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【幽霊のかえる場所】 第五章

阿佐野桂子

  


第五章


横浜たそがれ

 名古屋駅から新幹線に乗って横浜へ向かう途中、賀茂さんのスマホに着信が二つあった。一つはこれから向かう横浜支社から、もう一つは名古屋支社からだ。
 名古屋支社では上田さんのデスクの上に「伊藤さんの遺灰」と書かれた膨れた御札が突然出現して支社は一時大騒ぎになったとか。
 案内人が呼ばれ、急遽お酒を用意したが、酒は減ることはなかった。ただ水に変わっていたとかで、これまた大騒ぎに。名古屋にお出での時は是非お寄り下さい、と懇願されたそうだ。
「ふん、幽霊だもの、実際にはお酒は飲めないわよ。エキスだけ吸っていったのね。良くあることよ」と賀茂さんは薄く笑った。何ていうか、見かけはともかく、賀茂さんは本当に凄い霊能者なんだな、と僕は再認識した。死霊を使役するなんて、凄くないか?
 横浜支社からは五人の幹部連中が新横浜駅で待っていた。名古屋支社での活躍があっという間に全支社に伝わったとしか思えない出迎えだ。ジャージを着て頭髪爆発状態の賀茂さんを見ても幹部連中は驚かなかった。
 ウエストポーチから顔だけ出して口をひん曲げているミツミネを幹部の一人がまじまじと見詰めている。ほう、吸血鬼の中にも霊感のある者がいるんだ、と何となく感心する僕。
霊感アリの幹部は僕と麻利亜さんの存在にも気付いて二歩後退し、ホームから落ちそうになった。
 あの、僕達は悪霊ではありませんから、とその人に話しかけた。ウエストポーチの中にいるのは神使いですし、僕は本社の吸血鬼の幽霊で、隣にいる美女は旅の途中の仲間です。
「やっと首都圏に戻られましたね。長旅ご苦労さまです。わたくし、横浜支社長の佐々木と申します」
 佐々木支社長は銀髪が美しい老齢の女性だった。佐々木さんが名刺を渡すと残りの四人も一斉に名刺を差し出した。
「名刺を頂くのはいいのですが、貴社の存在は秘密中の秘密ではないのですか。いずれ他の人の目に付かないように始末しなくてはなりません」
「それはそうですが、これは賀茂様に対する信頼のつもりで差し上げています。後で破いて捨てて頂いても構いませんのですよ。それに『バイオ・ハザード』社はビルを構えたちゃんとした会社です。ただ中身がラビリンスというだけです」
 佐々木さんがゆったりと笑った。三人が佐々木さんと一緒に笑ったが、霊感アリ幹部の目は外見豆芝のミツミネ注がれたままだ。案外犬好きなのかも知れない。
 例の如く賀茂さんが横浜で一番高いビルはどこでしょう、と尋ねると迷い無く横浜ランドマークタワーという返事が帰って来た。70階建てで高さ296・33m、日本では五番目に高い建物だ。69階の展望台スカイガーデンは地上272mにある。
「余程高い所がお好きなんですな。今まで行く先々で展望台に昇られたとか。私は高所恐怖症ですので恥ずかしながらまだ一度も行ったことはありません」と中年の男性幹部が話すだけでも気分が悪くなったようで、冬だというのにハンカチで額の汗を拭った。
 麻利亜さんは高い所でも平気だ。僕は吸血鬼だった時は高所恐怖症気味だったが、幽霊状態の今はそんなに怖くない。もっともガラスのない吹き曝しの69階に行けと言われたらミツミネに噛み付かれようが断固拒否する。
「スカイガーデンにはいつでも行けます。折角横浜まで来られたのですから、是非我が支社にもお寄りくださいな。ささやかではございますが、晩餐も用意しております」
 僕等は返事をする間もなく車に乗せられて横浜支社に到着した。港に近い赤レンガ造りの趣のあるビルだ。傍に運河があり、繋留されている船を覗いてみると洒落たアンティークの小物を販売している。
 女子の麻利亜さんは別行動でその船でのウインドウ・ショッピングを希望。僕と賀茂さんはレンガ造りのビルに入った。昔の丸ビルのように上部がすり硝子になったドアには横浜らしく貿易会社名がずらりと並んでいる。
 ぞろぞろ付いてきた幹部連中はそれぞれの会社に戻り、ここが本当の支社の中枢ですよ、と言われて入った部屋はワンフロアだがかなりの広さがあった。
 窓は一つもなく、開口部はドアだけだ。人間から見たら閉塞感を与える造りだが、僕達吸血鬼には居心地のいい空間だ。佐々木さんが言うには非常事態が起きた時の避難所になっており、機密性は抜群だそうだ。
 ここで働いている同類は部屋の広さとは関係なく、佐々木さんを含めてたった四人だ。
さあ、ゆっくりなさってください、と言われて座ったソファーはレザー張りでやたらとふかふかしており、テーブルの上にはコンビニ弁当が置かれていた。
 晩餐って、これか、と思ったが賀茂さんの好物はコンビニ弁当、と名古屋支社からの申し送りがあったのだろう。しかもコンビニ弁当の中では一番高い物だ。おまけにカップスープ付きだ。幾ら長く生きていても吸血鬼はやはり少しずれている。
「名古屋の件がありましたので、本社からわたくし達も充分に注意するように言われました。アウトローが『バイオ・ハザード』社の社員まで殺めるのは本当にまれなことで、全員困惑しております」
「そう仰るからには以前はあった、と言う事ですか」何の躊躇もなく弁当を食べながらの質問に、ええ、以前は、と佐々木さんが残念さを滲ませて答えた。
「紀元前に『バイオ・ハザード』社の前身が創設された頃には組織作りには反対の者もおりました。吸血鬼は自分達より劣る生き物である人間を狩るのが本分だと申しましてね。でもそれはわたくし達にとってはとてもリスクを伴う行為です。キリスト教圏でなくとも首を噛み切られて失血死している死体がごろごろしていたら疑いが生じましょう? 吸血鬼とは言っても催眠以外の特別な力を持っているのではありません。目立たなく生活する、これがわたくし達にとって生き延びる為の最大の手段なのです」
 恐竜全盛時代に物陰に隠れて生き延びていた哺乳類の先祖達のように僕達は今は目立たないように生きている。
「お話、充分に理解出来ます。それで様々な会社を立ち上げて人間と同じように会社勤めをして暮しているのですね」
 賀茂さんがカップ・スープを飲み干して言った。賀茂さんの食べ方は大食い選手権の選手並だ。弁当はとっくに腹に納まっている。これだから名古屋支社が好物はコンビニ弁当と思い込む訳だ。
 「晩餐」を終えた賀茂さんがこれからスカイガーデン向かう、と言うと紙袋を渡された。覗いて見たらやっぱり服だ。服はいいが頭は爆発。万能の袋、ウエストポーチから櫛をだして梳かすとちびまるこちゃんみたいになった。
 ビルを出て麻利亜さんと合流する。シックな深緑色のワンピースに黒のブーツ姿の賀茂さんを見て麻利亜さんは一瞬この人は誰、と目を見開いた。ジャージ姿を見慣れてしまうとフォーマルと言うか、人前に出して恥ずかしくない格好をした方がより格好悪く見えるから不思議だ。
「今回アウトローはどこにいるって書いてあるの。西区? ちょっとスマホ貸してよ。……何だ、ランドマークタワーのある地区じゃないか。わざわざ高い所へ上らなくてもいいんじゃないか? ひょっとしてただの趣味?」
 趣味もあるけどね、高い所から眺めたら街の様子が一望できるじゃない。この土地の地霊とか、どこに悪霊がいるかとか」
「悪霊退治はボランティアでしょう。一文にもなりませんよ」
 あ、と賀茂さんが急に声をあげた。ウエストポーチの中の御札が後二枚になっている。御札がなくても悪霊を戦えるのかどうか知らないが、無くなったら無くなったで僕も心配だ。
 賀茂さんが鵜の目鷹の目で高層から眼下を眺め終わった後、相変わらず展望を楽しんでいた麻利亜さんを引っ張って僕達は地上に降りた。東京から近いのだから悪霊退治はいつでもできる。今はアウトローをやっつける方が先だ。
 支社に電話を入れて後、駐車場で賀茂さんはサンプルの袋を開けた。事前連絡をいれたので、暫らくの間支社の連中には外出禁止令が出たに違いない。となるとのこのこやって来るのはアウトローだけだ。
「これはいと良き香りかな」と古風な言葉とRPGの伝説の騎士みたいな格好をしたコスプレイヤーがアウトローだった。アウトローがコスプレイヤー? 面倒臭い。
 何だ、その格好は、とRPGなどやったことがないであろう賀茂さんが煙たい顔をしたが、コスプレイヤーの聖地は渋谷だけではないですよ、とアウトロー氏。よく見ると中年のオッサンだ。曰く、白魔女に忠誠を誓う聖剣の騎士のコスプレだそうだが、衣装の生地が安っぽい。
「聞き及ぶところでは各都市に麗しの白魔女が現われて聖戦の騎士の参集を呼びかけておるとか。われ、サラマンドロス、白き魔女の呼び声答えて姿を現したり。して、決戦の場はいずこなるや? そなたは侍女か」
 えい、面倒臭い、と賀茂さんとミツミネは自称サラマンドロス氏を御札と杭で瞬殺した。

東京ララバイ

 再度支社に連絡を入れた賀茂さんと僕等は電車に乗って、最終にして最大の敵地、東京にやっと戻って来た。これだけ新幹線をフル活用した旅も珍しいのではないか。どうせなら全新幹線を制覇したかったが、他の都市ではリスト・アップされていないのだから仕方がない。
 本社では小林課長がにこやかに迎えてくれ、賀茂さんは更衣室で元のジャージに着換えた。スカートで馬乗りってのは足さばきが面倒なのよね、の言葉に課長がかすかに頬を赤らめた。古墳時代の吸血鬼はシャイだ。
「何で最初から血液サンプルをくれなかったんですか。サンプルがあればもっと仕事が楽だったのに。それにもっと支社と連携すれば良かったでしょうが。そうすれば僕がついていかなくても済んだでしょう」と僕の文句を賀茂さんが通訳してくれた。
「田中君の言うとおりだが、そのう……なんだ、賀茂さんの能力がどのくらいのものか測りかねていたのと、支社の連中にはなるべく秘密裏に事を運ぼうとしてね。いや、その、怒らんで下さい」
 賀茂さんの額に暗雲が垂れ込めたのを察知した小林課長がデスクの前に折り畳み椅子を置いて着席を促した。デスクの上にはもはや定番となりつつあるコンビニ弁当が鎮座している。
 支社ではソファーだったのにここでは折り畳み椅子だ。もっと上層階に行けばソファーのある部屋があるのだろうか。そう言えば、僕は今まで血液検査室以外の部署に行った事がない。井の中の蛙大海を知らず、とはこのことか。
 本格的に怒り出すように見えた賀茂さんは物も言わずに弁当を食べ出した。横浜で食べたばかりなのにまただ。霊能者家業をやめてもフード・ファイターで稼げる。弁当を食べ終わるまで暫しの沈黙。
「悪いんだけど、備品を使わせてくれる? 御札がなくなっちゃったので補充しないと」
 前回会った女性がお茶を運んで来ると有無を言わせぬ態度で立ち上がった。悪いんだけど、の前置きは完全な枕詞だ。コピー機とA4用紙を使って賀茂さんは御札を6×5枚作り上げた。
 コピー用紙の吐き出し口の近くにいた課長がうっと声を挙げて退いた。吸血鬼にも悪霊にも効く御札だ。近くにいたら失神する。で、僕は何で失神しないのか。ミツミネが黒豆みたいな目の片方でウインクを送って寄越した。成る程ね。僕は今の所吸血鬼でも悪霊でもない。
「さてと、霊力体力両方エネルギー・チャージしたから出掛けるとするか」と賀茂さんが席を立った。東京は狭いようで広い。どこから開始するつもりだろう。その前に少しは寝た方が良くはないか。
「その前にコバっちに聞きたいんだけど、この調査表」と賀茂さんが調査表で椅子をぱんと叩くと空の弁当が引っくり返った。小林課長が漫画みたいにぴょんと跳んで、調査表が何か、と普段より半オクターブ高い声を出した。
「調査表があるって事はどこかが調査しているのよね 違う?」
「はあ、それはまた別の部署でして」
「人間の世界で言う特高みたいなもの、それともKGBとか?」
「いえいえ、そんな剣呑な部署とは聞いていません」と課長。却って剣呑な部署だと言ってしまったような気がするが。
「じゃあ、何をしてるのよ。動向調査だけ、とでも?」
 課長が答えに窮して黙り込んだ時、ドアがそっと開かれた。入って来たのは体格はいいが紺のスーツを着た普通のオジサン、ではなくて吸血鬼だった。
「始めまして、お嬢さん、私は調査部主任補佐の山口、と申します」
 見掛けの年齢は30代後半、どこにでもいそうな平凡な顔立ちをした男で、物腰はあくまで柔らかだ。賀茂さんはふん、と鼻息で答えた。
「始めましてではないと思うけど。東京を出てからずっと私の後を付いてきたでしょう。その紺のスーツ、見覚えがあるわよ」
 僕は山口と名乗る相手に尾行されていた覚えがまったくない。どこにでもいる平凡なサラリーマンとしか見えないからだ。それに賀茂さんのキャラに圧倒されて周りを見る余裕がなかった。
「紺色のスーツ姿の男ならどこにでもいると思いますが、まあ、あなたの観察眼は正しい、と言っておきましょう。小林が困っているようなので話は私がお聞きします。何が知りたいのですか」
「人間の死体の隠蔽よ」と賀茂さんがずばりと言った。アウトロー吸血鬼は定期的に人を殺すシリアル・キラーだ。だからと言って死体の隠蔽に長けているとは思えない。麻利亜さんと話したように人一人をこの世から完全削除するのは難しい。
「あなた達はアウトローが仕出かした事件の後始末もしていたんじゃないの? あいつ等の手段と言ったら海に捨てるか貯水池に沈めるか山に埋めるくらいでしょう。なんかの拍子に死体が見つかる可能性は大きいわよね」
「そうですね、発見者はおうおうにして犬を連れて朝の散歩をしている中高年か、ハイカーか漁師ですね」
 何が可笑しいのか山口さんは声を立てずににっと笑った。
「アウトローは仕事を急ぐあまり簡単な重石をつけただけで海に死体を放り込んだりしますが、私達から見れば甘いと言わざるを得ません。お教えすることは出来ませんが、人間を永久に沈めておくにはかなりの量の重石が必要です。それに潮流も考慮に入れなければなりません。捨てたつもりでも湾内に留まっていたりするものですよ。それに」
 お話はもう結構、と賀茂さんが制止した。
「つまりあなた達はアウトロー達の見張りと共に死体の始末を見届けるのが仕事ですね」
 いえ、と山口さんは否定した。前半は推測通りだとしても後半は止むを得ずやっている事だ。大昔の死体は死体で片付けられたが、科学捜査が発達した現代では全身から血を絞り取られた死体などあってはならないのだ。これは人間社会と共存している『バイオ・ハザード』社の吸血鬼を守る為でもある。
「ではアウトローの動向を一番把握しているあなた達がなぜ奴等の始末をつけないで、今頃になって私に抹殺を依頼してきたのでしょうか」
 部屋には緊張感が漲っていた。小林課長は立ったり座ったりを繰り返している。僕と麻利亜さんも元々ない息を更に潜めた。山口さんはまったく表情を消していた。僕が考え付くのは同類を抹殺するのは誰だって嫌だ、という思いくらいだ。
「あなたは有能な霊能力者です。今回の活躍を見れば分かります。しかし、そのあなたもいつかは死すべき者。不老不死の我々とは違います。最高決定機関である学会が間もなく、と言っても今日明日の話ではありませんが、人間は絶滅に向かうだろうと判断を下しています。O型Rh nullを手に入れた私達は人間が絶滅に向かおうとしても影響はありませんが、アウトロー達にとっては生き残りを賭けた血液争奪戦の時代になります。大人しく我々の仲間になるか、或いは最後の血の一滴がなくなるまでアウトローでいるか。調査表にリスト・アップされているのは私達の仲間になることを拒んだ、或いは人間のいない未来を予測できずにいる者達です。人間の数は現在70億とも80億とも言われていますが、既に地球のキャパシティを越えています。賀茂さん、あなたには既に人間が絶滅へ向かう足音が聞えてはいませんか」
 ゆるゆると茶を飲みながら賀茂さんは山口さんの話を聞いていた。
 今は温暖化が叫ばれているが、かつて氷河期の時代があった。その時、人類の先祖は一万人を切った、という説を唱える学者もいる。
 次の氷河期は必ずまた訪れる。その時現代人は太古の人にはない知恵で氷河期を乗り越えるかも知れないが、生息数は激減するだろう。核戦争や疫病の発生、隕石の衝突だけではなく、今はどんなに地球を席捲していようが、人類は常に絶滅の危機にある。
「そのくらいの事は当の人間自身が良く知っている。だから居住可能な他の惑星を捜しているんじゃないの」
「残念ながら、その前に滅びてしまうでしょうし、新天地を見つけてもまたそこで同じ愚行を繰り返します」
「偉そうに言ってくれるね。でも、まあ、いいか。人間だって馬鹿じゃないから考えていることは同じよ。ただ自分が生きている間は大丈夫、と根拠のない確信で生きているだけですもんね。あなたとこれ以上人類や吸血鬼の未来について議論する気はないけど、東京のアウトロー吸血鬼探しには付き合って貰うつもりよ」
「おや、それはまたどうしてです?」
 平均的なのっぺりした弥生顔の山口さんは眉を顰めた。縄文顔の課長はひたすらおろおろしている。調査部はゲシュタポみたいに特別な権限でも持っているのだろうか。
「どうしてって、一番最新情報を持っているのは調査部のあなた方でしょう。都会は毎日のように殺人事件が起きる場所よね。いずれ絶滅する人間同士殺し合うのは許せても、アウトローの仕業だったら放って置けないわよね? 事件が起きて尻拭いをさせられる前にシリアル・キラーを捕まえたほうがいいでしょうが。あなた達にはたとえ同類が殺人鬼でも自分達の手で直接殺したくはないのよね。だから私を雇ったんじゃないの?」
 山口さんが黙っているのは賀茂さんの言葉が正鵠を得ているからだろう。少なくとも調査部はゲシュタポではない、と分かって僕はほっとした。それに賀茂さんの杭なら血飛沫を吹き上げて悶絶することなく総てが一瞬で終る。
「お返事がないのは了承の意味ととっていいかな。それじゃあ、まず東京スカイツリーに行きましょうよ。なになに、高さは634mで第二展望台の展望回廊は地上160階ですって。麻利亜ちゃん、楽しみだよね。私さあ、昔友達が上京して来た時に東京タワーに行ったけど、スカイツリーはまだなのよ。ぐっさんはもう行った? まさか高い所怖い、何て言わないよね」
 スマホをウエストポーチに仕舞った賀茂さんはさっきの緊張感はどこへやら、山口主任補佐をぐっさん呼ばわりだ。何でスカイツリーに行かなくてはならないのか多分分からぬままにぐっさんは「お供しますよ。ところで麻利亜さんという方はどこに?」。

奥多摩慕情

 東京って、やっぱり凄い! と麻利亜さんが展望回廊のスロープを歩きながら声を挙げている。生きていた時は晴れ女だった麻利亜さんのお陰で今日も快晴だ。
 僕はテンションがあがっている麻利亜さんがふわふわと飛んでいかないように手を繋いでいた。その横を高校生らしき幽霊カップルが寄り添いながら通り過ぎる。ああ、平和だと一瞬思ったが、そもそも君達、何で死んだの? 親は泣いているに違いないのに。
 一方、弥生系のぐっさんはちょっと渋めの顔で賀茂さんの後ろを歩いている。アウトローが適当に捨てた死体の後始末をした次の日には展望回廊に登って気分転換をしているのだそうだ。ストレス溜まる部署だろうね、と納得。ぐっさんは死の匂いがする。
「アウトローがいるのはどこだったっけ?」
「奥多摩方面に3、都内に5です」とぐっさんが答えている。「どちらから行きます?」
「霊能者使いが荒いわね。名古屋を出てからまともな休憩を取っていないんだけど。下に降りてから少し休ませてくれない?」と賀茂さん。弁当で腹が一杯になり眠くなったに違いない。
「と言う事は、ハンティングは明日になりますね。ではホテルにでも宿泊しますか。近頃観光客が増えて部屋を取るのは大変ですが、系列会社のホテルの部屋を用意させましょう」
 ぐっさんがスマホでどこかに電話をすると簡単に部屋が取れた。系列会社ならたとえ満員でも一室は確保するだろう。「場所はこの近くです。明日の早朝迎えにあがります」
 ホテル名を告げるとぐっさんは急ぎ足で帰って行った。その姿を見てミツミネが笑っている。
「あいつには離婚話が継続中の人間の妻がいるようだな。妻には葬儀社に勤めていると言っておるが、妻はあいつの体に染み付いた死者の臭いが我慢出来ないようだ。外で会っている頃は大して気にならなかったが、いざ一緒に暮らし始めたら臭いに耐えられない、と文句を言い始め、それが離婚話の原因だ。そんな理由で離婚が成立するかどうか問題だが、おそらく『性格の不一致』とやらで済ます気だろう。保子、あいつを婿に迎えてはどうだ。バツイチでは不服か?」
「何で私が初めて会った男と結婚しなくちゃならないのよ。前には田中っちとはどうだ、とか言ってたわよね。で、今度はあいつ? 何で吸血鬼と結婚しなくちゃならないのよ」
 ホテルの部屋に辿り着いた賀茂さんがミツミネ相手に文句を言っている。麻利亜さんが僕をキッと睨んだが無視。幽霊同士なら結婚もアリかもしれないが、僕は近々実体を取り戻す。幾らなんでも実体ある身と幽霊とは結婚できないでしょうよ。
「やつが婿に相応しい理由は二つある。第一に保子なら死臭など気になるまい。第二は吸血鬼と結婚すれば生れて来る子は長生きできる。今のお前の家系では女子は50歳くらいしか生きられないが、吸血鬼の血が混じればお前の子供は長生きになる。望むなら女児を授けてやろう」
 え、賀茂さんは短命なの、可哀相、と麻利亜さんが呟いたが、若い身空で幽霊をしている当人だって客観的に見れば充分可哀相だ。
「私は結婚する気はないからどうぞお構いなく。霊能者の生活なんて決して楽しいものじゃないわよ。私の代で終わりにするつもり。だからミツミネも婿探しをしなくて結構よ」
 ミツミネが不服そうにワンと吠えた。僕から見ればミツミネが婿探しに積極的な理由が分からない。賀茂さんが言うように霊能力者の生活が楽しくないなら賀茂さんの代で終わらせてやればいい。捜せば他に霊能力者はいるだろう。
 朝になって山口さんが迎えに来た。ミツミネの話を聞いているせいか少しやつれているように見える。「ぐっさん、離婚話は進展した?」と賀茂さんがいきなりのジャブ。
「えっ、何でそんな個人的な事を……、ああ、あなたに総てお見通しですか」
 ぐっさんは肩を落としたが、ネタ元はミツミネだ。「相手が嫌がっているならさっさと別れてあげた方が双方の為よ」と賀茂さんがアドバイスをしたが、恋愛経験のない賀茂さんの言葉は僕達には響かなかった。
「充分に休養を取られたと思いますのでこれからの活躍を期待しておりますよ。さて、奥多摩、都内、どちらから?」
 ぐっさんの立ち直りは意外と早かった。今日中にでも仕事を終らせたいという気満々だ。東京駅など如何、と提案までして来る。雑踏の中の方が却って目立たないだろう、とまで言う。
 僕等は満員電車でもみくちゃにされながら東京駅に到着した。誰も彼もが目的地に向かって急いでおり、誰も彼もが他人には無関心だ。ここで対向して来る人間の腹をナイフで抉っても数歩離れてしまえば気付かれずに雑踏に紛れて逃げ切れるような気がするくらいだ。
「じゃあ、血液パックを開けるわよ。ぐっさんはアウトローの姿を見つけたら教えてちょうだい」
 はいはい、とぐっさんは素直に頷いた。まず灰色のコートを着た真面目そうなサラリーマン風の男を指定する。確かに、僕の目から見ても充分怪しい。泳ぐようにこちらへやって来る男に人込の中でアタック。男は始めから存在していなかったように灰となって消えた。
 素早い行動に誰も珍事が起きた事に気付かない。次のターゲットは黒のダウンジャケットを着た自由業らしき男だ。賀茂さんは小柄なので人々の間に入り込むとまったく目立たないのをいいことに、その男に近付くとこれまたすれ違いざまにあっという間にやっつけた。
 ぐっさんの顔が心なしか引きつっている。賀茂さんの力を目にすれば驚くのは当然だ。
賀茂さんのご機嫌を損えば自分の身も危うい、とやっと悟ったのだ。この時点でミツミネが提案する賀茂さんとぐっさんとの縁談はなし、だ。
「次ぎは新宿に移動して貰えますか。歌舞伎町に2名、ゴールデン街に1名います」
「また満員電車に乗れ、と?」と賀茂さんがごねるとぐっさんはタクシーに乗りましょうか、と低姿勢でお伺いをたてた。
 さっそくタクシーに乗り込んだが、ぐっさんは賀茂さんを助手席に誘導し、自分は運転手側の後部座席に納まった。反対位置ではシート越しに心臓を狙われるかも、との危惧からと察せられる。間違っても横には座りたくない筈だ。
 歌舞伎町とゴールデン街はすぐ近くだ。午前中の歌舞伎町はまだ人通りが少ない。そこで再び血液パックを開くと酒に酔っているのか血の匂いに酔っているのか、どちらとも判定し難い人物がふらふらと歩いている。
「あのバーテン風な男と、ホストとクラブ帰り風の若い女と、消防士風な男がそうですよ」とぐっさんが指を指す。僕の勘もあの三人がが同類だ、と告げている
「なに、そのなになに風ってのは」と文句を言われ、改めて「バーテンダーとキャバ嬢と消防士」と言い直したが、OFFの時のバーテンダーと消防士は見かけだけで判断しろと言われても無理だ。
「あのちゃらい格好をしたのが現職の消防士? 消防士は人命救助が第一じゃないの。本業は火事場血液泥棒、ってか。世も末だ」
 賀茂さんはぶつぶつ言いながらもきっちりと仕事を遂行した。ぐっさんの心拍数が人間並みになっている。
 そのまま別のタクシーを拾って奥多摩地区に向かう。運転手にどう思われようとぐっさんは賀茂さんの隣には座らない覚悟を決めている。確かに、僕が実体を持っていたら賀茂さんの近くには座らない。
 奥多摩町についてからもミツミネと賀茂さんのコンビネーションは崩れる事がなかった。
ぐっさんの目から見れば杭を隠し持った賀茂さんが肉薄しただけでアウトロー吸血鬼は勝手に引っくり返って灰と化す。これほど恐ろしいものはない。
 ミツミネが人間に変身できるならいっそミツミネが婿になればいいのに、と麻利亜さんとこそこそ話していたらミツミネの耳がぴくりと動いた。やばい、聞かれたか。
「あのなあ、神使いと人間は番にはなれない。なるとしたら人間の体を捨てて魂だけにならなくてはならないのだ。それでは子は生れまい」
 聞かれてしまったからには仕方がない、と腹を決めてミツミネに何で子供に拘るのか聞いてみた。賀茂さん自身は不労所得を当てにしておんぶに抱っこの男どもを養うのにはうんざりしている筈だ。しかも二千万円の借金返済の為に今回の依頼を受けている。
 結婚して女の子が生れれば、またその子が男どもに寄生される。そんな事は自分の代で終わりにしようと思っているに違いないのだ。霊能力など持っていないのが幸せだ。僕が霊能力者だったら一生見えません、聞えませんで押し通す。今回の旅で何人か霊が視える人に会ったが、皆シカトを決め込んでいた。
「霊が見えるのは脳のある部分の錯覚だ、とも言われている。いわゆる【脳の中の幽霊】(@テャンドラー)だな。ごく普通の人間でもある部分を刺激してやると幽霊が見える、と言い出しているそうではないか。そうやって脳の仕組みが解明されて行くのは一向に構わん。脳のある部分の過剰反応に過ぎないのに幽霊が見える、と訴えている者の役にはたとうよ。しかし、今のお前は何だ? どこかの誰かの幻視の中で動いているだけの存在か? お前は既に死亡しており、誰かさんの頭の中だけに存在しているのか?」
 僕はロンドンで客死していて誰かさんの頭の中でだけ生きている? そんな馬鹿な。『バイオ・ハザード』社も同類達も邯鄲の夢か。同僚の高橋も小林課長も賀茂さんも麻利亜さんも誰かの脳が生み出した産物でしかないのか。細部にわたってあまりにもリアル過ぎる。それは違う、と僕の全身全霊が否定した。麻利亜さんが心配そうに僕を見ている。
「視えぬ世界も存在するのだ。宗教的偉人と呼ばれる人間はその一端を垣間見た。混沌と秩序が重層をなしているまさに曼荼羅の世界だ。私がお使えする神もその一部であり全部でもある」
 何で賀茂さんの子供に拘泥するのかを聞いたのに、随分難しい話になった。僕も麻利亜さんもぐっさんも食べきれないお菓子を与えられた気分でミツミネの言葉を聞かされている。その沈黙を破ったのは杭をカチャカチャと畳んでウエストポーチに仕舞った賀茂さんだ。
「ミツミネ〜。素人相手に何で小難しい話をしてるのよ。これでアウトロー吸血鬼の退治は全部終ったわよ。お腹空いちゃった。どこかで栄養補給しようよ。ぐっさん、この辺のお薦め料理はなに?」
 臭いジャージを着たが賀茂さんがリアルでないとはとても信じられない。誰かの脳の幻影ではない。爆発頭に戻った賀茂さんは幽界と現世を繋ぐまさに巫女だ。
「いや、その、我々は人間と同じ食べ物を必要としませんので、心当たりがありません」
 ぐっさんが体をポリポリ掻ながら自分のスマホを操作している。賀茂さんアレルギーでも発症したのか。暫らくスマホをいじった後、山菜とヤマメが特産品だそうですよ、と答えた。
 結局近くの蕎麦屋に入った。総勢5名だが実質は2名だ。賀茂さんが山菜蕎麦を三つ注文する。食事をしている間、ミツミネは武蔵御嵩神社に出かけてくると言う。なんでもそこには眷属の大口真神、つまり狼が祭られているのだそうだ。
 大口真神は三峰神社の他に静岡の山住神社、京都の大川神社、埼玉の釜山神社、そして武蔵御嶽神社に神使いとして祭られている聖獣だ。人の性格を見抜き、善人を守護する。
 三峰神社だけかと思ったらあちこちに眷族がいるみたいだ。こういう事は神使いと知り合いにならずにいたら気付かぬ情報だ。実体を取り戻したあかつきにはこの5社に参拝に行ってみよう。
 スマホで調べてみると三峰神社には珍しい三ツ鳥居がある。他の四社もいずれも古い歴史を持つ神韻縹渺たる神社ばかりだ。スマホの画像を横から見ていた麻利亜さんはお寺より神社の方が怖いと言う。まあ、神社は生き物だからね、と答えておく。祟られそうなのは断然、神社だ。今の僕は祟りを信じている。

神使いミツミネの恋

 山菜蕎麦は結局賀茂さんが三つとも食べた。ストレスが溜まっている様子のぐっさんは血液ガムを噛んで気を静めている。暫らくするとミツミネが戻って来た。どんな様子だった? と賀茂さんが聞くと
「最近はパワースポット巡りとやらが流行っているらしくて武蔵御嶽神社も参拝客が増えているみたいだな。静かに参拝して行く分には構わんが、ネットに上げてここはパワーが強すぎて怖い、などとぬかしている輩がいるそうだ。神社に来て怖い怖い、と騒ぐなど愚の骨頂だと分からぬのか。嘆かわしい」と険しい顔をしている。
 はい、そういう輩は神罰決定。僕が行く時は神妙にしていよう。それとも行くこと自体を遠慮するべきか。霊感のないぐっさんは賀茂さんの表情が変わる度に目を逸らしている。
 山菜蕎麦を三杯も食べて食べ疲れした賀茂さんは暫らく動こうとしなかった。これでアウトロー殲滅の旅は終った。少しはゆっくりしたいだろう。後は報酬の二千万を頂くだけだ。
 二千万円……。一件当たり百万円だ。この値段は高いのか安いのか適正価格なのか。人間の間では嘘かまことか殺人請負闇サイトなるものがあり、実際に利用され逮捕された事例もある。そいう人間の頭の中の相場は幾らに想定されているのだろうか。
 僕は人間ではないが、たかが百万円で殺しのターゲットになるのは御免蒙りたい。一千万円くらいなら得心出来るような気がするが、狙われる側の立場に立てば一千万円でも嫌は嫌だ。
 『バイオ・ハザード』社は兄の浪費に苦しんでいる賀茂さんの足元を見て値段を設定したのではないか。普通の殺人と違って、死体の始末に気を使わないで済み、しかも強力な杭と助っ人が付いているとしてもだ。
「確かに安いな」と僕の思念の中にミツミネが割り込んで来た。人間相手の相談や除霊でも普通は何十万か百万の報酬を受けているのだそうだ。勿論、これは兄の正樹が勝手にやっている事だが、それにしても吸血鬼退治に百万円は安い、とミツミネは鼻に皺を寄せた。
「しかもこれは吸血鬼仲間内の揉め事だ。自分の手を汚さずに仲間を消す。いい趣味とは思えんな」
「そうは言ったって」と賀茂さんが反論を始めた。
「アウトロー吸血鬼が人間に危害を加えているのは確かなんだから、アウトローをやっつける。イコール人間を守る、って事でしょ。双方の利益が一致してるんだからいいじゃない。必要経費は貰えるんだから、本当はタダでも」
「おっと、その先は『バイオ・ハザード』社でも口に出すな、保子。そこの兄ちゃんに後百万増額を要求しろ。正樹には二千万渡し、お前はどこかのマンションでも借りて独立するのだ。人生は短い。もう父や正樹の相手をするな。マンションを構えたらそこで結婚して子供をつくれ。真口大神は安産も請け負っておる」
「なんでまた子供の話になるのよ!」
 賀茂さんがテーブルをどんと叩いたのでぐっさんが跳びあがり、店員が何事かとこちらを注視している。もともと怪しげな賀茂さんがテーブルを叩いたので、いよいよご乱心、と思ったのだろう。警察呼びましょうか、とひそひそ話しているのが聞える。
「まあ、落ち着け。お前が結婚しないつもりでいても次の食い扶持に困らぬように父と正樹はお前を結婚させるつもりでいる。二千万を持ち帰ったら縁談が待っているぞ」
「結婚したからってまた霊感のある女の子が生れるとは限らないでしょうが」
「いや、生れる。女の子が生れるまで生み続けさせるつもりだとしたら? 私に任せれば一人目で女児を授けてやれるがな」
「あのさあ、私はパンダや朱鷺みたいな希少動物じゃないよ。無理に繁殖させる必要ないじゃないさ。それに、私は男が嫌いだ」
「父や正樹のような男や、下心丸見えの男の相談者しか見ていないからだ。世の中には今のお前を丸ごと愛しく思ってくれる男もいる」
 丸ごとねえ、と呟いた賀茂さんは爆発頭をガリガリと掻いた。ふけがテーブルの上に落ちてぐっさんがくしゃみを連発した。ますますアレルギー度が増したみたいだ。
 僕と麻利亜さんはテーブルの回りに立ったまま息詰まる攻防を見詰めていた。やはりミツミネが賀茂さんの子供に拘る意味が分からない。
 まさか女は子供を生まなきゃ女じゃないとか、女は全員子供を欲しがる、何て前世紀的な考えを持っているのではあるまい。君は子供が好き? と聞いたら麻利亜さんは首を横に振った。
「いっそミツミネが結婚すれば? 神使いと人間は結婚出来ない、と言ってたけど、人間に姿を変えて女のもとへ毎晩忍んで行った神様もいるよ。ギリシャ神話ではゼウスは奥さんのヘラの目を盗んで沢山の女に子供を生ませているじゃないか」
 僕が言うとミツミネがにゅうっと鋭い牙を剥いた。こういうのをピンチと言うのだろう。しかし僕だって負けてはいない。と言うか、破れかぶれだ。
「ミツミネは賀茂さんを丸ごと愛しく思ってくれる男もいる、と言ったよな。なぜそれがあんたじゃいけないんだ。なぜ他の男に渡そうとする。神使いと霊能力者の間に生れた子なら最高だろう。おそらくその子は何千年もの年を越えて生き続ける。僕達みたいに」
 ミツミネは豆柴どころかシンリンオオカミもかくや、の大きさになって吠えた。蕎麦屋の店員さんにはその姿は見えず、咆哮も聞えなかった筈だが、辺りが不穏な空気に包まれたのは感じたのだろう。店の裏口から逃げて行くのが見えた。
「おまえさんは賀茂さんが自分よりずっと早く死んでしまうのが耐えられないんだ。だからその代わりとしての子供が欲しいと願っているんだろう。子供が欲しい、と思っているのは実はおまえさんの方だ」
 ミツミネの怒りが頂点に達したのか蕎麦屋のテーブルと椅子がポルターガイスト現象のように浮き上がって宙を舞い始めた。
 映画のような光景に僕は恐怖を忘れて見とれてしまった。とばっちりを受けたぐっさんは店の隅に蹲って頭を抱えている。麻利亜さんが僕の耳元で、ミツミネさんて、分かりやすい性格、本当に保子さんが好きなのね、と囁いた。
「ミツミネ、止めなさい」賀茂さんが一言、静かな声で制した。
「神使いたるものが田中っちの挑発に乗ってどうする。私の事は私自身が決める。さて、『バイオ・ハザード』社に報奨金を貰いに行くとしようよ。兄貴の借金のせいで恋人が辛い思いをしているんだからね。そういう損な性格の女の子もこの世にはいるらしいけど、だからと言って放って置く訳にもいかないからね。ぐっさん、お金は幾ら持っている? ミツミネが暴れた分も払っておいて欲しいんだけど」
 ポルターガイスト現象が収まった店内のレジの横にぐっさんは三人分の蕎麦代と万札を
何枚か震える手で置いた。調査部の死体隠蔽工作人も賀茂さんとミツミネの前ではかたなしだ。
 それからまたタクシーに乗った。ここいらでは流しのタクシーはない。蕎麦屋での騒ぎを聞きつけた運転手は逃げ腰だったが、ぐっさんが二倍の料金を払う、と申し出ると嫌嫌ながら承知してくれた。
 今回は運転手の目には見えない麻利亜さんが助手席に座り、後部座席にはぐっさん、僕、賀茂さんの順に座った。傍目から見るとぐっさんと賀茂さんがやけに離れて座っているのが不自然に見える。
 賀茂さんのウエストポーチに戻ったミツミネがいつでも噛み付いてやろうという気満々で僕を睨みつけているので生きた心地がしない。『バイオ・ハザード』社に到着した頃にはない筈の心臓が止まりそうだった。

帰ってきた吸血鬼

 僕は一直線に小林課長のいる部屋に向かったが、実体のある賀茂さんとぐっさんは律儀にエレベーターを使って到着した。幽霊になってまだ日の浅い麻利亜さんもエレベーターに乗って来た。そう言えば、まだ彼女に壁抜けの方法を教えていなかった。
 右斜め45度と呟くと麻利亜さんが「な・に?」と聞いてきた。長い髪から発せられる甘い香りが僕の鼻腔を擽る。この何の取り柄もない中年姿の僕に人目惚れした、と言ってくれた人だ。
 趣味も同じで手まで繋いだ仲だ。未だに一音を発声するのに一拍開けるまどろっこしい話し方をし、何で自殺したのか話してくれないが、美人だし、基本的に優しいいい子だ。しかし、今のままでいい筈がない。賀茂さんの力できちんとあの世に逝った方が幸せに違いない。残念だけど。
 残念? それとはちょっと違う。出来れば麻利亜さんとずっと一緒にいたい。白い服に付いた血の染みにも見慣れた。元々、僕には血を敬遠する気持はない。
 彼女の髪にそっと手を触れると陽光のような笑顔が返ってきた。初めて会った時よりもっと好き、と言われて僕は自分の顔が赤くなるのを感じた。
 小林課長の部屋には小林課長ともう一人見たことのない吸血鬼がいた。細身でシャープな印象。「こちらは調査部主任の小野さんです」と小林課長が賀茂さんに紹介した。ぐっさんの上司だ。彼からは死体の臭いがしない。実働部隊ではないのだろう。
「やあやあ、福岡、札幌、広島、大阪、名古屋、横浜、そして東京にゴールイン。一度もストップすることなく戻ることもなく、ご苦労さまでした」
 小林課長が双六の上がりのような気軽な言い方をしたので僕はちょっとだがカチンと来た。結構大変だったんですよ、と言おうと思ったが、考えてみると僕は殆ど何もしていない。七大都市のランドマーク巡りをして来たようなものだ。それに今の状態では小林課長の耳には聞えない。早く実体を返せ。
「田中っちが早く元の姿に戻りたい、って言ってるわよ」
 賀茂さんのナイス・フォローが入った。麻利亜さんが途端に不安げな顔になる。
「大丈夫よ、話せば長くなるけど、田中っちは霊感持ちの吸血鬼だから、元に戻ってもあなたが見えるわよ」
「あの、どなたとお話をされているんですか」と小林課長。小野主任は腕を組んだまま微動だにしない。
「札幌でお近付きになった女性の幽霊と喋ってんの。田中っちに一目惚れしてとうとう東京まで憑いて来ちゃったのよ。命短し、恋せよ乙女、ってね。あ、この場合はもう亡くなっているから命短しとは言わないか」
 僕はこのエキセントリックな霊能者にミツミネが惚れているらしいのが理解出来ないでいる。この人は純粋過ぎるのかも知れない。ピュアな精神は神に愛される、とか。
「はあ、では今ここには田中君を含めて二体の霊がいる、とそういうことですね。それはまた……」面妖な、と言う言葉を課長が飲み込んだ。彼の頭の中では部屋ぎっしりの霊がいるような心持だろう、と察せられる。
「まあ、一応、お座り下さい。賀茂さん、ミツミネさん、田中君、女性の霊、山口君、それに小野君の分で六席用意すれば宜しいのですね。どれ」といって課長は折り畳み椅子をデスクの周りに自ら六つのパイプ椅子を並べた。円卓の騎士か、と僕が呟くと麻利亜さんがくすりと笑った。彼女との相性は抜群だ。幽霊でなければ結婚を考えるレベルだ。
 賀茂さんアレルギーを発症中のぐっさんは盛んにくしゃみを連発しながら一番遠い席に座った。その隣に小野主任、ミツミネ、賀茂さん、僕、麻利亜さんの順だ。僕と麻利亜さんは椅子の後に手を回して指を絡ませた。
 ずっと僕を睨んでいたミツミネだが、多分、睨むのにも飽きたのだろう、今は小野主任に注意を向けて臭いを嗅いでいる。小野主任は細身でシャープな印象のうえ、現在放映中の大河ドラマの副主人公に似ていた。
「山口君もご苦労だったね」とこの部屋に入って初めて声を発した主任の声は低音の美声だった。ミツミネが唸る。もしかして恋敵認定か?
「そこのお嬢さんに山口をご指名された時は驚きましたが、結果オーライのようでしたね。始めから調査部の者を付けてくれれば、と思われたでしょうが、こちらも色々忙しかったもので。しかしお陰で調査部の仕事もこれで暫らくは楽になります。その点はお礼申し上げますよ」
 その点はとか暫らくとはどういう意味で言っているのか。僕は賀茂さんに通訳を頼んだ。
「それはですね、田中君や私達全員が既に経験しているように、ある日突然自分が不老不死の吸血鬼であると気付く者がこれからも出現するからです」
「突然気付くってどういう事?」
「突然気付くのは文字通り当然気付くのです、自分は不老不死なのではないか、とね。私の例で言いますと首と胴体が泣き別れした経験もあります。ところが私は死なないのです。私はその時から三十歳のままなのです」
 自分が不老不死ではないか、と気付いた時がすべての始まりなのですよ、私の場合はお二十代の時でした、と課長がしみじみした口調で言った。僕の場合は四十近くになった時だった。課長のように若い肉体を持ったまま不老不死になりたかった、と今は思っている。
「支部に伺った時には老齢の人もいたけど、それって、大分歳を取ってから気が付いたってこと?」と賀茂さんが興味津々の顔で尋ねた。普通の人間には信じられない話だろう。回りの親しい人達は順々に死んでいくのに自分にはお迎えが来ない。西洋なら魔女の疑惑が掛けられるに違いない。
「そういう事になりますかな。年齢に関係なく、ある日突然気が付くのです。自分が不老不死だと気付いた者はもう他の人間達とは一緒に暮らせません。疑われないようにあちこちを転々として、時には顔を変えて生きて行くことしか出来ません。おまけに不老不死に気付いた途端、体が血しか受け付けなくなります。当然本人はパニックを起こしますが、先輩の吸血鬼がやって来て助けてくれるのです」課長はその時の事を思い出したように自分の手をじっと見詰めた。
 その繰り返しが『バイオハザード』社の歴史だ。世界初の吸血鬼がどうして生れたのかは誰も知らない。人間だってアフリカで生まれた人類の母「イヴ」を特定していない。ただ、人間と吸血鬼との遺伝子的差はほんの少しだ。現に結婚して子供が出来る。
 ああそうか、と僕は思い至った。調査部の仕事とはそういうことか。全国を巡回しながら新しく生れた吸血鬼を仲間として掬い上げようと駆けつける。
 首尾よく行けば新しい吸血鬼は『バイオ・ハザード』社の一員となるが、勘違いした全能感に捕らわれた物はアウトローとなる。五百二十五年前に僕の前に現われてリクルートしたのは調査部の者だったのだ。
「今後もアウトローが出現すると考えているってことね?」
「私達の説得が功をなさなければそういう事態になりましょう」
 小野主任の美声はよく響く。それなら、今後とも御社との縁は続くのかもね、と賀茂さんが金蔓を見つけた悪徳業者みたいにニヤッと笑ったが、吸血鬼達は笑わなかった。
 新しい吸血鬼がいつ出現するのかは分からない。その時、賀茂さんが現役の人間でいる保証もない。賀茂さんはわざとらしくコホンと咳をした。
「そうそう、賀茂さんにはお約束のお金を払わなくてはなりませんな。小野君、用意は出来てる?」
「はい、振り込みでなく現金で、との要望でしたので、少々お待ち下さい、今経理に持ってこさせます。必要経費の領収書は頂けますね?」
 ミツミネの黒豆のような目がキランと光ったのを僕は見逃さなかった。ここはどうしても独立費用として一千万円上乗せさせなくてはならないが、ウエストポーチから大量の領収書を掻き出す作業に没頭している賀茂さんが自ら云い出す筈がない。
「あの」と言い掛けて気が付いた。小野さんにも課長にも僕の声は聞えない。どうしたものか、と考えていたら麻利亜さんが机の上の課長のスマホを指差した。そうそう、話し掛ける手段はあった。
 僕は立ち上がって課長のスマホに手を伸ばし、値段交渉の為の文字列を表示した。「賀茂さんには三千万円払ってあげて下さい。彼女は二千万円以上の働きをしました。鈴木愛恋や伊藤さんの事もあります。報告は上がっていますよね 田中」
 スマホが勝手に文字列を表示したので課長は訝しげな顔をし、それから文面を読んでうーむ、と唸った。小野さんも立ち上がって画面を覗き込んで「ほう?」と声を上げた。
 吹っかけ過ぎたのか、と一瞬だがどきっとした。しかし問題は金額ではなかったようだ。
「成る程、幽霊はこのように意志を伝えるのですね。そう言えば最近の幽霊は携帯やスマホでターゲットを怖がらせていると聞きましたが、それをこの目で見られるとは、驚きです。なあ、山口君」
 小野主任が低音の美声のまま感動しているが、奥多摩からアレルギーを発症している山口君は再びくしゃみを連発し、答えるどころではない。
「これ、本当に田中君がやったのかな? そうだったら答えてくれたまえ」と課長。「そうですよ 田中」と僕は返した。「三千万円払って上げてください」。
「宜しい、払いましょう」と小野主任が発した言葉で一番驚いたのは僕だ。スマホ作戦成功ね、と麻利亜さんが満面の笑みを浮かべた。田中さん、最高! とVサイン付だ。驚いた賀茂さんは領収書をばらばらと床に落とし、ミツミネが今まで聞いたことのない明るい声でワンと吠えた。
 こう簡単に増額出来るとは思わなかった。いっそ一億、と吹っかけてやれば良かったか。二千万が三千万に増額したのだ。『バイオ・ハザード』社はどうやら資金繰りに困ってはいない、と僕は判断したが、元々総資産額なんて知らない。
「じゃあ、賀茂さんの活躍に敬意を表して三千万ということで。ちょっと待って下さい。連絡して訂正金額を持って来させます」
 かくして賀茂さんは一千万上乗せした額を手に入れた。ミツミネが考えていた独立は現実となる。後は僕を元の実体ある吸血鬼に戻して貰うだけだ。
「僕の心臓を返して下さい」とスマホに入力すると麻利亜さんが不安げに賀茂さんの顔を見た。僕とのコミュニケーションが取れなくなるのを心配しているのだ。
「大丈夫よ、元に戻っても田中っちは霊感持ちの吸血鬼だから。あなたみたいな綺麗な子がどうして中年のオジサンに一目惚れしちゃったのか解せないけど、元に戻っても麻利亜ちゃんが見えるし、話も出来るわよ。安心して執着してなさい」
 麻利亜さんの不安を払拭してくれたのはいいいが、僕に対するフォローはまるでなしだ。中年のオジサンで悪かったですね。その中年のオジサンが一千万、上乗せに成功したんですよ、と言おうと思ったが止めた。
 五分くらい待っていると経理から手提げ袋に入った三千万円が届いた。それと共に「今回の事は終生ご内密に云々」と書かれた宣誓書にサインさせられる賀茂さん。宣誓書など書かなくてもアウトロー吸血鬼退治の話など世間の誰も信じまい。
 小説の最後に「これはフィクションだから登場する団体、個人名が偶然実在するとしてもたまたま一致しただけだから抗議なんかしないでね」というアレと同じだ。宣誓書を書かせる方が返って薮蛇のような気がする。
 山口君と小野主任が部署に戻って行った。そして、いよいよ僕の再復活の時だ。前回は実体があったから手術出来たが、今回はどうやってやるのだろう、と不安になる。『バイオ・ハザード』社の医師がどんなに優秀でも見えないものは手術出来ない。
「あの。」と僕は小林課長にスマホに文字を表示させた。
「あ?」と小林課長。「何か心配でも? 君が帰って来ると分かってから心臓は自然解凍してあるから。預かっている間に小さな血栓を治しておいたって、医師団が言ってたよ。たまには車検みたいに点検して貰うのもいいかもな」
 血栓? それはやばかった。治療してくれて有難うだが、それからどうしたらいいのか見当がつかない。
「幽霊の手術ってできるんですか?」と再び文字を表示させる。
「できる訳ないじゃない。ロンドンで心臓を取り戻したときの事、もう忘れちゃったのかな? 心臓は持ち主のもとに戻りたがってるの。ドーンと押し込めば済む話じゃないか」
 そう言われればそうだった。但し、ドーンじゃなくてするり、って感じだったが。渡辺主任が僕の心臓を銀のトレーの上に載せて運んで来た。「田中君、お帰り」と声を掛けてくれたが、まるっきり違う方向に向いている。
 急速冷凍後の自然解凍? 少し不安だが自分の心臓を両手で包み上げて元あった場所に押し込んだ。やはりドーンじゃなくてするり、が正しい。
 こうして僕は再復活を果たした。心臓がこれほど愛しい物だったとは他の吸血鬼には分かるまい。実体を取り戻した僕を見て渡辺主任と小林課長がオオッと声を挙げた。「少し痩せたんじゃない?」と課長が僕のボディを眺め回して言った。
 アウトロー吸血鬼退治の旅で僕は肉体労働はまるでしていない。賀茂さんの後をくっ付いて移動しただけだ。調査部の山口君のようにアレルギーを発症したりはしなかったが、精神的に疲れたのは確かだ。もう二度と霊能者との旅は御免だ。
「今度またこんな状況が起こったら全然関係のない部署の僕じゃなくて、調査部の連中にやらせて下さいよ。彼等の方が専門でしょう」
 賀茂さんとミツミネが紙袋の中の紙幣を熱心に数えているのを目の端で確認しながら僕は課長に抗議した。僕は血液検査技師であって仕置き人のパシリではない。
「まあまあ、怒らないでくれよ。君が留守にしている間にちゃんと住む所を見つけておいたから。今度の部屋は前より広いぞ。麻利亜さんとかいう人と同居するんだろう? リビング六畳に同じく六畳の寝室。子供用の部屋もある」
 麻利亜さんが血色の悪い顔を幾分上気させてもじもじしているが、何だ、子供用って。
幽霊と生身の吸血鬼で子供が出来るとでも思っているのか。馬鹿か、あんたは。幽霊同士だって不可能だと思うぞ。
 日頃温厚と言われている僕もこの度ばかりはかっとして課長がプリントアウトしたらしい間取り図を取り上げると二つに破って捨てた。麻利亜さんが慌てて拾い上げようとしたが、紙は手を通り抜けて床に落ちた。
 渡辺主任が急に用事を思い出したような顔で部屋から逃げて行った。賀茂さんとミツミネはまだ紙幣を数えている。まったく誰のお陰で一千万増額したと思っているんだか、と怒りさえ覚える。
「田中君、そう興奮しなさんな。そうそう、『幽霊赤子』と言う怪談があったじゃないか。何だっけな……、ほれ、幽霊が赤ちゃんに与える為に毎晩飴を買いに来る、っていうやつだったっけ?」
「それは、『子育て幽霊』でしょうが。死んだ妊婦さんが墓の中で出産してその子を育てる為に飴を買いに来る、って話ですよ!」
「へえ、そうなのか。で、飴を買うお金はどこから都合したのかね」
「亡くなった時に三途の川の渡し賃として六文銭を一緒に入れておくでしょう、それで一日一銭で六日間飴を買いに来たんですよ、で、六文が無くなってからは自分の着物を売って金を調達した、って、そんな話、何でしなきゃならないんですか。亡くなった妊婦さんが土中出産しただけで、幽霊が子供を生んだって話じゃないんですから。『赤子幽霊』は妖怪ですよっ!」
「おお!」と課長が感じ入ったような声を上げた。「さすが田中君。高橋君から、君の話は面白い、と聞いていたが本当なんだな。で、その後赤ちゃんはどうなったのかね。 まさか赤ちゃんも幽霊ってことない……よな」
 ああ、もう煩い。僕は怪談語りではないのだ。何だか知らないが麻利亜さんが優しそうな顔をして微笑んでいる。気が付けば賀茂さんもミツミネも僕を見ている。既に金勘定は終ったらしく紙袋が元通りに膨らんでいる。
 この守銭奴が、とまた別方向で腹が立って来たが賀茂さんには二月までに金を工面しなければならない事情があったのを思い出した。兄の正樹の尻拭いだ。二千万を渡して実家との縁を切らねば賀茂さんの一生は金策に追われて終ってしまう。
 怒って破り捨てた間取り図を僕は拾い上げた。改めてじっくり眺めてみる。全体の外観はなんかのドラマの主人公が住んでいた古い木造モルタルアパートとよく似ていて、鬼束ちひろの歌が似合いそうな雰囲気を漂わせている。目立たなくて吸血鬼向きのアパートで、家賃も控えめだ。
「ここでいいです」と僕は課長に告げた。他に選択肢が示されない理由は、始めからここ、と決められてしまっているからだろう。昭和レトロ、結構じゃないか。耐震強度はゼロっぽいが。課長の顔が急に明るくなった。
「ね、私の目に狂いはないだろう。実はここ、私が所有しているアパートなんだ。だから思い切り家賃を値引きしてあげられるって訳だ。畳替えはもう済ませてあるから、今すぐにでも入居出来る。部屋は一番奥の日の当らない角部屋だから、のびのびと過ごせると思う」
「え? 課長の所有するアパート、ですか?『バイオ・ハザード』社は副業禁止じゃないんですか」と僕は相好を崩して喜んでいる課長を睨んだ。どこの会社でも普通は副業禁止だろうに。
「そんな規定はどこにもないよ。我社は自由な社風なんだ。知らなかったのかね」と課長が今度は得意げに縄文顔の鼻を擦った。元同僚の高橋は土日に清掃会社のバイトでポリッシャーを華麗に使っていたし、渡辺主任は現在も土日には進学塾で歴史を教えているのだそうだ。
 『バイオ・ハザード』の給料ってお安いの、と麻利亜さんが聞いてきた。これからの共同生活を心配したのだろうが、麻利亜さんは基本的にはお金は掛からないし、僕も人間の食費は掛からない。給料から天引きされるのは血液代だけだ。普通のサラリーマンよりは少し多めに貰っている。
 それで思い出したが、これからの僕の配属先だ。自動血液検査システムが軌道に乗っている今、僕の居場所はない。
「アパートの件は解決しましたが今後の仕事はどうなりましたか。あ、先に言っておきますけど、調査部は嫌ですからね」
「多分、そう言うと思ったよ。気持は分からないでもないが、僕達吸血鬼を守る大事なセクションなんだ。でも嫌なら強要はしない。『世界文献社』は知ってるかな?」
 世界文献社。本社から歩いて十五分くらいの場所にある傘下の出版社の一つだ。初期は百科事典や図鑑が主な刊行物だったが、ネットの時代には重くて場所塞ぎの百科事典や図鑑は売れないので今は柔らかい出版物に力を入れているが、本質的に地味な出版社だ。
「そこで超常現象を扱った月刊誌を発行する企画が持ち上がっているんだそうだ。そこの要員に君を推薦してある。幽霊にも霊能者にも付き合いのある君だ。適役だと思うがな」
 硬いイメージのある世界文献社が超常現象をテーマとした月刊誌を発行するとは驚きだ。
創刊号は「バチカンの秘密」。バチカンに潜入出来るのかと期待したがバチカン陰謀論を唱えている何人かの人物に記事を書かせ、最後に「さて、あなたは信じますか」で片付けるらしい。
 そもそも紙の本が売れなくなっている時代にそんな雑誌が売れるのかどうかだが、アパートの件と同じく選択の余地はなさそうだ。それに僕と麻利亜さんのようにオカルト好きは常に一定数存在する。
 面白そうね、一緒に会社に行っていい? と麻利亜さんが擦り寄って来た。見えない彼女同伴もなかなか楽しそうだ。僕は「はい、出向させて頂きます」と返事をした。
「重要なお話はもう終った?」と今まで存在を忘れていた賀茂さんが口を挟んで来た。なんだ、まだいたんですか、と僕は思い切りうっとおしそうに振り向いた。仕事も終わり、実体を取り戻した今、もう賀茂さんに付き合う義理はない筈だ。ロンドンから帰る飛行機の中で助けて貰った借りも返した。
「なんですか、もう」と言うと、田中っちに用があるんじゃないわよ、と睨まれた。「コバっちに尋ねたいの。アパートの件だけど、他に空き室あるかしら。もしあったら借りたいんだけど」
「おや、分室を作るお積りですか」と事情を知らぬ課長。「ええ、まあ、そんな感じ」と賀茂さん。課長に家庭の事情など説明しても仕方がないので適当に誤魔化している。課長には見えないが、うんうん、と頷くミツミネ。神使いが嘘に加担している。
「それなら日当たりのいい南東の部屋が開いておりますよ。風呂のボイラーが故障していますが、すぐに直させましょう。家賃は今までのお付き合いを考慮して田中君と同じ社員割引で如何ですか」
「それで結構よ」の一言で入居が決まった。賀茂さんと同じアパートというのは頂けないが、麻利亜さんが賀茂さんの手を取って嬉しそうにしているから反対はしない。
 それに僕は山口君のようにアレルギーを発症するまでには至っていないから何とかなるだろう。課長は二つの部屋が埋まってご機嫌だし、賀茂さんもミツミネも麻利亜さんも満足している。つまりはこれが大団円という事か。

幽霊は死なない

 課長が提供してくれた部屋は北東、いわゆる鬼門に当たり、昼間でも明かりをつけなければならない程暗く、しかも寒かった。暗くて寒いのは一向に構わない。暗い方が麻利亜さんの姿がくっきりと見えるからだ。「こんなオジサンに憑いていてもいいの?」と尋ねたら恥ずかしそうにしな垂れかかって来た。
 若い女子の気持はよく分らないが、好かれているのはいい気分だ。いや、ハッピーだ。自殺した理由は未だに聞いていないが、今更それが何だ。僕は麻利亜さんと一緒に眠る為にダブルサイズのベッドを購入した。
 夕方一緒に『世界文献社』に出社し、明け方に退出する。仕事中はずっと麻利亜さん用に購入したアンバーベースのお香の香りに包まれている。日勤(つまり人間)と引継ぎをする時には「田中さんって、いつも高貴な香りがしますね。ひょっとして実家はお寺とか?」と聞かれる度に二人でにっこりする。
 永遠に歳を取らない幽霊と不老不死の吸血鬼のカップル。最高じゃないか、と僕は思っている。腕枕をしてあげても腕が痺れない。普通の夫婦らしい事は出来ないから勿論子供も作れないが、抱き合って寝ているだけで幸せだ。
 しかし、幽霊というものは悪霊でない限りいつかは静かに消滅してしまうものらしい。賀茂さんに言われて、麻利亜さんは時々霊体強化の祈祷をして貰っている。東大の三四郎池に行った親子の霊体はもうすっかり希薄になっているらしい。マサチューセッツ工科大学の夢は消えてしまったのか、と思うと残念な気もする。その程度の夢だったのか、ノブヒコ君。
 一方、賀茂さんはすんなりとアパートに入居とは行かなかった。蛭みたいな父親と兄がいるからだ。吸血鬼よりたちが悪い。相当揉めたのは確かで、暫らく元気がなかった。
 賀茂さんと親和性のある麻利亜さんがどうしても、というので二千万を持ち帰った賀茂さんの家まで一緒に行ったのだが、まず実体化した僕が賀茂さんの彼氏と間違われて追い返されそうになった。
 ミツミネが言った通り、兄の正樹は勝手に婿候補を用意していた。スマホの写真だけだが、どう見ても人相風体頂けない。イケテルどころかイカレている。おそらく正樹の言い成りの遊び仲間だ。
「お前、こんな平々凡々な中年男のどこがいいんだ? お前の目は節穴か?」
 室町時代にはイケメンの部類だったのになあ、と内心思いながらぼりぼりと頭を掻いていたら麻利亜さんが正樹の頭をぽかりと殴ったが、冷たい風がすっと吹いただけで、正樹はまるで気付かない。霊感がないのも時には便利だ。
「この人は恋人とかじゃないわよ。立派な妻帯者でただの知り合い。お金を持ち歩くのが心配だから一緒に来て貰っただけ」と賀茂さんが口を尖らせた。そんなに全力否定しなくてもいいのに、とまた僕は頭を掻いた。妻帯者の言葉に反応した麻利亜さんが僕にぴたりと張り付いた。
「ほれ、二千万揃ったわよ。これで借金を返して彼女を取り戻しなさい。それからね、今後は一切あんたの尻拭いはしないつもりだから。犬神様とお祖母ちゃんとお母さんは私が連れて行くから心配しないでいいわよ」
「えっ? 犬神って本当にいるのか。アホか、お前は。それに祖母ちゃんと母さんって何だ? 二人ともとっくに死んでんじゃないか」
 そのお祖母ちゃんとお母さんの霊が正面から睨んでいるのも知らずによく言うよ、だ。
「お前が出ていったら俺達の生活はどうなるんだ。お前が留守の間に除霊の依頼が五万と来てるんだぞ」
 正樹が椅子を倒して立ち上がった。父親はどろんとした目で酒を飲み続けている。ミツミネが地響きのような唸り声を上げて正樹に飛び掛った。
 神使いの姿は見えないがあちこち噛付かれて正樹は血だらけになった。血の臭いが部屋の中に充満したが、僕の食欲をそそる臭いではない。吸血鬼でも御免です、な臭いがあるものだ。
 最終的にただでさえ少ない自制心を切らした正樹が「この化物、出て行け!」と叫んだのが決定打だった。出て行ってもいいとのお墨付きを貰った賀茂さんはにっこりと微笑んだ。今までの苦労からやっと開放されたのだ。
「じゃ、兄貴、そういうことで。犬神様の祭壇は捨ててもいいよ。私がまた新しく作るから。お祖母ちゃん、お母さん、行こうか」
 僕の目には二人の女性の霊が頷くのがはっきり見えた。まだ唸っているミツミネの尻尾を掴んだ賀茂さんが片手で二人の霊の手を取った。その背中を麻利亜さんがゆっくりと撫でている。

ハーフ・ゴッド誕生

 結局その日、二千万円を賀茂さんは渡さなかった。正樹に直接渡したら彼女の身請けに使うかどうか怪しいものだからだ。賀茂さんは家を出たその足でナントカ興業のドアを叩き、面倒な交渉の末に正樹の恋人を解放して貰った。
 ミツミネはその時にはサングラスを掛けた身長百九十cmのプロレスラー風の男に化けていたので小柄な賀茂さんでも話をつけられたのだ。何だよ、人間に化けられるなら始めからそうすればいいのに、と思った瞬間、ミツミネにサングラス越しに睨まれた。
 ミツミネはこの変身が気に入ったらしい。賀茂さんをガードするなら打って付けの変身だ。代わりに黒のライダー・スーツを着たミツミネ自身が暴力系の人間に絡まれる機会が増えてしまったが、神使いが人間如きに負ける訳がない。
 僕の部屋が麻利亜さんの好みで段々ピンク系に染まって行く間、賀茂さんの部屋では新しいハウス、いや、祭壇が作られ、そこら辺をほっつき歩いていた犬神も無事鎮座したらしい。
 らしい、としか言えないのは一旦鎮座したものの、相変わらずほっつき歩いているのが趣味なのだそうで、僕は犬神の姿を見ていないからだ。ただ、賀茂さんには今頃どこら辺をほっつき歩いているのか見当はついている。
 二人の幽霊、お祖母ちゃんとお母さんは意外と活動的だった。昼は五つも六つものカルチャー・スクールに通い、夜は夜で映画館や劇場に出掛け、幽霊友達も何人か出来た、とはしゃいでいるが、賀茂さんが手に追えない除霊にも霊夢で知恵を授けている。
 賀茂さんはアパートに引っ越して来てからは看板を上げることなく霊能者稼業を続けている。噂が噂を呼ぶというやつで、繁盛しているが、前の家にいた時のように法外な値を吹っかけたりはしない。
 もともと値を吊り上げていたのは正樹だから、賀茂さんは自分の納得のいく値段しか要求しない。交通費と御札代くらいだから生活は楽ではないが、どこから手に入れるのかミツミネが時々大根や南瓜などの季節の野菜を担いで帰って来るので食べ物には不自由はしていない。
 正樹はしばらくの間執拗に賀茂さんのアパートに出没したが、その度にミツミネに追い払われて諦めたのか、一年も経つと姿を現さなくなった。自分が逃げる回る立場に置かれ、保子を追い掛け回す暇がないみたいだよ、とお祖母ちゃんが苦笑した。
 不肖の孫だが一応は気にしているが、「その内警察のお世話になるかもしれないねえ」と半ば諦めムードだ。とうに見放しているといった方が正確だ。
 僕自身も正樹のような男は嫌いだが、女子のみ期待され、幼い頃から「本当はいらない子」みたいに扱われてきた正樹が長じて賀茂さんの稼ぎばかり当てにしてギャンブルや女遊びに走ってしまった理由も分からなくもない。だが共感はしない。
 Fランク大学出ではあるが大学まで進学しているのだ。後は自分で見の振り方ぐらいは考えるべきだった。酒浸りの婿養子の父親の姿を毎日見ていたのならこうなりたくない、と発奮すべきだったのだ。
「ウチはねえ、ずっと女系で続いて来た家なんですよ。だから男の子が生れても歓迎されないの。可哀相だとは思うけど、犬神様の力は女の子にしか継承されないの。だから仕方ないわよねえ。でも女の子も苦労を背負って生まれて来るようなものなのよ。敬して遠ざける、って言葉があるでしょう。本当の友達は出来ないし、五十歳くらいしか生きられないし。犬神様を背負うって事はそりゃあ大変な人生なのよ」
 賀茂さんの母親が麻利亜さんにしみじみと語っているのを聞いたことがある。
 神様は気紛れ。神の時間ではほんの半年ばかり賀茂家に留まっているつもりでも人間世界では賀茂家代々となるのだ。不敬を承知で言うならば通り魔みたいなものだと思ったほうが良さそうな気がする。
 正樹君が妹の元を訪れなくなった一年後、賀茂さんに子供が出来たらしいわよ、と麻利亜さんが同伴出勤している『世界文献社』で仕事中の僕に囁いた。丁度「ギリシャ神話の神々」の企画が進行中の時だ。
 僕がええっ? と叫ぶと残業中の人間の同僚がひえっ、と持っていた赤ペンを落とした。
この人間の同僚はオカルトには滅法弱く霊感もないくせに幽霊を怖がる。前々回の「日本心霊最強スポット巡り」では写真を見ただけで泣きそうになっていた男だ。
「田中さん、今、ええっ、とか言いましたよね。しかも何も無い所を見てましたよね。ひょっとしてこの前の企画で扱った常紋トンネルの……が憑いて来ちゃってるとか」
 幽霊という言葉さえ怖がって口に出せないビビリだ。三つ点があったら即座に幽霊の顔と認定してしまうタイプだ。怖がりのくせにTVの「夏の心霊特番」は必ず見ている。すぐ傍に居る麻利亜さんを何と心得る。
「いや、御免、御免。原稿を読んでいたらとんでもない矛盾点を見つけちゃったもんだから。ほら、有り得ないでしょ、ここ」と話を逸らす。
 ゴースト・ライター(ここではオカルト専門の執筆者の意味だ)が調子に乗って書き散らした箇所を同僚に示して見せた。オリンポウスの主神ゼウスがいつの間にかスサノオノ命になっている。
「あ、そこですか。どうやら彼はゼウスが日本に遣ってきてスサノオと名乗った説を唱えているらしいですよ。ユダヤの失われた十支族が日本に渡って来ている風な?」
「そういうことなの?」
 へえ〜、と僕は溜息をついた。なんでもアリかい。ゴースト・ライターの陳腐な発想には頭が下がる思いだ。これでそこそこの売り上げを上げているのだから人間世界は摩訶不思議だ。
 人間の同僚が帰った後、僕は遠慮なく麻利亜さんと語り合った。勿論ゼウス=スサノオ説についてではない。
「賀茂さんに子供が出来たってさっき言ったよね。最近誰かと付き合い始めたの? ミツミネがいつも傍に貼り付いているんだから恋人を作る隙なんかないでしょうが。新しい信者さんとか?」
 麻利亜さんはデスクの上に腰掛けると足首のきゅっと締まった足を組んだ。勿論、ミツミネは賀茂さんといつも一緒だ。となると、考えられる相手はミツミネしかいないんじゃないかしら、とのたまう。
ええっ! とまた僕は叫んだ。神と人間との結婚譚を語ったのは僕だが、まさかそれがこの現代において現実になるとは思いもよらなかった。神使いは「気」で人間の女性との間に子供を作れるんだそうよ、と麻利亜さんは羨ましそうな口振りだ。
 賀茂さんはどう頑張ってもあと二十年くらいしか生きられない。賀茂さんと別れがたいミツミネは人間との間に子を儲けるという手段を選択したのだ。絶対女の子を授けてやる、と以前言っていたから生まれて来る子は女の子なのだろう。
 しかも今回は神使いの子でもあるから寿命は相当長くなるに違いない。千年、二千年の時を越えるかも知れないし、不老不死も考えられる。ミツミネは本当に賀茂さんが好きなのね、と麻利亜さんが乙女チックな吐息をついた。
 賀茂さんが死すべき運命ならせめてその人の子を守り続けたい。そう思うのは男として当然かも知れないが、ミツミネのエゴでもある。神使いとは言っても仏とは違って生臭い生き物なのだ。賀茂さんはこの状況をどう考えているのだろう。
 僕の心配を他所に賀茂さんはいたって呑気だった。「今生むと娘が十九歳ぐらいになるまでは一緒にいられるのね」と人が聞いたら慰めの声を失ってしまうような事を平気で麻利亜さんに言っている。
 ミツミネと賀茂さんはどちらも人間の常識から外れているから子供が生まれてからの事は何も考えていなかったが、母親に子供にはとりあえず戸籍が必要だ、と諭されてウルトラ級の技を繰り出した。いつの間にかミツミネは三峰剛となり、賀茂さんはその三峰剛と婚姻届を出して、三峰保子になった。
 マイナンバーも保険証も運転免許書も二人の手に掛かればあっという間に真実になる。やれやれ、縦割り行政の日本の役所は節穴か、と思ったが僕達吸血鬼とやってる事は変わらない。僕達の場合はすべて『バイオ・ハザード』社が代行してくれている。
 神使いと霊能者の血を引いた子は人間のルールに則って四十週で生まれて来た。ハーフ・ゴッドは本来その半分で充分なのだそうで、四十週もお腹の中に止め置かれていた赤ん坊は担当産婦人科医が今まで見たことがないような不機嫌顔の赤子だったそうだ。
 実際相当不機嫌だったらしく、半年後に言葉が話せる頃になると「物凄く退屈だった」とのたもうた。
「お母さんにもう出ていい、って聞くと駄目だと言われるし、お父さんも、それはなあ、いま少し待てぬか、何て言うし。だからハリー・ポッターのお話を読んで貰っていたの。ねえ、オジサン(僕のことだ)、私も大きくなったらフォグワツーツの魔法学校へ行ける?」
「あれは外国のお話だから無理じゃないかなあ」とは答えたものの、内心早熟ぶりに仰天したものだ。成長したら母親似になるであろう赤子は「つまんないの〜」と言いながら自力でラブクラフトの本を読んでいた。
 赤子誕生は他の神使い達にすぐに知れ渡り、アパートには様々な誕生祝が届けられた。縁の深い神社からのお守りは当然ながら鹿や野兎の骨が届くのはさすがに狼らしいプレゼントだろうが、国の特別天然記念物に指定されているニホンカモシカの骨は駄目なんじゃなかろうか。それに赤子に骨って、おかしくはないか。
 僕と麻利亜さんは仲間の神使いがやって来る度に次ぎは何かとはらはらどきどきしていた。人間らしい常識とはかけ離れた者達は最終的には人骨を持ってきそうな気がしていたからだ。人間の髑髏が転がっている子供部屋を想像するだけでホラーだ。それを言うと
「我々は神使いの狼だぞ。人間を襲ったりはしない。反対に狼をこの日本から絶滅させたのは人間の方ではないか」とミツミネが不愉快を顕わにして鼻に皺を寄せた。
 一方、賀茂さんは子供が生まれても相変わらず変人ぶりを発揮して集った骨で嬉々としてベビーフェンスやベビー・ベッドに取り付けるメリーを作り始めたが、その出来具合は不器用の一言だ。
 ミツミネの子供の可愛がりようはまさに「舐めるるが如く」だ。実際に舐めている。そんな事をしていたら獣臭くなりそうだが、父親に舐められる度にきゃっきゃっと喜んでいるのよ、おとうさんが大好きなのね、というのが麻利亜さんの見解だ。
 一度死んで生き返った元同様の高橋は志願して傘下の製薬会社に就職した。もともと理系だからいい選択だ。今は二十八歳ぐらいの姿に戻って九州に住んでいるが、残した家族が心配で東京に出張の時は密かに子や孫の行く末を見守っている。
 すっかり面代わりしているから気付かれはしないだろうが、出会った頃の彼の姿に似た男を見掛けたとしたら妻は何を思うのだろう。僕はずっと長い未練を引き摺りながら不死の時を生きるのは御免だ。悲し過ぎる。
「お前、嫁を貰ったんだって? 小林課長から聞いたぞ。相当な美人だそうじゃなか。逢わせろよ」
 東京に来る度に僕の部屋に寄って催促するが、霊感ナシの彼にはすぐ傍に座って興味深げに耳を傾けている麻利亜さんが見えない。
「買物に行ってる? いつも僕が来ると買物に出てるんだな。ひょっとしたら買物依存症か」
「依存症になれる程僕は稼いじゃいないよ。『世界文献社』は二流どころだからな。出版業界はネットの普及で紙の本の売り上げは落ちている。そのうち出版物は全部電子書籍になるかも知れない」
「新聞の売り上げも落ちているそうだな。情報ならネットの方が断然早い。昔は新聞の勧誘が煩かったが、今はネットで見てます、と言うとすごすご帰って行くぞ」
「そうそう、昔の勧誘は脅迫まがいだったもんな。ところでお前はどんな薬の開発をしているんだ?」
「他の会社が採算上やりたがらない難病患者用の薬だ。人間の研究員はジェネリックの開発をしているが僕達は何班かに分かれて難病指定の薬の研究をしている。例えばベーチェット病、小児慢性特定疾患、進行性筋萎縮症などだな。僕等は不老不死だが病気に懸からないわけじゃないからな、難病の治療薬や治療方法の研究も必要ってことさ。金と時間は掛かるが有意義な仕事だ」
 高橋は本当にやりがいのある仕事について満足している。彼が上京する度に僕はわくわくしながら話を聞いている。嫁に会わせろとしつこく言われるが、それは彼が霊感持ちにならなければ無理だ。霊感持ちになったらなったで、このアパートの異常な幽霊密集度に腰を抜かすだろう。
 「宝子」と名付けられた赤子はさすがにハーフ・ゴッドだけあって幽霊を認識しているし、怖がらない。賀茂さんの祖母と母親が幽霊友達を連れて来てもミツミネ譲りの黒豆みたいな真丸な目で動きを追っている。
「たからこちゃん、幽霊が見えて怖くないの?」と幽霊本人の麻利亜さんが聞いても首を横に振る。
「ひいばあちゃまとばあちゃまはあの人達をもっといい所へ行かせてあげる為にここへ連れて来てるのよ。みんな重い荷物を背負っている人達ばかりでしょう。ひいおばあちゃまとばあちゃまはその荷物を消してあげているの。皆、最後には有難う、って言ってにっこり笑っていなくなるじゃない。だから怖くなんかないよ」
 言われてみれば幽霊のお友達は年中入れ代わっている。中には頑固でしぶとい奴もいるが、重荷を下ろした仲間が白く輝きながら昇天していく様を見れば馬鹿でない限りどちらが幸せか自ずと判断はつく。
 賀茂さんのお祖母ちゃんと母親は幽霊になってもまだ活躍している。いや、幽霊になってしまった人達の為に自分達はまだこの世に留まっているのだ。
「あら、本物の霊能者はそういうものよ」とあっけらかんと笑っているが、そんな博愛っぽい行為は僕には無理だ。
「あなたみたいにただ幽霊が見えるだけの人には無理だけど、力のある霊能力者は死後も幽霊さん達とのお付き合いが出来るんですよ。辛く悲しい思いを吐き出してしまえば心も体も軽くなる。後はご覧の通りですよ。もっとも生前の思いがあまりにも強すぎて悪霊になって手におえない場合は保子の出番ですけどね」
 お祖母ちゃんが骨で出来たメリーを霊力で揺らしながら幽霊界の事情を教えてくれた。死んでも現世に物理的力を及ぼすことが出来るとは、さすがに霊能力者だっただけはある。
 からっからに乾いた骨は意外といい音がする。しかしどう考えても人間の子供向けではないような気がするが、神使いの仲間が誕生祝いに持って来てくれたものだ。魔除けにでもなるのだろう。
「ちょっと伺ってもいいですか。霊能者が死後も幽霊さん達の面倒を見てあげているのは分かりました。ですが、それは永遠に続くものなんですか?」
 僕の問いに二人は顔を見合わせてちょっと困った顔をした。幽霊になった霊能者の世界がどうなっているのか知りようがないが、聞いてはいけない事を聞いてしまったような気がした。
「それは私達にも分からぬことです。それこそ天命でしょう。実はね、宝子が生まれてから私達にはその天命が近付いて来ているような気がしているんですよ」
 僕はあれこれ考えたが、口には出さなかった。賀茂さんも遠からず幽霊になるのだろう。しかし僕にはちゃんと彼女の姿が見えるのだから生きているのと同じだ。死んでもさよならは言わなくていい。

後日譚(1)

 僕の勤めている『世界文献社』は色々迷走はしているが潰れもせず相変わらず二流どころだ。高橋の研究室では幾つかの難病の治験が始まっている。
 ミツミネは嘘みたいな話だが探偵業を始めた。宝子ちゃんがこれから幼稚園、小学校、中学、高校、大学と進学するにはどうしても親の職業が必要だからだ。親の職業欄に「母 霊能者」と書くのは将来子供をイジメの対象にしてください、と言っているようなものだ。だからと言って「父 三峰探偵社」も胡散臭いが、少なくとも霊能者よりは探偵社社長、の肩書の方が穏便だ。
 ミツミネは小林課長のアパートのもう一室を借りて本当に探偵業を始めた。賀茂さんが宝子ちゃんを身篭ってからずっと百九十mの大男の姿でいる。サングラスも黒いライダースーツ姿も相変わらずで、賀茂さんのウエストポーチに潜んでいた豆芝とは大違いだ。
 彼は意外にもパソコンにも詳しく、探偵社のWeb・サイトを開設した。『即日解決!』の謳い文句が誇大広告臭いが、霊能者と神使いがタッグを組めば安楽椅子探偵どころか、部屋を一歩も出ないで即日解決も嘘ではない。
 さすがに世慣れたお祖母さんとお母さんの霊が最短一週間調査後には調査結果を御報告します、と改めさせた。依頼者だって椅子に座った途端に夫の浮気相手の氏名、年齢、住所、浮気に至った経緯や証拠写真を並べられては疑心暗鬼に陥るものだ。
 ともあれ、ミツミネの調査は早くて正確なので依頼は絶えなかった。見せ掛けの押し出しの強さも影響したに違いない。賀茂さんは賀茂さんで相変わらず除霊の仕事をしていたが、いつしかそれは裏稼業になって、宝子ちゃんは探偵社のお嬢ちゃんと呼ばれるようになった。
 宝子ちゃんは生れて半年で喋り出した超早熟児だ。体の発育は人間と変わらないが中身が根本的に違う。心配したミツミネが他の神使いに学校でのお守り役を頼んだが、その守り役の尻尾を掴んできゃっきゃと喜んでいる姿は、神使いの姿が見えない人間から見ると「かなり変わったお子さん」に見えるらしい。
 霊能者の血を引いているから当然幽霊も見える。校庭の桜の木の下で青い顔をして立っている「僕」ちゃんと話していても誰にもその「僕」ちゃんは見えない。
 ミツミネがのしのしと学校まで足を運び、「子供時代によくある仮想のお友達と話をしているようですな。一人っ子にはよく見られる現象ですが、小学校の高学年にもなればぱったりと止むと言われております」と強弁し、賀茂さんは自分の経験から「何かが見えても他の人には見えないんだから黙っていなさいね」と口を酸っぱくして諌め、やっと納まった。
 とは言え、家に帰ればひいおばあちゃまとおばあちゃまを始めとした幽霊がごろごろしているのだから家の中では見てみぬ振りは出来ない。宝子ちゃんから見れば幽霊のいる世界の方が現実に違いない。
 あまた湧いて来る幽霊達に可愛がられ、守役の神使いにも大事にされ、両親に愛され、宝子ちゃんは年を追うごとに天然ぼけ……、いや天真爛漫な子に育った。
 勉強は僕と麻利亜さんが小学生頃までは見てやれたが、中学校となるとさすがに二人の手に余る。公立の中学校、高校での成績は中の中くらい。守役の神使いがカンニング・ペーパーを渡してやろうとしても断固拒否して中の中を保った。霊力は上がったが、お勉強は苦手だ。
 そんな宝子ちゃんは大学には行きたくなさそうだったが、賀茂さんの勧めで塾通いをして文学部に進学した。僕が通信制の大学で勉強していた頃は文学部と言えば日文と英文ぐらいしかなかったが、今は横文字の学科が増えて何を勉強しているのかさっぱりだ。
 その頃の賀茂さんは白髪が目立つ中年女性になっていた。ミツミネも僕も世間に合わせて人間ならこうであろうと思われる姿をしている。たまに「お互い歳を取ったなあ」と冗談を言い合っているが中身は不老不死のままだ。
 不老不死でないのは賀茂さんだけで、彼女の寿命が終わりに近付いたのは宝子ちゃんが十九歳になった頃だった。死因はいかにも霊能者らしく悪霊に憑かれた霊能者に放った式が返されたからだ。初めて賀茂さんに会った頃には考えられない事態だが、体力の衰えと油断があったのだろう、としか考えられない。
 怒ったミツミネと宝子ちゃんが直ぐに強力な式を放って悪霊をずたずたに引き裂いたが、賀茂さんの人間としての魂は現世に帰っては来なかった。だから……。
「ふう、とんだヘマをしちゃったね。覚悟はしていたけどやっぱり賀茂家の女は長生き出来ないみたい。でも宝子にはお父さんの血が流れているから私よりずっとずっと長生き出来るわよ」
 賀茂さんのお棺の横で賀茂さんの幽霊が畳から一㎝ほど浮き上がりながら喋っている。賀茂さんを見ているとこの世とあの世は畳一㎝位の差しかないように思えてくる。代わりにひいおばあちゃんの姿が消えていた。ひいおばあちゃんの幽霊は勤めを終えて別次元に昇天して行ったのだ。
「この世もあの世も順送りよ。霊能力を持っているのも一苦労ね。ゆっくり死んでもいられないんだもの。あら、田中っちったら、泣いてくれるの? 吸血鬼が灰になったらアウトだけど、私は現世からあの世に引っ越しただけ。今度またアウトロー吸血鬼が現われたら宝子と一緒に旅をしてあげてね」
「嫌ですよ」と僕は即答した。また吸血鬼の幽霊にされるなんて御免だ。
「今度は調査部の山口か小野と組んで下さい。その方が手っ取り早いでしょう」と突っぱねると賀茂さんは意味深な目をしてうふふ、と笑った。
 賀茂さんは現世にいた頃と少しも変わらなかった。霊感持ちの僕だからこそ賀茂さんの霊体が見える。見知らぬ幽霊は相変わらず苦手だが知り合いの幽霊なら案外いいかも。
 賀茂さんの葬式は実にあっさりと終った。近頃は故人の意思で大袈裟な葬式は行われなくなっている。いわゆる「直葬」だ。表面的に見れば参列者はミツミネと僕、宝子さん、小林課長の計四人だけだが、かつて賀茂さんの世話になって昇天した幽霊達がわらわらと集った。もう重荷を下ろした幽霊達は心霊写真で見るオーブと呼ばれる丸い光だ。
 元幽霊達は誰も悲しんだりお悔やみの言葉を述べない。賀茂さんの霊体がすぐ目の前にいるのだから当り前といえばそれきりだが、霊感のある人間がいたらすし詰め状態の幽霊に目を回していただろう光景だ。
 霊感のないない小林課長だけは「たとえ現世での姿を失ったとしても保子は永遠に私の妻です」という一般向けの言葉を聞かされて暫らく鼻をぐずぐずさせていた。
 しかし、これだけ珍しい場面はそうはないだろう、と麻利亜さんと手を繋いだまま僕は別の意味で感動していた。
 一般の参列者は一人もいない。賀茂さんの死はさすがに兄の正樹には知らせてあるが、正樹は出席しなかった。父親は二年前に死んでいる。
 宝子ちゃんが大学に進学してからは守役を外れていた神使いは葬儀の一週間後に何を勘違いしているのか、病院の見舞いのように果物の入った籠をぶら下げて弔問にやって来た。どこかのFランクの大学生のいでたちだ。身長はミツミネよりやや低いが、細身でしかもかなりイケメンだ。
「宝子、お悔み来てやったぞ」と籠を賀茂さんの遺影の前に置くと「やあ、どうも」と賀茂さんの幽霊に頭を下げた。見ているだけで眩暈がしそうなシュールな光景だ。たむろしている他の平凡な幽霊達が果物のエキスを味わおうと集って来たのをしっしっと追い払う。
「これは三峰神社からの特別な御下がりだ。宝子だけで頂け。寿命が伸びるぞ」賀茂さんにとっては今更な事を平然と言ってのけるのは世間とはずれている神使いらしい言葉だ。賀茂さんがふっと溜息をついた。
 わざわざイケメン姿で現われた同類にミツミネは顔を強張らせている。年頃の娘を持った父親の警戒心だろう。高見の見物を決め込んでいた僕は宝子ちゃんがまた他の神使いと結ばれたら生れた子はどういう事になるのか考えてみた。結論。……分からん。それこそ神のみぞ知るだ。

後日譚(2)

 賀茂さんが事実上現世から姿を消して一年目にわが『バイオ・ハザード』社は人間達より先に念願のO型Rh null血液の増産に成功した。まさに血の海で泳ぐことも可能だ。これで直接人間から血を頂く必要がなくなった。
ある意味、吸血鬼の独立記念日と言えるだろう。
 用意周到にも現在発見されているO型Rh nullの血を持つ人間三千五百人の血液も既に収集済みだそうだ。これは世界を股にかけた別働隊が調べ上げて収集したと聞いている。
 僕は上京して来た高橋と部屋で新鮮なO型Rh nullで祝杯を揚げた。極端に言えば、人間がいつ滅んでも僕等には関係がない。クマノミ君体質のお陰で僕等は人間が住めない星にだって移住が出来るのだ。
 『バイオ・ハザード』社は今やかつてのSF小説のように宇宙船開発の研究に全力シフトしている。他の星への移住も僕等の方が先に決まっている。いや、他の星へ移住する前に人間は自滅するだろう。
「これでまあ、長い間続いていた人間依存の生活ともおさらば出来るってことだな。でも少し寂しい気もするよ。何だかんだと言っても僕等は人間から進化して来た訳だからなあ。まったく人間のいない世界というものがどんなものなのか、想像もつかないよ」
 何回か人間との生活を体験して来た高橋らしい言葉だ。子々孫々をまだ気にしているのだろう。これが《くさび》と呼ばれているものか。
「田中、お前の嫁は相変わらず買物か? 子供はまだいないんだよな? 俺が言うのも何だが、宇宙に行くのはもう少し先の話だろうが、嫁さんが死ぬのはそう遠い先ではない。今から覚悟しておけよ」
 人間の嫁なら不老不死の僕より先に死ぬだろう。しかし相手は幽霊だ。僕との生活を解消して昇天する気にならない限りずっと傍にいる筈だ。幽霊は人類が滅亡しても存在するものなのだろうか。すぐ傍で悲しげな顔をしている麻利亜さんに僕はどんな言葉を掛けていいものか思いつかなかった。
 鈍感な高橋は麻利亜さんがいつもより強い冷気を発しているのにもまったく気付かない。お前のアパートはクーラーがなくても涼しいな、地形の問題か、と能天気なことを言っている。
「嫁は僕よりずっと若い。もう少し後になってから考えるさ。それよりも高橋、前から気になっていたんだが、吸血鬼同士は子供が作れなかったのに、僕の知っている限りでは鈴木愛恋が子供を生んだ。生粋の吸血鬼っ子だな。最近何例か確認されているらしいじゃないか。確か学会にもハイブリッドがいたよな。それは、人間から生れた吸血鬼の中からまた新しい種族が現われ始めたってことになるのか? 彼等が多数を占めるようになったら僕達は古いタイプの吸血鬼になってしまうのか?」
「片一方は繁殖出来ないが、片一方は繁殖出来る。どちらが優勢になるのかは時間の問題だ、と言いたいんだろう? 老兵は去れ、とでも言われるかもな。まだ問題は顕在化していないが、そのうち旧・吸血鬼と新・吸血鬼との間に何らかの協定が必要になるかもしれない。そう考えると不老不死も楽ではないな」
 高橋はクールに言い放ったが、僕には人間と共にこの星に置き去りにされる同類達の姿が見えるような気がした。まったく、吸血鬼も楽じゃない。
                                     

(了)


乞うご期待【続・幽霊のかえる場所】


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