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六道説話 【夢幻界域】

阿佐野桂子


【地獄】

燃え盛る炎の中で苦しい、痛い、自分だけは見逃してくれ、と亡者は叫ぶ。最早叫ぶ気力も失せて茫然自失し、目の焦点も合わずにへたり込んでいる者もいる。
 自分だけは見逃してくれ等とほざいている連中は地獄の沙汰も金次第、と思っていたか、未だに罪を自覚していない連中だろう。
 そもそもなぜ自分が地獄に堕とされたのか未だに理解していない。燃え盛る炎は自ら招いた業火であり、消すことが出来るとしたら己自身だ。未だに脱出した者はいない。
 筋肉隆々、赤金色の異形の獄卒が亡者を駆り立てる、ここは八熱地獄の一つだ。どんなに許しを請おうが泣き喚こうが、生前慈悲の心を持たなかった輩は慈悲に与ることは出来ない。
 溶けた鉄を無理やり飲まされる、四肢を分断されて獣に投げ与えられる、生きたまま腑分けをされる。針の山を登らされる、血の池に突き落とされる、両側の山が迫って来てぺしゃりと押し潰される、衆生を導く為に創作された地獄図が活劇としてまさにここにある。
 悍ましい光景に卒倒しそうだが、ここでは気が狂うことさえ許されない。何度も死に、生き返り、苦しみを味わう。
 人を殺してはいけない、人の物を盗んではいけない、嘘をついてはいけない、と言う在家五戒の最低限の三つの戒めをなぜか守れない人間が存在するのだろうか。
 石ころはそこにあるだけで人を転ばす意図で存在している訳ではない。不注意な人間がたまたま躓いて怪我をするかも知れないだけで、石に罪はない。
 ところが人間は正義だの宗教だの民族浄化だの、もっと極端な例では殺したいから殺した、などと言ってのける。
 戦争も領土だの資源だの本当はどうでも良くて、ただ殺し合いがしてみたいからやっているだけかも知れない。殺せ、と命じる側は楽しそうだ。実際に殺し合いをさせられる側だけが損をする。
 生き物を殺して目を輝かしている輩は気持ちが悪い。自分とて同じ目に合うのに目をぎらつかせて見物している。そしていざ自分の番になると最大歓喜の表情を浮かべる。果たしてこれで懲罰と言えるのか。
 自己破壊願望と殺人が紙一重の連中にとってここは永遠の楽園か。
 地獄には孤地獄と呼ぶ場所がある。自分以外生命が存在しない、霧に覆われた荒涼たる地獄だ。亡者は殺す相手を探して徘徊し続けるが欲が満たされる事はない。孤地獄向きの亡者がたまたま紛れ込んでいる事がある。
 いなくなると孤地獄送りになったのだろう、とほっとする。血反吐を吐いて泣き喚きながら命乞いをする、それでこそ反省の余地があるというもので、獄卒にさえ忌避される輩がいるのは嘆かわしい事だ。
「俺達の存在は何だ、という議論があったそうだな。つまり獄卒は犬や猫のように実体を持っているのか、亡者の業が生み出した幻影に過ぎない、という論争だ」
 その論争、どんな結論に至ったのか興味が湧くが、「ああはなりたくない」と内心思う事はある。獄卒達はたとえ衆生の業力で生み出されたとしても拷問の為の機械ではない。
 ひとたび発せられた業力は磁石に吸い寄せられる蹉跌の如く集まり、蠢き始める。それはそう、宇宙の生成そのものだ。
「つまりこうさ。ここにいる亡者達のようにはなりたくない、そういう思いを持って次に生まれて来る準備をしているのではないか?」
 大変魅力的な案に感じられる。永劫と言われる地獄にも終りはある。宇宙は空劫、成劫、住劫、壊劫、を繰り返す。実体があろうが、亡者の妄想であろうが、どちらでも構わない。悪しき例が目の前にいるのだから学ばせて頂くだけだ。
 少なくとも前者の轍は踏まない。とは言え、次の世で人間が今と同じ姿をしているのかどうか分からないし、生き残る為に殺人と略奪が当たり前の世界に生まれてしまったらあまり綺麗ごとばかり言っていられないのだろうな、と想像すると少しばかり気が重い。
 熱くて陰惨な地獄だが遥か上空は本日も上天気だ。清涼な風が吹き、憂いがない世界が広がっているに違いない。いつか、辿り着きたい。精一杯深呼吸がしたい。まずはそこからだ。

【餓鬼】

「まったく人間とはおろかな者であるよのう」
 深編笠で顔を隠した僧は忌々し気に呟いた。
今日もきょうとて一人、二人と来て彼の庵に握り飯や大根、菜っ葉等を置いて行く。
 おまけに、これが一番気に障るのだが、老婆が自分の孫を是非従者に、と置いて行ったのだ。その孫、名前は聞いたがすぐ忘れた。
やっと八歳になったくらいの童子である。従者に? 何を体裁の良い言葉を吐くものか。ただの口減らしに過ぎぬであろう。
 しかもこの童子、やたらと気が回る奴で、庵のお掃除を致しましょうだの、破れ障子を張り替えておきましょうの、朝餉・夕餉今日は何に致しましょう、と煩い。先日などは袈裟の解れをお直し致しましょう、とまで言い出した。
 口減らしに出されたくらいだから体は枯枝の如く痩せ細ってはいるが大きな目をくりくりと動かして先へ先へと面倒を見たがる。然るべき所に預けたら一角の人物になるであろうと思わせる利発な童子である。袈裟に染み付いた死穢の臭いにも健気に耐えているし、僧が一日中決して深編笠を取ろうとしない事にも疑いを抱いている様子がない。童子が動いただけで爽やかな風が起こり、微かに花の香りさえ感じられる。破れた袈裟はいつの間にか白い布で繕ってある。食は夜のみと答えると童子は素直に頷いた。
 迷惑だ、と僧は思った。自分は一人でいたい、いや一人で居るべきなのである。
 そもそも世間がこの僧を大徳の人と決め付けたのには訳がある。僧は天災・人災で多くの人が死ぬと逸速く駆け付けて死者を弔った。深編笠で顔を隠しているが、いや顔が見えぬからこそ崇敬の念が募ったのであろうが、僧はいつの間にか高僧に祭り上げられた。
 大量の屍を目の当たりにして呆然としている人々にとって、額に梵字を書いた後に地蔵菩薩の真言を唱えながら土葬して歩く僧の姿は正に生ける菩薩であった。どこぞの山の名僧と呼ばれる人物に相違ない、と人々は勝手に信じた。故の寄進である。しかしそれでは腹が膨れぬ。
 夜、童子が眠りについたのを確かめると僧はぞろりと起き上がり、自分が埋めた屍の元へ向かう。土を掘り起こして屍をがつがつと喰らう。これが唯一の飢えを宥める手段である。その時の僧の姿は青白くぼうと燃え上がり、生者が見たら腰を抜かしていただろう。
 屍は新鮮であればある程良い。従って僧は多くの人が死んだ時、真先に駆け付ける。梵字も真言も体裁に過ぎない。速く夜になれ速く夜になれ、と念じながら屍を埋葬する。いや、埋葬するのさえ面倒で、その場でかぶりつきたいくらいなのだが人目がある内はそれも叶わない。
 僧は驚くべき速さで四肢を引き千切っては屍を喰らい尽くした。が、首だけはどうも頂けない。自分で書いておきながら額に書いた盆字が疎ましく喰う気になれない。それに心なしか死肉の味も以前とは違っているような気がする。死穢を渡り歩いて来た筈なのに近頃は死の臭いが少しも好ましいものには思えなくなって来ている。
 この白い布で繕った滑稽な袈裟のせいだろうか。考えてみれば、あの童子が来た日から常とは異なるものが纏わり付いたような気がする。あの童子、やはり追い払わなくてはなるまい。
 最後の一片を咽喉に流し込んだ時、お師匠様、と自分を呼ぶ声を聴いた僧は跳び上がらんばかりに驚いた。しまった、見られたか。なら殺すしかあるまいが、屍を喰う事は出来ても殺生までは出来ない。お師匠様、と又声がした。小さな足音が近付いて来る。
「近寄るな。私はおまえの師匠などではない」
 僧は声を震わせて答えた。屍を喰っているのを見ながら吾身に近付いて来る童子が恐ろしい。もしや仲間か。
「お師匠様、いえ、疾(しっ)行(こう)殿、私はあなたの仲間ではありませんよ」
 僧はもはや体中の震えを抑える事が出来なかった。疾行、それは確かに己の名である。僧の身でありながら貧者への施しを怠り遊興に耽り、死後墓地を荒らして屍を喰い、大量の死者が出た時は真先に駆け付ける。その名を呼べる童子は何者か。
「疾行殿、餓鬼道に堕ちたとは言え、あなたは地蔵菩薩様の梵字と真言で死者を送りました。心根を哀れと思われた菩薩様が私をあなたの元へ使わされたのです」
 死穢に汚れた黒染の衣を童子が総て白い布で繕い終えた時、それが何年先か何万年先か分らぬが疾行の業尽きて転生出来ると言う。
 疾行殿、と童子はまだあどけなさの残る顔を向けて微笑んだ。
「これから先も私をお供にお連れ下さいますか」
 疾行は頷いたような気がした。いやそれとも泣いていたのか。
 夜が明け、骨を埋め戻す時が迫っていた。

【畜生】

 玉虫厨子に描かれた清らかな青年の捨身飼虎図には宗教に無関心な人々の心をも打ち、求道の志篤い現身の菩薩の紅涙を絞って止まぬであろうが、厨子の絵の中に永遠に封じ込められた猛虎にとっては、その出来事は最初から最後まで不愉快極まりないものであった。
 第一、彼は飢えた子持の虎なんぞでなく、只の老いぼれた虎、虎である一生を可もなく不可もなく過ごし、正に死神の手に自身を委ねるべく、深い谷底に死に場所を求めて隠れ潜んでいる所であったのだ。
 小山のように張り切り、動かす度にこりこりと小気味良い音をたてた筋肉も今やすっかり失せていたし、一昼夜を疾走し続けてもなお疲れを知らなかった四肢も体を支えるだけが精一杯といったところ。小石にさえ躓いて、彼の老体に掠り傷の追い討ちをかける始末である。
 総てが可能であると思われた輝かしい青春を思い出せば今の老いさらばえた残骸に歯軋りの一つも出ようというものだが、黄色く変色した左の牙一本を残して歯は粗方落ちてしまっていたから、歯軋りの仕様もない。
 それに彼は賢明な虎であったから、年相応の分別は出来上がっていて、生あるものは必ず滅すの道理を弁え、今更過ぎてしまった年月を惜しむという気も起こさなかった。
 幾代となく続いて来た彼の種族がそうであったように、彼もまたひっそりと身を隠し、やがてやって来る確実な死に自身を委ねるのみであった。
群生する笹の葉を透かして見る青白い月は恐ろしくもまた凄絶の美を感じさせ、彼の生の終焉には誠に相応しいもののように思われた。物の形さえ定かに判別し難い程に霞んでしまった目を静かに閉じ、前脚に顎を載せてじっと蹲ってさえいれば、そこで彼の生涯は幕を閉じる筈であったし、彼もそのことに些かの疑問も抱かなかった。
 ところが、である。後世経典に伝える如く彼の可もなく不可もなしの生涯に最後の決定打を与えるべく、一人の青年がこんな山奥くんだりまでうろうろ迷って来た訳なのである。おまけに眉目秀麗、汚泥にも染まらぬ白蓮の如き青年、などでは決してなく、ぶよぶよと酒太りし、臭い息をした青膨れの放蕩息子ときている。親の持ち金に飽かせた飲む・打つ・買うの三道楽にもゲップが出る程飽きてしまい、今や彼の濁り切った心をときめかす何物もなく、退屈しきってふらふらと、瀕死の老虎の邪魔をしにやって来たのである。
 老虎はもう後は死への数を忠実に数えるのみであり、穏やかな、優しいと言って良い程の心境にあったから、前脚に載せていた頭を上げて一度チラリと青年を見ただけであったが、それにしても、疲れきった体をべたべたした脂手で撫で回され、臭い息を吹きかけられるのには閉口してしまった。
「お願いだから、あっちへ行ってくれないか」
 老虎は静かにそう言おうとしたのであった。しかし如何せん歯が抜けてしまっていたから発音も思うに任せない。
 ふにゃふにゃと口を動かした老虎を見て、この無神経が衣を着て横に転がって歩いているような青年はいよいよ図に乗ったと見え、耳を引っ張るやら鼻先をぱちんと弾くやら、迷惑このうえない
 ここで老虎が少しばかり腹を立てたとしても許されるべきではあるまいか。臨終間際の老人の枕元で床を踏み鳴らすような真似をする輩が老人の咳に驚いて躓きひっくり返ったとしても同情するには当たらない。
 そしてそのように、老虎はほんの軽く前脚を上げ、この煩い青年に威嚇してみただけなのであるが、元来この青年、他人には無神経なくせに自分の生命には捨て難い愛着を有し、是が非でもしがみ付きたい方だったから、瀕死の老虎の少しばかりの反撃に肝を潰して鉄砲弾のように谷を駆け上がり、そしてその時よりももっと素晴らしいスピードで転落したと言う訳なのである。
 老虎も昔、人間を喰わぬでもなかった。確かに、二、三人喰った記憶もあった。しかしそれは喰ったというよりも、正確に言えば、彼を射殺そうとした屈強な猟師とお互い勇者としての礼儀を尽くして戦い、咽喉笛に喰らいついた時についでに血と肉がぬるりと口の中に入って来ただけなので、喰ったと言うには及ばぬであろう。不可抗力と言うものであって、決して食人が目当てでしたことではなかった。
 故に、今度も老虎は目の前に落下して四肢散乱し脳味噌飛び散った青年に少しも食欲など感じなかった。むしろ己の死に場所を汚されてむっとしたくらいである。が、彼の死期はもう目の前であり、今更移動することも叶わなかった。
 月は既に山陰に没し、金の矢を番えた日輪が朝靄をじりじりと侵食し始めている。樹上を小鳥達が飛び交う気配が老虎の元まで伝わってきた。
 血塗れの肉塊と化した酒むくれの青年が実は心優しい菩薩であって老虎に己の肉体を奉げようとしたのであっても、また、老虎がすさまじい喜びの咆哮と共に肉塊を喰らい尽くした、と言うのが真実であったしても、死にゆく老虎にはもう何ら関係のないことである。迫り来る死のみが確実なものであった。
 どんな愚行をも美談に捏造し得る暗い情熱を滾らせた善良な人々の足音が遠くから津波のように押し寄せようとしていたが、しかしそれが老虎にとって何であろう。
 人生に飽き飽きし、しかも自殺する気力も持ち合わせぬ放蕩息子の茶番劇にうっかり乗せられてしまったような多少の不愉快さが残るとは言え、死のみは何者も偽りはしない。この世に於いて最後の、小さく慎ましい息を吐き終えた後、再び目を覚まし、金色燦然たる菩薩に生まれ変わっていたとしても、今の当虎には驚くには当たらない。

【修羅】

 白く張り詰めた凍土の丘に阿修羅王は立っていた。暗灰色の空には幾条ものオーロラがはためき、眼下の凍土には雪煙を上げて多くの者達の気配が殺気を込めて荒々しく蠢いている。
 帝釈天と戦いを始めたのはいつの事であったのか、もう阿修羅王は思い出せない。何十劫という気が遠くなるような昔であったのか、それとも数百年、いや、昨日であったのかも知れぬ。乾脱婆王の美しい一人娘が天上の池で水を汲んでいるのを垣間見た日から、時は虚空を舞う雪のように音もなく降り積もり、重さを増して行った。
 乾脱婆王の娘、きららかな瞳と花びらのような赤い唇を持った麗しい乙女を王は彼に与えることを拒絶し、傷付けられた彼は一度は諦めながらも思い切れず、輩下の魔軍を率いて王に戦いを挑んだ。王は転輪王に助けを求め、転輪王は帝釈天に阿修羅王の討伐を命じた。そしてそれからいったいどれ程の時が過ぎたというのであろう。あの乙女の名は何であったか。彼女の姿さえ朧気なものとなり、思い出すことさえ出来ないというのに。
 決して負けることのない帝釈天の精鋭の兵との絶望的な戦いはいったい何の為であろう。
まだ幼さの残る顔に阿修羅王は泣き出す前の子供のような微かな笑いを浮かべる。彼にも今となっては答えることの出来ぬ問いであった。ただ果て知れぬ戦いがあり、続いていた。傷付けられた誇りが彼を掻き立てていた。
 矢を番え引き絞る天の精兵、その矢に胸を射抜かれてどうと倒れ伏す三面六臂の魔軍の若者、雪煙が巻き起こり静まれば死んだ兵は再び生き返り、なおも激烈な戦いへととび込んで行く。雪原は血で朱に染まり、むっとした臭気が阿修羅王の鼻腔を満たし、彼は顔を背ける。が、一陣の風が吹いて凍土を一舐めすると、切り落とされた四肢も、流れ落ちる血も忽然と消え失せ、また新たな戦いが繰り返されて行く。決して負けることもない永劫の戦いであった。
 阿修羅王は知っていたような気がする。この眼下の凄絶な戦いも、一度彼が目を閉じればどこにも無かった。帝釈天の哄笑も聞こえてはこなかった。天の精兵も、阿修羅の魔軍も存在してはいなかった。刀の煌きは頭上ではためくオーロラの光、兵が倒れ伏すと見えたのは雪原に巻き起こる嵐に過ぎないことを。
 阿修羅王は眉を顰めて目を閉じる。微風が彼の若い頬を掠め、オーロラは微妙にその色を変えながら彼の頭上ではためいた。
「阿修羅王よ」
 突然阿修羅王の胸に微かな声が流れ込んだ。
「なぜ帝釈天と争う」
 頭上にはためくオーロラのその遥か彼方から深い悲しみを湛えた声が彼を満たしていた。
「阿修羅王よ、お前は知っているのだ。東の丘の果て、三牙白象に乗り金剛杵を持ってお前を滅ぼそうとする帝釈天や天の精兵、お前の魔軍、それは総てお前の胸の内の影に過ぎないことを」
 阿修羅王は体を揺す振られるような戦きに捉えられて目を開けた。雪原はどこまでも静かに広がり、甲冑の擦れ合う音を響かせて蠢く者達の気配も今はない。
 悲しみが、対象のない惨めな淋しさと共に彼を覆った。重く静かな声は長い沈黙の後、青い光のように再び阿修羅王を満たした。
「お前は一人の乙女を見たと言う。乾脱婆、帝釈天を見たと言う。しかしそれら総ては一つの相にしか過ぎないのだ。ご覧、この果てしない戦いも畢竟お前の心から生まれた影でしかないことを。そしてお前さえ、様々な変相の一つの現われに過ぎないのだ」
 気が付いてみると、帝釈天も、天の精兵も、彼の強大な魔軍も消え失せていた。
「まて、お前は何者だ?」
 遠ざかって行こうとする声に叫んだ。答えはなかったが、丘の上に、自分そっくり違わぬ三面六臂の若者が眉を顰めて立っているのを彼は見たような気がする。二本の腕で琴をかき鳴らし、二本の腕に血に塗れた武器を握り締め、二本の腕で何者かに向かって合掌しているもう一人の阿修羅王を、彼は見たと思った。
 若者の憂いを籠めた瞳の中で乙女が、帝釈天が、兵達が、阿修羅王の姿が現われては遠ざかった。
 しかし阿修羅王にはその若者が誰なのか、もう分らない。阿修羅王も雪原も若者の姿も白熱する渦状星雲に飲み込まれ、虚空の中に琴の音だけが長く長く響いている。

【人】

 知らねば良かったと思える事柄が幾つかある、と知ったのはたった半月前である。その日から眠れぬ夜を過ごして来た。母に似て美しい若者に育った若い王の唇は今では血の気を失って皮が捲れ、三日月の弧を描いた細眉も顰められたままである。知らなければ良かった事を囁いたのは常に耳に快い言葉を吐いてくれる友であった。
 小指を折った為に波羅留枝(ばらるし)という渾名で呼ばれていた彼は、常々その骨折の理由は、小さな頃掴まり立ちをしようとした時に骨折したと聞かされていたのだが、父母が謀って高殿から産み落とした為だ、と聞かされたのである。
 若い王は驚いた。子を生み落とすとは良く聞く言葉ではあるが、まさか本当に落とすとは。俄には信じ難い話であった。
「なぜ父上と母上はそのような事を」
 若い王の声は掠れていた。
「それはですね、阿闍(あじゃ)世(せ)王よ。父上も母上も貴方が生まれるのを恐れていらしたからです」
 文武両道に秀でているとは言え、多分に幸せ呆けしている友に内心嫉妬していた提波達(だいばだっ)多(た)はここぞとばかりに友の出生の秘密を語って聞かせた。なぜ彼が秘密を知っていたかと言えば、そこそこの神通力によって過去を見通す力があったからだ。
 彼の話によれば父王と夫人は仲の良い夫婦であった。しかし一向に子を授かる気配なく、年と共に夫人の焦りは募るばかり。そのような折り、或る日父王が狩りに出掛けたのだが獲物は一つも無かった。
「狩りの不首尾などままある事ですが、その日の父王は常に無く気が立っておいでだったのでございましょう。丁度その時見掛けたのが一人の仙人でございます」
 王族の狩場をふらついていた仙人の気配が獲物を追い払ってしまったのだ、と決め付けた父王は従者に命じて仙人を激しく打たせて追放した。これを深く根に持った仙人は、三年後に自分は死ぬ運命であるが、その時には夫人の腹に転生してこの恨みを晴らす、と呪いの字言葉を残して姿を消した。
「その日から三年目、母上のお腹に宿ったのが貴方様でございます」
 父王と夫人は仙人の言葉を思い出して心を痛めた。やっと授かった子ではあるが、恨みを齎す為に生まれて来る子を愛育出来ようか。かくしていよいよ生みの苦しみが始まった時、夫人はわざわざ高殿に登って出産した。赤子は命を失う事はなかったが、小指の骨折はその時のものである。
 若い王の顔が見る見る蒼ざめて行くのを伏した目の隅に捉えながら提婆達多は密かにほくそ笑んだ。
「つまり、貴方様は一度殺されかけていたのでございます。親が生まれて来る子に殺意を抱くなど、あってはならぬ事でございましょう」
 暫しの茫然自失に陥った青年がやがて父王を牢に幽閉した。慈しみを受けて育ったと信じていた者にとって両親が自分を殺そうと考えていたとは正に晴天の霹靂であり、とうてい許す気にはなれない。自分を見つめる父と母の笑顔は仮面であったのか。
 幽閉され食を与えられなかった父王は当然ながら衰弱して行った。見かねた夫人が吾身に蜜を塗って牢に赴き夫に与え続けたが、それだけで人が生き続ける訳もなく、父王は餓死し、更に夫人の行いを知った若い王は夫人をも幽閉したのである。
 父王を幽閉し始めた頃からであろうか、若い王の体は熱病に冒され体中に吹き出物が出来、腫れて膿を持ち、誰も近寄れぬ程の臭気を発し始めたのである。
 心も乱れ体も蝕まれた若い王には既に執政に携わる余裕などなかったが、これを賢明に支えたのが六人の大臣であった。彼等は各々が師事する師の助言をうけるよう懇願したが若い王はこれを悉く退けた。
 未生怨という言葉をご存知か、と言った提婆達多の言葉が忘れられない。生まれて来る前から親への恨みを抱いて、阿闍世は生まれて来た、と言うのだ。だとすればこれが己の運命か。
 しかし、と若い王は思う。人というものは弱いものである。呪ってやると言われれば怯え、いとも簡単に操られる。そして同様に自分も今、地獄へ堕ちぬかと怯えている。子殺しを謀ったとは言え父王は正真正銘我が父だ。一時の激情に駆られて父王に取り返しのつかぬ事をしてしまった、その慙愧の念が心ばかりか体まで蝕んでいる。
 このまま腐り果てて死ぬのも悪くない。子殺しを謀った父王を殺してやがて己も死ぬ。何たる悲劇、いやこれは喜劇か。
 若い王は爛れて膿に覆われた手を玉座の肘掛に置いたまま声を挙げて笑い転げた。父母も己も結局は愚人に過ぎなかった。それが無性に悲しい。

【天】

「あのお方はお生まれになっただろうか」
 老いた目になお強靭な意志と柔和な光を湛えながら帝釈天は足下に控えた天人に今日もまた聞かずにはいられなかった。
「あのお方はいつお生まれになるのであろう」
 十の尊号を持たれるあのお方だけが武力よりなお輝かしい智慧をもってこの永劫の時を断ち切る事が出来るのであった。しかし既に五衰の徴候を漂わせ始めた天人は悲しげに首を振るばかりである。
 老いたのは帝釈天や天人ばかりではなかった。度重なる阿修羅軍の猛攻を受け、喜見城の荒廃の相は覆うべくもなかった。七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・瑪瑙、玻璃ありとあらゆる宝物が地を埋め尽くし、無数の幢旛がはためき、妙なる香りで満ちていた天上の宝城、喜見城の栄光はどこに行ってしまったのであろう。巨大なエンタシスの柱は真っ二つに折られ、幢旛は引き千切られた半身を折からの強風に狂ったように翻っている。宝物で光り輝き、そこを歩む者の顔まで明るく映し出した地は兵達の足で踏み荒らされ見る影も無い。黄砂が舞い上がり、喜見城の端から端まで音を立てて流れた。
 不敗を誇る天の精兵をもってしても雌雄を決し得ぬ強大な阿修羅の魔軍。漆黒の髪を靡かせ、不死鳥の如く蘇っては戦いを挑んで来る三面六臂の阿修羅軍の軍勢に天の精兵は良く戦ったが、阿修羅の軍勢は若く、しかも尽きる事がない。死してはまた蘇り侵入を繰り返す軍勢を相手に、天の精兵はどれ程の時を戦って来たであろう。精鋭を誇る兵の体にも既に疲労の色が濃く現われ始めていた。
 毎月の三斎日に四天王・太子・侍者に四天万民の善悪邪正を探らせていた、その事ももう長く途絶えてしまっている。金色の羽を持つ鳥が樹上を唄いながら舞い、天頂から華々が雨の如く降り注ぎ、その下で盃を酌み交わして宴に興じたのも、もう遥か昔の事のように思われる。三牙の白象に座した帝釈天は深い溜息をついた。
 荒廃の風がまた黄砂をさらさらと吹流し、千切れた幢旗を翻した。
「あの若者は今、何を思っているのであろう」
 右手の三鈷杵を初めて見る物のように眺めながら、帝釈天はふと思った。
 まだ幼さの残る顔に青白い怒りの表情を滾らせ、透き通るような声で一言、阿修羅王と名乗ったあの若者を、この果てしない戦いに駆り立てっているのはいったい何であるのか。阿修羅王にとっても苦渋に満ちた戦いに違いなかった。しかし帝釈天には分らなかった。ただのめり込むような疲労が彼を覆っていた。
 果ての無い、しかも決して勝つこともなく負けることも無く時を食い尽くしていく戦いが老いた彼の心を暗くした。
 三牙の白象が彼の心を察してか、静かに首を廻らせ、穏やかな瞳を向けた。
「白象よ、おまえには耐え得るか。耐え得る心を持つというのか」
 帝釈天は呟いてみたが、勿論白象が答える術をもないことは分っていた。
 昨日、喜見城の城外まで駆逐した阿修羅軍勢も今日は兵を立て直し侵略の機会を窺っているであろう。神出鬼没の魔軍の兵士は、あの阿修羅王と名乗った若者と瓜二つの顔に、泣き出す寸前のように眉を顰め、赤い唇を歪めていた。その表情が帝釈天の心を打った時もあったが、しかし戦わねばならなかった。
銀色に輝く甲冑で身を固めた天の兵達が幾百も通り過ぎて消えて行った。
 遥か彼方で阿修羅の兵の挙げる鬨の声が響き、地は激しく振動を繰り返した。また戦闘が開かれるのであろうか。
 純白な曼陀羅華の花弁が、荒廃した喜見城の空間を一片舞ったような気がする。
 老いた帝釈天は一瞬身を乗り出して目を瞬かせるが、儚い望みが垣間見せた幻であったのであろうか。
 世に並ぶ者なき聖なる者、生滅の緒を断ち切る勇者、あのお方の誕生と共に自然と奏されるという妙なる楽の音も聞こえては来ない。
この果てしない戦い。暗黒の流転。
「あの方はいつお生まれになるのであろう。のう、お前は答えてはくれぬのか」
 帝釈天は老いた目に微かな涙を光らせながら幾万回となく発した問いを再び天人に投げかけるが、天人は更に深く深く身を折るばかりである。
 四億という永い時が既に過ぎ去り、四億一日目の朝が、喜見城を赤く染めて、今始まろうとしていた。
          

                 (完)

あとがき

この作品は作者が22歳の頃に書いたものです。
仏の道を模索しておりました。


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