め、ぽつりと最初の一滴が落ちると、後は天を裂き地を流すかと思われる程の雷雨の攻勢が続く。
 それもこれも、つまりは寂しくなった、という訳なのだ。
 地鳴り竜巻突風大雨落雷、おおよそ考え得る天変地異を総動員してそいつは草原目掛けて急降下して来るのだが、その理由と来たら、寂しくなったから、というただそれだけ。
 おいおい、と三白眼で一言言いたくなるのは無理からぬことだろう。
 とうに飽和を越えた天は重みに耐えかねて今にも地を押し流しそうだし、空気はびりびりと鳴り、地は流動するマグマを抱えているかのように振動して、まさに天地崩壊の様相。
 大粒の雨が地面にへばりついている草や潅木を薙ぎ倒して水煙を上げる。これでは気持だって大いに動揺する。
 となると、前の穏やかな午後の陽を浴びていつもの昼寝を決め込んでいたドードー鳥は最初のぽつり、ではっと目を覚ました。
 虎に食われても気付かず、むにゃむにゃ寝言を言いながら飲み込まれてしまいそうな程ぐっすり眠りこけていたものの、風雲急を告げる異様さに飛び起きたのだった。
 朦朧とした目を無理に見開き、潅木の下を這い出ると近くの岩陰に急ぎ避難したのだが、その頃にはもう全身ずぶ濡れで羽根もぺちゃんこだ。
 彼としては可能な限り精一杯大急ぎで走ったつもりなのだが、なにしろ地を這う毛糸玉のような体格で、しかも短足にして鈍足だから、心は千里を走っても実際にはよちよち歩きが精一杯だ。
 その上、水鳥ではないから濡れれば濡れっ放し、ぷるっと身震いすれば済む完全防水羽毛と違ってこういう場合は実に惨めだ。
 ダチョウやレアやエミュのような走鳥になったつもりで走ってみてもその時だけ変身出来る訳もなく、つまり現実はロック鳥とハチドリ程も隔たっている。
 毎日心掛けよろしく走る練習をしてみても、つい目と鼻の先の岩陰に辿り着くのにさえ息が切れ、おまけにびしょ濡れになってしまう。
 クアッガならずとも前足で土を掻いて抗議したいところだが、生憎ドードー鳥には後にも先にも足は二本、鶴のように一本足で立って、残る一本足で主張しようとしてもバランスを失って倒れるに決まっている。
 では目に物を言わせようとしてもせいぜい真丸の瞳孔がちょっと小さくなるだけだ。 
 たまたま草原に居合わせた他の者達は、と見ると、雷雲の下を避けてとっくに豪雨の範囲外に逃げ去っていて、ドードー鳥のように陸上にいながら水死しそうになるなんて間抜けな目に遭うやつは誰もいない。
 ドードー鳥は重い溜息をついて濡れた小さな翼をそっと体に引き寄せた。足も翼も何の役にもたたないと再確認するのはなかなか辛いことなのだ。
 ドードー鳥の落胆にもお構いなく、やがて目が眩むばかりの閃光が一瞬視界を奪い、一際高い雷鳴が響く。落雷直撃か、と耳を塞ぎ目を閉じるが、落雷なんぞではなく、これがあいつのいつもの現われ方なのだ。
「仲間に入れてくださいよお……」
 と、そいつは声を震わせて世にも哀れっぽく訴える。
「寂しくて仕方ないんですよお……」
 全身鱗に覆われた体をくねらせる。つまり、そいつは伝説の龍なのだ。

草原の審問

 伝説によれば、龍は雲を呼び雨を降らせ、水とは切っても切れない関係であるらしい。
 勿論、仲にはその相関関係について疑念を挟む口の悪いやつもいるが、少なくともそいつは定石を踏んで雷雨を引き連れて落下して来る。当の龍以外にとっては実に迷惑だ。
 竜の着地と共に草原の上空を覆っていた真っ黒な雷雲が去り、再びトルコ・ブルーの空が広がり始めている。
 巣立ち直前のヒバリの雛が、思わず浮かれて飛び立ちそうな天井知らずの青空だ。となると、今の雷雨は何だったのだ、と文句の一つも言いたくなる。
 草原に戻って来た連中が龍を遠巻きにした。多少の差はあれ、非難の気持が覗える目付きだ。
 竜の着地点はドードー鳥が逃げ込んだ岩陰のすぐ傍だった。遠巻きにされている本尊は龍なのだが、心ならずもその輪の中心近くにいる破目になってしまうと、自分までが遠巻きにされ非難されているようではなはだ居心地が悪い。
 おまけに遠巻きの輪は好奇心と非難で少しずつ小さくなって来る。龍が今どんな気持でいるか、ドードー鳥には良く理解出来た。
 その中でまず抗議の口火を切ったのはクアッガを後ろ盾にしたヒース・ヘンだった。
「あのさあ、もっと静かに降りてこられないの? いつも言ってるでしょう、こういうのは非常に困るんだって。それに第一、あんたは俺達の仲間じゃないんだから来て貰っちゃ困るな」
 羽毛を逆立て、声まで尖らせて文句を言う。
 彼はソウゲンライチョウの亜種で、こういう時以外でも何かと文句を言いたい性格だ。
「そうさ、だいたいね、非常識なんだよ、僕達の草原を壊すつもりか? 馬鹿力を持て余しているなら、もっとみんなの為になる事でもやったらどうだ?」
 とクアッガが鼻息荒く決め付けるが、当のクアッガが「みんなの為」なんて殊勝な考えを持っているかどうか、非常に怪しい。
 このクアッガ、一見するとアフリカの草原を走るシマウマのようだが、シマウマより縞が少ない変わったウマだ。
 雨で縞が流れてしまったのでは勿論なくて、もともと縞が少ない、言わばニセシマウマだ。シマウマを基準にすればそうなるが、クアッガを基準にするならばシマウマの方の縞が多すぎる。
「あいつらは俺達の格好がいいのを見て真似をしたのだ。俺達みたいに上半分くらいで止めときゃいいのに、ちょっと偏執狂じみた性格でさ、これでもか、これでもか、とやっているうちに全身派手な縞々になっちゃった、って訳。あれじゃ下品で、動く広告塔だよな」
 となってしまう。自分こそ中庸、適正であると信じて疑わぬ誇り高いウマだ。
 彼にとって過剰は禁物だから、過剰な雨も当然非難の対象となり得る。とは言うものの、「気に入らない」気持が先に出て来て、理由はいつも後からついて来る。
 一方龍の方は先頭蒸気機関車、接続貨車十両程もある、全身これ装甲車といったごつい見掛けのくせに、いかにもせつなげに身を捩って哀れっぽい。
 哀れっぽいけれど同情を誘うまでに至らないのは何と言っても大き過ぎるからと、妙な鱗粉のせいだ。
 鱗が擦れ合うたびに何ともかび臭い緑色の粉が舞い散ってくる。仮に鱗粉とは言うものの、華麗美装の蝶達のそれとは異なる性質のもので、どう見てもフケの一種のようで不潔っぽい。
 その緑の粉が肺に入ったら悪性の病気になりはしないか、と思う。悪性でないとしても気味が悪い。しかし当の龍は涙で目が曇っているものだから、皆が鼻を押さえていても一向に気が付かない。
「ねえねえ、お願いだから、仲間に入れて下さいよ」
 彼は益々激しく身をくねらせ、結果生臭い粉を撒き散らしながらクアッガの傍に蹕り寄るものだから、
「しっしっ、あっちへ行けったら! 来るんじゃない、しっしっ!」
 とまるで疫病扱いだ。クアッガは大慌てで跳び退り、勿論ヒース・ヘンも素早く身を翻す。
 この場面でも被害に会うのはやっぱりのろまなドードー鳥で、濡れた上に粉がべったり付着して臭いやら気味悪いやら。
 皆のいる方へ走ろうとしても気が焦っているから余計足が縺れ、罠に掛かって?いているような情けない格好になってしまう。?けば?く程べたついて気持が悪いの何の、蜘蛛の巣に突っ込んだ方がまだましだ。
 皆の視線が集中している。穴があったら入りたいくらい恥ずかしかった。

龍の悲しみ

 トルコ・ブルーの空を一羽の小鳥が横切って行った。その小鳥の目には草原の一角に突然ストーン・ヘイジが出現したように見えただろう。
 真ん中の大きな横倒しの石が龍、周りの点々を囲む石がクアッガ達だ。豪雨暴風の後に必ず見掛ける光景だ。
「俺はね、何が何でもあいつを仲間に入れるのは反対だよ」
 クアッガが癇症らしく前足で土を掻きながら言った。土を掻きながら油断なく龍を観察している。
 諦めて座り込んでしまったドードー鳥の位置からはクアッガが横目を使う様子がはっきり見えた。
 馬鹿にしながら恐れている目だ。もし龍がわっと襲って来たら一目散に逃げ出すに違いないのだが、決して襲っては来ないだろうと高を括っている目だ。大人しい相手には幾らでも居丈高になれる。
 龍は、と言えば、地上に降り、取りあえずのっぴきならぬ孤独感からは開放されたものの、いつもこれからが難関なのだ。
 なるべく巨体の威圧感を与えぬように、愛らしく見えるように、本人はトカゲになったみたいに恐縮している。時々体が小刻みに震えていた。また邪険に追い払われるのを心配している。
 その切ない気持はドードー鳥にも良く分かった。大きな生き物が体の大きさを恥じるように身を竦めている姿はどこか滑稽で可愛らしい。本当のところ、ドードー鳥はもうずっと前から龍に同情していた。
 仲間外れにされるのは寂しいに決まっている。一生懸命空の上で愛嬌を振り撒いていてもみて見ぬ振りをされ、それでは、と一大決心の末に降りて来ても誰も相手にしてくれないとしたらまるで幽霊扱いだ。もしドードー鳥自身がそんなふうに無視され続けたら、きっと痩せ細って本物の幽霊になってしまうだろう。
 駆け込み訴えたくなる気持は良く分る。しかし、龍が降りて来るたびに避難しなくてはならないとしたら、これは困る。仲間外れにされる原因の一つがこれだ。
 更にこれはかなり深刻な問題だが、龍ときたらどうしたものか、頭の先から尻尾まで、目を疑うくらい派手な蛍光ピンク色なのだ。
 エビを茹でたら赤くなる、という話はドードー鳥も知っているが、龍ときたら別段茹でられたわけでもなさそうなのにピンク色なのだ。ピンクの龍なんて、信じられぬ話ではなかろうか。
 自然界は美しい色彩で溢れている。温かい所ほど鳥も魚も獣も派手な色を身に纏う。いささか悪趣味と思われても自然の中では美しい。
 ところが龍の蛍光ピンク色はどこか胡散臭く、はっきり言って塗料の臭いがする。強持てする外見とちぐはぐで、不安と疑念を呼び起す。それは多分、ピンク色の龍なんて本当は存在しないからではないか。
 ではそもそも龍はどんな色であるべきなのか。聞かれても困るが、断じてピンク色ではない筈だ。誰もが疑っているのだから、クアッガにとってはなお更だ。
「いいかい、考えてもみろよ。龍なんてのは人間の想像が作り出したものなんだ。実際にはこの世に存在しない生き物なんだぜ。いや、生き物でもない、ただの絵、ただのお話さ。ましてや、こんな厭らしいピンク色の龍なんて絵やお話以下だよ。それをどうして俺達の仲間に入れてやらなきゃならないのさ。俺はあいつの存在なんて認めないよ」
 と断固認めぬ方針で、成る程理屈に適っているから頷かざるを得ない。
 正論を吐く時のクアッガは鼻腔がぴくぴく動いて得意満面だ。正論を楽しみ、かつ、身体が大きいくせに気が弱くて泣き虫の龍をからかって喜んでいる。
 実際クアッガの言葉を聞いた途端に金盥のような龍の目からは盛大な水漏れが始まっていた。涙脆いやつはそれだけでからかわれてしまう。
 龍が節くれだった大きな前足で顔を覆った。泣き顔を見て楽しむなんて、本当に悪い趣味だ、とドードー鳥は思ったが、彼にはクアッガに反論する勇気がない。
 集っている他の連中だって内心では気の毒だと思っているはずなのだ。誰か何とか言ってやってくれないものか、ドードー鳥がごくりと唾を飲んだ時だ。
「あら、またその話なの」
 のんびりした声がした。オーロックスがゆっくりと近付いて来た。
 彼女は肩高一・八m、体重一トンにもなる野生の牛だ。家畜牛の先祖に当る。
 母性愛に溢れ、しかも争い事が嫌いだから、誰かがいじめられているとつい口を挟みたくなる。当人はめったに怒らないが、怒らせたら怖い実力派でもある。
 彼女とてピンク色の龍は不自然だと思う。だいたい体が大きいと体色は地味になるものだ。既に体の大きさで優越しているのだから、それ以上目立つのは相手にとって二重の圧迫になる。
 うっとおしいからつい嫌味を言いたくなる。ピンク色の龍だって? へっ! とクアッガが言う気持も分る。しかしうっとしいからと言って龍自身の責任ではあるまい。
「いつもそんな事ばかり言って虐めるのは可哀相よ。お話だって何だっていいじゃないの。だって、ほら、現に龍は目の前に居て、私にははっきり見えるわ。私には見えるけど、あなたには見えない、って言い張るつもりなの、クアッガ?」
「それは……」
 クアッガが大袈裟に目を剥いたが、オーロックスは無視して言葉を続けた。
「みんなもよく見て頂戴な、金色の目玉はクアッガのあたまくらいあるし、四本の足ときたら大木の根っこみたい。ヒース・ヘンなんか鼻息一つで山の向こうまで飛ばされそうだし、ドードー鳥がまるで豆粒みたいにし小さく見えてくるじゃないの。そのまま潰されてしまったらどうしよう、ってみんなだってはらはらするでしょう? でも心配無用、あんなに泣いていたってドードー鳥を踏みつけたりしないように気を使っているんですもの。自分より小さな者を労わる優しい感情だって立派に持っているからだと思うわ。現実に目の前にいるんですもの、いい加減で認めてあげたらどうなの?」
 クアッガは一瞬怯んだようだ。思いがけず加勢を得た龍がゆらゆらと尻尾を揺すり始めた。
 この視野いっぱいの大きな生き物をいない、見えない、と言い張るのはクアッガでも難しいだろう、と思うとドードー鳥はクアッガにも少し同情した。目の錯覚で片付けるには存在感があり過ぎる相手だ。
 しかしクアッガにも意地がある。彼は正論の方向を転換した。
「じゃあ、百歩も千歩も譲って、龍はいる、ってことにしてもいいよ。でもあいつと僕達とじゃ立場が全然違うんだぜ」
 と今度は声の調子を下げ、しかも鼻声だ。
「俺達には辛く悲しい思い出があるんだぜ。みんなは人間がやって来るまでは大勢の中間達と楽しく暮していたんだ。それが、人間や人間の連れて来た家畜に追われ、殺され、食われ、一つの残らず死に絶えてしまったんだ。みんな、まさかもう忘れてしまった訳じゃないだろう? あんただって忘れちゃいない筈だよ。俺達はそういう辛く悲しい歴史を背負っているんだ。だから、そこのちゃらちゃらした得体の知れないやつなんかと俺達は全然違うのさ。はたから見たら立場が違うんだもの、仲間なんかに入れてやらないよ」
 鼻声ながらきっぱりと言った。これも正論だ。
 かつてクアッガというシマウマに似たウマがアフリカにいた、と書物は記している。ヨーロパには雄大な角を持った黒褐色の野生の牛、オーロックスが、アメリカにはヒース・ヘンやリョコウバトが、インド洋上のマスカリン諸島の三つの島には島ごとに色の違うドードー鳥が生きていた。
 リョコウバトが集団で空を飛ぶ時には太陽をも覆い隠したと言う。つまりそれ程数が多かったのだ。それが今、地球上のどこを捜しても彼等の姿はない。
 一九一四年九月一日、シンシナティ動物園でマーサと名付けられていたメスのリョコウバトが死んだ。その時リョコウバトの最後の一羽が死に、リョコウバトは地球上から姿を消した。
 マーサのように動物園で死んだ例は僅かで、他の者達はそれぞれの棲息地でひっそりと一羽で、一匹で死んで行った。
 オーロックスもクワッガもヒース・ヘンももうどこにもいない。彼等に会えるのは書物の中、或いは博物館の古びた標本だけだった。クアッガの云う通りだ。
 しんと静まり返り、誰もが深い溜息をついて涙を堪えた。ヒース・ヘンがわなわなと震えていた。クアッガでさえ自分の言葉に感極まってうっすらと涙を溜めていた程だ。
 オーロックスはクアッガの愚痴に内心うんざりしながらもじっと龍を見詰めていた。見れば見るほど変てこな生き物だ、と彼女も思う。変てこで、確かに胡散臭い。
 しかし、幾ら妙な生き物でも、それが悲しみに打ちひしがれていて良い筈はない。
「みんなを泣かすのはおやめなさいよ」
 彼女は軽く諌めた。
「では、こんなふうに考えてみてくれないかしら。龍もそもそもは人間の想像上の生き物かも知れないわね。本当のところは私達には分らないけど、でも、その同じ人間の勝手で忘れられて、今ではもうどこにも行き場がないのよ。忘れられ、滅びてしまった種族という立場は同じじゃないかしら。辛く悲しい思い出と言うなら、龍のことだって理解してあげて欲しいわ。あなたがどうしても嫌だと言っても私は認めてあげたいのよ。みんなだって分ってくれるでしょう?」
 口調は穏やかだが決意に満ちていた。
 他の者達だってもともと龍に敵意があるわけではない。ただきっかけが掴めなかっただけなのだから、オーロックスが認めると言うならそれで解決だ。
 異議なし、の声が挙がった。ドードー鳥も大急ぎで頷いた。
 クアッガのこめかみが激しく痙攣するのが見えた。龍を認めたくないが、さりとてオーロックスを怒らせたくない。二つの思いが忙しく交錯している。きっと奥歯をぐっと噛み締めているのだろう。
 クアッガが歯を食いしばるのを見るたびにドードー鳥は歯の及ぼす影響について考えてしまう。
 自己主張する限り、善しにつけ悪しきにつけ、時として歯を食いしばらなければならない場面に遭遇する。
 それは、歯があるから自己主張するのか、自己主張するが為に歯なるものが生じたのか、
歯こそは頑迷にして純粋な自己そのもののように思えて来る。
 食いしばるべき歯を持たぬ、従って常に大人しく後に控えて意見を傾聴している立場のドードー鳥は、クアッガが何か言い出すたびに彼のこめかみの辺りを窺ってしまうようになった。きっと他の誰よりもクアッガの奥歯は酷使されているのではないだろうか。
 クアッガに対してオーロックスの執り成しはどれくらい効果があったのだろう。頑迷なやつを改心させるのは難しい。多分、龍を認めたのではなく、オーロックスの顔を立ててやったつもりだ。
「じゃあね、これは例外。例外中の例外だよ。後にも先にもこれっきりだからね」
 最後まで審判官みたいに力んでいたのがやっと折れ、晴れて龍も仲間入りだ。その代わり今後は許可なくして大雨を降らすな、と釘を刺された。
 そして、何はともあれその日以来、龍が天地を行き来しても以前のような天変地異に遭わずに済むようになった。多少小雨がぱらつくが、それは何しろ龍と水の関係だから致し方ないようだ。

なぜ龍はピンク色なのか

 胡散臭いのは始めの内だけで、いざ仲間入りを果たして見慣れてしまえば気にならなくなる。
 陸海空を往来自由の龍はドードー鳥から見れば完璧な生き物だ。おまけに力だってありそうだ。泳げず飛べず、陸でもよちよち歩きが精一杯の彼には何から何まで羨ましい存在だ。
 しかしその彼等と言えども、祖先がマスカリン諸島に辿り着いた頃には立派に空を飛んでいた筈だった。それが穏やかな暮らしが続く中で飛翔力を失い、シチメンチョウ程も太って、不恰好な飛べないハトになってしまった。
 もし飛べたら、もし泳げたら、せめてもっと速く走れたら絶滅の淵に突き落とされずに済んだのかも知れない。デブで愚図で反撃の武器を持たない彼等を人間が殺して歩くのは簡単なことだっただろう。
 もともと繁殖力の弱い鳥達が島からすっかり姿を消してしまうのには百年で充分だった。殺される側にとっては、あっと言う間の百年だった。
 龍は毎朝誰よりも早く草原にやって来て誰かが通りかかるのを待ち構えている。朝の眩い光の中で首をきっと上げ、とぐろを巻いている姿はなかなかどうして立派なものだ。
「おはようございます、ドードー鳥さん!」
 竜がうきうきと弾んだ親しげな声で呼びかけた。動くものが現われたら真先に声を掛けようと目を皿のようにしていたのだから草の陰から興味津々の顔を覗かせているドードー鳥に気が付かぬ訳がない。しかもきっかけさえあれば友達になってくれそうな様子が丸っこい体全部に溢れている。
「おはよう、龍さん。早起きなんだね」
 龍が予想した通り、ドードー鳥は草を掻き分けて恥ずかしそうに答えた。何て愛らしい姿だろう、ころころ太って、見るからに温和そうだ、と龍は思った。
「そうです、私が一番の早起きなんですよ。今日は誰に会えるのかな、と思うと嬉しくて嬉しくて、お日様が昇って来るのが待ち遠しい程です。本当はね、昨日の夜からずっと寝ないでここにいるんですよ。きっと馬鹿みたい、って思われるでしょうね?」
 龍は自分を見上げているドードー鳥に向かってにっこり笑いかけた。
「そんな、とんでもないよ」
 ドードー鳥は慌てて首を振った。龍ほどの生き物になれば夜目も利くし暗闇を恐れない。それがまた羨ましい。自分はちっぽけで何の取り柄もないのだ。
 空を飛べたらどんないいいだろう。もし飛ぶ鳥であったら安全で静かな場所に逃げて行けるだろうし、速く走れたら殴り殺されるまでじっとしてはいなかっただろう。泳げたなら難を逃れていたかも知れない。
 「もし」を山ほど積み重ねても現実にはならないし、過去が変わるのでもないと知っているが、だから諦めよ、と言われても納得出来るだろうか。
 ドードー鳥は諦めたくなかった。その為に毎朝早起きして走る練習をしている。すぐ息が切れ、足はがくがくし、いっそ転がって行った方が余程速そうだが、何もしないでくよくよしているよりずっと気が休まる。
 とは言うものの、こうして全能の生き物を目の前にすると、総ての可能性が大きな音と共に閉じ込められたような気がした。
 竜には時として相手の心を読み取る能力がある。言うと気味悪がられるので内緒にしているのだが、目の動きや首の振り方で大体察しがつく。
 ドードー鳥は比較をしているのだ、と分った。羨望の目と自信なさそうにがっくり下がった肩。肩の丸みが寂しげだ。憧れの目で見てくれるのは嬉しいが、龍だって実は欠点だらけだ。
「それが、でも、あなたの思う程でもないのですよ」
 龍は金色の目をぱちぱちさせながらドードー鳥の思考の中に割って入った。
「何で? 君は、だってとっても大きくて立派じゃないか」
 考えを読み取られた事に気付かぬままドードー鳥は不思議そうな顔をして言った。
 竜にかかっては恐ろしいものはなにもないように思える。
 龍は折り曲げていた四本の足をがさごそ動かし、次に蛍光ピンク色の翼を広げて見せた。彼にも色々と事情がある。
 第一に足が問題だった。なまじ四本ある足は前と後でかなり離れているので歩きにくく、いつも腹を擦ってしまう。かと言って蛇行するには邪魔になり、何だかひどく不便で格好が悪い。
 翼も、本当は小さ過ぎた。理屈では飛べる訳がない。彼ほどの重量の巨体を浮遊させるには大テント並みの翼が必要だが、それにしては申し訳程度で、人間が彼を「かくある」と勝手に想像したお陰で、実際の彼としては、もう気力で飛んでいるようなものだ。
 飛ぶ筈であるから飛んでいるものの、本当は飛べないのではないか、と思いながら飛ぶのはスリル満点だ。雲を呼び嵐を起こして飛ぶと言われてもあまりに漠然としている。
 その上人間は水中に於ける生態まで詳しくは考えてくれなかった。皮膚呼吸なのか鰓呼吸なのか、はたまた酸素など必要としないのか。
 外見だってかなりめちゃくちゃで、何かと何かの継ぎ接ぎだから、中身何てものは混沌が渦巻いている。
 ドードー鳥は淡々とした龍の言葉と諦めきった目の色で彼の悲しみを感じることが出来た。つまり、うまい具合なんてのはごく稀だ。
「人間は私を完全なものには作ってくれなかったのですよ。最後に私の絵を書いてくれた人間は小さな女の子で、ピンク色が好きだったんです。お絵かきソフトで私を書いたんですって。ねえ、可笑しな話じゃありませんか?」
 地面まで届いた長い二本の髭の先が微かに震えていた。
「だから、そんなふうに羨ましそうに見ないで下さい。私は本当に卑しくつまらないものですから。クアッガさんの言うように、私はただの絵、ただのお話の中でしか生きて行けなかったのですから」
 龍こそが望み得る最上の生き物だ、と思っていたドードー鳥は期待を裏切られてがっかりした。
 でもがっかりした分、親しみを感じた。もし期待通りだったとしたら尊敬はしても親しみなど感じなかっただろう。
 お尻の下に石ころがないのを確かめてから腰を下ろすと、龍の髭がおずおずと伸びて来て彼の首筋をくすぐった。見た目より柔らかな髭だった。

⑵ へ続く

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