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オリジナル長編ホラー小説【幽霊のかえる場所】 第一章

【ご挨拶】

2024年、時代的にもう先もないと思われるので書き溜めた未発表作品をぼちぼち配信して行きたいと思います。作品は沢山ありますがいずれも何処にも発表していません。40年間の集大成とも勝手に思っていますが、プロではないので紙媒体では発表の機会もなく敷居が高く老い先短いこともあるし、Webを利用してみようとふと思いました。
近年は長い文章が好まれないことは承知しつつ敢えて長いものに選んで配信します。一作の配信終了までに半年くらいかかるかも知れませんが老人の「ザ・エンターティメント」をご贔屓いただけましたら幸いです(とにかく長いですw)。

【幽霊のかえる場所】 第一章

阿佐野桂子

   


第一章 

僕は死んでしまったようだ


 僕は歩道に倒れていた。全身に痛みが縦横無尽に暴れていたが、特に下半身が猛烈に痛かった。何が起こったかはちゃんと覚えている。歩道にノー・ブレーキで車が突っ込んで来て、僕を薙ぎ倒したのだ。
 死ぬ時は人生が走馬灯のように見えると言うが、走馬灯は回らなかった。車が突然現われたかと思うと僕を跳ね飛ばし、その瞬間がスローモーションで見えただけだ。
 スローモーションで見ていたのならなぜ除けられなかったのか、と人は言うかもしれないが、これは人生で一度も転んだ事がない者の科白だ。転んだ時だって「ああ、今私は転んでいるな」とやけに他人事みたいに思いながら転ぶものだ。
 とにかく体が痛いのですぐ傍に立っている男の人に助けを求めた。
「ええっと……キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」
「ノオ」と男はいやにきっぱりと答えた。ちょっと馬鹿にされたような気がしていらっとしたが、考えてみればここはイギリスだ。
 日本語が喋れるイギリス人など「盲亀浮木」、つまり大海を泳いでいる目の見えない亀が穴の開いた流木から顔を出す確立と同じくらい少ないだろう。
「ええっと、じゃあ、ヘルプ・ミー」
 救急車を呼んでくれ、と言おうとしたが救急車の単語が浮かんで来ないので仕方なく「ホスピタル、ホスピタル」と連呼し、日本人らしく最後に気弱く「プリーズ」と付け加えた。
 体も痛いが脳全体がシェイクされた豆腐になってしまったような気がする。中学一、二年で習った単語くらいしか思いつかない。いや、今はそれ以下か。
 イギリスと言えば、かの有名なスコットランド・ヤードだ。ホームズもポアロもかなりの件数貢献した、などと考え始めたのは痛みのあまり豆腐脳が現実逃避を始めたからだろうか。
 飛行機がテロに遭うこともなく、テロリストと疑われることもなく、無事ヒースロー空港に定刻に到着、それから地下鉄ピカデリー・ラインでロンドンの中心部に一時間弱でやって来て、ロンドン観光バスに乗り、ロンドン見物を始めようとする矢先だった。
 こういう定期観光バスは当てもなくふらふら歩くより効率よく名所を見て回れる。
 函館に行った時も市内観光バスに乗り三平汁を振舞われた。こちらは一時間半くらいのコースだ。タワーに登った気がするが記憶が曖昧だ。
 長崎でも観光バスに乗った。長崎に行った時は丁度原爆投下の祈念日で、鼈甲細工の店の前でサイレンが鳴り、ガイドさんに黙祷をお願いされた。鼈甲は現在WWF御禁制品らしいから、鼈甲細工の店に寄るコースはもうないのかも知れない。
 別府では地獄巡りのコースに参加し、効率良く地獄巡りをした。殆どが家族連れか二人組で、単独参加は多分僕一人だっただろう。ボーダー・コリーに導かれる羊のように黙々と地獄を見て回った。
 旅は単独行動に限る。他人同士の乗り合い観光バスは一人で乗る限り単独行動と変わりないし、迷子になる心配がないしタクシーに乗るよりはずっと安い。
 僕は東京生れの東京育ちだが、住んでいる地域の観光スポットも殆ど知らない。はとバス全制覇が僕のささやかな夢だった。
 そんな僕がせっかくロンドンまで来たのだから名高いブラック・キャブで名所旧跡を一回り、と行きたいが、僕のような普通よりちょい下の暮らしをしている人間にとって、それは大名旅行に等しい。
 その普通よりちょい下の階層にいる僕がなぜ異国の地にいるかと言うと、同じ会社の連中が夏休み毎に、やれハワイだ、サイパンだ、グアムだのと騒いでいたからだ。
 一ドルが360円と決められていた頃に比べれば今や100円台に突入し、おまけに格安航空の参入で国内旅行より韓国やハワイに行く方が安い、という本末転倒気味の御時世だ。毎年連休は家族でハワイ過ごす、何て話を聞かされると正直なところ、苛々する。
 ハワイは暑いけれど湿気がないので過ごしやすい、らしい。しかも日本語が通じるので言葉の問題もない。バリバリの津軽弁や鹿児島弁の中に放り出されるよりハワイの方が話は通じる、ってことだ。この時点で僕の選択肢の中からハワイ、サイパン、グアムは消えた。暑いのは嫌いだしね。
 それよりも、そもそもパスポートを持っていない、と言うと、珍獣でも見たかのような顔をされるのが気に入らない。
「へえ、パスポート持ってないの? 何で?」
「外国へ行く予定がないからね」
「へえ……。今時珍しいんじゃないか? 行く予定がなくてもパスポートくらい持ってるよ、みんな。身分証明にもなるしさ」
 そんなことはなかろう。DVDを借りるのにパスポートを提示している人間を見たことがない。
「日本が沈没するとか、どこかの国に占領されて逃げ出さなければならなくなったら必要だろうけどね」
 言い返すと
「またまた、すぐそんな極端なことを言うんだから」
 絶滅危惧種でも見るような目で見られる。
 そんな僕がロンドンで車に轢かれて倒れている。切り裂きジャックが徘徊した、夏目漱石が鬱病になったロンドンで、だ。幸いにして日本が第三次世界大戦の主戦場になったからではない。


地縛霊との出会い


 
 それにしても、イギリス人(多分。外人はみな同じに見える)はクイーンズ・イングリッシュで話し掛けないと怪我人を助けてもくれないのか、と僕が痛い腹を押さえてうなっている時、やっと外人さんは僕を何とかしてやろうという気を起こしてくれたようだ。
「心配ご無用じゃ、痛みは生体の最後の記憶の一部に過ぎない。あと一週間もすれば痛みは治まるものじゃよ」
 一週間も放ったらかしにされたら死んじまうだろうが! それに「生体の最後の記憶」って何だ? と反論しようとして声の主を見上げるとそいつは赤ら顔の太った男だった。
 まるでビクトリア朝の紳士のような格好で、良く見れば立て襟のシャツにフロックコート、頭はトップハット姿で、指には何カラットか知らないがごつい宝石が嵌めこまれた指輪をしている。
 うーん、これは観光名所でよく見掛ける観光スタッフか何かだろうか。しかし待てよ、今、日本語で喋っていなかったか? コスプレ日本語ガイドか何か? じゃあ、安心して日本語で言えばいい。指輪は多分、模造品だろう。
「あのさ、見ての通り車に轢かれちゃったんだけど、救急車呼んでくれないかな? 轢かれてから多分もう十分は過ぎてると思うんだけど、これってやばい状態だよね。出血も酷いし」
「腸もはみ出ておるな、重篤じゃ」
 そう言われて自分の腹を見ると綺麗なピンク色の腸が血に塗れて零れ出していた。僕は慌てて腸を腹の中に押し戻そうとした。押し戻そうとしたが腹圧のせいか、ただ単に血でぬるぬるしている為か、一度零れ落ちた物はなかなか元に戻らない。
 切腹した武士もこんな状態だったのだろうか。もっとも切腹する覚悟の武士は腸がはみ出ても元に戻そうとは思わないだろうし、大体は腹に一刺しした瞬間に首を刎ねられているのだと聞いている。武士の情け、ってやつだ。
 腹から零れた腸を敵に向かって千切っては投げ、千切っては投げした武将がいたそうだが、誰だったっけ。投げられた方は大いにびびったに違いない。
 僕の脳は貧血を起こし、あちこちショートしているのだろう。一刻を争う事態なのにつまらぬ雑学ばかり浮かんで来る。
「とにかく、早く救急車を呼んでくれないかな。もうこのままでは死にそうな気分なんだけど? スマホも壊れてるっぽいし」
「スマホとはあれかな、固定電話とやらが進化して、世界中の人間がスマホなしでは夜も明けぬ、とか言ってる物じゃな?」
「そう、それそれ。夜も明けぬじゃなくて、夜が明けるまでスマホを弄ってんの」
 何でこんな一刻を争う時にコスプレおやじとスマホ談義をしなくてはならないのか訳がわからない。しかも「じゃな?」って何さ。
ちびまるこの爺さんじゃあるまいし。今時の爺さんは「そうじゃな、まるこよ」何て喋り方はぜーったいしない!
 これに関しても同僚達に申し述べると
「何だかな、もう。便宜上『じゃな』と言ってるだけで、リアルを追求してるわけじゃないから。日本昔話みたいなもんじゃないか」と一笑、いや、変人扱いされた。
 変人だからアラフォーになっても「結婚出来ない」のだそうで、四十を過ぎてしまうと一生独身の可能性が高くなるそうだ。
 もっとも僕がとびっきりの金持ちか、人気芸能人なら、その限りではないそうだ。
「考えてみろよ、四十で結婚して子供が出来たとして、その子を大学をまで出してやろうとしたら六十は過ぎてんだぞ。幾ら定年が延びたとしてもキツイじゃないか」
 キツイのか、そうか。しかし何故子供を作る前提なのか分らない。
「船頭さんの歌、覚えてるか?」
 同僚が続けて意味不明な言葉を発した。
「ほら、昔の童謡かなんかでさ、『村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん』、てやつ。一昔前は六十で爺さんと呼ばれていたんだぞ、おい。落語で言えば御隠居さんだ。今は平均寿命も延びたし、見た目も体も元気だ。しかしやっぱり子供は六十前には自立させてやらないとな、後がキツイ」
 高校生と中学校の子供の父親でもある同僚はキツイを連発した。なんだ、ただの愚痴か。
「それはそうと、青年よ」
 僕の思考の中に突然コスプレガイドが割って入った。何が、それはそうと、だ、と僕は現実に引き戻された。日本人は若く見られるらしいが、青年はないだろう。
 最近週刊誌で得た知識によると、JKとかJCとか呼ばれる女子部族から見ると二十五歳はオジサンなのだそうだ。ただし、ちょっとキモイオヤジでも金を払えばショート・デートに応じてくれるらしい。
 アラフォーという言葉は多分和製英語だろうから、「マイ・ネーム・イズ・タナカ。サーティーナイン・イヤーズ・オールド」と返した。多分、間違っていないと思うが。
「田中さん? おう、見た目より結構歳を食っているんじゃな。それで、スマホがどうしたって?」
 あ、それそれ、と僕は危急存亡の立場にいることを思い出した。ついでに相手に日本語が通じるのも思い出した。
「車にぶつけられてスマホも壊れてるだろうから、あなたに救急車を呼んで欲しいんだけど。普通交通事故が起こったら野次馬とポリスとかがすぐ集るよね。誰も来ないし、誰も助けてくれようとしないし。やっぱり漱石が鬱になったくらいの不人情な街なわけ?」
「不人情とは解せませんな」
 コスプレガイドは体とおなじくらい福福しい顔にちらっと不愉快そうな表情を浮かべた。
「イギリス政府はもう田中さんに充分な好意を示したと思いますがな」
「どこが好意ですか!」
 好意とは瀕死の人間を長時間ほったらかしにすることなのか。異国の地で客死寸前の人間を放っておくことが好意なのか。そんな筈はない。しかもイギリス政府、と来た。
 今はどうだか知らないが、一応ジェントルマンのお国柄ではないのか。ジェントルマンは三十九歳一人旅の田中さんを見殺しにする気でいるのか。
「だーかーらー、あなたでも誰でもいいから、早く救急車を呼んでくれって」
「救急車? ああ、それでさっきからごちゃごちゃと」
 ごちゃごちゃじゃねえよ、何だよ、この国はよう、と僕はこれ以上内臓が飛び出さないように腹をおさえ、かつ小声で毒づいた。気力が残っている間にイギリス紳士御用達の傘で突きまわしてやりたいくらいだ。
 小声で毒付いたのに、コスプレガイドの耳にはしっかり届いたようだ。そりゃそうだ、さっきから僕の傍に丸々とした体を折りたたんで面白いものを見るように屈みこんでいるのだから。
 窮屈な姿勢のせいか鼻息が荒いのが余計気に触る。まるで悪い夢を見ているようで、余計気分が悪くなる。その顔がニタリと笑った。
「ふーむ、これは予想以上の重症のようじゃな」
 どこをどう見たって重症じゃないか。あなたみたいに肉がたっぷり付いていたらそれがクッションの役割を果たしてくれるかも知れないが、こちらはダイレクトだ。肋骨の二、三本、肺に突き刺さっているかも知れない。想像すると息が苦しくなって来た。
「おや、今度は過呼吸ですかな。丁度袋を持っていますので、これの中で息をしなされ。まったく世話の焼ける御仁じゃ。ほれ、このようにイギリス政府は田中さんに充分助力しておる」
 袋をひった繰って何回か深呼吸をすると過呼吸とやらが治まった。案外ジェントル……。いやいや、そんな問題ではない。僕は多分、瀕死と呼ばれる状態なのだ。過呼吸くらいで感謝している場合ではない。
 しかし過呼吸が収まると頭がすっきりしたし、体の痛みも治まったのは事実だ。しまむらで買ったTシャツにユニクロで買ったストレッチ・ジーンズ姿で轢かれたのにいつの間にか病院服を着ている。
「腹は既に縫い合わせてありますからな、これで見た目は安心じゃ。ただまあ、縫い目が少々粗いのはご愛嬌。車と街路樹に挟まれたので臓器の損傷が多く、使える部分は心臓と肺と眼球だけじゃったと聞いておる。どうせなら頭だけ轢かれれば良かったものを。勿体無いことをしましたな」
 ふーん、肋骨が肺に刺さったような気がしていたが、肺は大丈夫だった、と。僕は保険証の裏側に臓器提供の意思表示をしていたけど、案外使える部分は少なかった、ってことね。でかい魚を釣ったはいいが、食べられる部分は少なくて残念、みたいなものか。
 中国の銃殺刑では多くの臓器がリサイクル出来るように頭を狙う、と聞いたが、頭を狙えば即、脳死で、理に適っているのかも、って、なに? 僕の小心な心臓と肺とブルー・ライトで痛めつけられた眼球は移植されちゃった? なに、その状況は。
「もうお分かりかと思いますがな、田中さん。時間経過を追って説明致しますと、あなたが待ち焦がれていた救急車は確かに来ました。ロンドン市民は不人情ではありませんからな。で、病院に救急搬送され勿論手当てを受けましたのじゃ。しかしこれはどうも助からない、と。それで日本大使館から本国へ連絡が行きましたが、田中さんには親類縁者がおらぬと分りましてな、そのうち脳死状態になりましたので、保険証の裏側の臓器提供の意思に沿って心臓と肺と眼球を摘出、見事に本当の御臨終となりましたのじゃて。いやはや、臓器提供の崇高なご意志、イギリス国民を代表して感謝の意を述べさせて頂きますよ。しかし、御本国では臓器提供が少なく、アメリカまで大枚をはたいて移植に行くと聞いておりますぞ。何故でしょうなあ」
「本人が承諾していても、いざとなると親類縁者が反対するからじゃないですか」
 日本批判ともとれる発言に慎重に答えた。僕のケースは反対する親類縁者がいないためスムースに移植作業が行われたようだ。
 それに、大枚と簡単に言うけど、子供の心臓移植なんて今や一億、二億、三億の世界だ。手術代より移植の順番待ちのリストを上位にして貰う為の金額が殆どだ、と聞いたことがある。アメリカ人からすれば札束で顔を叩かれている心境だろう。それともいいお客さんか。
「じゃあ、なに、僕は死んじゃったって事?」
「イエース」とそこだけ英語できっぱりした答えが返って来た。
 集中治療室でくだらない夢を見ている最中なのかも知れない、と思って古典的に自分の頬を抓ってみたが、当然のごとく痛みはない。大体、集中治療室では頬を抓ることも出来まい。となると?
「じゃあ、聞くけど、あなたは何物?」怖いが聞いてみるしかあるまい。
「わしか? そりゃもう決まっておる。幽霊じゃ。しかも地縛霊と呼ばれるものじゃな」
 地縛霊とは恐れ入った。地縛霊とか守護霊とか浮遊霊とか言っているのは祖国日本の夏の特番、心霊番組のお話ではないのか。
 これは海外ドッキリ番組の収録か、と辺りを見回したがそれらしきカメラ・クルーの姿が見えない。しかし隠しカメラがどこかにあるのかも知れないので、僕は地縛霊と称する人物との話をとっくりと聞くふりをしてみた。
「地縛霊ってことは、あなたはこの場所で死んだ、ってことだ」
「左様、まあ色々事情がありましてな、この場所で殺されてしまったのじゃよ。最後の記憶は去って行く馬車の仄かな明かり」
 今迄ずっと屈みこんで僕と話していた自称自縛霊は去り行く馬車の灯りを目で追うように立ち上がった。体の割には小さな足だ。
 色々事情がって、誤魔化すなよ、オッサン。馬車に灯りがついていたと言うのなら時刻は夜。一人で馬車に乗っていたのか、一緒に乗っていた奴がいたのか、それとも馬車に誰かが乗り込んで来たのか、馬車に轢かれたのか。
 ともかく死んだ時点では馬車に乗ってはいなかった。放り出されたのかも。それなりに金持ち風なオッサンが真っ暗闇を一人そぞろ歩き、って事はないわな。
 動機は、手段は? 少なくともごっつい指輪は取られていないようだから、強盗目的ではない、と。推理ドッキリなら実に変なベクトルで展開している。
 僕はテレビで見たシャーロック・ホームズの姿や当時の風俗を思い浮かべていた。その頃の馬車はカンテラを付けて走っていた。とすると、オッサンが最後に見た馬車の灯りはカンテラか。どうでもいいけど。
「あなたの見た馬車は殺人事件と関係あるの?」
「へ?」とオッサンが間抜けた声を挙げた。
「いや、関係はありませんぞ。ただ、最後に目にしたのが馬車の灯り、と言うだけで」
 何だ、人の推理を蹴倒しやがって、と僕は内心歯噛みした。隠しカメラがあるなら、絶好の笑いどころだ。
「さっきも申しましたが、色々事情がありましてな。とは言え、どんな事情があろうとも人殺しはいけません。神も人殺しは禁じておりますからのう」
 今度は神か。神であろうと仏であろうと人殺しを容認するやつはいない。それでも人は人を殺す。だから聖書にも仏典にもくどくどと天国に行けなくなる、とか地獄に堕ちるとか口を酸っぱくして禁じているのだが、守られた試しがない。
「あのさ、僕は推理小説とか苦手なんだ。刑事コロンボとか古畑任三郎みたいに最初に犯人が分っている刑事ドラマしか見ないし。あ、シャーロック・ホームズとポアロは別だけど」
 ホームズの時代はまだ移動手段は馬車と汽車だったがポアロの時代にはもう自動車が活躍していた。そう言えばコナン・ドイルは国際心霊主義者連盟の会議で議長を務めるくらいオカルティストでもあった。有名な妖精写真を本物認定したくらいだ。
 オッサンはぽってりとした手を擦り合わせた。
「いやいや、あなたに殺人犯を推理して頂く必要はございませんのじゃ。なにしろ犯人はすぐに捕まってしまいましたからな」
「へ?」今度は僕が間抜けた声を挙げてしまった。
 何だ、今までの気をもたせるような発言は。馬車のカンテラがどうのこうの、色々事情がありまして、とか。「ワトソン君、明日の朝一番早い汽車は何時だね」と言わざるを得ないような。僕の妄想が先走りしただけとも言えるが。
「で、犯人は誰だったの?」僕は脱力しながら尋ねた。
「二人の頭を持つ強盗団の仕業で、夜道を急いで歩いていた所を襲われましてな」
「ん、で?」
「二人の頭というのは兄弟でして、兄は強行犯、弟は頭脳犯」
「あ、分った、弟は頭脳犯だから現金だけ奪おうとしたのに、強行犯の兄はあなたの指輪も持ち去って、それを売ろうとして足が付いた」
「そうそう、その通りじゃ。生憎現金は強盗団の懐を温かくする額ではなかったので、やむなく金になりそうな指輪を持ち去った仕儀でしてな。一つの指輪は母の形見でして、それを家族が覚えていてくれましてな」
「それは重畳……、じゃなかった、良かったですね。?まった犯人はどうなりました?」
「殺した方、即ち兄の方ですが、これは死刑になりました。人を襲っても殺しはしない弟の方は死ぬまで牢獄生活、雑魚は五、六年でしたかな」
「その強盗団にはモリアーティ教授の息が掛かっていたとか?」
「はあ?」
 僕とコスプレオッサンは期せずしてお互いの顔をまじまじと見つめあった。先に目を逸らしたのは僕だ。
「ちなみに、死刑になった兄の嫁は死刑用の縄を金を払って譲り受けたそうですぞ。日本では斬首用に使った刀を妻が貰い受ける風習などあるのでしょうかな?」
「な、ないと思いますがねえ」
 こればっかりは山田浅右衛門に聞いてみなければ分らない。浅右衛門は斬首もしたが御様御用と言って死体を使って刀の試し切りをしていた家系で、打役同心が勤めた時は刀の研ぎ代として金二分を拝領した、言われている。
 ガストン・ルルーの『金の斧』では首切り役を務める男とその妻の苦悩が描かれているが、浅右衛門の家に嫁いだ女性の心境やいかに、だ。
 切腹の時の刀は遺族に渡されたかも知れないが、斬首した時の刀がどうなったか、そこまでは時代劇を見ても分らない。そんなことまで歴史書は細々説明してくれただろうか。
 それはともかく、
「犯人が捕まって死刑になったなら、あなたが地縛霊なんかになる必要はないですよね?
一件落着でしょ?」
「それはそうじゃが」とコスプレオッサンは口ごもった。
「なにしろ犯人が見つかって死刑になった、と聞いたのは半年も経ってからのことでして、その半年の間に魂の楔はここに打ち込まれてしまったのじゃよ。ほら、よく言われておるでしょうが、犯人は犯行現場に戻って来る、と」
 ああ、なるほどね、犯人が犯行現場に戻って来ないかと、ここで半年待っていた、と。死体を取り囲んだ野次馬の中に犯人がいたとはよく聞くパターンだ。火事の現場には特に多いらしい。
「あれ、この男、以前の放火現場写真にも写っていましたよね、警部補!」
「どれ、始めの一軒目の写真も見せてみろ。おい、青木(だれ?)、こりゃビンゴだな。連続放火犯は多分こいつだろう。早速この写真の男を探し出せ!」
 二時間サスペンス・ドラマの定番の一つだが、案外犯人は他の奴だったりする。キャスティングを見ると始めから犯人が分ってしまうのが玉に瑕だ。
「じゃあ、あなたは百六十年以上ここでずっと地縛霊をしてるんですか? 犯人が捕まった時に成仏すれば……、あ、この場合は『天に召される』と言うのかな」
「それがそうも行きませんでなあ」
 コスプレオッサンは困ったようにトップハットを脱ぐと頭をボリボリと掻いた。
 帽子を被っていた時には見えなかった頭部の傷が見えた。鉄の棒で殴られたのか眉毛から上が陥没していて、ポアロ氏の言うところの「灰色の脳細胞」が潰れていた。
 しかも百六十年以上も経っているのに生々しくて僕は胃から酸っぱい物を吐きそうになった。こんな破壊された脳味噌で思考など出来るものだろうか。
「念というやつはそう簡単に解き放つことが出来ませんのじゃ。ここに縛り付けられているお陰で自分の葬儀の見物も出来ませんでな、女房がどのくらいの柩を用意してくれたのかも分りませんで。妻は倹約家、悪く言えば渋ちんでしたから、多分、柩には金をかけなかったのではないかと推測しておりますのじゃ」
「吸血鬼クラスだと王侯貴族並みの贅沢な特製柩を持ち歩いていたようですがねえ。ふかふかした寝心地の良い寝床、回りはビロード張りで、蓋は二、三人掛かりでないと開けられないような」
 いつの間にか病院服からTシャツとGパン姿に戻っていた僕は歩道にコスプレオッサンと一緒に体育座りした。
 歩道には多くの人々が行き来しているが誰も僕達の姿に目を留める者はいない。それどころか無遠慮に体の中をすりぬけて行く輩までいる始末だ。
 ごくごく偶にだが、何かを感じたように脇に除けて歩いて行く者もいる。こういうのは霊感がある、ってことでしょうね。と言うことは、僕はやっぱり死んだのか……。
「吸血鬼クラスとは恐れいりましたな。面白いことを仰る方だ。小さな雑貨屋と小額の金貸しをしていた身では豪華な柩など望むべくもありませんがな」
 吸血鬼は豪華な柩、とは言ったものの、古株は石棺だったっけなあ、と僕は吸血鬼小説アンソロジーを思い出していた。
 勿論豪華な柩もあれば、粗末な木の柩もある。不死者になっても当時の懐事情に縛られているのは可哀相だ。血を吸ったついでにお金も頂いて柩をグレードアップ出来なかったのだろうか。
 吸血鬼にも柩の中に自分が埋葬された時の土を敷き詰めておかなければならないとか、いかにも、な古城とか打ち捨てられた屋敷とかの物件が必要だし、昼寝の間のセキュリティは必要だしで、結構苦労が多そうだ。
 僕は自分がただの幽霊になったのを感謝すべきだろう。それにしても、ある一定範囲しか動けないのはどうしてだろう。
 このことをオッサン(今やコスプレとは呼べない)に尋ねると、地縛霊とは一定の場所にずっといるのが「決まり」なのだそうだ。せっかくロンドン見物に着たのにどこへも行けない? そんなのアリか。
「ロンドン塔に行きたかったんだけどなあ」と僕は呟いた。
「あそこは数多くの人が処刑場とばかり思っておられるようじゃが、宮殿でもあり身分の高い者の監獄でもあり、勿論処刑も行われておりましてな、アン・ブーリンの霊は未だにロンドン塔を彷徨っているようですな」
「へえ、首なしのまんま? 聞くところによるとギロチンの下には首受けの籠があったそうだけど、アン・ブーリンの時代は斧でバッサリだったっけ? 首はどうしたんだろう。ごろごろ転がったりしたのかな」
 雑貨屋兼小金貸しのオッサンはかなり引いたようだ。どうせなら山田浅右衛門の件で引いて欲しかった。
 将軍吉宗が『公事方御定書』の下巻『御定書百箇条』で死罪を六つに分けている。下手人・死罪・火罪・獄門・磔・鋸挽の六つだ。火罪・獄門・磔は時代劇や小説で知ることが出来る。鋸挽は罪人を首まで埋めて通りがかりの者に挽かせる刑罰で、大衆参加型だが、実際に挽いた奴はいたのだろうか。
 下手人と死罪の区別はどこ、となるが、下手人は死体の引き取りを申し出る者がいれば下げ渡されるが、死罪の場合は死体の下げ渡しは行われず様物に利用される。
 時代劇で死罪を申し付ける、と言われていたら死後も罪人の体は刀の切れ味を試すために使われた、と思って見ると感慨ひとしおだろう。
「そう言えば、イギリスではギロチンを採用してませんでしたよね。一七九二年に初めて処刑が行われた時から、ドイツ、フランスなんかでは酷いと言うよりは罪人になるべく苦痛を与えない為に使用されてたみたいだけど」
 僕が知識を総動員して喋っている間、オッサンは顔を牛乳みたいに白くしていた。赤ら顔の外人さんも血の気を失うと白くなるみたいだ。
 そう言えば、同僚も僕がスプラッタ系の話をするとサイコパスを見るような顔をしたものだ。女子はともかく、男子なら興味を持ったっておかしくはないだろう。
「お前さあ、女との初デートでそんな話で一人で盛り上がるなよ。変態とおもわれるぞ。ギロチンの改良の歴史を聞いて何が楽しいんだ。当たり障りのない本や映画の話でもしておけ。な、後生だから」
 同僚に後生だから、と言われても趣味は趣味だ。ホラー・オカルト・スプラッタに興味があるからと言って、実行するほど馬鹿じゃない。
 実際に幽霊に出会ったら腰を抜かすどころか暫らく精神科のお世話になるだろう。ホラー映画を好んで観るような人間は、実は蚤の心臓の持ち主なのだ。
「ここに百六十年以上も居て退屈じゃないですか?」と僕は尋ねた。
 ひょっとしたら僕も永遠にここに縛られるのかと思うとぞっとする。大袈裟に言えば、人類が滅亡してもここに居続けるのだろうか。
 幽霊も吸血鬼も「一度死んだ者」だが、吸血鬼は心臓に杭を打たれれば消滅する。しかし幽霊は多分、杭なんかでは死にはしないだろう。僕は永遠なぞ願ってはいない。
「退屈はしません。少しずつ時代は変わっていきますからな。馬車が車になり、人々の服装も変って行く。第一次世界戦争も第二次世界戦争もしかとこの眼で見届けました。幽霊のいい所は爆弾が頭の上で炸裂しても死なない、ってことですかな。あなたの好きな吸血鬼さんは安全の為にあちこち寝床を変えねばなりませんがな」
 僕と同じ体育座りをしていたオッサンはまた腹が苦しくなったのかよっこらしょ、と立ち上がった。
「こんな異国で地縛霊だなんて、やだなあ。あなた、地縛霊歴が長いんでしょ。何か解決方法知らない? ジャパニーズはやっぱりジャパンでしょうが」
「おお、麗しい祖国愛ですかな。まあ、客死では祖国に未練があるのは当たり前ですな。御遺体が引き取られた時に付いて行くべきでした」
 その御遺体が先にジャパンに戻っていた頃、僕はまだ死んだことにも気付かずにぼーっとしていたのだ。一生の不覚だ。いや、車に轢かれたのがより不覚だ。
「ふむ……、最近は飛行機とやらで国の間を移動すると聞いていますが、帰りの航空券とやらはお持ちかね?」
「持ってますけど。ほら」僕はGパンのポケットから帰りの航空券を取り出してひらひらと振ってみせた。期日はとっくに過ぎているけど、一応日本航空。
「おや、帰りの航空券をお持ちか。ではそれで祖国にお帰りになったら如何かな?」
「ええっ、地縛霊は動けないんじゃないの? それにこの航空券、もう期限切れなんだけど」
 僕は更にひらひらを繰り返した。まったく、お帰りになったら如何かな、って何と無責任な言い草だ。
「おや、黄色人種でも苛立つと顔色が変るのですな。まあ、落ち着いて聞きなされ。帰りの航空券を持っているのは帰る意思があったという確かな証拠であり、地縛霊とは見做されないと言うことでしてな、あなたはジャパンに戻れる。目出度し目出度し、ですな」
 最初ちょっと人種差別的発言があったような気がするが、全体的にはいい話ではないか。
「でも、期限切れてるし、幽霊が飛行機に乗れるものですかね?」
「ノー・プロブレム」とオッサンは言った。
「そこが幽霊のいい所でして、生者の規律とは無関係。ある意味好き勝手が出来ますな。ドラキュラのように年中重い柩を引っ張って歩く必要もありません。ただし」
「ただし?」
「あなたは今度は浮遊霊になってしまいますのじゃ」
 なんだ、そんなことか、と僕は鼻で笑った。見知らぬ街で地縛霊をやっているよりずっといいではないか。ひらひらさせていた航空券を改めてGパンのポケットに仕舞いこんだ。
「おや、鼻で笑いましたな。言っておきますが、浮遊霊は地縛霊とは違って宿無しの霊、つまりホームレスと同じでしてな。決して楽な状況ではありませんぞ、田中さん」
 オッサンは僕に忠告を与えた。しかし既にホームシックに掛かった霊を引き止めることなぞ出来っこない。
「いい事を教えてくれてありがとう。太ったロンドンの幽霊なんて初めて見たけど、いい人だった、とジャパンの幽霊に会ったら言っておくよ。じゃあね!」
「シー・ユー・アゲイン!」
 は? 

僕は浮遊霊らしい


 地縛霊変じて浮遊霊になった僕は大英博物館やロンドン塔などを巡る日本人の団体観光客と同伴してロンドンを満喫した。
 生憎アン・ブーリンの霊には会えなかったが、貴族風の霊体には何回か出くわした。外国の幽霊には皆足が付いているものらしい。お陰で怖さ半減だ。足がない分、ジャパンの幽霊の方が怖い。
 もっとも『リング』の貞子の快進撃もあって我が祖国でも足付きになった。応挙よさらば、だ。腐りかけの皹と紫色の血管が浮いた裸足は確かにおぞましい。
 それから僕はホテルに一泊する観光客の団体と別れ、ヒースロー空港へ向かった。帰りは念願のブラック・キャブだ。同乗していたドイツ人はしきりに寒がっていたが、そんなこと知るか、の心境だ。
 都合がいいことに、幽霊にとっては総てがフリー・パスだった。日本航空の空席にちゃっかりと腰を下ろした。新幹線と違って途中から乗り込んで来る客がいないから、空席さえあればゆっくり気がねなく座っていられる。
 日本人の団体客が半分、後は外国のビジネスマンっぽい男性、フリーメーソンのロッジを渡り歩いてます的な一癖ありそうな人物、エトセトラ。
 その中に一人、神父だか牧師だか見分けがつかない人物が座っていたが、信仰心と霊感は別物らしく僕が機内を歩き回っていてもまたくの無関心だった。
 本当は見えているくせにキリスト教徒ではなからシカトしているのかも知れない。僕は悪霊じゃないからいきなりエクソシストされても困るんだけどね。
 日本の団体客は殆どがオバサンだった。名所巡りをした一団とはまた別のグループだ。オバサン達は直行便の旅に慣れているらしく大変お行儀が良かった。
 中に一人、見た目は地味だけど勘が良さそうなオバサンがいて、僕を見てはっとして顔を強張らせたが、騒ぎ出すようなことはしなかった。
 僕は普段足が地に着いた乗り物しか乗らない。飛行機なんて、事故を起こせばかなりの確率で全員死亡だ。一蓮托生は御免蒙る。
 つまり今回が初めて往復飛行機での旅行なのだが、同じ飛行機に幽霊が乗っている状況は彼女のような霊感持ちにとってはどんな心境なのだろう。
 幽霊が乗っているから安心、この飛行機は落ちない。或いは幽霊と一緒とは縁起が悪い、この飛行機は落ちる。なぜなら幽霊は二度死ぬことはないから落ちる飛行機にも平気で乗って来る。
 僕は霊感持ちのオバサンがどちらの可能性に賭けたか知りたかった。いくら幽霊だって飛行機が爆発して空中に投げ出され、どこか知らない国に飛ばされるのは御免だ。
 オバサンの手荷物には飛不動のお守りがぶら下っていた。飛不動は航空関係の守りで知る人ぞ知る、のお守りを授けてくれるお不動さんだ。じゃ、落ちない方に賭けているだろう。
 オバサンは時々座席後方に座っている僕をちらちらと見ていたが、僕に何の邪念もないのが分ったらしく、ほっと一息ついてから寝る態勢に入ったようだ。御安心を、僕だって落ちたくない。
 飛不動とパイロットのお陰で飛行機は無事ジャパンに到着した。僕はいち早く飛行機から降りた。実を言うと僕は閉所恐怖症の気があるのだ。
 地上を走る乗り物なら車であろうと電車であろうといざとなれば飛び降りればよい。しかし飛行機というやつは空飛ぶ棺桶だ。
 もし貨物室に吸血鬼の柩が運び込まれていて、それが空中分解したらどうなるか。僕は吸血鬼と同じ様に余程のことがない限りリスクの多い飛行機は選びたくない。
 とは言うものの、飛行機事故で死ぬ確率は交通事故で死ぬよりは 格段に低い。先進諸国のように長期休暇が取れるなら船で韓国へ行き、北上してシベリア鉄道でヨーロッパに入りたかった。
「シベリア鉄道に乗ったら行けども行けども同じ風景で三日目には食欲が無くなる程うんざりするらしいぞ」
 以前同僚が言っていたが、同僚はシベリア鉄道に乗ったことがない。実際にシベリア鉄道に乗った女性のお金持ちタレントがテレビで喋っていたらしい。
 船も不確定要素満載であまり乗りたくない。今更タイタニックを引き合いに出すつもりはないが、海に投げ出されて浮いているのは怖い。足の下に何が潜んでいるか分ったものではない。
 しかしそれでシベリア鉄道に乗るチャンスを逃すくらいなら、まあ少しは我慢しよう。福岡からスーパーエキスプレス高速船に乗れば三時間弱で釜山に到着する。稚内からフェリーに乗ってコルサコフ港に着けばロシア入りはもっと簡単だ。だだし片道乗船時間六時間半は疲れる。
 つまり、飛行機に乗らないで欧州へ行こうとすると会社を首になる覚悟をしなくてはならないほどの長期休暇の申請が必要だ。当然首になるのは嫌だから渋々飛行機に乗った。そして無事帰国出来た。
 もっとも帰国した僕は幽霊だから何のチェックにも引っ掛かることなく空港を後にした。浮遊霊と言うくらいだからふわふわとどこへでも飛んでいける気がしていたが、基本的な移動手段は徒歩だと分った。
 但し車が通れば便乗出来るし、駅まで歩いて行けば電車にも地下鉄にも乗れる。しかもタダ乗りだ。
 タクシー溜りで待っていると僕の住んでいるマンション近くに行く男性の乗客を見つけ、早速便乗させて貰った。運転手も乗客も霊感なしのタイプらしく僕のことには全く気が付かない。飛行機の中でチラ見をしていたオバサンと比べると同乗する僕も気楽だ。
 タクシーは一路男性の自宅を目指しているようなので、途中で降りた。本当は愛人の家を目指しているのかも知れないが、僕には関係のないことだ。
 後は歩きだ。何たって旅から帰って真先に帰るのは自宅と決まっている。会社勤めの頃は帰宅途中にコンビニに寄って弁当を買ったものだが、今は腹も空かないから経済的だ。
 国道沿いを歩いていると何体かの地縛霊に出会った。ロンドンで会ったオジサンとは違って話しかけてもシカトするし、陰々滅々としていて気分が悪い。さっさと成仏しやがれ、だ。
 一時間近く歩いて横道に入ると僕が生前住んでいたマンションが見えて来た。マンションとは名ばかりの二階建てで、階段の手すりには赤錆が浮き出ているようなセキュリティ・ゼロの建物だ。
 僕の住んでいる部屋は一階の角部屋なのだが、物凄く日当たりが悪い。両隣と後がでっかいマンションなのだ。二つの窓はそのマンションのせいでまったく日が入らない。
 昼間お勤めならあまり日当たりとかは気になさらないですよね」と不動産屋に言われ、「まあ、昼間居るのは土・日くらいだから」と、格安のここにしてしまったのだが、その土・日には一日中蛍光灯をつけていなければならない程暗い。
 入居してから暫らくは幽霊付き瑕疵物件に当ってしまったように気が重かったが、その頃はまさか僕自身が幽霊になる、とまでは思ってもいなかった。いやはや、人生は分らぬもんですな、と自嘲する。
 Gパンのポケットから鍵を出して鍵穴にそっと差し込んでみたら開いた。当たり前か。家賃は引き落としで、今月分は払い込み済みの筈だ。
 懐かしい僕の部屋。しかし一歩中に入ると僕の荷物がなかった。まっさらに何もなかった。三畳のキッチン、八畳のフローリングの居間兼寝室がこの部屋を見に来た時とおなじようにがらんとしている。
 しばらく呆然と立ち尽くしていたが、ショックから醒めると共に現実的かつ冷静な考えに落ち着いた。不動産屋が僕の死亡を知って遺品整理屋か便利屋かを使って家財道具を処分してしまったのだろう。
 親類縁者のいない僕の現住所から仲介不動産屋に連絡が行く。古いマンション(昔の文化住宅の佇まい)だから保証人は不動産屋が引き受けてくれた。不動産が始末してしまったのだろう。
 もっとも親類縁者がいない、と言っても処女懐胎や木の股から生まれたのではないから、どこかに縁者がいる筈で、とんでもなく遠縁の者が引っ張り出されて会ったこともない僕の後始末を押し付けられたのかも知れない。
 そうなれば当然面倒この上ない、とばかりに家財道具など処分してしまっただろう。家賃はきちんと払っていたから問題はないが、遺品の処分には金が掛かっただろう。申し訳ない気持でいっぱいだ。
 となれば、僕の遺骨とらやはどこにあるのだろう。幽霊になったついでに霊感を働かせてみようとしたが、生きていた頃に霊感がなかった人間が霊感持ちの幽霊になれるものでもないらしい。
 想像するに、住んでいる地区の霊園の無縁仏様専用の共同墓地にでも落ち着いたか。我がジャパンでは散骨を除いてそんじょそこらに骨を放置してはいけないことになっているので、多分、無縁仏の合祀で決まり。
 僕は遺骨の行き先には執着しないタイプだ。幽霊の中には自分の死体、或いは遺骨を捜して欲しくて生身の人間を脅かすタイプがいるようだが、他殺なら殺した相手に付き纏うのが筋ってもんだ。毎晩枕元に立って恨み言を言い続ければ、殺した相手が根負けして警察に自首してくれる。警察に任せていたら埒が明かないと思ったら、そいつが電車のホームの端にいる時にそっと背中を押してやるだけでいい。
 そう言えば、僕を轢き殺した車の運転者はどこのどいつでどうなったのか。ロンドンの地縛霊オッサンは総てを見ていたのだから知っているだろうが、あの時は聞く気も起こらなかった。やはりかなり動転していたのだ。

浮遊霊が住むアパート


 幽霊になって便利なのは腹が空かないことと移動手段が無料なことだ。壁抜けも出来るかな、と自室の壁から隣の住民の部屋に抜けようとしたら予想外の抵抗にあって額と鼻を強打した。ホラー映画では幽霊は天井・壁・窓があろうと神出鬼没ではなかったのか。
 あれは嘘か? しかし生者と同じ様にいちいちドアや襖を開けて歩かなくてはならないとしたらドッキリは仕掛けられない。時間ならたっぷりある。僕は壁抜けの練習を始めた。
 その努力の結果、これから幽霊になる予定の方には朗報だが、僕は壁抜けに成功した。正面から抜けようとしたのが間違いだった。
 この壁は綿飴みたいに柔らかい、と自身に言い聞かせながら四十五度の角度で右肩から入ると苦もなく抜けられる。ドラキュラは招かれないと目指す家に入れないが、幽霊はその点自在なのだ。
 もし僕が映画監督か脚本家ならドラキュラVS悪霊の映画を製作してみたいものだ。同じ生ける屍でも幽霊の方に分がありそうだ。第一、ドラキュラは幽霊の血を吸えないだろうし、昼間は無防備だ。
 さて、壁抜けを習得した僕は首尾よく隣の103号室に忍び込んだ。今更だが、僕の部屋は104号室だ。験を担いで105号室としなかった大家の見識に拍手。105と番号を飛ばしても結局は104号室なのだ。語呂合わせすれば「とおし」——凍死か? 轢死だったけど、と僕は一人皮肉な笑みを浮かべた。
 103号室は僕の部屋と同じ空き部屋だった。僕は切れそうな記憶の糸を手繰ってみた。ここは五十を過ぎた独身の男が住んでいた筈だった。
 ブルー・カラーらしきグレーの作業服の男が毎日七時半には部屋を出て行くのを見た記憶があるが。職住接近の工場で働いていたようだが、挨拶をしたり天気の話をしたこともない。
 社員寮にでも移ったのか、会社を首になったのか、はたまた会社が倒産したのか、こればかりは他人の事情だから知りようがない。
 ふーん、二部屋を空き部屋にしておいては大家が困るだろうに、と余計な心配をしたついでに、このマンションが三年後に解体されてもっと立派な高層賃貸マンションに建て替えられる計画を思い出した。
 高層賃貸マンションになった暁には元入居者は優先的に入居出来るらしいが、今の家賃の五倍以上になると聞かされたら、とてもじゃないが他を当るだろう。
 でもって、三年を待たずに早々と引越してしまったのだろうか。それとも僕と同じ様に不慮の事故で死んでしまった、とか? 見回してみたが五十男の幽霊はいなかった。
 三畳のキッチンと八畳のフローリング、トイレ、バス・ルームの基本設計はどの部屋も同じだ。日常生活を思わせる何物もない部屋は幽霊登場の時とはまた違った寒々しい雰囲気を漂わせていた。幽霊の僕が言うのだから本当だ。
 その隣は102号室だった。同じ様に右肩を四十五度にして壁をぬけようとしたら微かな抵抗を感じたので窓際に近い壁から抜ける。入り込んだところで壁を見ると団体女子アイドルのポスターが貼ってあった。
 ポスターくらいで進行を阻まれるとは情けない。この団体女子は神なのか。ポスターは呪符の役目も果たしているらしい。このような少女どものポスターに負けてしまいそうな自分が情けない。
 と、102号室に入ったものの、この部屋もすっからかんだった。ここは一階では一番煩い部屋だった。三流大学生が親の仕送りで借りていた部屋だが、親からの仕送りだけでは当然食えないから、夜のバイトをしている。
 バイトも始めはコンビニとか居酒屋チェーン店らしかったが、もっと自分を高めようと思ったらしくホストに転身した。始めは便所掃除、売れっ子ホストの下働きでホストに代わって酒を飲み干すのが仕事だ。
 当然のように朝帰りに二日酔いで大学は行ったり行かなかったり。多分、単位を落として留年だろう。しかしなぜ僕は103号室や102号室の連中の内情を知っているのだろう。これって、超能力か?
 次の、つまり僕の部屋から一番遠い101号室だが、ここは二階に上がる階段が壁側についていて、二階の連中が階段を上り下りする靴音が響く。ハイヒールがたてるカンカンとした音は夜間ともなると余計な妄想を掻き立てる。
 以前、101の住人は夜更けに帰ってくる水商売の女性を待ち受けて文句を言った。僕はその時の会話を耳にしている。それ以来、女性はハイヒールを手に持ち階段の下で履き替えているそうだ。なかなかいい人ではないか。
 それはいいとして、101号室も空き部屋だった。ここまで来ると大家への同情がいや増した。確か退職金を使って買った古マンションで、年金とマンションの上がりで老後の生活設計を考えている、と不動産屋から聞いた覚えがある。
 もっとも三年後に建て替えが決まっているのは大家が既に古マンションを手放し、現在の不動産屋にそれ相応の値段で売り払ったか、大手不動産屋に売ったのだろう。それなら大屋の心配までする必要はない。
 ついでだから二階にも足を運んでみた。幽霊だから当然足音はしない。足音だけを聞かせて怖がらせるマニアックな幽霊もいるらしいが、僕はマニアックでもサディストでもない普通の幽霊だ。
 201号室は一番古株の老夫婦が住んでいた。雑誌に一生賃貸がいいか、持ち家がいいか、の議論が載っているが、この夫婦は一生賃貸を選んだ。選んだはいいが、歳を取ると不動産屋で断わられるケースが多い。次の住処は見つかるのだろうか。
 などと考えていたが、僕だって後二十年も経てば同じ立場に置かれる。ローンを組んで中古マンションでも買っておけば良かったかも知れないが、死んで仕舞った今では賃貸で十分だった、と思う。
 総ての人間が自分の余命を知っているなら、不動産業界の形態も随分と変ったものになるだろうな、などと考えながら201に侵入した。老夫婦が在宅しているならばったり顔を会わせてしまうが、霊感持ちはそうそういるものではない。
 僕が驚いたのは201の住人が霊感持ちだったからでも、夫婦二人で白骨化していたからでもない。ここも不在。一階は総空室、でもびっくりしたが、まさか201まで夜逃げしたように空っぽとは。
 三年後に退去勧告を受けたとは言え、出て行くのが早過ぎはしないか? それとも契約更新で一月分を払い、なおかつ家賃を上げられるくらいなら、とさっさと他に行ってしまったのか。
 まあ、他に考えられるのは夫婦揃って養老施設に入ったとか、どちらかの故郷へ戻ったとか。息子でもない僕が心配することではないが、どうせなら故郷へ戻った方を選びたい。
 前々から思っていたのだが、家はボロくなるのに家賃が二年毎に上がるのは腹立たしい。古くなった分安くなるのが道理ってもんだろう。僕は三回も更新して、その度に千円ずつ家賃が値上がりしている。
 三回目の更新の時、同僚に愚痴ったら、千円値上げなんて安いほうだと言われた。新しい賃貸マンションでいきなり一・五倍に値上がりした例もあると聞けば、それよりはましか。
 次、202号室は問題のハイヒールの女性の部屋だ。一階が総空き部屋なんて女性の一人暮らしでは心細い限りだろう。それとも階下でいちいちサンダルからハイヒールに履き替える手間が省けて気が楽か。
 夜の勤めと知っていたので堂々と壁抜けをした。女性の部屋への僕なりのイメージとしては全体的にピンク系に纏められ、ディズニーのキャラクターかなんかが並んでいて、ベッドの上にはこれまたピンク系のパジャマがくしゃくしゃになって置かれていて……。
 と思ったらここも空き室だった。何だ、この現状は。退去三年が短縮されて追い出されでもしたのだろうか。退去を求める時は事前通告が必要とされている筈だが、一体どうした?
 僕は人類が総て滅び去った街でたった一人取り残されたような、そこはかとない悲哀を感じざるを得なかった。それほど空き部屋とは寒々しい。
 会ったこともない女性の行く末を考えて見た。ハイヒールの音が煩い、と注意されて素直にサンダルに履き替え、ハイヒールを片手で持って外階段を上り下りした人だ。その将来が不幸である筈がない、と信じたかった。
 203号室は元々空き部屋だからスルー。
 残りはただ一部屋、僕の真上の204号室だ。ここの住民とは面識がある。と、言うか、御近所トラブルで何回も僕の部屋の戸に張り紙をして行った男が住んでいる。
 トラブルとは所謂騒音トラブルだ。僕の部屋のテレビの音が上に響いて来て煩い、夜中に洗濯機を回すな、はては夜十時を過ぎたらトイレの水を流すな、シャワーを使うな、エトセトラ。
 二階の生活音が階下に響くのならわからんでもないが、一階の部屋の音が二階まで響くものだろうか。しかも僕はテレビはイヤホンで聞いているし、洗濯は休日の昼にしかしない。トイレの水音はどのくらい響くのか分らないが、せいぜい一、二回だろう。
 そう言えばスマホの会話がまる聞こえで笑っている声がウザイとか言っていたが、友達皆無の僕のスマホはここ一年鳴った例がないのだ。たまに「明日の会議の予定変更」の知らせが届くが、総てメールだ。
 つまり浪人三年目で追い詰められた浪人生が勝手に神経をすり減らして階下の僕に「死ね死ねビーム」を発していたのだ。お陰さまで客死したが、この兄ちゃんのビームのせいではない。
 そもそも浪人生に指摘されるような行動はした覚えはない。僕が寝た後に心優しいフェアリーが掃除洗濯家事全般をやってくれているなら話は別だが。第一僕は洗濯機を持っていない。コインランドリー派だ。
 多分浪人生はどこか精神に不調を抱えているのだろう。少なくとも彼より長生きしている僕から言わせて貰えば三浪が何だ!
 親類縁者がいない僕は自慢じゃないが夜間高校を経て通信教育の大学を六年掛かって卒業して大卒になったのだ。ふざけるな、と言いたい。
 三浪するくらいならさっさと諦めて受験校のレベルを下げればいいだけだ。今は学生不足で四流・五流大学ならあちらからお迎えが来るだろう。選ばなければどこかへ入れる、と噂されている。
 ひょっとして東大とか京大とか狙っているのか? 天下の東大も世界の世評ランキングでは十二位だぞ、おい。第一位のハーバードでも目指さんかい!

親子の幽霊に出会う


 
 僕は日頃の恨みを込めて壁を壊さんばかりの勢いで204号室に突入した。ところが、何これ、馬鹿面の男がキリンみたいに長い首でぶら下っているではないか。足元は汚物のオンパレードだ。
 やれやれ、とうとうやっちまったかい、が正直な感想だった。最近は心配した親が訪ねて来ても門前払いだったもんねえ。相当追い詰められていたのか。
 しかし追い詰めたのは自分自身だ。親はとっくに諦めていたのに。
「よう、浪人生、やっぱりそういうことか。僕の部屋の戸にさんざん誹謗中傷ビラを貼っておいて、この始末か。知ってるかどうか分らないけど、自殺とか殺人のあった部屋の片付けをする職業があってさ、そりゃあ大変な仕事らしいよ。お前、自殺する前に一度そういう会社でバイトでもしてみたら部屋で死のうなんて考えを起こさずにすんだのになあ。死ぬならもっと他で死ねよ。山とか川とかさあ。部屋のクリーニングは大変なんだぞ。僕の部屋の天井にまで体液が滲みてるかも知れないしな」
 幽霊になった僕にはもう怖いものなどない。思い切り馬鹿にしてやった。ついでに死後一日か二日くらいかな、と検死官みたいにじっくり観察してみた。
 『死体農場』というアメリカの死体腐敗状況を研究している機関の本を読んだが、野外の死体はどこからか飛んできた蠅が卵を生みつけて、三日目にはもう蛆が集って、その蛆の成長具合で死後何日目かを特定出来るらしい。
 室内でもあるし、まだ蛆が湧いていないからまだ一日か二日くらいだろうと僕は見当をつけた。もっともセキュリティも機密性もゼロのこのマンションでは蠅が集って来るのは時間の問題だ。死体よりそっちの方が気持悪い。
 そんなことを考えていると、突然首吊り死体が落下して来た。蛍光灯を吊るす部分に首吊りの縄を引っ掛けてぶら下っていたのが、重さに耐えかねて蛍光灯ごと落下している。
 よくもまあ、これで首が吊れたものだ、と感心せざるを得ない。体重をかけた途端に簡単に引っこ抜けてしまいそうじゃないか。
 それより柱にU型のフックでも打ち込んだ方が確実ではないか。ホームセンターに行ってどのU型フックなら体重を支えられるか、ちょっと計算してみれば良かったのに。でも一応は成功した訳だ。
 あーあ、自分がぶちまけた汚物の上に落ちちゃったよ。しかも正確に言えば首吊りの縄、ではなく、シーツを繋ぎ合わせた物だ。シーツを繋ぎ合わせるのは火事か監禁されたかで脱出する時に使う手ではないのか?
「何だよ、オッサン、驚かないのかよ」
 浪人生が薄気味悪い鼻汁を垂らしながら僕を睨みつけた。ごそごそ起き上がって来る姿はゾンビ映画みたいだ。
「オッサンって言うな、浪人生。僕の名は田中だ。お前の階下の住人の、な」
「僕ちゃんの名は田中だ、だって? 俺って言えよ、男なら『俺』だろうが」
「悪いな、育ちがいいもんで昔から僕ちゃんは僕だ。ところで浪人生、お前は何て名前だっけ。三年落太郎か?」
「けっ、知性の欠片も感じられないオヤジ・ギャグだな。そんなに殺されたいのか?」
 浪人生は糞尿色のジャージ、首にシーツを巻きつけた姿のままキョンシー・ポーズで白目をむいて僕を睨みつけた。相変わらず頭に蛆湧いてるのか、な態度だ。
 それはそうと、僕はさっきからずっとキッチンの方角から冷気を感じていた。狭い賃貸住宅だ。目をそちらの方角に向けると中年の女がキッチンの床に座り込んでいるのが見えた。
 セミロングの髪で顔は半分隠れているが、このシチュエーションからすると浪人生の母親か? まさか親子程歳の離れた彼女ではあるまい。僕より十歳くらい年上か。
「うちの息子が随分と御迷惑をお掛けしていましたようで、申し訳ございません」
 女は陰気な顔で頭を下げた。髪がはらりと前に垂れたのを見ると首に紫色の索条痕と吉川線が。あれあれ、これは最悪のケースですな、と僕は冷静に受け止めた。
 浪人生を心配して訪ねて来た母親の首を絞めて、御本人は自殺、と来たか。刃物三昧で解体新書並みに腑分けしなかっただけましかも知れない。血はなかなか落ちないらしいからね。
 時系列的にはどうなのか、殺人事件+自殺があったので皆この中古マンションを出て行ってしまったのか。となると完璧な瑕疵物件と成り果てた訳で、これでは大家も踏んだり蹴ったりだ。
「おい、オッサン、俺が怖くないのかよ。本当はびびってるんだろう」
 首吊りをして舌がべろんと飛び出しているくせに浪人生はやけにはっきりと脅して来る。
僕はバーカ、と内心で浪人生に普通サイズの舌であっかんべえをした。幽霊が幽霊を怖がってどうする。
 状況判断が出来ないから三年も浪人しちゃうんだろうが、と言ってやりたくなったが、僕は基本大人しいので口には出さない。
 同僚に「優しいのと大人しいのは違うぞ。優しいのは字義通りだけど、大人しくても変態な人間はいくらでもいる」と言われたことがあるが、実行しないだけの分別があるのだから、大人しいのは悪いことではない。
 そもそも『殺人データ・ファイル』や『FBI心理捜査官』を読んでいたら変態だ、と決め付けられるのは心外だ。サイコさんと法医学に興味があるだけで、僕はハンニバル・レクター博士ではない。
 馬鹿浪人生より母親の方が数段マシだった。僕がお仲間だと気付いたようだ。
「ちょ、ちょっと、ノブヒコちゃん、この方……」
「なんだよ、ババア、うっせーな。大人しく死んでろっちゅうの。東大東大と騒ぎやがって、俺はマサチューセッツ工科大学に行きたかったんだよ!」
 おお、と僕は呻いた。幾ら何でもそれは無理。抜け道的にアメリカの短大から編入という手もあるらしいが、東工大くらいにしておけば良いものを。この兄ちゃんは理工系だったのか?
 理工系なら理工系らしい殺し方、死に方がありそうなものだが、絞殺と縊死では文科系過ぎやしないか。コードを張り巡らせて自爆装置を作るとか、出来ないものか。
「そうじゃなくて、ノブヒコちゃん、この方、あなたがいつも文句を言っていた階下の田中さん、の幽霊じゃなくって?」
「はあ?」とノブヒコちゃんがチンピラみたいに僕の顔を下から舐め上げるように見た。そして鬱血した顔からざざっと音をたてて血の気が消えた。
「オ、オフクロ、何だって俺の部屋に幽霊がいるんだ! 早く追っ払ってくれよ。なんまんだぶ、なんまんだぶ、リンピョウトウシャカイジンレツザイゼン!」
「お、九字なんぞ切りやがって。人に向かって軽々しく九字切りなぞするなよ。大体、切ったはいいけど解き方知ってるのか?」
「………」
「オン・アビラウンケン・ソワカ!」
 まったく魔法系RPGかよ、と僕は呆れながらも九字を解いた。魔法系ではなく、幽霊系なのだが。
「首が痛いわ、ノブヒコちゃん」
「俺も。何だか首が伸びちゃったような気がするしさあ」
「痛みは生体の最後の記憶の一部に過ぎないらしいよ」僕はロンドンで仕入れた幽霊用語の基礎知識を披露した。
「あんたたち、死んだって自覚はあるのか?」
 自分の母親をババア呼ばわりしていたノブヒコちゃんは今や母親と抱き合って伸びた首を支えて貰っている。ひしと抱き合っている姿を見ていると母子相姦という単語が浮かんで来そうで余計気色が悪い。
 反応を見ていると母親には死んだ自覚はありそうだった。息子が段々壊れて行く様を見ていれば、いつか殺されるかも、とどこかで覚悟していただろう。それでもまだこれは悪い夢かも、と思っているのか。
 毎日だか毎晩だか知らないが、殺しと自殺をこの古マンションの一室でロングランのミュージカルのように再演し続けているのだ。
 僕はどうも歌あり踊りありのミュージカルは好きになれない。ブロードウェイ・ミュージカルを日本で焼き直ししてどこが面白いのか。宝塚歌劇団の方がずっと見応えがある。
 それよりも僕が好きなのはオペラだ。それもワグナー。ドイツ第三帝国の夢の跡、という感じは否めないが、壮大な退廃感が僕を圧倒する。もっとも最近頭の中にこびり付いているのか『ヘビーローテーション』だったりするのだが。今もその曲が頭の中をヘビロテしている。
「あの、田中さんは幽霊、ですよね?」
 ヘビロテ最中の僕に母親が念を押して来た。戸を開けて入って来たならともかく、壁抜けをして来た僕に今更どんな疑問だ?
「そうだけど、田中さんはじゃなくて田中さんも、だね。疑うなら包丁で刺してみる? 一度死んじゃったら二度とは死なないからね、あ、吸血鬼は除く」と僕。
「で、ノブヒコと私も幽霊とやらに?」
「そう、幽霊とやら、じゃなくて幽霊ね。それも地縛霊。204号室のゴースト。かなり強烈な地縛霊みたいだよ」
 母親とノブヒコ君は抱き合ったまま硬直し、それから激しく震え始めた。死んだらそれで終り、と思っていたでしょう? 普通の人はそうだけど、こうして幽霊になってしまう人間もいるのだ。
 母親はともかくとして、劣等感と世間に対する理不尽な怒りを持ち越して来た浪人生の幽霊は怨念系の悪霊になりそうで、僕には関係ないが、傍迷惑な存在だ。
 二人も死んでます、ではこれから先204号室に転居して来る人間はいないに決まっている。不動産屋にとっても傍迷惑な話だ。きっと瑕疵物件専門サイトでは赤い炎マークが付いているに違いない。
 僕は勉強机の上にノートPCが置かれているのを発見した。
「おい、そのノートPCちょっと貸してくれないかな。まだ生きてる?」
 まだ生きてる?の言葉に反応してノブヒコ君が険しい表情になって母親から離れて僕に迫って来た。死んだら少しは穏やかな気持になれないものか、と僕はうんざりした。
「皮肉を言ってるんじゃなくて、ⅩPかセブンかエイトかテンかと聞いてるの。まあXPでも今更故人情報がどうたら、ウイルスがどうたら関係ないけどさ。それともマック? ちょっと使わせてくれないかな。確認したいことがあるもんでね。駄目? 壁紙がヌードとかお気に入りが全部アダルト・サイトだからとか?」
「そんなことはねーよ」「じゃ、いいじゃないか、ほんの少し検索したいだけだから」
 しばらく押し問答を続けたが「ねえ、ノブ君、少しなら貸してあげたら?」の母親の取り成しで「少しだけならな」と話がついた。まったく年上に対して口の利き方がなっていない。
 少しだけならも何も、これから先は長いのだからケチケチしなさんな、と僕は思った。それよりも心配なのはPCのバッテリーだが、これと言った不都合もなく起動した。
 オカルト映画では幽霊が勝手にスマホやPCを起動させているから、こういう通信機器と幽霊は元々相性がいいのだろう。電源も入っていないPCが急にポワーンと起動したら、通常ではそれなりに怖い。
「で、何を検索するんだよ」
 上から首吊り用のシーツを巻きつけたままの浪人生が覗き込んで来る。僕の首にまで巻きついて来そうで鬱陶しいことこの上ない。しかしこいつはこれから先、ずっとこの鬱陶しい姿のままで幽霊界に存在する。
 これから自殺する予定の人がいたら忠告したいが、死に際は出来るだけ綺麗に死にましょう。死は綺麗なものではないが、少なくとも見掛けだけはきちんとしたいものだ。
 僕の場合は交通事故らしい悲惨さだったが、顔は大丈夫だったし、あちこち縫い合わせて貰っているので服を着ていれば見た目は問題ない。
 ところが鉄道自殺や飛び降りや猟銃で頭をふっ飛ばしたりすると、それはそれは見られたものではない姿で登場しなくてはならなくなる。親兄弟恋人だってスプラッタ幽霊には会いたくないだろう。
 幽霊自体が恐ろしいモノと認識されているのに、更に顔面崩壊や下半身ぷっつり切断姿で出現したら他の「まともな幽霊」にだって忌避されるに違いない。
 現に頭の上で自家製首吊り紐がさわさわと僕の首に触るのが嫌だ。それに下半身が汚物塗れで、その下半身が僕の背中に覆いかぶさっているのも嫌だ。
 それはともかく、霊力で起動したPCで僕は事故物件ばかり集めたサイトを開き、住所を入力してみた。
「あ、それって、何とかさんがやっている事故物件のサイトじゃねえの?」
「ビンゴ、だね、ノブヒコ君」
「気安く俺の名を呼ぶなって。姓は斎藤だ」
「斎藤と田中か。これで佐藤がいたら笑える」
「オフクロの旧姓は佐藤だ。笑えるか?」
「まあまあ、喧嘩しないの、二人とも。それよりも、事故物件ばかり集めたサイトがあるんですか?」
 興味を引かれたらしい母親までPC画面に顔を寄せて来た。幽霊三体がブルー・ライトを浴びてPCを見ているの図。シュールだ。霊感持ちの生者が見たら失神ものだ。
「何で事故物件ばかり載せた地図が必要なのかしら」と旧姓・佐藤の母親。
 世間知らずだ。もし自分が入居した部屋が事故物件だったら毎日がお化け屋敷状態だろう。事故物件に必ず幽霊がいるとは限らないが確率は高い。
 中にはそこに住む人をハッピーにさせてあげようと待ち構えている素敵で善良な幽霊がいるかも知れないが、僕が思うに、そんな霊はとっくに成仏している。
「あんた達は204号室で地縛霊になってるから他の部屋の状態は知らないだろうけどさ、何か変なんだよな、このマンション。一階も二階もからっぽなんだよ。あ、204は除く」
「いちいち煩いな、除く、除くって。前の吸血鬼は除く、って何だよ」
「吸血鬼は二度死ねるからさ。聖水と銀の十字架と杭があればね」
「オッサン、頭おかしいんじゃねえか? 日本に吸血鬼なんかいねえよ」
「そう思うか?」僕はにやりと笑ってみせた。
「じゃ、幽霊はどうなの?」と旧姓・佐藤さん。
「吸血鬼は言うなれば『死んだ振り』だけど、幽霊はきっちり死んでるからね。さて、どう思う? 僕が考えるに、自分で解決するか、霊能者とか坊さんに線香で燻されて強制送還じゃないかな。それとも近親者の守護霊にでもなる? それはそれで気苦労が多そうだけど。なまじっかの霊力じゃ守護しきれないで憑いた相手を死なせちゃったりしたら、相当落ち込むよ、多分。あんた達は地縛霊だからどこへも行けない。エンドレスで絞殺と首吊りを繰り返して見物人を驚かせるだけだと思うよ」
「そんなあ」と旧姓・佐藤さんが身を捩ったが、中年女に身を捩られても迷惑なだけだ。
 僕は事件事故物件をズームインして行った。住所入力は間違っていない。なのに建物がない! 代わりに『グリーン・マイル』という名のマンションが建っている模様。
 慌ててグーグル・ストリートビューに切り替えて確認した。十五階建ての新築マンションだ。はあ? 僕の脳は再びシェイクされた。ひょっとして不動産屋が言っていた高層マンションだろうか。
 僕達——この際だからもう僕達と言おうーーのレトロなマンションはもう無くなっていた。三年後に立ち退きと言われていたが、計画が早まったのだろうか。
 政治家は、と言うよりは日本人全般「前倒し」が好きだが、その前倒しで『グリーン・マイル』が建設されたのか? それにしても何というネーミングだ。
 トム・ハンクスのファンか。それともスティーヴン・キングの熱烈読者か。どうせなら『シャイニング』にすれば良かったのに。
 後と左右のマンション名を確認してみたがここで間違いない。つまり僕達は今、『グリーン・マイル』マンションにいる。
 いる、ってどこに?

浮遊霊と地縛霊


「オッサンの住んでたのは104号室だったよな?」
 浪人生がやけに意地悪そうに言った。
「104号室のあった所は今、駐車場だぜ」
「そうだな、一階部分は総て無くなって駐車場だ」
 今更確認するな。僕が104号室に居た時にはさんざん生活騒音を訴えたくせに。しかしそう言う浪人生の部屋もない。勿論スペースはあるが配置がまるで違う。
 浮遊霊の僕には関係ないが、こういう場合の地縛霊はどこに地縛しているのだろう。部屋にか、それとも『グリーン・マイル』の敷地か。
 敷地全体に憑くとなるとそれ相当の怨念パワーが必要だが必要だろうが、親子二人にそんなパワーがあるのだろうか。いや、ないな。
 僕はちょっと閃くことがあって建物の築年数を調べてみた。本年4月新築。それから半年しか経っていない。
 と言うことは、建て替えは予定通り、僕がロンドンで客死した後に行われた。これは何を意味するのか。僕は三年半もロンドンで幽霊をやっていたのか? 
 で、親子はいつ死んだんだ。今も204号室にいるのだから、少なくとも前のマンションが存在していた頃に違いないのだが。
 つまり僕が戻ったのは親子の幽霊が地縛している旧マンションで、他の部屋の住人がいないのは当たり前なのだ。
 思念を凝らして前の住民を探ってみたが、誰も『グリーン・マイル』には入居していない。優先的に入居出来るとしても家賃の大幅値上げは痛い。それぞれまた安い部屋を求めて退去したのだろう、と推察される。
 しかしまあ、何だって親子は今はなき204号室にいるのだ。地縛霊だから、と言ってしまえば見も蓋もないが、河岸を変えた方がいいような気がする。
 鬱陶しい首吊りの紐をさわさわさせてPCを覗き込んでいた浪人生も、僕が『グリーン・マイル』の空き部屋の見取り図や「築半年、駅から徒歩十分、近くにコンビニ有」の広告を見ながら何かを悟りつつあるようだった。
 僕は几帳面な性格なのでちゃんと手順を踏んでPCを終了した。Xpだったのであっと言う間にウイルスに集られただろうが、今更関係ない。
「あのさあ」「あのさあ」、僕と浪人生の言葉が重なった。「お前の部屋もないぞ。どうするつもりだ?」僕は尋ねた。僕の部屋が駐車場になった、と笑っている場合ではなかろう。
「地縛霊である限りあんた達は昔204号室のあった場所でしか存在できない。小説や映画ではそこに何が建とうと更地になろうと大怨霊となって永遠に瘴気を振り撒く霊があるようだけど、そんなのは稀だ。第一、あんた達にはそんなパワーや怨念があるとは思えないね。あるとしたら東大への未練くらいだろう」
「と、言うことは?」
「と、言うことはじゃないよ、ノブヒコ君。あんたが居るのは204号室じゃないってこと。行くべきは東大だろうが。安田講堂はどうだ? 赤門でもいいけど。それとも何か、是非204号室じゃなきゃいけない理由でもあるのか? 今からでもいいから東大に行けよ」
 僕とノブヒコ君の会話を聞いていた母親は『東大』の言葉に激しく反応した。死んでからも東大に執着している母親が一番の癌だ。
「お母さんもそう思いませんか? 今は存在しないマンションの204号室で陰気を溜めているより、何たって東大ですよね」
 僕は母親の方に焦点を絞った。僕的には親子がどうなろうと知ったこっちゃないのだが、乗りかかった三途の河の船だ。
 冷静に話しているつもりだが、実は僕自身も動揺していた。ロンドンで客死してから三年半も経っていたとは驚きだ。
 死んだら時間感覚もずれてしまうのだろうか。感覚的には一週間ぐらいしか経っていないのだ。感慨深い。死者の時間はそんなものか。
「ねえ、ノブ君、考えてみたんだけど、田中さんの言うように東大へ行ってみたらどうかしら」
 お、いいぞ、母親が乗って来た。どころが、
「東大じゃねーよ、マサチューセッツ工科大学だって言っただろうが」と実力過大評価のノブ君が言い放つ。生前からこんな誇大妄想を抱いていたのだろうか。
「まあ、そう言わずにまず東大へ行けよ。マサチューセッツ工科大学から講師が来ているかもよ。或いは留学を考えている院生とかがいるかも。そいつに憑いて行けばいいんじゃないか」
「でも幽霊じゃ単位が取れないじゃないか」
 御尤も。でもそれで引っ込む僕ではない。
「なんだよ、お前、勉強がしたいんじゃないのか? 単位を取るだけが目的か? 卒業しました、の肩書きが欲しいだけか? 小さい男だな」
 器の小さな人間は器が小さいと言われるのを何よりも嫌う。相手の目が吊り上ったが、そんなの気にしない。
「東大を目指していたなら当然三四郎池を知っているだろう? おいおい、理系だから知らない何て言うなよ。本郷キャンパスでは憩いの場所らしいぞ。オフクロさんと散策してみたらどうだ。こんな所で地縛霊やってるよりずっといいと思うぞ」
 と言っている間にも駐車場から二台の車が僕と浪人生と母親の体を通り抜けて行った。白と青のハイブリッド・カー。さすがに音も静かだ。僕を轢いたのはハイブリッド・カーではなかったことだけは確かだ。
「ノブちゃん、ここでこうしていても埒が明かないと思うのよ。第一ここにいたらずっと
息苦しいだけじゃないの。田中さんが言うように三四郎池に行ったら景色も良さそうだし、今より気分も良くなるんじゃない?」
「………」
 浪人生は灰色の長く伸びた舌のままで暫らく沈思黙考している。多分、204号室に籠って以来の自主的思考の時間だろう。
 浪人生と母親を助ける為、僕はお節介にも両者の首に巻き付いている紐を解いてやった。
うえっ、剥がれた皮膚が手に付着して気色が悪い。
「あのさあ、今はまだいいかも知れないけど、その内蛆が集った死体に変化しちゃうかもよ。まだ人間の姿を保っている内に決断したらどうよ」
「ノブちゃん!」母親が急かした。当然、女性の方が見た目を気にする。幽霊の時間は非常にスローリーだが、現実の時間がいつかは追いついて来る。
二人が死んで何日目か分らないが、発見が遅ければいつか腐乱死体になる。白骨死体になった方がまだビジュアル的にはましだ。
「分ったよ、オフクロ。確かにここに居るよりはましかもな。俺が東大に受かったら、その時、三四郎池を一緒に見に行こうかと思ってたんだけど、まあ、いいさ。これから一緒に行くか?」
「そうしましょう」と母親。ちょい、待ち、オヤジはどうなってんだ?
「オヤジって主人の事かしら。あの人はまだ生きているから一緒に行けないわね。二流大学出だから東大とは縁がないし、それに……」
「それに、って何?」と浪人生。
「ノブちゃんには勉強に専念して欲しくて隠しておいたんだけど、あの人ね、ずっと家に帰って来ないのよ。転勤先の職場で愛人が出来たらしくて、その女とホテルに入り浸り。まあ、その女も大学の英文科出身なのにまともに英語も話せないらしいから、お父さんにはお似合いかもね」
 自分の実力を把握出来ない馬鹿息子と、東大、東大と発破を掛け続ける妻と、只今浮気中の夫、と来たか。どこにでも転がっていそうな話だ。
「ふーん、あのオヤジが不倫ねえ。結構やるじゃん。で、俺とオフクロが死んじゃった今、その不倫相手と再婚でもしてるのかな」
「再婚する訳ないじゃないの。相手はノブちゃんと同じ歳よ。しかもその女には他に付き合っている相手が三人もいるんだから」
「なにそれ、オフクロ、何でそんな事知ってんの?」
「興信所に頼んで調べて貰ったのよ」
 傍にいる僕は出来の悪いサスペンスドラマの内容を聞かされている気がしていた。普通ならその女が殺されて、疑われるのは四人の男か母親か。
 おっと、母親は既に死んでいるから犯人は四人の男かそれとも隠し玉か。オヤジ以外の三人の男の誰かに捨てられて自殺した若い女の身内、とか。
「で、その女はどうなりましたか?」
 僕は思わず口を挟んでしまった。母親がきょとんとした顔で僕を見た。
「どうなりましたかって、相変わらずよ。女は男四人を手玉に取っているつもりかも知れないけど、男だって馬鹿じゃないから、尻軽女と知っていて体目当てで遊んでいるだけじゃないの。田中さん、何を期待してるの? 今時は男も女も醒めていて、切った張ったは馬鹿がすることよ。みんな割り切ってるものよ」
 はあ、と僕は溜息を付いた。でもまあ、そう言えるのなら母親は不倫相手の女に憑くつもりはなさそうだ。
「俺と同い年の女だって? へえ、男四人相手にしてるくらいならそれなりの美人なのかな。一目見てみたいね」
 これこれ、変な所に寄り道しなさんな。君の行くべき所はオヤジサンの愛人見学ではなく、三四郎池だ。
「美人じゃないわよ」と母親がぴしゃりと言った。
「声を掛ければほいほい付いて行くタイプ。ほら、興信所が撮った写真があるから、見なさい」
 どれどれ、と僕と浪人生は好奇心丸出しで母親が突き出した写真を見た。確かに、美人とは言えない。中の下、或いは下の上。
 男とホテルに入る一瞬を捉えた写真だ。ナイス・ボディでもない。僕は足首がきゅっと締まった女が好みだが、こいつは大根足。
 ただし、望遠レンズが捉えたどうでもいいような容貌の女の歯並びは気に入った。他の国では八重歯は嫌われるらしいが、日本ではそれほどでもない。
 女優とか歌手とかでデビューした時は八重歯の人でも、人気が出てくるにつれて歯列矯正をして理科室の骸骨の標本みたいに綺麗になってしまうが、一般人なら歯列矯正に掛ける金はないだろう。
 僕が注目したのは彼女の歯だった。丈夫そうで白いダブル犬歯。こんな歯を持った女なら相手を思い通りにして離れられない存在になるに決まっている。
「お、オッサン、随分まじまじと見てるじゃない。こういうのが好み?」
 浪人生が僕を茶化した。
「どこから見てもブスだぜ。それにいかにも頭がとろそうな感じじゃないか。オフクロ、オヤジも物好きなこった。それとも」と続けた浪人生は卑猥な言葉を羅列した。勉強そっち除けでアダルト・サイトを見ていたのだろうか。さすがに母親も露骨な言葉に顔を顰めた。
 僕が惹かれたのは数の子や蛸がどうのこうの、の海鮮丼の中身じゃないんだけどね。大体そんなの写真を見ただけでは分るまい。
「この女の名前は、勿論知ってますよね?」
「勿論知ってますよ。鈴木愛恋。愛と恋でエレンって読むらしいわね。流行りのきらきらネーム」
「えー、この顔で愛恋ってか。しかも鈴木? 笑える」
 確かに笑えるよね、ノブ君。田中に斎藤に佐藤に鈴木が揃った。もう間違いなしのビンゴだ。この四つの姓で日本の何十分の一くらいは制覇したかも。
 ところでさ、その笑える鈴木愛恋は僕の同類の一人だ。営業に行かせたらトップ・クラスだ。
 顔じゃなくて特別なフェロモンを出しているらしく、これと思った顧客は必ずモノにする凄腕の企業戦士だ。ホテルに入るのは道の真ん中で営業する訳には行かないからだろう。
 世間は狭い、とつくづく思う。往生際の悪い204号室の幽霊の話を辿って同僚の一人に行き着いた。愛恋は僕の留守中もしっかり働いている。幽霊になった僕を見たら何と言うだろう。
「愛恋って女は男を骨抜きにする女らしいのよ。まったく、どこがいいんだか」
 母親が憎らしげにぎりぎりと歯軋りした。いや、これは常套句であって僕は実際にぎりぎり歯軋りする人間を見たことがない。歯軋りするのは寝ている時くらいではないか。
 それに、愛恋は男の骨まで抜いたりしない。ひろ〜く、なが〜く、付かず離れずが営業のモットーだ。男の骨を抜く? 比喩でなければ一度は見てみたいものだ。
「ささ、鈴木さんの話はそれくらいにして、三四郎池の散策に出かけられたらどうですか。あまり鈴木さんの悪口を言っていると憑依霊になってしまいますよ。憑依霊になっちゃったらもっと腹が立つ場面に遭遇するかもしれませんよ」
 いい加減親子の相手に疲れた僕はさっさと纏めに入った。愛恋の背中に憑依させるのも面白いだろうが、そうするともっとえぐいものを見る破目になる。
 一方で、悪戯心が僕に愛恋に憑依霊を付けてみたらどうだ、と囁いている。性格の悪い憑依霊が付くと何でもない所で転んだりするそうだ。
 車に突っ込まれたり、人ごみでいかれた若者にナイフで刺されたり、親は早死にするわ、恋人は死ぬわ、莫大な借金を背負い込んだりと、それはそれは大変な、神も仏もない状態になる、と聞いたことがある。
 自称霊能者やインチキ宗教勧誘の脅し文句だけどね。あれ、ひょっとして僕が車に轢かれたのは僕を恨んだ憑依霊のせい、だったりして? 僕は憑依霊より弱いのか?
 その点、愛恋は鉄壁で隙がないから例え憑依霊が何匹(?)憑いてもびくともしないだろう。そもそも、営業の連中に憑依霊が憑いた何て話は聞いたことがないのだが……。
 心の中の葛藤はともかく、僕はそれからかれこれ幽霊時間の半日掛かって親子を説得して三四郎池に向かわせた。実際、もう親子には居所がないのだから仕方がなかろう。
 東大、東大、と連呼していたのに三四郎池の場所が分らないとのたもう浪人生の為に、もう一回PCを起動して地図をプリントアウトした。プリンターが生きていたのは奇跡的だ。
「えっと、オッサン、何だかんだあったけど、結構世話になっちゃたかもな。オフクロが感謝してるってさ」
 オフクロを通さなければ素直に感謝も出来ないのか、このマザコン、と思ったが、それはまあいい。
「田中さんはこれからどうなさるんですか?」
 母親が聞いてきた。さあてねえ、浮遊霊だから、雲と一緒の旅烏でしょうかねえ。僕は何も答えなかったが、親子はもう僕には関心をなくしたようでプリントアウトした紙を覗き込みながら立ち昇る煙草の煙のように上空へと向かって霧散して消えて行った。
 せいぜい東大を楽しんで欲しい。理系の見所も一杯あるよ。あ、それから、壁抜けする時は右肩から四十五度の角度でね。

幽霊なのか吸血鬼なのか


 
 僕はそれから『グリーン・マイル』を下から順番に見て回った。動物可のマンションに様変わりしていて犬には吠えられ、猫にはフゥーと威嚇された。どいつもこいつも太り過ぎだ。
 『グリーン・マイル』を出て暫らくすると腹が減ったような気持に襲われたので運良く駅前に止まっていた献血車に行って献血して貰った。
 幽霊になったら腹が空かない筈なのに生前の習性は抜けていないみたいで、輸血用のパックを一袋非合法に頂いてベンチでちゅうちゅう吸っていると気分が落ち着くし、頭もクリアになったような気がする。
 それからタクシーに無賃乗車して会社に向かった。外壁がシックな黒のバイオ関係の会社だ。バイオにも色々あるが、蘭の栽培とか青いバラ、の園芸関係ではない。
 会社の入口はホテルみたいに回転扉になっていて、そのガラスに『バイオ・ハザード』と金色の文字で社名が書かれている。
 まったく『バイオ・ハザード』って何だよ、といつも思う。映画か? これでは一般人が二の足を踏むに決まっている。もっともわが社を一般客が訪れることは殆どないが。
 僕らの同僚は一年、二年の出張はザラだ。しかしさすがに三年半ともなると気が引ける。
「お、田中、久し振りだな。お前、ロンドンに遊びに行っていて幽霊になったんだって?」
 三年半のブランクを感じさせない白衣姿の同僚がフランクに声を掛けて来た。こいつの姓は高橋。僕がいつまでも結婚しないのをからかったやつだ。
「守るべき者がいないから注意力が散漫になって車に轢かれたりするんだぞ。高望みしていないで適当なところで手を打って結婚しろって。いい女と結婚したって三年もすれば飽きるんだ。ってことはどの女と結婚しても同じだろ? 浪費家で意地悪で嘘吐き、でなければ御の字だろうが」
 おいおい、車に轢かれて幽霊になった、と知っていてその言い草はないだろう。心配はしてくれないのか。それに随分ハードルが上がっていやしないか?
「青臭いと言われても僕は胸がドキドキするような相手が見つかるまでは結婚しない」
 僕は白衣に着換えながら言い返した。少しだぶつくような気がしたが、胸ポケットに刺繍してある田中の文字を見ると何故か安心出来る。
「胸がドキドキねえ。それは完全に比喩だろうな。お前、ロンドンで臓器移植されちゃたんだろう? 心臓もどこかの誰かに移植されたって聞いているけど」
「ああ、お陰で体が軽い。最近太り気味だったからスポーツ・クラブに入会しようと思ってたんだけど、手間が省けた」
 僕は三年半前と同じ様に研究室のデスクに座って顕微鏡をセットした。体が軽くなった分、足を踏ん張っていないと椅子から浮かび上がりそうだ。技術部に頼んでシートベルトでも付けて貰うしかあるまい。
「スポーツ・クラブに入会する気だったのか。金の無駄だから止めろよ。それはそうと、心臓をやっちまったのは不味くないか? 僕達の心臓は、そのう……、普通の人間には重荷だろうが?」
 隣で高橋が僕と同じ様に顕微鏡をセットしながら何事かを考えている様子で言った。確かに重荷かも知れないが、もう移植されてしまったのだから仕方がない。
 僕の心臓は五百年のビンテージ物だ。主任の渡辺の物はもっと古くおよそ千年、中には二千年物の心臓の持ち主もいる。高橋は七百年。
「そう言えば、幽霊時間の半日前に鈴木愛恋の噂を耳にしたんだけど、あいつは何年物だ?」
「多分二百年くらいだろう。まだまだひよっ子さ。でも営業成績は抜群らしいな。一週間に一度は本部に血液パックが届く。二百ミリの小さいパックだけどな」
「顧客が四人らしいから、そんなもんじゃないか。一遍に四百ミリリットル行くよりは細く長くお付き合いしていた方が合算すると得だ。年中貧血で倒れていたら顧客自身が心配になって病院に駆け込むかも知れないからな」
「そりゃま、そうだ。ところで、幽霊時間って何だ?」
 高橋は顕微鏡を覗くでもなく、椅子に座って頭の後ろで手を組んでいる。
「いやそれが、幽霊になって気付いたんだけど、幽霊の時間は普通の人間よりずっと遅く進んでいるらしい」
 これはかなり興味を惹かれる事象であることは間違いない。特に地縛霊にとって時間はないに等しい。彼等は幽霊になった途端に永遠の時間を獲得する。しかも何の苦労もなしに、だ。
 しかも僕達のように仕事に齷齪する必要もないし、腹が空くこともない。ただじっとしていて、たまに波長が合うやつが来たら脅かすだけでいい。
「腹が空かない? それは嘘だろう。現にお前、血液パック盗んだろう。日赤から文句が来てたぞ。いやあ、済みません、新米なもので、と課長が電話に頭さげてたよ。彼らとは協定によってパックの盗難は禁止されている。お前、幽霊になった途端に協定を忘れてしまったのか」
 忘れちゃいないけど、僕は普通の幽霊ではなく、「吸血鬼の幽霊」であることに問題がある。そう簡単に吸血鬼の性分が抜けないのだ。
「悪い、悪い、つい手が出ちゃってさ。今の僕は吸血鬼でもあり幽霊でもある、という存在で自分でも混乱してるんだ」
「吸血鬼でもなく、幽霊でもない、とも言えるな。吸血鬼なら実体があるが、今のお前には実体がない。鏡に姿が映らない、とかいう問題ではないぞ。課長は前代未聞の状況に頭を痛めている。ウチは吸血鬼の為の組織であって幽霊の為の組織ではないからな。もし幽霊の組織があるならそっちへリクルートしたらどうだ? そっちへ移る気なら吸血鬼の時の記憶は全削除させて貰うそうだ。色々面倒だからな」
 前代未聞、なのか? 僕は焦った。言われてみれば今までこの世を去った吸血鬼は皆、不幸なことに心臓に杭を打ち込まれ、塵になって逝ったのだった。幽霊になった話は聞いたことがない。
 せっかく休み明けで出社したら自主退職を迫られている。高橋は哀れむような目で僕を見ていた。少しは心配してくれているのか、いつもより目が赤い。
「どうするんだ? 吸血鬼止めるか? 幽霊の方がずっと自由なんだろう?」
「………。いや、僕はお前や鈴木や小林課長を忘れたくない。好きで幽霊になったんじゃないんだ」
「じゃ、これから先もずっと吸血鬼でいたいってことか」
「だな……」
「そうか、良かったよ、それでこそ田中だ。伊達に五百年も吸血鬼でいる訳ないものな。実は小林課長からお前の本心を聞く様に言われていて、答え次第では渡辺主任がお前の記憶を抜く手筈になっていてさ、僕も辛い立場だったんだよ。吸血鬼でいる方がいいか。そりゃ良かった」
 高橋は僕の両手を握ると大袈裟に上下に揺すった。いささか芝居じみているが、高橋が心の底から僕の進退について心配してくれていた気持は伝わった。本来、吸血鬼同士が手を握る行為は有り得ないのだから。
「じゃあ、さっそくだけど、お前が吸血鬼でいたい、と答えた時のミッションだ。またロンドンへ戻れ。お前が心臓を提供した相手はもう突き止めてある。そいつからお前の心臓を抜いて来い。小林課長からのミッションだ」
「でもそうしたらせっかく心臓移植された相手が死んでしまうぞ。可哀相じゃないか?」
 誰が生きているやつの心臓を抜いて来いと言った? と高橋。
「これから先レシピエントが何年生きられるか分らないけど、人間てやつは百年も生きれば長生きと言われる生物だ。レシピエントが死ぬ直前まで待ってりゃいい。吸血鬼だからってぴんぴんしている人間の心臓を狙う程非情ではないさ。僕達の時間はたっぷりある。数十年待つくらい何でもないさ。だろう?」
「それもそうだな。ところでさ、今更ながらなんだけど、お前、僕の姿が見えるのか?」
「見えるよ。回転扉を通った時、スキャンされただろう? スキャン結果を技術部が可視化してくれてんの。技術部は優秀だな。僕は幽霊見えないタイプだけどさ」
 と言う訳で僕はまた僕の心臓を取り戻す為にロンドンに舞い戻った。レシピエントの後をくっついて歩いて健康状態を確かめている。突然心停止されたり転んだ拍子に突起物で心臓をぐさり、何てことにならないように。
 これでは僕はまるでレシピエントの守護霊みたいではないか。僕が幽霊になった時の場所にも行ってみた。相変わらずオッサンはいた。レシピエントはオッサンの直系の子孫だそうだ。ひょっとして僕を轢き殺させたのは……あんた?

第二章に続く


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