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長編ホラー【続・幽霊のかえる場所】 第五章(最終章)

阿佐野桂子

   



第五章

お銀さんの縁談

 あずみんは九月からフランス人が経営する洋菓子店で隔日三時間のバイトを始めた。バイトのある日は大急ぎで帰って謙信が用意しておいてくれたご飯を鱈腹食べてから出掛ける。
「謙信、ご馳走様でした」と殊勝な声が聞えるから、賀茂さんの説教が効いたのだろう。あずみんが少しでもぶつくさ言うとすぐに飛んで来たつくもさんも最近は姿を現さない。
 賀茂さんって、やっぱり凄いわね。つくもさんも安心してあずみんを預ける気になったみたい、と麻利亜さんが感心している。まあ、そうではあるけれど、洋菓子店の向かい側の歩道を行ったり来たりしている国語の教師風の女性は誰だ。
 洋菓子店はあずみんが来てから売れ行きが倍増し「あずみん、ふくのかみです」と喜んでいる。福の神じゃなくて龍神ですけど。きっと近隣の龍が買いに行っているに違いない。
 十月に入るとまたミツミネはお山に出掛けて行った。誰が吹聴したのか『三峯神社』はパワー・スポットとして大人気の神社だ。社殿の周りは人出が多くて空気が澱んでいる、と渋い顔をしながら帰って来た。
 ミツミネがお山にいる間結界の中にいたお銀さんが出て来て土産の固焼き煎餅をばりばり齧っている。謙信にはキジを五羽渡した。それ、日本の国鳥だって知っていますか?
「お銀殿、頼むから少し静かに食べてはくれないか。おまえに話がある」
「はあ、何だって?」
 お銀さんの見た目は若くて見目も麗しいが、食べ物が目の前にある時は別人格になる。ビリー・ミリガンのような多重人格とまでは行かないが、食事中は基本的に人の話を聞いていない。他の狼達も似たようなものだが。
 ミツミネは賀茂さんに言いつけられる前に自主的にお銀さんの食いこぼしを箒と塵取りで片付けた。婦唱夫髄もここまで徹底すると感動的だ。
 煎餅を全部食べ終わった家政婦姿のお銀さんがエプロンで口を拭った。煎餅を見るとお山を思い出すねえ、と今度は呑気に茶を飲んでいる。家政婦姿のくせに家政婦らしき事はなにもしない。
「お銀殿、宝子の守役もあと二ヶ月ほどで終わりだ。お山を離れて寂しかっただろう。感謝している」
「話とはそれか? 私は毎日腹一杯食べて満足しているよ。宝子は我等にとっても特別な子だからね」
 うむ、そう思ってくれるのは有り難い、とミツミネは軽く頭を下げた。おや、ミツミネ殿が私に頭を下げるなど珍しい、大きな台風でも来るかね、とお銀さんが元の見目麗しい女子人格に戻って微笑んだ。
「回りくどい話は抜きにして言うが、お銀殿、おまえは以前子が欲しいと言っていたな。縁談の話が降って来ているのだ。宝子の守役が終ったら縁を結ぶ気はないか。勿論、大口真神様もご承知の話だ」
「どこの狼だ。舞鶴の『大川神社』なら断わる。京都までは行きたくないからね。東男に京女と言うが、その反対じゃないか。それに京都は今、外国人で溢れかえっていると聞いている。観光業以外の京都人は辟易しているそうじゃないか。外国人が押し寄せて来るのを悪いとは言わないが、落ち着かないのは嫌だ」
 大川神社ではない。青梅の『武蔵御嶽神社』だ、とミツミネは辛抱強く答えた。青梅ならすぐそこ、東男と東女の組み合わせだ。悪くはあるまい?
「ほう、青梅の、か。それで相手は?」
「おまえの歳と見合う相手だ。何なら婿入りしても良い、と言っているそうだ」
 僕と麻利亜さんは興味津々で二人の会話を聞いていた。どうやら人間社会と同じように狼の間でも嫁取りや婿入りをしているらしい。狐の嫁入りならぬ狼の嫁入り、スクープ物だ。
 見目麗しいお銀さんが綿帽子を被って古式ゆかしく仲人に手を引かれて山を越えて行く。一幅の絵だ。やはり提灯は必要だろう。
「ほう、婿入りねえ……。ミツミネ殿、私がどんな男を好きか知っているかい?」
「おまえは面食いだと、皆は思っているぞ」
 おや、そうかい、とお銀さんは鼻で笑った。
「それは誤解だ。私の好きなのはミツミネ殿のような男だ」私か? と動揺するミツミネ。
「ミツミネ殿なら多少の事では怒らない。妻の言い付けは何でも聞く。未来永劫想ってくれる。それに子煩悩だ」
「私は、私は既に妻子持ちだがな」
 ミツミネが好きと言っているのではない。ミツミネ殿のような男、と言っているんだ。あんたはナンバー・ツーのくせして童顔だ。顔で言うなら渋いのがいいな、とお銀さんの注文は結構多い。
「狼の男は皆、妻子を大事にするではないか。私が特別妻の言いなりになっているのではないぞ」
 ミツミネが耳を赤くした。傍で会話に耳を傾けていた恐妻の賀茂さんが爆笑している。ミツミネは軽く見られているのか、感心な夫と思われているのか、微妙な線だ。
「と、とにかくだな、宝子が中継して武蔵御嶽神社の見合い相手の動画を送って来ている。見合いする気があるなら見てみればいい」
 昔のように見合いイコール結婚ではないだろうね。もしそうなら考えさせて貰う、とお銀さんがごねた。伴侶がは欲しいがいざそれが現実になりそうになると尻込みする女心ってやつか。
「いつの時代を言っているんだ。今は合コンの時代だぞ。稲荷神殿も合コンに参加したり結婚相談所に登録していたではないか。今の見合いはずっと気楽なのだ」
「ふーん、気楽な見合いか。ミラー越しに犯人と思われる人物を目撃者が面通しするようなものだな」
 それ、違うと思います、と訂正したかったが、神様関係者の話に口を出して、こちらまで火の粉が飛んで来るのは御免だ。お銀さんは刑事ドラマを見ているのか。
「お銀様、狼の育メン振りはミツミネで証明済みです。まあ、宝子が送って来た動画を見てみれば? 気に入るかも知れませんよ」
 賀茂さんがノート・パソコンをお銀さんの目の前に置いて起動した。画像は、大きな狼が玉垣の周辺を行った来たり、時々わおーん、と遠吠えしているものだった。
 後から覗き込んでいる僕にはどこかの動物園の画像にしか見えないが、お銀さんは真剣な表情で見入っている。わおーん、は求愛の言葉なのだろうか。
「『武蔵御嶽神社』の狼の中では若いが力のある狼だ。人間の世界では若頭と呼ばれる立場と聞いている」
 若頭って、任侠道の方々じゃあるまいし、と茶々を入れたくなったが口にチャック。ミツミネの行動を見ていると狼集団はそれっぽい。
「ふーん、四肢はしっかりしているし、体も頑丈そうだ。顔もいい。おまえとこの男が喧嘩をしたらどちらが強い?」
「私は他の群れの狼と喧嘩をしたりはしないぞ」
「いや、夫婦喧嘩をした時にミツミネ殿に仲裁に入って貰おうと思ってさ。どちらが強い?」
 夫婦喧嘩前提か、とミツミネが五分刈りの頭を掻いた。やってみなくては分らないが、六・四ではないか。
「六がミツミネか?」「まあ、な」「つくも殿とミツミネ殿ではどちらが強い?」「七・三だな」
「では黄神のだいき殿とは?」「それは、死闘になるだろうな。白狼殿が相手をすれば五分五分だろう」。
 おい、夫婦喧嘩に白狼殿まで巻き込むつもりか、とミツミネが青筋を立てた。
「だた聞いてみただけぇ」
「余計な事を聞くな。狼は人間のように妻に暴力を振るったりはしない。それに女の方が強い。私を見ていれば分かるではないか」
 自分が何を言っているのか気付いたミツミネが慌てて口を噤んだ。賀茂さんが再び爆笑し、飲みかけの茶をぶっと吹いた。
 やだ、鼻までお茶が入っちゃった、と鼻水を垂らしている。これがミツミネの恋女房だ。今日も明日もファッション・センスはゼロで、爆発頭で、どう見ても危ない人にしか見えない。
 しかし内面はミツミネが惚れるに足る人物だ。力関係は〇対十。ミツミネが圧倒的に惚れているのだから仕方あるまい。
「お銀様が気に入れば宝子が映像を繋いでくれるそうですよ。直接二人で話してみますか? 考えているだけなら何も進展しませんからね」
 台布巾で鼻を拭った賀茂さんがお銀さんを促した。相手はスタンバイ・オーケーらしい。
「それはいいけど、そもそも相手はどこで私を見ていたのだ?」
 これまた真っ当な疑問だ・
「なに、偶然嫁の欲しい男と夫と子が欲しい女が存在しただけですよ。これを縁と言います。普段はなかなか繋がらない縁が繋がったんだから、話をしても損はないでしょう。嫌なら断わればいいのです。選択権は女の方にあるんですからね」
 賀茂さんは押し切られてミツミネの妻になったのではなさそうだ。拾った子犬が長じて狼になった。その狼が夫になった。普通ならそんなファンタジーは違和感ありありだけど、これも縁か。
「じゃあ、話してみるから中継とやらを繋いでくれる? あ、恥ずかしいから一人にしてくれないかな」
 はいはい、準備OKです。私達は事務所の外にいるから。終了ボタンはここですよ、と賀茂さんはボタンの位置を指し示した。
 そして三十分後、会話を終了したお銀さんが出て来た。明日、ここに直接来る、ってさ、とお銀さんがミツミネに告げた。手答えあり。
「謙信、明日お客様が来るからご馳走を用意して!」と賀茂さんが台所に向かって叫んだ。

新郎は『武蔵御嶽神社』の大山殿

 ローン・ウルフという言葉を当の狼達は知らないのだろうか。次の日の夕方、『武蔵御嶽神社』の大口真神神社に仕える狼達が集団でやって来た。
 天空の神社と呼ばれていて本殿まではケーブルカーがある。それから先の奥の院までは『三峯神社』と同じ様にほぼ登山道だ。
「これはこれは青梅の衆、お会いするのは久し振りですな」とミツミネが挨拶している。事務所の中は狼でぎっしり。僕と麻利亜さんは壁にぺったり張り付いた。
「ミツミネ殿も息災でなにより。人間の女子と所帯を持って探偵事務所を開いていると聞き、いつか尋ねてみようと思っていたのだ。今回お銀殿と大山の縁が繋がってこうして参上した。まことに目出度い。何か土産をと思ったが急のことでな。仕方がないので米を持って来た。おっつけ到着する」
 若頭を呼びつけにしているから今喋り捲っているのが組長、じゃなくて、ボスなのだろう。神様関係者は米が通貨か。
 どっかーんと音がして廊下に米俵が到着した。二階は結界が巡らしてあって半分はこの世の物ではないから一階の住人には音は響かない。普通なら二階の廊下が陥没している。
「ミツミネ殿の隣に座っている前髪がぎざぎざの女子が妻女の保子か。はて、どこかで見たような顔だ。テレビに出ていなかったか」
 そうです、昭和を舞台にしたアニメの主人公のちびまるこちゃんです、と僕は心の中で正解を呟いた。
「で、保子の隣の幼子が宝子だな。お山に行って修行中。霊体が留守の間、実体はお銀殿が守っていると聞いている。神使いと人間の間に生まれる子は稀だ。よく育ったものだな。しかもミツミネ殿の薫陶よろしく優秀とのことではないか」
「お陰様をもちまして」とミツミネが神妙に答えた。今喋っている隣に控えている大きな狼がお銀さんの見合い相手の大山と思われる。宝子ちゃんを膝の上に抱いているお銀さんをさっきから横目でちらちら眺めている。
 神使いが動物かどうかは別として、犬も猫も正面から目を合わせるのは仲良くなる前は御法度だ。喧嘩を売っていると思われる。
「これが青梅の大山だ。毛並みも良く、頭も良い。お銀殿には相応しい相手と思うが」とボスが大山君を紹介した。人間の見合いなら「では私達は席を外しますので若いお二人でお話でも」と勧めるタイミングだ。
 僕の妄想では「御趣味は何ですか」「走ることです」「お好きな食べ物は」「シカとイノシシです」「子供は何人ぐらい欲しいですか」「一回に五、六頭かしら」、何てね。
 麻利亜さんが身じろぎしたので、どうしたの、と小声で聞くと賀茂さんが僕を睨んでいた。お怒りのポイントはちびまるこちゃんか、妄想か。両方怒っている可能性大だ。
 謙信、お客様へのお食事の用意は出来ているか、と怒鳴った。腰を上げて台所まで行けばいいものを、相変わらずがさつで面倒臭がりだ。
 はい、準備万端でございますよ、と謙信がお握りを山のように積み上げたお盆を持って現われた。次に出てきたのは蕎麦の海苔巻き。いつも握り飯は何故、と思っていた僕だが、本体を現している狼には一口大の握り飯が食べ易いのだろう。
「米は『ゆめぴりか』、蕎麦は戸隠様から送って頂いた物です。本場の信州蕎麦でございますよ。只今エゾシカ肉を焼いておりますのでもう少々お待ち下さい」
「なに、戸隠様からとな? 『ゆめぴりか』とはどこの米だ。それにエゾシカ肉はどこで手に入れた?」
 青梅の狼一堂、既に唾を飲んでいる。中には涎を垂らしている者もいる。神関係者はほんと、食い意地が張っている。
「私は道産子ですから北海道から取り寄せました。北海道ではエゾシカが増えて困っておりますので、間引かれたシカの肉が市場に出回っております」
「ほう、おまえは北海道の産か。最近、北海道の米は美味いと聞いている。それにシカ肉が手に入るとは羨ましい。ラベンダーの季節には丘一面が紫に染まるとか。一度見てみたいものだ」
 長老が乙女チックな発言をしながらせっせと握り飯を口に放り込んでいる。大山君も他の狼達も見合いの話など忘れたように食べるのに忙しい。お銀さんもここぞとばかりに握り飯と蕎麦の海苔巻きに手を伸ばしている。
 これからバイトに行くあずみんもいつの間にか晩餐に加わっている。「おや、そこの小娘は誰だ」と長老が訝しげにあずみんを見た。
「小娘とは失礼な。私は戸隠の『九頭龍社』の龍だ。名は安曇という。握り飯にはハチの子が合うよ。食べてみる?」
 あずみんは抱えていた瓶を大山に差し出した。げっ、と大山君は一歩引いた。昆虫食に慣れない者が見たらかなりのインパクトだ。僕も壜入りハチの子を見た時は気持が悪かった。
「何だ、それは。蠅の蛆ではないのか。信州の者は悪食だな」
「蛆ではない、ハチの子だと言ったじゃないか。信州の者は喜んで食べるよ。ほれ」とあずみんが大山君の口にハチの子を押し込んだ。
 うえっ、と大山君が呻いた。そして……。「おや、これはなかなかの珍味」とごっくんと飲み込んだ。
「大山殿は蝿の蛆だと言ったが、蠅の蛆も無菌状態で飼えば食えると聞いている。食糧難になったら蛆だろうがバッタであろうが食わなくてはならない。栄養価は高いんだよ。アフリカの部族は」と言うあずみんの言葉を大山君がやんわりと制した。
「天からの恵は総て有り難く頂くものだな。安曇殿の言う通りだ。しかし今はエゾシカ肉の方が良くないか?」
 青梅の狼も婦唱夫随体質らしい。握り飯を頬張っているお銀さんの目が笑っている。この分だと見合い成立だ。
 大量の握り飯が胃袋に消えた後にオーブンで焼いたエゾシカ肉が現われた。味付けは勘単に塩、胡椒にローズマリー。狼達は我先にと手を伸ばし、あっちでばりばり、こっちでばりばり。
 骨を砕き、肉を飲み込む音しか聞こえない異常空間だ。「うむ、春日大社様のシカより美味い」と誰かが言っている。
 『春日大社』のシカは神の使いだ。不敬な発言は誰だ? 勝手に食べてしまったのか、それとも下賜されたのか。多分下賜されたんでしょう。でなければ春日様がお怒りになる。
「謙信殿とやら、我等は満腹だ。実に美味い米と肉だった。道産子と言っていたが、どこの眷属だ?」
「『湯倉神社』の眷属でございますが、今はミツミネ様、保子様、宝子様にお仕えしております」「湯倉……。ああ、オオナムチノ神様とスクナヒコナノ神様が祭神でいらっしゃる神社だな。傷口には塩ではなく砂糖を塗るのが良いらしいぞ」
 なに、それ。ナショナル・ジオグラフィック辺りから仕入れたネタですか。
 ちなみに『三峯神社』はイザナギ・イザナミの両神が祭神だ。『戸隠神社』はアメノタヂカラオノ命。日本神話の有名どころが顔を揃えている。
「では、お銀殿と大山、これで双方の意思は固まったと見て良いのか」
 お銀さんと大山が同時に頷いた。
「そうか、それは重畳。婚礼は双方の神社で祭りがない時期にしよう。十二月の始め頃、『武蔵御嶽神社』で執り行うのはどうだ?」
「女子は色々支度があるから『三峯神社』にしてはくれまいか」とお銀さん。
「私は青梅でなくても構いませんよ」と大山君がすぐさま追従した。「お山は違えど、大口真神様の眷属。お銀殿が秩父で式を挙げたいと言うのなら『三峯神社』でもどこでも」
「これはこれは、もう女房殿の尻に敷かれているのか。宜しい、青梅のお方にはそのように申し上げる。ミツミネ殿、万端宜しく頼む」
「承りました」とミツミネが軽く頭を下げ、青梅の狼達は食い散らかしたまま帰って行った。後始末は例の如くミツミネの仕事だ。
 後始末を終えたミツミネは「お銀殿、宝子の守護を頼む」と一言残してまたお山に戻り、一時間も経たぬ内に戻って来た。
 女子の狼達はこれから婚礼の衣装を縫わねば、と大騒ぎし、さて、どこで絹を手に入れようかと思案しているらしい。
「白の絹か。それは私が知り合いの呉服店で調達しよう。宝子の守役を務めてくれているお銀様へのささやかではあるけれどお礼の気持です。早い方がいいね。どれ、これから具服屋を叩き起こしに行くか」
「保子、まだ七時だ。叩き起こさなくてもまだ起きている」
 賀茂さんはミツミネの言葉など耳に入っていない。
「おおばばさまが着物を作る時に利用していた店だよ。おおばばさまは目が肥えているだろうから一緒に行って貰うとしよう」
 せっかちな賀茂さんは私室からおおばばさまを引張ってくるとお銀さんと一緒にタクシーに押し込んだ。明日でもいいのに、と思う男二人は無視だ。
「私と保子は式も挙げなかった。記念写真もいらないと言ってな、そこに飾ってあるのは宝子が作ってくれた合成写真だ。保子らしいと思ったが、やはり白無垢を着たかったのだろうか」
 ミツミネがしんみりとした声を出したが、なに、ご心配なく。賀茂さんがいらないと言えば言葉通りいらないのだ。式を挙げなくても賀茂さんは立派な恐妻だ。
 十二月の上旬にお銀さんと大山君の挙式は無事終了した。僕と麻利亜さんは眷属でも何でもないので招待されなかった。ミツミネと賀茂さんは宝子ちゃんの実体を連れて参加した。
「それはそれは綺麗な花嫁さんだったよ。お銀様はもともと綺麗な女子だからね。それが目の回りがほんのり赤くなってゾッとするくらい美しかった。宝子が結婚する時はウエディング・ドレスより白無垢だね、ミツミネ」
「宝子はどこへも嫁にはやらん」と娘を持った男親の定番発言に僕達は陽気に笑った。
 お銀さんはまだ二週間程宝子ちゃんの守役が残っているので、一日お山で過ごしただけでアパートに戻って来た。また無意味な家政婦姿だ。当然の如く大山君もオマケに付いて来た。
 改めて人間と幽霊と兎と龍が同居する生活に目を見張っている。『三峯探偵社』の仕事にも興味津々だ。
 普通、神様関係者は幽霊など相手にしないが、数多の霊に親身に対応しているおおばばさまとばばさまの存在も奇異に映ったに違いない。大山君は幽霊が苦手のようだ。
 僕が二度も幽霊になったと知ったらどんな反応を示すのか楽しみだが、吸血鬼絡みの話なのでうかうかとは喋れない。『バイオ・ハザード』社の存在は神様にも秘密にしておきたい。

依頼人は『氷川神社』の一宇様

 宝子ちゃんの修行も残り僅かになったある日、事務所に中年で小太りの男がドアを開けて入って来た。全体的にアンニュイな雰囲気だ。
 たった今寝床から起き上がって、髪も整えずに急いで来た、としか思えないパジャマ姿だ。不審者として警察に通報されかねない格好で探偵事務所までどんな交通手段を取って辿り着いたのだろう。
 その不可解な男は賀茂さん達が昼食をかき込んでいるのを見ると、家政婦姿のお銀さんに「我にも食事をくれまいか」と当たり前のように要求した。この言葉使い、ご飯に拘泥する所、人間ではない事は確かだ。
 大山君は人間の格好をして昨日のエゾシカの頭の丸焼きから箸で器用に肉をこそげ落としている。やっている事はエグイが、顔は端正だ。イケメン狼なのだろう。
「おや、氷川殿、そのような格好で如何致しました」とイケメンの大山君が不審げに箸を止めた。やっぱり神様関係者。嫌な予感しかしない。賀茂さんが目配せしたので謙信は大急ぎで台所に向かった。
「それがじゃな、狼殿。大宮の氷川様から至急の用事で叩き起こされてな、着替える間もなく駆けつけた次第じゃ」
 氷川さんは昼まで寝ていたのを叩き起こされたらしい。神様は早寝早起きだったんじゃなかろうか。僕が親神様なら教育的指導のイエロー・カードだ。
「ここのところの冷え込みで風邪を引いてしまってな、玉子酒を飲んで寝て、寝過ごしてしまったのじゃよ。ああ、まだ頭が痛い。我の名はいちうじゃ。八紘一宇の一宇と書く」
「一宇様、ご飯の用意が出来ましたよ。お召し上がり下さい」と賀茂さんが勧めると「では遠慮なく。梅干はどこじゃ?」と一宇さんがテーブルの上を見回した。
「我は梅干がないと飯を食った気にならんのじゃ」
 急に現われたくせに注文を付ける一宇さん。謙信が再び台所へ飛んでいって「塩分控えめはちみつ漬け紀州南高梅」と書かれた梅干のパックを手に戻って来た。
 それから暫く沈黙の中で食事が続いた。一宇さん、急いでいるのではなかったのか。氷川様、と言えば『氷川神社』。関東地方では『氷川神社』が多い。
 急いでスマホで検索したら武蔵の国に二百社以上の支社を持つ、大宮氷川神社を総本社とする大きな神社だ。祭神はスサノオノ命。これまたビッグ・ネームだ。力業の御神威凄いんだろうね、多分。
 昼食を食べ終えてほっと一息、茶を飲みながら一宇さんが僕を指差した。
「おまえが過日、我に声を掛けた男だな? 今回はその縁あって来た」
「一宇様とご縁が? さて?」
「いつぞや我が社に参拝したではないか。夜は来るな、と言ったのは我じゃ。賽銭も入れずに立ち去りおって」
 駅からアパートまでの間に神社があった。そこにお参りしたのは覚えている。夜は来るな、と凄まれたから賽銭も入れずに帰って来たのだ。
 確かに『氷川神社』だったが、東京には『氷川神社』が多くて、特別意識して参拝したのではない。そこの神の分霊が押し掛けて来るなんて想定外だ。
 お銀さんと大山君はミツミネ側のソファーに腰掛けて一宇さんを見ていたが、禅僧が無の境地に入ったような顔をしている。つまり興味なし。二人は宝子ちゃんを連れて結界を張ってある六畳間に戻った。
「それで、氷川殿は今回はどのような御用ですかな」
 謙信がテーブルの上を片付けているのを手伝いながらミツミネが低音を響かせた。心地良い声だ。ミツミネが神父だったら信者はこぞってありもしない罪を告白しに来るに違いない。
 うむ、それじゃ、と言いながら一宇さんは僕の目の前でダークなスーツ姿に変身し、出勤途中のサラリーマン風になった。パジャマはどこへ消えた?
「一年前の事であるが、都内の『氷川神社』境内で女児が殺害された事件を覚えているか。大宮様は境内が血で汚された事にいたく御立腹なされた。ミツミネ殿も承知のように神は死穢をお嫌いになる。その上、犯人はまだ捕まっておらん。我らが天誅をくだしても良いのだが、殺された女児の為にもここは現世の司直の手によって裁かれねばならん」
「私も幼い子を持つ身ですからその事件なら覚えております。警察は犯行の手口から、五年前に起こった女児殺害にも関連があるのではないかと捜査を続けている、と聞きましたが、氷川様は犯人の目星はついておいでなのでしょう?」
「神社境内での殺人じゃ、当然その社の者が顔を見ておる。今からおまえの頭の中にイメージを送ってやろうぞ」
 イメージをキャッチしたらしい賀茂さんが顔を顰めた。イメージはミツミネにも僕にも伝わって来た。一年前の犯行当時は二十二歳の大人しそうな青年だ。
「警察が考えているように五年前もこの男の犯行ですね。一度目は発覚を恐れていましたが、捕まらずに自信を深めたようです。以前の犯行も神社でした。男の頭の中では神に犠牲を捧げているつもりでいるようですね。一年前も捕まらなかった。神が守ってくれていると思っています。間違いなく、近い内に次の犯行に及ぶでしょう。ミツミネ、次ぎは『武蔵御嶽神社』で事を起こす気でいるようだ。パワー・スポットと呼ばれる神社をターゲットにして神の力にあやかるつもりだ」
「罰当たりめ!」とミツミネが吠えたので一宇さんが一瞬ぎくりと身を震わせた。スサノオさんて武闘派だと思っていたが、一宇さんは夜起されると怒る程度の柔らかさなのだろう。
「保子、大山殿とお銀殿を呼べ。青梅の一大事だ」
 呼ばれた大山君は賀茂さんの能力を知らないから半信半疑だが、一年近く賀茂さんの傍にいたお銀さんはすぐに信じた。
「青梅が血で穢されるとはどこの馬鹿たれの考えだ。大山殿、保子の手伝いをしなさい」
「それは勿論、我が青梅のお山の事ですからお手伝いしましょう。えっと、その、お銀殿、婚礼も済んだ事だし、殿はやめてだいせんと呼んで欲しいのだが」
「そう言う大山殿も私を殿で呼ぶ。お銀でよいではないか」
「では、お銀」「何だ、大山」
 こら、何をいちゃいちゃしているのだ、と賀茂さんが立ち上がった。こちらの方が余程武闘派だ。代わってミツミネがソファーに腰を下ろした。
「お山の一大事ではあるけれどこれは人間世界の事件だ。青梅の長老だけには話しは通しておくけど、他の狼達には内緒ですよ。一宇様のお話を聞いた私達だけで片付けよう。大山様とお銀様には女児とペットの犬を連れた夫婦に化けて頂きたい。途中でペットのリードが離れ、女児が犬を探しに行って迷子になる」
「何でペットの犬連れなの?」とあずみん。
「ペットの健康長寿を願って参拝する人が増えているんだそうですよ。犬は狼の仲間ですからね」
 しかし、大山さんとお銀さんは人間界での戸籍を持っていないからなあ、と賀茂さんはまた思案を始めた。戸籍などいくらでも捏造出来るが、警察に事情を聞かれて、その後消えてしまうのもおかしい。
 人間の振りをして活動しているのはミツミネと謙信、あずみんだ。若い謙信とあずみんでは役不足。私とミツミネが親子連れになればいいのだが、あまり官憲とは係わりたくない職業だからね、と賀茂さん。
「人間の振りとは、どういう事だ」と大山君が尋ねた。この若い狼はお山から一歩も出ていない。
「戸籍、住民票、健康保険証、年金手帳、車の運転免許証、マイナンバー、諸々を持っているって事ですよ」
「………」
 やはりここは幽霊に助けて貰うかな、と賀茂さんはにやりとした。子供を不慮の事故で亡くして行くべき所へ行けない霊がいる。その霊に犯人の行動を監視させる。
 いざとなった時にSOSを発信して貰って偶然近くにいた人間に女児の保護と警察への連絡を頼む。犯人は取り逃がしてもいい。出来れば騒ぎを聞きつけた参拝者がスマホで犯人を撮影しておいてくれれば言う事なし。
「それなら私達は一切係わりなしで犯人を逮捕出来る」
「偶然誰かが通り掛かって、偶然誰かがスマホで撮影するのか?」
 一宇さんの疑問はもっともだ。幽霊を見張りに憑けるのさえ不可能に思えるのに偶然を二つ重ねるのは無理だ。
「そこが私の腕の見せ所です、一宇様。犯人に不穏な動きが見られた段階で急に青梅にペット連れで行きたくなった父親と女児と参拝者を用意致しましょう。神社で血を流させはしませんからご心配なく」
 そう答えると賀茂さんは青梅の長老に御札を飛ばし、私室に入って行った。子供を不慮の事故で亡くした母親の幽霊に指示を出しているのだろう。
「ミツミネ殿、妻女はあのように言っているが大丈夫か?」
「ご懸念には及びません。御存知ないかも知れませんが、保子は霊能者です。いざとなったら女児の代わりに犯人に襲われるぐらいの覚悟はしております」
「女児の代わりにか。確かに後姿だけなら女児に見えるかも……」あわわ、と一宇さんは口を閉じた。背が低い賀茂さんは遠目で見れば女児に見えなくもない、かも知れない。
 溌剌感がまるで違うけど、と思ったら、私室から戻った賀茂さんに頭をぽこんと殴られた。幽霊はたった今犯人の元に向かった。近々青梅に行きたそうな人物の手配も済んだ。仕込みはOKだ。

 それから数日後、テレビを見ていたら、『武蔵御嶽神社』で女児誘拐未遂事件発生のニュースを流していた。
 偶然居合わせた参拝者がスマホで撮った映像には犯人の横顔と、ナイフを投げ捨てる様子が映っている。これで面が割れて、指紋も特定だ。二人の女児を殺害した件もいずれ明らかになる。
 一緒にテレビを見ていた特命幽霊さんは満足そうに頷くと、そっと賀茂さんの髪に触れてから消えた。自分の子は失ったが、他の子を救えて気が楽になったのだろう。「またお子さんと会えますよ」と賀茂さんが最後の声を掛けた。
「ああ、ミツミネ、またタダ働きをしてしまったね。田中っち、あんたは疫病神だよ」
 幽霊には優しいのに僕は疫病神扱いだ。『九頭龍社』も『氷川神社』の件も僕が関係していたと言われれば返す言葉もないが、賀茂さんは根に持つ人ではない。
「明日はいよいよ宝子が帰って来る。お銀様、一年間本当に有難うございました。明日から大山様と一緒に青梅に行けますね。餞別は何にしましょう。好きな物を聞かせてくれませんか?」
「好きな物はこのアパートの食事とミツミネと保子だ。餞別はいらないよ。その代わり、青梅の長老に文を送ってくれないか。大山とも相談したんだけど、大山は婿入りするって言っている」
 婿入り、それはまたどうしてです、と賀茂さんが目を丸くした。
「大山はミツミネ殿を見ていたら婿入りもいいかな、と思ったんだそうだ。ミツミネ殿は人間と混じって暮していて、婿入りしたようなものじゃないか」
「そ、それはそうですけど、秩父では何と言っているのですか?」
「大山が加わる事に依存はない。白狼殿も既にご承知だ」
 白狼殿がご承知なら問題はあるまい、保子、青梅に文を送ってあげなさい。大山殿も改めて青梅の方々に挨拶をしておくように、とミツミネが話を纏めた。
 大昔から静岡の『山住神社』、埼玉の『釜山神社』、京都の『大川神社』とも嫁取り、婿取りをしていて、問題はない。京都はさすがに遠いが、新幹線も走っているしな、とミツミネ。
 そして賀茂さんの文が青梅に送られ、大山君は晴れて婿入りを果たした。それからは、面倒にも、『三峯探偵社』は狼達の結婚相談所と思い込んだ狼が時々やって来るようになった。
 おまけに、ここで話が纏まれば白無垢用の白絹が貰える、と思い込んでいるふしがある。
白絹がどのくらいの値段なのか知らないが、安くはあるまい。僕が懸念を申し述べると賀茂さんはからからと笑った。
「また我が家の家計の心配をしてくれているのか? ここだけの話だけど、おおばばさま御用達の呉服屋は敷地内に小さいながら社を建てているくらい代々稲荷神信者でね。先に稲荷神様とのご縁が出来たお陰で、私が行くと上等な絹を出血大サービスで分けてくれるんだよ。当人達は後で『ん?』と思っているみたいだけど、他の反物が売れているので損はしていない。商売繁盛の稲荷神様のお陰かね?」
 神様達は人間の考えの埒外にあるが、まったく無関心でもないようだ。恩を返すのではなく、手間賃感覚なのだろうけどねえ。
 では、氷川さんは何かしてくれるのか、と聞くと、
「子を亡くした幽霊が行くべき所へ行き、子と再会出来た。氷川様のお陰だろう。私はそう考えているけど?」
 いや、それは賀茂さんの手柄、と言おうとしたが止めた。余計な欲を持たない、見返りを期待しない、これが霊能者のあるべき姿だ、と普段から賀茂さんは言っている。賀茂さんが言うなら、それが正しい。

七星剣を授けられた宝子ちゃん

 宝子ちゃんは十二月二十四日、お銀さんと大山君に守られながらお山から帰って来た。当然のように眷属達も一緒だ。
 前日、「謙信〜、宴会の用意を頼む。あずみんも菓子を作ってくれないかな。神使い達は皆甘党でね」と少なからぬ額を渡して買物に行かせている。
「あ、それと大口真神様へのお神酒を忘れないようにね。今度は一升瓶ではなくて樽酒がいいね。北海道のお酒を気に入られたようだから、謙信に選んで欲しい。私はお酒が飲めないのでどれが美味しいのか見当もつかないからね」
 道産子の謙信は北海道の酒を誉められて喜色満面、どこかの酒造会社にファックスを送った。
 あずみんはベースは肉だが、見た目は一口大の菓子を大量に焼き上げた。あずみん流創作菓子だ。ベースの牛肉がレアな所がミソらしいのだが、僕から見れば気持が悪い。
「おとうさま、おかあさま、只今戻りました。ブログの暗号文字、読めた?」
 いきなりの暗号文字攻撃にミツミネと賀茂さんは頬を引き攣らせながら「お帰り」と答えた。一年間付きっきりで栄養補給させていたので体は元気そうだ。それに「おかあしゃま、おとうしゃま」が「さま」に代わっている。
「田中っちのおじさんも麻利亜さんもちっとも変らないね。相変わらずラブラブ?」
 一年間の間にどんな修行をして来たんだ、と言いたくなるような発言に狼達がどっと笑った。麻利亜さんの血の気のない顔がほんのり赤くなった。
 修行とは言っても毎朝社殿に参拝し、後はお山を駆け巡っていたらしい。延暦寺の千日回峰行ショート・バージョンか、アルプスの少女ハイジ・バージョンか。狼達に可愛がられていたのならハイジ・バージョンだろう。
「今日は目出度い日でもありますから、赤飯のお握りでございますよ」
 謙信が登場すると狼達の目は全員赤飯のお握りに集った。ます米を沢山食べさせて胃を満足させ、それから、が謙信のいつもの作戦だ。
「謙信殿、赤飯に小豆ではなく、甘い煮豆が入っているが」
「道民の赤飯は小豆ではありません」
「ほう、甘い赤飯など初めて食べる」
 何のかんの言いながら赤飯はあっという間に完食。
「秩父のお山に婿入りして良かった」と大山君が腹を撫でている。「おや、それが狙いか」お銀さんが詰め寄ったが、テーブルの上にカセット・コンロが三つ並べられると、また皆の熱い視線が注がれた。
「北海道名物、ジンギスカン鍋でございますよ。この鉄の帽子のような物の上で肉や野菜を焼きます。普通はニュージーランド産の羊の肉ですが、これは正真正銘、北海道産の肉です。味付けは二種類用意しましたのでお好みで。手隙の方、肉と野菜を焼いて頂けますか」
 誰も手を挙げなかったのでミツミネと賀茂さんが焼きを担当し、他の面々は食事専門となった。当然と言えば当然の展開だ。大山君は今、秩父に婿入りして正解、と心の底から思っているに違いない。
 賀茂さんは肉を焼き、自分でも食べるのに忙しい。宝子ちゃんも相変わらず大食いだ。
「宝子、もふっ、お山の冬は寒かっただろう? 持たせたしもやけ用の軟膏を、もふっ、ちゃんと塗ったか?」
「おかあさま、そのお肉焼き過ぎですよ。う、このトウモロコシはまだ生だ。おとうさま、そっちのしいたけを取ってくれる? 軟膏はちゃんと塗りました。塗ると手がほかほかしてくる不思議な軟膏で、白狼様のお手々にも塗ってあげたら喜んでくれましたよ。ずっと動かないでいると冷えるんだって」
 会話を聞いていたミツミネがふっと笑った。いつもきつい顔をして控えている白狼さんも冬は四肢の冷えに悩まされている、と知ったら同じ狼同士と思えるのだろう。
「それで、大口真神様とはお会い出来たのか」「ううん、おとうさま、御簾が風で動いた時に中が見えたけど、いらっしゃらなかったよ」
「ほう、神の実体が見える宝子がいらっしゃらなかったと言うなら、その時は居られなかったのだろう。どこをほっつき歩いて、いや、どこを遊行されていたものやら」
 神様だって引き籠りのニートじゃないんだから、年がら年中社にいるのは退屈だろう。秋葉原の集団女子の歌と踊りを見に行ったんじゃないの、と言ったらミツミネに睨まれた。冗談で言っているに決まっているでしょうが。
 謙信の用意した三頭分の羊の肉とトウモロコシやピーマンやシイタケやらの野菜は三十分も経たないうちに狼達の腹の中に納まり、いよいよあずみん手作りの菓子が供された。
「口直しに菓子まで出て来るとは、ミツミネ殿は気が利くな。しかも『九頭龍社』殿のお子の手作りとなれば寿命が延びる事、間違いなしだ」
 狼達の世辞にあずみんは思い切りそっくり返った。
 菓子学校を卒業したらフランスへ留学するんだよ、一流のパティシエになったその時は御代を頂くからね、と念を押している。
「では今の内にたっぷり頂いておかなければな。うむ、変わった味の菓子だが、旨い」
 狼達が菓子をたべている間に賀茂さんが皆に頭を下げて礼を述べた。神妙な賀茂さんを見るのは初めてかもしれない。神様を相手にしている時も丁寧語を使っているが、神妙ではない。どちらかと言うと楽しんでいるように僕には見える。
「いや、なに、礼を言われる程の事はしておらん。我等もミツミネ殿の秘蔵っ子と遊べて楽しかったぞ。お山の気に触れて宝子も自分の身は自分で守れるようになっただろう。白狼殿から護身剣を預かって来ている。大口真神様から宝子へ、とのことだ。では我々はこれで帰る。宝子、時々遊びに来るのだぞ」
 感動的シーンなのだろうが、狼達は相変わらず食べるだけ食べ、そのまま消えた。カラスがゴミを食い散らかした後の惨状にしか見えない。それよりも、
「賀茂さん、今、護身剣って聞えたけど、ひょっとして七星剣の守護剣?」
「そうだけど」賀茂さんは後片付けをするミツミネと謙信をなど目に入らないかのように宝子ちゃんの髪を撫でている。
「あの、将軍剣とか護身剣とかの聖剣の?」
「そう、それ。宝子、おじさんに見せてあげなさい」
 宝子ちゃんが見せてくれたのは武家の妻女が帯に挿していた短刀より更に小さな刀だった。全長およそ五㎝。玩具にしか見えない。
 伝奇小説やRPGでは引き摺って歩くような装飾過多の大剣の筈だが、これでは果物ナイフにもならない。やっぱり玩具だ。
「こら、田中っち、不敬な考えをしちゃいけないよ。秀吉が刀狩をしてからずっと日本では一般人が刀を持つのは禁止されている。銃刀法違反で捕まるじゃないか。だから、これはミニチュア・サイズになっているけど、いざと言う時は元の大剣になって宝子を守ってくれる。試しに持ってみれば?」
 僕は大喜びでミニチュア・サイズの護身剣を指で摘まもうとした。
「お、重いよ、賀茂さん。こんな小さいのに何でこんなに重いんだ」
「だーかーら、その重みがこの剣の本来の重さだ。レプリカだけどね」
 はあ、レプリカ? それなら意味ないじゃん。
「男達は大人になっても精巧なプラモデルを作って遊んでいるじゃないか。本物と違わぬのなら呪を唱えれば元々の大きさの飛行機や船になる。簡単な技だ。従って、ミニチュアのレプリカでもこの剣に掛けられている呪を唱えれば護身剣となる。フリーズ・ドライの味噌汁にお湯を掛ければ食卓の美味しい味噌汁になるようなものだね」
 プラモデルと味噌汁の例えは正しいのだろうか。確かにずしりとした手ごたえがある。
「小さいからテーブルの上に乗せたまま鞘を外してみなさい」
 僕はその辺に転がっていた爪楊枝を使って鞘を抜いた。刃渡りは四㎝くらいしかないのに、ぎらっと眩しい輝き。鞘は黒い漆塗りだが、鍔には虫眼鏡でしか見られないような文様が彫られている。
「これに呪を唱えれば護身剣となる。その呪を知っているのは宝子だけ。私やミツミネが持ってもこの剣は言う事を聞いてはくれない。ミツミネ、この一口(ひとふり)、常に身に着けておけるようにネックレスにしようと思うんだけど、チェーンの材質は何がいいかねえ」
「銀でよろしいのではありませんか」と謙信が答えた。「そうだな、銀がよかろう。銀は昔から魔除けとして使われている」とミツミネも賛同した。
「では明日にでもシルバー・アクセサリーの店を覗いてみようかな。宝子、今晩は久し振りにおとうさまと一緒に寝られるよ。寒い季節には足元にワンコがいると温かい」
 それを聞いたミツミネは片付けのピッチを上げた。あれまあ、ミツミネは寝る時は柴犬で、しかも湯たんぽ代わりなのか? 夏は暑苦しいから布団から降りろ、と言われていそうだ。神使いも形無しだ。

キリスト教系保育園に通う宝子ちゃん

 春になってあずみんは菓子学校の本科を卒業して専科に進学した。人には到底言えないスパイスを入れた菓子は、先生の間でも独創的と評価が高いらしい。
 フランス人が経営している洋菓子店でのバイトも続いている。フランス語は日常会話程度は聞き取れるようになった。習うより慣れよ、だ。ずっとイギリス人の守護霊をしていた僕も英語のヒアリングは出来るようになったが、帰国した途端に総て忘れた。環境は大事だ。
 ミツミネと賀茂さんは宝子ちゃんがお山へ行く前から幼稚園か保育園に通わせようかどうしようか、と相談していたが、どこも定員オーバーで断わられた。
 夫婦共稼ぎの子が優先で、賀茂さんは専業主婦と見做され、待機児童の枠にも入らなかった。超高額で超有名な私立の幼稚園も駄目。その幼稚園に入る為の「お受験」が必要だ。
 あれこれ探した結果、キリスト教系のボランティアが週二回開いている「キッズ・ルーム」に決めた。保育料は「お気持で」。
 見た目は普通の子に育って欲しいから、社会性を身に付けさせたいのだそうだが、キリスト教系で良いのか疑問だ。宝子ちゃんは生え抜きの神道系だ。
「なに、キリストさんだって日本では八百万の神々の一柱に過ぎない。寺の息子も来ているそうだからね」と賀茂さんは気にしなかった。大口真神から授かった護身剣をぶら下げた子供が紛れ込んでいるとは、牧師さんでも気付かないだろう。
 いや、「お気持で」の保育料を払う時、宝子ちゃんは二礼二拍手一礼しているそうだから、気付いているのだろうけど、「個性を重んじる」方針だからおやおや、と笑って済ましてくれている。
「宝子、人に向かって大口真神様のように礼をする必要はない。牧師はキリストの神使いだって? まあ、そう言えなくもないけど、人は人だからね。一礼するだけでいいよ。寺の息子はどうしている?」
「月に一度、お父さんの住職さんがお金を入れた封筒を持って来ます。お寺はすぐ近くだけど、子供にお金を持たせて歩かせるのは危ない、って」
 ああ、そうか、そういう考えもあったな、と賀茂さんは今頃気付いた様子だ。ミツミネ、と夫を呼んだ。半年前に買った中古車での送り迎えはミツミネの役目だ。
 賀茂さんの言いなりの夫だが、車の運転だけは譲らない。車のアクセルとブレーキを踏み間違える賀茂さんに車の運転は任せられない。「お気持料」を届けるのもミツミネの担当になった。
 これで牧師さんは二礼二拍手一礼を受けずに済む様になった訳だ。「キッズ・ルーム」の「個性を重んじる」保育システムは宝子ちゃんの性格に合っていたようで、出掛ける時はいつも楽しそうだ。
 しかしお友達が出来ても家には呼べない。賀茂さんが生まれた三階木造建ての家には墨痕凛々と『賀茂流霊能者協会』の看板が掛かっていて、小中高短大のいずれの時期にも友達を招待したりはしなかったそうだ。
 僕が訪れた時のその家は一階が居間兼客間、二階が各自の寝室、三階が道場になっていた。父親が亡くなり、兄の正樹が行方不明の現在は空き家だ。固定資産税は賀茂さんが払い続けている。
「あのさ、宝子、ウチが他の家と違うのは分かっているよね。だからお友達は呼べないの」と賀茂さんが申し訳なさそうに何回も言い聞かせている。
「分かっています。幽霊と吸血鬼のおじさんと兎さんと龍さんと狼さんがいるお家はここ以外にはないですもんね。誰かに気付かれたらみーんなここにはいられなくなっちゃう。だから宝子はお友達を呼べなくてもいいですよ」
 四歳児にしてこの度量。僕等が思うより霊能者の生活は大変だ。熱烈なファンがいる、それ以上にアンチ派がいる。いじめられたくなかったらこの家の事情は秘密だ。

賀茂さんの兄の死

 賀茂さんは博打好き、女好きの兄を敢えて探そうとはしなかった。それでも薄々どこにいて何をしているかは把握している。
 五月上旬のある夜、病院から正樹の入院について電話が入った時も冷静だった。半殺しの目に遭って路地裏で倒れていたのを保護された、と言う知らせだ。警察も動いているらしい。
「アングラ賭博で借金をして、締められたらしい。昔なら簀巻きにして大川へ、だねえ。正樹の賭博好きは一生治らないみたいだ。ミツミネ、馬鹿な兄でも様子を見に行ってやらなくちゃ。宝子と留守番していてくれる?」
「体の具合はどうなのだ」
「さあ……。邪まなパワーは落ちているようだね。とにかく私の兄には違いないから病院はすぐ来い、と言っている。事務手続きとかあるんじゃないかな」
 賀茂さんは行き先を告げるとタクシーに乗って病院に向かい、その夜は帰って来なかった。
 賀茂さんがいないアパートの二階は深海の底のように静かだった。一際鮮やかに発光しながら通り過ぎるのは宝子ちゃんを抱いたミツミネ、明滅しながら漂っているのは謙信とあずみん。僕はひたすら深海の暗さに溶け込んでいる。賀茂さんがキラー・ホエールでもいいから、僕等を陽の当る海面に浮かび上がらせて欲しい。賀茂さんがいない今が非日常だ。連絡もなく三日過ぎた。
「ミツミネ、賀茂さんが帰って来ない」
 僕は子供のように事実だけをミツミネに告げた。
「米の消費量が減っているからな。言われなくても分かっている」
 笑う雰囲気ではなかった。大食漢の宝子ちゃんもあずみんも丼飯のお代わりをしない。
「米が減らないって、そんな呑気な事を言ってていいのか。三日も帰って来ないんだよ」
 ミツミネのサングラスの奥の目が一瞬狼の目になった。片目がブルー、片目が金の神秘的なオッド・アイだ。アウトロー吸血鬼退治の時、狼に変身した時は茶色の瞳だった。どちらが本当のミツミネなのだろう。目はすぐにいつもの黒豆みたいな目に戻った。
「保子は今悩んでいるのだ。だが、呼ばれぬ内は行けない」
 そうよ、おとうさまはおかあさまが呼ばないとおかあさまの所への行けないのよ。おとうさまの人間世界での名をつけたのはおかあさまですもん、と宝子ちゃんが補足してくれた。
「何を悩んでいるのかは知っている。しかしまだ保子が私を呼ぶ声は聞えない。本来であればとうに片付いている問題だが、心根の腐った兄とは言え、肉親であるからな。宝子、おまえがおかあさまに声を掛けてくれぬか」
「おとうさまは一日でもおかあさまがいないと落ち着かないのね。離婚する、って言われたらどうする?」
「な、何を言っているのだ。保子は未来永劫私の妻だ」
 動揺したミツミネが慌てて答えた。宝子ちゃんは年々賀茂さんに似て来ている。おとうさまをからかう口調も一緒だ。
「それじゃあ、心で呼び掛けるのが駄目なら、スマホで呼んでみれば?」
「それが、いつも圏外になっている」
「おとうさまは見捨てられたのかなぁ」
 なに、とミツミネが肩を怒らせた。
「宝子、そんな事は絶対にない!」
 早熟な我が子にからかわれているミツミネはどこか滑稽だ。
「はいはい、冗談ですってば、おとうさま。私だっておとうさまと離れるのは嫌だし。あ、電話繋がりましたよ。もしもし、おかあさま、どうして私を呼ばない、とおとうさまが怒ってますよ。あ、そうなの? ふーん。分かった。じゃあ、これから病院に行ってもいい?」
 OKが出たよ、と宝子ちゃんが電話を切った。OKが出れば即、行動あるのみ。
 ミツミネが少し離れた駐車場まで車を取りに行って戻って来ると、僕と麻利亜さんもさりげなく同乗した。正樹君とは面識がある。
 あれ、四人も来ちゃったの、と賀茂さんは僕と麻利亜さんをちらりと見た。少し疲れているように見える、と指摘すると「コンビニ弁当を一日六食食べているんだけど、病院っていう場所は生気を吸い取られる場所だねえ」と溜息を付いた。
 兄の正樹は肋骨が何本か折れ、内臓にダメージを受けて二人部屋のベッドで死んだ様に眠っている。もう片方のベッドの患者は賀茂さんが到着した次の日に亡くなっている。老人だったので大人しく行くべき所へ行った。
「この人が伯父さん? 始めまして、宝子です。おかあさま、伯父さんの足元に黒い物が蹲っていますよ?」
「宝子にも見えるか。やっと大人しくなった所だ。これは悪霊の成れの果て。宝子は悪霊を見るのは初めてだったよね。ミツミネ、毛を逆立てなくても宜しい。他人に害を及ぼす力は今はない。武闘派の氷川様が手伝って下さった。途中に『氷川神社』があったでしょう。そこの社にお住いの方だ。私がタクシーから降りると子供が近寄って来て御札渡してくれた。その子が氷川様のお使いだ。悪霊は人間の二倍もの大きさだったが、氷川様の御札の力でやっと小さくなった」
 賀茂さんはミツミネが途中で買ったほかほか弁当を食べ始めた。海苔弁当が良かったのに、と文句を付けている。
「それで、やっと小さくなったのはいいのだけど、これは兄自身が生み出した悪霊で、これと兄の体が繋がっている。悪霊を退治すると兄まで死んでしまう。さて、どうしたものか、と三日三晩考え込んでいたんだよ。宝子の伯父でもある人だからね」
 賀茂さんが短大生の頃からずっと傍にいるミツミネは賀茂さんと生前のばばさまの稼ぎを当てにして紐生活をしている正樹を良く知っている。マネージメントと称して法外な値段を吹っ掛け、その金で遊んでいた。
「兄はさすがに人殺しまではしなかったが、殺したも同然の仕打ちを何度もしている。あちこちで女の子を引っ掻けては捨て、一人は子を宿したまま自殺した。二人は吉原の湯船に沈めたそうだ」
「お湯に沈めて殺したの?」と宝子ちゃんが首を傾げた。「いや、殺したのではないが、今のおまえが知らなくてもいい話だ」とミツミネが慌てて宝子ちゃんの耳を塞いだ。
 若い女性を人質同然にして賀茂さんから二千万円をせびり取った男だ。賀茂さんが家を出て行った後もしばらく自分も霊能者の振りをして効果のない御札を売ったり、信者名簿を悪用して詐欺を働いていた。
「人身売買まがい、詐欺、賭博、色々やったけど、悪銭身に付かず、だね。いつも借金に追われていた。私は兄の行状を知っていたけど、放っておいた。それを今、後悔している」
 賀茂さんが手を差し伸べたらまた金をせびりに来るだけだ。こういう厄介な親戚は縁を切るしかない。
 僕の五百数十年の経験では人を金蔓としか思っていない人間は死ぬまで変わらない。人情話ではドラ息子が心を入れ替える感動の物語が語られたりするが、稀だから語られるのであって、人間の本質は簡単には変わらない。
「ミツミネ、見てよ、このどす黒い悪霊を。どこかで憑かれたのなら落としてあげられるけど、これは兄そのものだ。御札で消すのはいつでも出来る。でもそれは、兄を死なせると同義だ。私が兄を殺せるか?」
「このまま入院させておいても後一ヵ月くらいしか持たないと思うが。内臓の損傷は重い」
 ミツミネが正樹の体に冷たい視線を送った。
 余命一ヵ月。このまま死ぬのを待っていればいい。しかしそれでは正樹は死後、悪霊そのものになる。賀茂さんは兄が悪霊になるのを望んでいない。もっと邪悪な悪霊に食べられるだけだ。
 ほかほか弁当を食べながら喋っていた賀茂さんが溜息を吐いた。さすがに肉親の行く末に心を痛めているのだろう、と僕も感傷的な気分になったが、
「田中っち、売店でお茶を買って来てくれないかな。食事の後にはお茶だよね。ホットでお願い」
 あの、溜息を吐いたのは弁当にお茶が付いていなかったからですか? そうですか。
 僕は気抜けして、私もお茶が飲みたい、と言う宝子ちゃんの手を引いて、麻利亜さんと一緒に売店へ向かった。病室は五階なのに売店は地下にあるらしい。
 あれはね、おかあさまがおとうさまと二人きりで相談したかったからよ、と麻利亜さんが宝子ちゃんに話し掛けている。本当だろうか。賀茂さんなら深刻な場面でも弁当を食べるし、食後にお茶を飲む。
 昼過ぎの売店は弁当、お握り、調理パンの陳列棚が空になっていた。店員さんも山を越えてゆったりしている。僕はペットボトルのお茶を二つ買った。
 エレベーターで五階まで戻るとおおばばさまとばばさまが正樹の枕元の両サイドに立っていた。普通、これを人間は「お迎えが来た」と称する。二体の霊はじっと正樹を見詰めている。
 ペットボトルを受け取った賀茂さんは宝子ちゃんを呼ぶと二人で空いているベッドに腰を下ろした。静かだが妙に緊張した時間が流れている。部屋が揺れた。地震? スマホのアラームは鳴っていない。
「ミツミネ殿、久しいな。おや、その子が秩父の山にいた娘か。以前見掛けた時は霊体が抜けておったが、そうか、無事戻ったか」
 忽然と現われたのはロックなだいきさんだった。今日は髪を赤色に染めてつんつんに立ち上がらせている。
「今日、夕方からロック・コンサートがあるのでな、その前に楽器屋でも覗こうと思っていたのだが、お前と妻女の声が聞えたので寄ってみたのだ。二人とも辛気臭い顔をしておるな。見た所、今にも死にそうな病人がいる。年寄りの霊も二体おるな。妻女の親戚か。おや、氷川殿の悪霊封じの御札があるな。如何致した」
「そこに眠っているのは私の兄でございます」
 空気の読めないだいきさんにお茶で咽喉を湿らせた賀茂さんが答え、宝子ちゃんの頭に手を添えてお辞儀をさせた。
「今日は、九頭龍社のだいき様。龍神様の髪はいつも赤色なの?」
「ん? 宝子には我の本体が見えているのか。しかし本当の名までは知らぬであろうな」
 宝子ちゃんが腕を伸ばし、指で空中に何かを書いて、赤髪の龍神ににこりと笑い掛けた。これは、と驚くだいきさん。宝子ちゃんは空中に龍神の名を書いたみたいだ。
「でも難しくて読めないんだよ。アラビア語みたいにも見えるけど。龍神様って、アラビア人? 三回も捻っているのはどうして?」
「三回捻っているのはな、……。これこれ、我が名を知ろうとするでない。知ったとて人間には発音出来ぬ音じゃ。我の妻になるなら教えてやらぬ事もない」
「だいき様のお嫁さんに? 私とだいき様では歳が違い過ぎます」
「それはミツミネ殿とおまえの母にも言えるな。見掛けの歳など関係ない。十五歳になるまで待ってやろう」
「でも私はおとうさまみたいな男の人が好きです。おとうさまは『三峯神社』では一番美しい狼なんです。それにだいき様みたいに沢山の奥さんを持ったりはしません。えっと、三回捻って、最初の文字は×××って発音するの? 随分長いお名前みたい」
 ミツミネは目を怒らせ、僕は脱力感一杯でこの無意味な会話を聞いていた。ロックな龍神は奥様を大勢抱えていらっしゃる。
 ところでミツミネ殿、とだいきさんは慌てて空中に書いてあるらしい文字を吹き消した。
「氷川殿から頂いた御札で押さえ込んであるその悪霊、さっさと消してしまえばよかろう。何を迷っているのだ。悪霊はその迷いにつけ込んで来るぞ。大宮の氷川殿のご好意を無にする気か」
「これは玉の緒が繋がっておりまして、厄介なのです。外から憑いたものではありませんから」
 ほう、肉親の情からすれば厄介じゃな、とだいきさんは嫉妬、恨み、怠惰、金欲、色欲の塊を面白そうにしげしげと眺め、どこにでもいる奴であるな、と感想を漏らした。当たり前だが、完全に他人事だ。
「おまえ達が解決出来ないのであれば、それを我に預けよ」
 返事も待たずにだいきさんはジャケットの内ポケットからガチャで出てくるような丸い玉を取り出した。
 おお、汚い、と言いながら二本指で悪霊を摘み上げて中に入れた。途端に医療機器がピーッ鳴った。心電図はフラット。
「氷川殿もさっさと片付けてしまえば良いものを中途半端な仕事をなさる事よ」
「だいきおじ様はそれをどうするの?」
「そうだな、ナノ単位まで細かくして海にでもばら撒くとするかな。人間がする散骨のようなものじゃ。ミツミネ殿の妻女、それで良いか。玉の緒を切ったのは我だ。これで悩む必要はあるまい?」
 だいきさんはチェシャ猫みたいににやにやしながら消えた。これで解決したのだろうか。看護士が飛んで来て、医者を呼びに行った。
「おかあさま、だいきおじ様は良いか、と聞く前に玉の緒を切ってしまいましたよ?」
 確かにね、と賀茂さんは宝子ちゃんの頭を撫でた。
「だいき様らしいやり方だね。宝子の伯父が死後悪霊となるのを防いで下さった。根は優しいお方だ。おおばばさまもばばさまもほっとした顔をしている。代々霊能者の家系に生まれて正樹伯父も辛かっただろう。神様を嫌っていたから、仏式の葬儀で送ってあげるとしようかね」
 こうして賀茂さんの兄、正樹三十八歳の一生は終った。賭博の借金は払う必要がないからこれはチャラ。強持ての兄さん達が来てもミツミネの発する気には敵わない。
 吉原にいた女性は賀茂さんが救出した。これは憶測だが、お風呂関係者にエイズ陽性反応の診断書でもでっち上げてチクッたのだろう。
 二人はそれぞれの故郷に帰った。勿論、二人の元々ある筈もない借金もゼロになった。正樹が原因で自殺した女性の霊は賀茂さんが引き取って『三峯神社』に預けている。
 以前『湯倉神社』のお守りを持っていた戸田遥香さんと同じ様に一年も境内の掃除をしていれば魂が軽くなって行くべき所へ行く、と最近の僕は確信を持って言える。
 正樹の骨は魂と同じ様に海に散骨された。最近はこの手の散骨も増えている。僕も麻利亜さんも賀茂さんに付き合った。帰りの船上でつくもさんらしき白龍が海の上を飛んでいるのが見えた。
 だいきさんに言われ見届けに来たのかも知れない。それとも海に下った兄を訪ねる途中か、飛行機雲を突っ切って跳ぶ龍は見惚れる程威厳に満ちていた。

雨よ降れ、稲妻よ走れ!

 人間一人葬るのには少なからぬお金が掛かる。健康保険に加入していなかったので入院費もそれなりの値段だった。『三峯探偵社』はしばらくフル回転していた。
 人探しでは実績のある探偵社だ。人には言えないが、電話で話を聞いた直後に大体の用件と尋ね人の居場所が分かってしまう。
 つまり賀茂さんが飛ばす御札の料金と交通費しか掛からない。入院費と簡単な葬儀費用はすぐに補填出来た。
 その間、『三峯神社』のお山ではお銀さんが六頭の子供を生んだ。安産を請け負っているのに難産で、最後の一頭は小さすぎて死産だった。三ヶ月を過ぎたら大口真神から名前を頂ける。
「あのさあ、混合ワクチンとか打たなくていいの? 狼が絶滅したのは犬からの感染病もあるって聞いてるけど」とミツミネに進言したら狼の目付きで睨まれた。犬との関係はデリケートな問題らしい。
 お山の連中はお銀さんが婚礼で使った白絹を解き、五頭の子狼が大口真神から名前を頂く時に着る式服を縫うのに忙しい。当分は事務所に押し掛けて来る状態ではない。
 賀茂さんは謙信に指示して大量の握り飯とブリの味噌煮を作らせ、ミツミネがそれを届けに行った。五頭の子はすくすく育っている。
 ミツミネはお山の仲間を親戚のように思ってくれている賀茂さんに心底惚れている。僕から見れば物事に拘泥しない天然呆けだと思うが、物怖じしない天然呆けも才能の内だ。
 謙信の情報によれば北海道ではイカは不猟だが、本来捕れなかったブリが大量に水揚されている。
「偏西風が蛇行しているのが原因らしゅうございますが、その内、本州でも田中っち殿の沖縄土産のような熱帯魚が捕れるようになるのでしょうね。東京湾では暖流に乗ってやって来た魚が死にもせずに棲みついているそうですよ。江戸前寿司に熱帯魚が登場するかも、ですねえ」
 朝の食卓では宝子ちゃんとあずみんが謙信の講釈を聞きながら残りの味噌煮で丼飯を食べている。その姿をいとおし気に眺めているミツミネだが、賀茂さんが起きて来るまでの間は半分魂が抜けたような顔をしている。
 この狼がお山ではナンバー・ツーでしかも一番美しい狼だとは信じられない。ナンバー・ツーはともかく、一番美しい、は宝子ちゃんの審美眼がミツミネ譲りでずれているに違いない。
「おとうさま、だいきおじ様から嫁になれ、ってメールが届いていますよ。十番目のお嫁さんが亡くなったんですって」
 宝子ちゃんはお銀さんの件以来、神使い相手の結婚相談所を立ち上げている。数々寄せられるメールの中にだいきさんのラブ・コールが混ざっていた。
「なに、あの黄龍がまだそんな事を言っているのか! 十番目の嫁が亡くなったから、だと? 世界一可愛い我が子を十番目の後妻に据える父親がどこにいる! ひとっ飛びして文句を言ってくれよう」
 賀茂さんなしに魂の半分にスイッチが入った。まあ、確かにだいきさんの嫁にやるのは問題山積だ。ハーレムに喜んで娘を差し出す父親はいない。
 沢庵を齧っていたあずみんがあはっと笑った。
「兄上の気紛れだ。構わずに無視していればいい。それに、兄上には妻は一人もいないよ。単なる噂だ。未だに独身で過ごしている。下の者達が心配で嫁を貰う心の余裕がないのだそうだよ。長男は父親代わりなんだって。自分がもてないのを下の者のせいにして欲しくないんだけどね」
「なに、だいき殿は独身なのか?」
 ミツミネの冷却装置が無事に作動した。
「そうだよ。今まで何回かお見合いしたけど、下の者達の面倒を見なくては、何て言っちゃってさ。相手の女子は九十九頭の龍がもれなく付いて来ると想像しただけで頭が痛くなるよね。それに内緒だが、だいき兄上は容貌が厳つ過ぎる。女子に振られるのは慣れているから、無視しとけばその内諦めるよ」
「だいきおじ様よりおとうさまの方が数十倍も美しいですよ」
 宝子ちゃんがミツミネを喜ばす発言をした。狼の容貌の基準なら犬を見ていれば何となく分かるが、龍神の美の基準はどこにあるのだろう。
 とにかく、だいきさんが聞いていたら涙目になるような判定だ。女子どもは幼い時からリアリストだ。
 あずみんが学校へ出掛けた後、ミツミネは宝子ちゃんのパソコンを自分の前に引き寄せた。結婚相談が気になるのだろう。加えて宝子ちゃんは超早熟児とは言え、まだ四歳だ。
「相談所はいいが、文句を言う奴はいないか? 会ってみたら印象が違いました、こんな筈ではなかったと、人間世界では詐欺紛いの行為もあるそうではないか。結婚相談所から発生した殺人事件もあったぞ」
「それは人間世界でのお話でしょう、おとうさま。不埒な神使い何て、いません。そんな神使いがいたら親神様からきついお叱りを受けるんじゃないのですか。火炙りにされたり、八つ裂きにされたり、チェーン・ソーで頭を切られたり」
 さすがに賀茂さんの娘、言う事がホラーだ。
「う……。さすがに神様はチェーン・ソーで頭を切ったりはなさらぬと思うが、神使いが不埒な考えでおらぬのは確かだな。それで縁談が纏まったケースはあるのか? 宝子は賢き子ではあるがまだ四歳だ。仲人は務まらんだろう」
「仲人なんてしてませんよ? お嫁さんやお婿さんが欲しい神使い様の動画をパソコンにアップしているだけです。後は気に入ったお相手がいたらそれぞれがアクセスすればいいのよ。裏の裏の裏サイトだからあちこちのサーバーを経由して管理が面倒だけど。だいきおじ様も登録してあります。でもあずみんの話を聞くと、本気でお嫁さん探しをしているんじゃないみたい。おじ様は三度の飯よりヘビメタが好き、なんですって」
「三度の飯よりヘビメタ? 事務所に来た時はむさぼり食っていたがな。それで宝子は無料で引き受けているのか?」
 普通の結婚相談所や婚活サイトではそれなりの入会金を払う。男子が高くて女子が安いのは女尊男卑だ、と僕は思っている。麻利亜さんは食い付き気味で画像を眺めている。画像だけ見ていると動物園のホーム・ページみたいだ。
 だいきさんの動画は今の所閲覧数が上がっていない。コメントはただ一つ。「兄上、馬っ鹿じゃないの?」つくもさんからのコメントだ
「雨よ降れ、稲妻よ走れ、我こそは九頭龍社の龍神であるぞよ」とヘビメタをバック・ミュージックに踊っていたら、そりゃ敬遠される。
 確かに馬鹿っぽい。つくもさんの動画はなかった。婿殿は自力で探すか、馬鹿兄の姿を見て結婚する気をなくしているものと思われる。
「お金は頂いてます」と宝子ちゃんが答えた。意外だ。ボランティアではないのか。
「ほう、宝子はもう起業したのか。頼もしい」
 同じ馬鹿でも親馬鹿が将来のビル・ゲイツを見つけたように喜んだ。上手く行けば何回転生しても我が子は億万長者だ。
「起業ってものでもないですよ。自撮りの動画を編集してアップするだけだもの。それに御縁があるように五円しか頂いてないし。神社のお賽銭は五円が多いんですって。神使い様達は親神さまから五円頂いて私のネット・バンクに入金してくれるの」
 ご、五円とな、とミツミネは絶句した。ビル・ゲイツになるには途方もない時間が掛かりそうだ。
「五円とはまた欲のない子だ。さすが私の娘だ。それで御縁のある者はいたのか?」
「まだ始めてからそんなに時間が経ってないから分からないです。でも動画のアップは狛犬様が多いかな。狛犬様って何で髪がカールしてるの?」
 直毛ロン毛の狛犬さんがいたら会ってみたいものだ。さすがにネットの時代だ。神使い達もネットで婚活をする。
 宝子ちゃんは「キッズ・ルーム」に行く日以外は事務所で本を読んだりパソコンをいじっている。暗号解読小説も進行中だ。
 ブログでは定年退職した大学の言語学教授の設定になっている。暇になったのでクロスワード・パズルを解くように暗号文字を楽しみましょう、というコンセプトだ。コアなファンは相手が四歳児と知ったら騒然とするに違いない。
 僕とミツミネが教えてやれるのは僕が不老不死の吸血鬼になった室町時代以降、ミツミネはお山の歴史くらいだ。これだけはネットで勉強しても実感出来ないリアルを教えてあげられる。
 賀茂さんが爆発頭のまま起きて来ると、昼食だ。僕は常々、あずみんと賀茂さんのどちらが大食漢なのか興味があるのだが、あずみんはもっと食べたいけど丼四杯で箸を置き、賀茂さんは丼三杯。
「こら、田中っち、何をじろじろ見ている。丼でご飯をたべてこそ人間じゃないか。宝子だって二杯は食べるよ」
 僕は『バイオ・ハザード』社が供給してくれる血液チョコレートと血液ガムで暮して行ける。吸血鬼の方が断然エコだ。もしも人間全員が吸血鬼になったらもっと地球に優しくなれる。
 でも吸血鬼小説のように吸血鬼に噛まれたからって吸血鬼になれるものでもないから不便だ。なぜ吸血鬼に変異するのかは研究中だ。人間にはまだ発現していない遺伝子情報が沢山ある。
 元同僚で、今は製薬会社に勤めている高橋の情報では吸血鬼のウィーク・ポイントの心臓を守る超薄型で超強力なプロテクターを開発中だそうだ。
 湿布薬を貼るようにぺたんと胸に貼れば杭を刺されても衝撃を吸収してくれる。転倒した弾みで胸に何かが刺さって死ぬ心配もない。
 但し、賀茂さんの持っている杭の威力まで防げるかどうかまでは分からない。プロテクターが完成しても僕は実験台になるのは御免だ。
 緊急案件が入っていなければ午後一時が探偵事務所は始動時間だ。留守電をチェックし、引き受けると決めた仕事はミツミネが折り返し電話を掛け直す。
 留守電の内容は「只今調査員は全員出払っておりますので云々」と数人の調査員が働いているような内容だが、調査員どころか従業員は一人もいない。
「なに、逃亡中の殺人犯の居所が知りたいだって? どこの警察からよ。警察が探偵事務所を頼っていいものかな。はあ? 『バイオ・ハザード』社のこばちゃんの名を出しているって? 警察の中にも吸血鬼がいるのか? まさか捜査一課課長とかじゃないよね。この前、『バイオ・ハザード』社の調査部の世話になったような気がするから引き受けようか。あ、思い出した。ソラマメ顔の女子の件だったね」
 賀茂さんはイワシのぴり辛煮を頬張りながら宝子ちゃんに話し掛けた。食べたり喋ったり忙しい。
「犯人はどこにいると思う?」
 うーんとね、と宝子ちゃんがグーグル・アースを表示した。「多分、ここですよ、おかあさま」
「どれ、伊豆の大島か。一応御札を飛ばして確認してみよう。ミツミネ、窓を開けてくれる?」
 賀茂さんは御札を飛行機みたいに折って空に飛ばした。御札は賀茂さんの式神だ。手足となって働く。
「宝子は賢い。伊豆大島で間違いないね。吸血鬼の警官には一週間とは言わず至急教えてあげよう。凶器を持ったままの殺人犯がうろちょろしていたら危ないからね。ミツミネ、こばちゃんに電話してくれる? それにしても何でまたわざわざ袋のネズミになるような場所に潜伏しちゃったのかね」
 ご飯を食べている間に依頼は終了。基本調査費二十万円プラス諸経費が小林課長の名で即、振り込まれた。届いたメールには「ご協力有難う。ところで、諸経費って何?(笑)」と書いてあった。
「で、次ぎは?」
「五十代の認知症の男が行方不明だそうだ。妻からの依頼だ。行方不明になってから一ヵ月経つ」
「五十代で認知症? それは気の毒だねえ。体力があるから遠くへ行っているかもだね。宝子、足跡を追えるか?」
 やってみます、と宝子ちゃんが再びグーグル・アースを操作し始めた。歩きなら一日せいぜい四十㎞、バスか電車に乗ればもっと遠くに行けるけど、あれ、おかあさま、大田区にある氷川様の前を通ったみたい。川を渡って、今、一人暮らしのお年寄りの家で保護されていますよ?
 何なんだ、この超常親子は。警察犬並みだ。この二人に目を付けられたら逃げ場はない。
目を付けられるような事をしなければいいだけの話だが。
「氷川様? ああそうだ、氷川様にお礼をするのを忘れていた。謙信〜」と賀茂さんが謙信を呼んだ。はいはい、とすっ飛んで来た。
「今頃北海道で採れる物はなに?」
 別に北海道に拘る必要はなさそうだが、謙信の顔を立てているのだろう。
「夕張メロンは如何ですか。初出荷の時は二玉で三百万円の値がつきます」
 賀茂さんがぶっとお茶を吹いた。ミツミネは窓枠にもたれながら賀茂さんに気付かれないように下を向いて笑っている。
「そ、そんな高価な物を……、いや神様に差し上げる物に高価も安価もないけれど……」
「ではヒグマ一頭では如何でしょうか。氷川様は武闘派だと聞いておりますからヒグマならお喜びになるのでは? 市街地をうろうろしているヒグマが一頭おりまして、近々駆除されます。猟友会に奪われる命、氷川様に差し上げても問題はありませんでしょう。それにタダです」
「それ! それにしよう。クマさんには可哀相だけど」
「ではそのように手配致しましょう。生で送っても宜しいのでしょうか」
「生? それは謙信に任せる」

 後日談。ヒグマは大宮の親分さんが飼っているそうだ。ヒグマ君、良かったねえ。
「おかあさま、それで認知症の男の方はどうします?」
 すぐに話が逸れるおかあさまを宝子ちゃんが仕事に引き戻した。
「警察には保護願いを出しています。ビラも配っているようですよ。保護しているお年寄りの家の前の電柱に貼っておきましょうか」
「それ! それにしよう」ついさっき聞いた科白だ。
「ところで、宝子、御札を飛ばせる力はついた?」
「いえ、まだです」宝子ちゃんはにこにこしながら答えた。さすがに御札を飛ばすのは無理じゃないか、と僕は思った。幾ら早熟でも宝子ちゃんはまだ四歳児だ。
「そうか。私がおばばさまに習って御札を飛ばせるようになったのは十歳の時だったからね。人の心を覗けるようになったのは十二歳の時で、それを糸口にしてちょいと人の気を変えることが出来るようになったのは十五歳の時だ。それが出来るようになったからと言って、宝子、その力を悪事に使ってはいけないよ。悪事に係わったら悪霊がハエのように集って来る。以前、おばばさまに呪殺を依頼してきた者がいた。その者の末路は」
 と説教しながら賀茂さんは御札を折って窓から飛ばした。一週間後に依頼人は『三峯探偵社』で尋ね人と会えるだろう。
「ご依頼、引き受けました。午後、お時間がありましたら、事務所にお出で下さい」とミツミネが電話をしているが、既に依頼は解決済みだ。依頼書を書かせるだけだ。
 こんな探偵業なら僕もやってみたいが、賀茂さんは命を削っている。賀茂家の女性は長生き出来ない。宝子ちゃんが成人する時まで生きていられるかどうかだ。
 でも賀茂さんは自分の寿命など気にしていない。いつでも「今が一番幸せ」なのだそうだ。ミツミネも多分、今が一番幸せだろう。
「で、次ぎは?」
「今日はこのくらいにしておけ。がつがつ稼ぐ必要はないぞ」
 そうだね、では宝子の為に夏休みはどこへ行こうか考えよう。去年はお山で修行中だったからね。宝子、どこへ行きたい? と賀茂さんが尋ねた。
 麻利亜さんが「旭山動物園」と僕にプレッシャーを掛けて来る。行動展示で有名な動物園だ。白熊がプールで泳いでいる姿を透明なトンネルから観察出来る。シンリンオオカミのファミリーもいる。
 里帰りはしないでいいの? と聞いたら小樽で何をしていたのか、実家はどこだったか、年々記憶が薄れていて思い出せないの、と哀しい事を言う。賀茂さんと同じ様に「今が幸せ」なのだそうだ。そう思っていてくれるなら嬉しいが。
「という麻利亜さんのリクエストで僕達は旭山動物園に行く。賀茂さんは? 早く予約しないとどこも一杯になっちゃうよ」
「宿の心配はしなくてもいいぞ。キャンピング・カーを借りる手もある。目的地を決めずに走るのも良いな」
「それともまたハワイにする?」
「おとうさまは暑い所が苦手ですよ?」
 会話だけ聞いていれば普通の家族だ。
「私ね、お銀様の子供に会いたいな。それから大口真神様の社を全部見たい。狼さん達は優しいもの」
 おお、そうか、ではキャンピング・カーを借りてお山巡りをするか。保子、宝子の案でいいか、とミツミネが賀茂さんに承諾を求めた。
「そうだね、おとうさまも狼の群れが恋しいだろうから、それでいいよ」
 珍しく夫唱婦随だ。と言うより、青梅以外の狼達に宝子ちゃんを会わせて置きたいのだ。狼達は必ず宝子ちゃんの力になってくれる。夏休みはお山巡りに決定。
 僕は『バイオ・ハザード』社系列のレンタカー会社に電話を入れてミツミネの名でキャンピング・カーの予約をした。最近はレンタルのキャンピング・カーも人気で、大型が一台残っているだけだったが、トップに代わって貰うと社員割引で確保出来た。
「あずみんと謙信はどこも行かないの?」
 宝子ちゃんが心配しているが、あずみんは留学で頭が一杯だし、謙信はハウス・キーパーだからアパートに残ってあずみんの世話をしなくてはならない。
 謙信、可哀相、と宝子ちゃんが同情している。そもそもご飯さえ炊けない女どもがいけないのだが、昨今はそれを言うと「女だって働いているんですよ。やりたい事だって一杯あるのです。女は家事、育児、介護の為に生まれて来たのではありません!」と怒られる。確かにそうだから返す言葉がない。

 ドッカーンと音がしたと思ったらだいきさんが現われた。ミツミネのライダー・スーツが制服になっているように、だいきさんもヘビメタの格好が制服だ。変わっているのは頭の色とアクセサリー類だ。
「未来の我が嫁は夏にお山巡りか? 心掛けの良い子じゃ。我も同道致そうか。宝子の縁がなければ滅多にお山に足を踏み入れられぬからな。我も狼達に会ってみたいものじゃ。婿が一緒なら狼達も文句は言えまい?」
 相変わらずずれているが、ミツミネはあずみんからだいきさんの性格を聞いているので、以前のようには反応しない。むしろ無反応だ。
「謙信〜、だいき様がいらっしゃった。夕飯は多めに用意して」と賀茂さんが台所にいる謙信に声を掛けた。「おお、気が利く妻女じゃ」とだいきさん。ちゃっかり夕方まで居座って食べる気でいる。
「ここの飯は美味いからのう。途中で『三峯神社』の杉の爺殿の所へ寄って来た。以前はペット・ボトルで送っていたそうだが、今は水道を捻ると霊水が迸るそうじゃな。どうじゃ、龍神の霊水で焚く米は美味いであろう」
 「我が未来の嫁」は「あおによし」やら「たらちねの」と同じ枕詞になりつつある。だいきさんはミツミネの座っているソファーの対面に腰を下ろした。重量制限を守っている。
「だいきおじ様、今日は何の御用?」
 皆が知りたい問いを宝子ちゃんは遠慮なしに尋ねた。
「我が未来の嫁の宝子よ、実は安曇についてじゃ」とだいきさんは素直に答えた。
「安曇は十月に専科とやらを終えたらふらんすに留学すると言っていたが、その決心は変わらぬのか」
「変わらぬどころか最近はとみに溌剌としております。最近はフランス語の勉強にも励んでおりますよ」
 専科に入学してからはバイトがない日でも洋菓子店に通ってフランス人夫婦にフランス語を教えて貰っていて、たどたどしいフランス語で話し掛けられる謙信は大いに迷惑している。賀茂さんの言葉にだいきさんはうんうん、と頷いた。
「まさか安曇が本気で、龍神史始まって以来のパティシエになろうとは思ってもみなかった。あれは飽きっぽい性格でな、親父もその内熱も冷めるであろうと言っていたのだが、まさかふらんすまで行くとは。碁敵の諏訪殿相手に愚痴っている」
 諏訪殿とは多分、全国に二万五千社以上あると言われている『諏訪大社』だろう。タケミナカタノ命とその奥方を祭っている。諏訪湖の回りに四つのお宮がある。これまたビッグ・ネームで、しかも軍神だ。
 どうやらあずみんはまだ正式に親神とは向き合っていないようだ。掌中の珠と甘やかしている末っ子を一人でフランスまで留学させるだろうか。
「あずみんにはきちんと親神様に承諾を頂くよう、食欲がなくなるくらいにきつく言っておきましょう」
「お? 食欲がなくなるくらい、とな。それは恐ろしい。我も一度女子にきつい事を言われてみたいものじゃ。唯々諾々と従うだけの女子は面白くない。ミツミネ殿の妻女は我の好みじゃ。ミツミネ殿と別れて我の妻にならぬか」
「だいきおじ様、九頭龍様があずみんを一人でフランスに行かせるのが心配なら、誰か一緒に行ってくれる人を探したらどうですか?」
 能天気な龍神の発言に宝子ちゃんが割って入った。冗談でも自分の妻を所望されて黙っている男はいない。僕が座っている事務椅子の角度からはミツミネがサングラスの奥の目を三角にしているが見える
「つまり安曇に護衛を付けてふらんすに行かせる、と。ふむ、それなら親父も少しは安心だろう。さすが我が未来の嫁。賢い子と性格のきつい嫁を持ったミツミネ殿は幸せじゃ」
 鈍感なだいきさんはミツミネの怒気に気付いていない。こういう兄を持った残り九十九頭の竜神達は内心はらはらしているに違いない。

 三時になって謙信が紅茶を運んで来た。お茶請けはトラピスト修道院のクッキー。函館土産の定番だ。賀茂さん、宝子ちゃん、だいきさんが一斉に手を伸ばした。
「それで、宝子よ、護衛に相応しい者はいるか」
 それくらい自分で考えなさいよ、だが、だいきさんは四歳児相手に真剣だ。クッキーはあっと言う間になくなった。
「だいきおじ様、フランスまで行ってもいい、と言ってくれる暇な神使いはいますか?」
「暇な神使い? うーむ、そのような者はいないと思うがな。ぼーっとしているように見えて皆それぞれ忙しい。親神様のご命令がいつ下るか待機中じゃ」
「では暇だから日本を留守にしてよいと仰る神様は?」
「神様が不在では困るであろう。神様がお出掛けになるのは神無月だけじゃ」
「あれ、本当に神様達は出雲で縁結びの相談をなさっているのですね?」
「一応そうじゃ、ミツミネ殿の妻女よ。しかしまあ、それは口実でメインは宴会じゃ。人間の縁結びなど本来我らにとって興味がない。良縁に恵まれても破談する時はするものじゃ。腐れ縁にしがみつく愚か者もおるしな」
 その腐れ縁を切って欲しい、と縁切りを専門にしている神社もあるが、神様は関与していない。縁切りを願う時点で決心はついているからだ。相手がストーカー化したらそれは人間界の警察の出番だ。
「つくもお姉様はいつもあずみんの心配しています。つくもお姉様じゃ駄目ですか?」
 親父は、安曇ばかりかつくもまでふらんすにとは考えないだろう、とだいきさんは否定した。一人でも心配なのに二人ともなるとゆっくり碁を打っているどころではない。
 諏訪さんと碁を打つ時間があるなら暇そうだが、それとこれは別、と言われても、何だかな。碁打ちが仕事か? 神様らしいと言えば神様らしいが。
「ちょっと失礼します」と賀茂さんが席を立って私室に向かい、五分くらいで戻って来た。
「だいき様、ヒッピーと呼ばれる人種がいるのをご存知ですか?」と開口一番意味不明な質問。
「ヒッピー? 数十年前に聞いた名だな。あめりか文化の真似をしておった長髪の人種であろう。もう絶滅したと聞いておるが」
「今は名を変えてまだ存在しておりますよ。で、そのヒッピーですが、世界征服……、じゃなかった、世界を見たい、と各国を旅して歩いた者がおります」
 ほう、それで? とだいきさんは幾分前のめりになった。
「それで、あ、断わって置きますが、女子でございます。それでですね、その者、たった一人で貧乏旅を続けましたが、途中で消息を絶ちました。つまり亡くなったのです。女子の一人旅ですから狙われても仕方ありませんね。その霊体だけが戻って来て、只今我が家に止宿しております。まだ旅を続けたいそうで、これをあずみんのお供に付けるのは如何でしょうか」
 ミツミネ殿の妻女よ、それは幽霊と呼ばれるものではないか? とだいきさんが大きな手を広げて賀茂さんを制した。
「我が妹に幽霊を憑ける、とな? 我は幽霊が嫌いじゃ。いつも背中がぞわぞわするのは御免だ。霊能者は幽霊を操れるのか」
「暇な神様も神使い様もいらっしゃらないのでしたら、年中暇な幽霊をお使い下さい。操るのではなく適材適所でお願いしているのです。ぞわぞわしないように言い聞かせて置きましょう」
「そこの事務椅子に座っている男には幽霊が憑いておるが、背筋が凍る事はないか?」
「いえ、とんでもござません、妻ですから。それに私は背中が冷や冷やするのが丁度良いのです」
 真面目に答えたつもりだが、そうか? とだいきさんは懐疑的だ。それに、
「女子一人で旅をするなど、浅薄で力のない幽霊ではないか。可愛い安曇の供は出来ぬ。また殺されそうではないか」
「それに関しては死ぬ程後悔しております。それに第一、あずみんは旅をするのではありません。フランスの学校の宿舎に寝泊り致します。外をふらふらする余裕などないでしょう。第二、仰る通り、幽霊はあずみんをお守りする力はありません。しかし幽霊と私は常に繋がっておりますから、幽霊からSOSが発信されたらすぐに私が対処致します。遠隔地では見極めが付かない時もありますが、これは直通電話のようなものです」
 国内でも御札を飛ばす時は体力を消耗しているのに、フランスまでとなれば相当疲れるに違いない。しかしだいきさんは霊能力者にも限界があるとは気付いていない。
 ミツミネの妻女は安曇を守ってくれるのか、それは有り難い、と喜んでいる。あずみんだって立派な龍族なのだから自分の身は自分で守れるくらいの霊力を持っているだろうに。
 勇ましい妻を見て、まったく保子は……、とミツミネは呟いたが、身を削ってでも力になるのが霊能者の務め、と常々聞かされているからその後は何も言わなかった。SOSが発信されないよう祈るだけだ。
 夕方、あずみんが「腹減ったぁ」と言いながら帰って来た。いつも夕飯を食べてから洋菓子店に行く。
「あれ、兄上、また保子さんの所で油を売っているのか。暇だねえ。兄上も動画サイトで踊っていないで、勉強したらどうなの?」
「勉強とな? 何をすればいいのだ」
「そうだね、公認会計士とか?」
「こーにんかいけいし、になったらどうなるのだ」
「戸隠様の帳簿の管理とか?」
「それは宮司達がやっているだろう」
「神様にも裏帳簿とかあるんじゃない?」
「親父からそんな話は聞いておらぬがな」
「兄上はぼーっとしてるからね」
「なに? 我がいつぼーっとしていた」
「年中じゃん。大音量でヘビメタを聴き過ぎて耳がおかしくなっているんじゃない?」
「何を言うか、この小童めが!」
「兄上だって父上から見たら小童だよ」
「確かに」
 自分は小童ではない、と否定しないだいきさん。アパートで我が家のように寛いでいる龍神。
 日本はこれでいいのか、と僕は一抹の不安を感じた。キリスト教圏では神様と神使いが無益な話で興じたりはしないだろう。大天使が神様と裏帳簿の話をしている姿など逆立ちしても想像出来ない。
 実に人間的な八百万の神々がいる日本、案外これでいいのかも。人間的なくせにあまり人間に関心がなさそうなのが欠点でもあり、長所でもある。

「さて、夕飯が出来ましたよ。あずみん、運ぶのを手伝ってくださいよ」と謙信の声がした。
「今日の米はどこの米じゃ」だいきさんもいそいそと立ち上がる。
「北海道米に決まっております。北の大地を開拓して苦節百五十年、先人の思いが籠ったお米でございますよ」
「それは前も聞いたような気がするな。で、お菜は何じゃ」
「日高産のサラブレッドの肉でございます。優秀な競馬馬でも引退後に牧場で余生を送れる馬はごく僅か。後はペット・フードに加工されたり、動物園の肉食獣の餌になったりと、悲惨な最期を遂げております。ウシやブタやニワトリと同じ様に経済動物でございますから不要になったら食肉にされます。だいき様も馬をお食べになった経験がおありでしょう」
「うむ、まだ馬子が馬を引いておった時代には丸呑みしたがな。さすがにサラブレッドはないな」
 鬼畜な会話に聞えるが、人間から経済動物と見做されればウシもブタもニワトリも、レッド・データー・ブックに載らない限りは天寿を全う出来ない。
 謙信の故郷の北海道ではエゾシカが増えて困っているそうだが、人間が食べ始めればあっと言う間に減少するに違いない。今の所は放牧中だ。
「馬刺しとすき焼きをご用意致しました。味付けはお好みでどうぞ」
 テーブルの上にどんと大皿と大鍋が運ばれて来た。
「食べ始める前に話があります」
 賀茂さんの声に今まさに馬刺しを攫おうとしていただいきさんが箸を止めた。
「あずみん、以前フランス留学の件で九頭龍様に手紙を差し上げたが、人間の私が申し上げてもお聞き届け下さらないのは当たり前です。こういう大事な事はあずみんが直接親神様と談判しなくてはならない。三日の内に親神様からのお許しを受けるように。でないと、今後ここでの食事は禁じます」
「えっ、うっそー。頭の古い頑固親父に直談判って、マジ、ヤバイんですけど」
「やばかろうが何だろうが初志を貫徹しなさい。兄上も案じておられる」
「兄上が言っておいてくれないかな?」
「ここでご飯を食べられないどころか飛行機が欠航になるかも知れませんねえ。空を飛んで行こうとしても駄目です。留学するのは『苅野あずみ』ですからね。空港で入国審査を受けなきゃならない」
 だいきさんがまた賀茂さんを我が嫁に、と言い出しそうなにやけた顔をしている。根本、M男か。
「ほら、早く答えないと兄上が馬刺しを全部食べてしまわれますよ」
 そうじゃ、安曇、さっさと答えよ、とだいきさんが箸を持ち直した。
「わ、分かったよ。どいつもこいつも意地が悪い。明日学校が休みだから行って来ます。兄上、私の分の馬刺しに手をつけるな!」
「早い者勝ちじゃ、安曇」
 留学と言っても一年だし、小さくても龍は龍だ。幽霊の連絡係もついていることだし、無事留学を終えるに違いない。


(了)


乞うご期待【続々・幽霊のかえる場所】

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