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掌編小説 【九品寺幻想】

        

阿佐野 桂子


 私は僧堂の片隅で女を待っている。
 降り始めた雨の中、女は顔を上気させ、小走りに駆け寄って来る。その手首には白い念珠が絡みつき、女の手を一層細く見せている。
「遅れてしまいましたわ、御免なさいね。庵主様のお話がいつもより長かったんですの」
 私は女の髪の雫を手で触れる。
「いったいどんな事をしているの、会というのは?」
「信者の方の信仰告白と言うのかしら。私はこうこうです、という発表があって、その後庵主様がそれについてお話なさるのよ」
「そして読経をして散会するんだね」
「ええ、今日発表なさった方は三十幾つかの女の方でした。御主人のお父様、叔父様とも肉体関係があるのですって。自分ではどう仕様もない、罪深い事だと泣いていらしたわ。私達みんなも貰い泣きしてしまいましたの」
 私は女の瞳が、流された涙で却ってきらきらと輝きを増しているのを眺め、その信仰告白がどの様な意味合いを持つものかを了解する。
「念珠をお仕舞いなさい。慌て者だね。そんな姿で走って来たりしたら、すれ違った人達はどんなに驚くだろう」
 女は微かに笑いながら念珠を外し、バッグの中に収める。指がしなやかに私の胸元に置かれる。
 私達は一つの傘を広げ、九品の仏達のいます三つの堂を巡る。

 堂内仄暗く金色の上品三体仏粛として座し給う。

「気付いてくれたかしら。口紅の色を変えましたの」
「いつから」
「ついさっき。今日発表なさった方のを借りましたのよ。どうしてもそうしなければいられなかったのですもの」
「衆合地獄の一日を閉じ込めてしまったのだね」
 女は怯えた目をして私を見る。女の唇は紅蓮の炎のように紅い。
「意地悪を仰るのね」
 女はつい先程仕舞ったばかりの念珠を取り出して震える指先に掛け、上品三体仏に合掌する。
 私達は上品の堂を離れ、人気のない道を中品の堂へ向かう。

 堂内仄暗く金色の中品三体仏粛として座し給う。

「君は上・中・下品、どこに生まれたいと願って堂を巡っているのだろう」
「そうですわね、上品上生が勿論一番いいに決まっていますわ。下品では蓮の花がなかなか開かなくてずっと待ち続けなくてはならないのですって。でも私などは上品に生まれたいなどとはとても願えません。怖い事ですわ。このまま地にのめり込んでしまいそうなくらい、重い業ですもの」
「その業とは?」
 女は答えずに中品の堂を離れ、私も密やかに後を追う。

 堂内仄暗く金色の下品三体仏粛として座し給う。
 
「では、どのような気持ちで仏に祈っているのです?」
「祈り……、祈りでしょうか。いえ、何を祈ると言うのでしょう。何も祈ってなどおりませんし、祈る事さえ出来ないのですわ。本当は死後どこへ行くかさえどうでも良いのかも知れません。私にはあなたの他に悔いはないのですから」
 女は鮮やかな紅を浮き立たせて振り向く。
「悔いはないと……。しかし御覧なさい。三千世界の無明長夜、奈落無限に降り続ける雨を。いったい、そこに果ては、果てはあるのですか?」
 女は唇を少し開いたまま俯き、白い念珠をまさぐり続ける。
 しかし今一時の雨が止めば、女は私の手に縋り付き、水溜りを跳び越して、夫の傍では見せたことがない幼い笑顔をつくる。

 堂内既に暗黒と化し金色の九品仏粛として座し給う。


【あとがき】
この作品は仏教説話として50年前に書かれたものです。

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