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中編ファンタジー 【ドードー鳥、見つけた】(3)

阿佐野桂子



ニッポニア・ニッポン

 さてそれから、またドードー鳥はふうふう言いながら棲家に戻った。頭の中には疑問符が沢山詰まっていて、それを一つ一つ考えながら歩いていると戻りの道も苦にならない。天気が良かったから尚更だった。
 一日目が過ぎ、二日目は小雨がぱらついた。龍が空中を移動したのだ。どこへ行くのかな、とぼんやり見上げていると当の龍が目の前に現われた。ドードー鳥の不在に痺れをきらして迎えに来てくれたらしい。
「もう、いつまで留守にしているつもりですか。体が埃だらけですよ。おまけに足にマメまで作って。だから私が送り迎えしてあげるって言ったのに、聞かないんだから」
 恨めしげに言うものの目がきらきら輝いている。
「また新しい仲間が来るらしいですよ!」
 小さな翼を広げたまま興奮気味だ。この言葉にドードー鳥の単純な思考回路もたちまち吹き飛んだ。
 新しい仲間! これこそ島で最大の関心事だ。獣達は獣達に、鳥達は鳥達に熱い興味を注いでいる。単細胞生物達は飄々として捉えどころがなく、何を考えているのか分らないが、聞いてみればやっぱり同類には興味を示すだろう。
 出来れば自分に近縁ですぐに理解し合える相手がいい。しかしあまり近縁過ぎるのも困る。来て欲しいような欲しくないような。オオウミガラスのように、さっさとこっちへ来た方が考えようによっては楽だ、と言えるかどうか。
 「考えようによって」というのはいつも詭弁すれすれだ。被害者が言う分にはまだしも、加害者が言う時にはなお更だ。確かに殺されるのを待って震えているより島にいる方がずっといいかも知れないが。
 だがもっといいのは、殺されもせず自分らしく生き永らえ、自分の遺伝子を子孫に伝えられることだ。この島に来ない方がもっといいに決まっている。
「それで、それはどこのどいつかな?」
 常にこの話題が上る時の慣例で、ドードー鳥は他人行儀につんとして尋ねた。思わせ振りに、しかもさり気なく言ったり聞いたりするのがこの際の作法なのだ。
 龍がもどかしがって翼を揺すった。たちまち強風が起こり、もう少しで海の方角に飛ばされそうになった。龍が慌てて髭を伸ばしてドードー鳥をつかまえた。
「何でもね、今度はニッポンから一度に沢山来そうなんですってさ。たった今、ステラーカイギュウに聞いたばかりですけど、アホウドリ、トキ、ライチョウ、イリオモテヤマネコ、ニホンカワウソ、ヤンバルテナガコガネ、ええと、それから……」
 そろぞろと龍が呪文のように唱えたが、記憶に残ったのはステラーカイギュウに聞いた、という言葉と、ニッポンという国の名だけだった。
 何でも、カムチャッカ半島を南下した所にある小さな島国で、ステラーカイギュウはそこの一番北の海に生息する海獣達から聞いたのだそうだ。残念ながらその海獣達も数が減る一方だ。
「トキなんて、もう二羽しかいないんですってよ」と龍が続けた。
「それも年を取った二羽だけ。今では檻の中で暮しているんですって」
 ニッポンという国を良く知っている、と龍は言った。そこでも神様だったり悪魔だったりした時があるのだ。
「私はトキを何度も見ましたよ。昔は日本のあちこちで見かけましたからね。飛ぶ鳥としては大型で、嘴は長く、先の方へ行く程細くなって曲がっています。羽根はきれいな薄桃色で、顔だけ紅をさしたように赤いのです。とぼけた目をした元気のいい奴でしたよ」
 学名はニッポニア・ニッポンと言う。
「そんなに沢山来るなんておかしいね。ひょっとしたらニッポンという国が海の中に沈んでしまうのかな」
 小さな島が突然爆発して海底に姿を消してしまうことだってある。そうなれば島に住んでいた生き物達の殆どは島と運命を共にするのだ。 
 ドードー鳥はそうして滅びてしまった生き物の話を聞いたことがある。ニッポンが無くなってしまうのだろうか。しかしここは人間の手で絶滅させられた生き物達が棲む島だ。では人間がニッポンを沈没させてしまうのか。
 龍が言うにはニッポンは爆発したり沈んだりするのではない。元々小さな島国で人間の数が多いから、他の生き物が弾き出されて行く。
 一時ニッポンでは凄い勢いで木が切られ、川が汚れ、海が埋め立てられた。人工的な施設の中でも適応して行ける者以外はどんどん棲家を失ってしまった。
「どこの国でも条件は同じですけど、ニッポンでは特に昔から人間同胞以外に関心がないのでね」
 龍は器用に片目を吊り上げてみせた。
「他の国みたいに保護区を作ろうにもなにしろ土地が狭いでしょ、そんなもの作るより人間の棲家や食べ物を作ったりしたいんですよ。ヤンバルテナガコガネ何て訳の分らない虫の為に空けておく場所さえないんです。いえ、本当は気持次第なんですが、気持の余裕すらないようですね。人工飼育中のトキを繁殖させようと努力している人間もいるらしいけど、もし、もしもですよ、成功してトキが増えたとしたらどうするつもりなのでしょうね。トキが暮して行ける自然なんか失ってしまっていうのにね。永久に檻の中だけで生かしておくつもりでいるのでしょうか。わたしはね、ドードー鳥さん、トキが自由に空を飛び、好きな所に好きな相手と巣を作って子供を育てていた頃を知っています。もっともトキの方では私を知らないと思いますが」
 龍は幻のトキの姿を追うようにゆっくりと首を巡らせた。
 悲しいことに地球の大きさには限りがあるから、何かが増えれば何かが減る運命だ。その運命の分かれ道は知恵であると言う。
 ドードー鳥の知る限りでは知恵とは棍棒であり鉄砲だ。いつも何か炸裂している。何故だか分らないがいつもそうだ。
「そんなに沢山来るんじゃ、島も今よりずっと賑やかになるね」
 ともすれば悲しくなりがちな気を引き立ててドードー鳥は明るい声をあげた。
 無理にでも明るい声を出すと不思議と心の中まで明るくなって来る。祭りだってその為のものなのだ。いつまでもくよくよしていたら体に毒だ。
「皆にも知らせてあげようよ」
「じゃあ、ドードー鳥さん、私の頭の上にお乗りなさいよ。ここはひとつ、空を飛んで行きましょう」
「わあ、本当? 凄いな!」
「本当ですとも! さあ、私の前足の中に入って。ゆっくり頭の上まで運びますからね」
 かくしてドードー鳥はちゃっかりと龍の頭に乗って伝書鳩を決め込んだのだが、鱗にへばりついたダニみたい、と皮肉なクアッガなら言うだろう。

ニホンオオカミとエゾオオカミ

 ドードー鳥が生まれて初めての空中散歩を楽しんでいる頃、祭りの知らせはあっと言う間に島中を駆け巡っていた。
 リョコウバトの棲む森に着いた時には彼女はとっくに知っていた。しかも教えてくれたのはクアッガであり、ヒース・ヘンでありオーロックスで、つまり知らせは二重三重にも駆け回っていたのだ。ニッポンジンという人種が滅亡してやって来る、という誤報で恐慌をきたした者もいたらしい。
 リョコウバトは天から降って湧いたドードー鳥と、彼の横に御用馬車然として控えている龍をオレンジ色の目を真丸にして見詰めた。
 こちらの方が余程重大ニュースだわ、とリョコウバトは思った。龍をすぐ近くで見るのは初めてだった。タツノオトシゴみたい、と思ったが、それでは本末転倒だ。
「お嬢さん、どうかドラゴンとお呼び下さい」
 龍は髭を巻き上げてからうやうやしく挨拶した。龍と呼ばれるよりドラゴンと呼ばれる方が強そうに聞えるからだ。
「マーサと呼んでね、ドラゴン。お友達になれて嬉しいわ」とリョコウバトは愛想良く答えた。
 弱虫だの無能だのとクアッガに聞いていたのだが、実際会ってみればそうしてなかなか紳士ではないか。よう、姉ちゃん、などと呼びかけるクアッガよりずっと礼儀正しい。
 リョコウバトは森の入口にある広葉樹の小枝に止まってゆらゆら揺れていた。
 あんな危なっかしい所はよしにして、もっと大きくてしっかりした枝に止まればいいのに、と下から見上げるドードー鳥は気を揉んでいた。風が吹くとお尻でバランスをとってはいるが、今にも落っこちそうではらはらする。
 落ちたところで飛べるのだから杞憂に過ぎないのだが、その飛び方がまたすこぶるぎこちなく危うい感じで、ドードー鳥などはじっとり汗をかいてしまう程だ。
 それは彼女が生涯一度も本物の空を飛んだ経験がないからで、見る側の先入観が彼女の飛行をぎこちなくしている。
「ねえ、マーサ、そんな高い所にいないで下に降りておいでよ」
 ドードー鳥は小枝の先で揺れているリョコウバトに言った。
「ほら、オオナマケモノがやって来た。あいつは目が悪いから、そんな高い所にいたら気付かずに行ってしまうよ。ね、降りておいで」
 リョコウバトは龍の首に飛び移り、滑り台のようにしゅっと滑り降りた。
 森の奥から現われたオオナマケモノは愚かで単細胞の頭の持ち主だった。本当は賢い生き物で、愚かな振りをしている方が楽だからそんな振りをしているのかも知れないが、体に比べて小さ過ぎる顔や、どんより濁った小さな目を見れば賢いと思う者はいないだろう。
 ソウのように体が大きく、太い前足には鉤状の鋭い爪が生えていて、外見はいかにも恐ろしい。こんな生き物が今なお地上を這いまわっていたら、大方の者はぎょっとして逃げ出すに決まっている。
 ところが、残念なことに、彼の頭の中はすかすかで、特大の編み目の笊らしいのだ。鈍感が幸いして、死ぬ程の大怪我をしても気付かず、結局は生き延びてしまう命強さがある。
 二つに切られても気付かず、頭の方は右。尻尾の方は左に行って、しばらくたってから、あれ? と言いそうだが、オオナマケモノとて絶滅した種族なのだから、幾ら何でも死ぬ時は死ぬ。
 彼が移動するのは稀有な出来事で、日がな一日、年がら年中、殆どじっと動かない。その彼が出歩くのだから、祭りの知らせが届いたのだろうか、とドードー鳥は首を捻った。
 誰も彼もが彼を馬鹿で役立たずと思っているのだから、声を掛けるなんて有り得ない。
 オオナマケモノは自分よりすっと大きな龍の存在にも気付いた様子もなく、樹木を薙ぎ倒しながらじりじり前進していた。
 鈍感なうえに目が悪いから、どんな大木が立ちはだかっていようとも自分から避けようともしない。故に彼がどう移動して行ったのかは、無残にへし折れられた木々で一目瞭然だった。
 倒された木々は悲鳴を挙げ、その内の何本かはもんどり打って彼の頭上に降りかかる。当然様々な傷をこしらえるが、それでも少しも表情を変えず前進して来る。あけにとられて眺めているうちに鳥肌が立って来て、とてつもなく不気味な生き物が襲い掛かって来るような恐怖を感じる。
 体の大きさも脅威だが、彼の無神経さが何よりも恐ろしい。まるで血の通っていない機械が突進して来るみたいだ。
 オオナマケモノが誰からも相手にされないのはこんな不気味さのせいだろう、とドードー鳥は思った。怪我をしたら痛がり、血を見たらびっくりするのが普通の神経というものだ。
 オオナマケモノにかこつけてリョコウバトを地上に誘ったものの、こちらへ向かって来る怪物を目の前にしてドードー鳥はすっかり逃げ腰になっていた。
 岩みたいにじっとしていてくれればいいのだが、一旦動き出すと怖い。踏み潰されない内に逃げ出した方が賢明に思えた。そうした内心の動揺が息遣いを荒くしていたようだ。
「大丈夫ですよ、ドードー鳥さん。あいつはいたって大人しいやつなんですから」
 龍が力づけてくれた。オオナマケモノが生きていた頃の様子を良く知っている。
 それにしても危ないのは確かで、龍は身を乗り出してオオナマケモノを前足でがっちりと押し止めた。龍にかかるとさすがの彼も小さく見える。
 とは言うものの、本物の馬鹿力に対抗するのだから龍も気張らねばならず、ピンク色の全身がぱあっと赤く発色した。これなら茹でエビにも見えぬこともない。
「またお祭りがあるんですってよ!」
 リョコウバトが大声で叫んだ。さすがの彼も突然行く手を遮られて頭の配線が繋がったみたいだ。龍の顔を見てにやっと笑った。
「おや、あんたに会ったことがあるね。いつだったか忘れちゃったけど、あんたの顔、覚えているよ」
 舌足らずの寝惚けたような声だ。おお! と龍が感激の声を上げたが、なに、これは彼の常套句だ。
「お祭りがあるのよ。今度は一緒にいきましょうね」
 またリョコウバトが叫んだ。目だけではなく耳も悪いのだ思っている。
「お祭り?」
 オオナマケモノがぼんやり答えた。完全に忘れてしまっているようだ。
 忘れているのも無理ないことで、島では最長老組なのに祭りに参加したのはたった一度だけだ。みんな一度で懲りてしまった。
 確か、緑色の海鳥ベーリングシマウの為に開かれた祭りの時だったが、断崖絶壁から転げ落ちてぱっくり頭を割り、危うく死んでしまいそうになった。
 死にそうになったものの、そこは鈍感な彼のこと、自分の置かれている状況も分らず、血だらけの顔でにっと笑ったその姿の凄まじかったこと、これは普通に付き合える相手ではない、と皆はいっぺんに興醒めしてしまった。
 しかも原因が居眠りで、何の為に自分が断崖絶壁にいたのかさえすっかり忘れていたらしい。この騒ぎのお陰でベーリングシマウには忘れられない一日になっただろうが、オオナマケモノを祭りに参加させるのは考え物だ、と誰しも思ったに違いない。
「ねえ、マーサ、そのことについては皆と相談してからの方が良くないかい?」
 ドードー鳥はリョコウバトの淡褐色の背中を嘴でそっと突いた。
「あら、どうしてなの?」と無邪気な答えが返って来た。
 クアッガは既に総指揮をとるつもりで張り切っている。一度に一杯来るのだから祭りも島中の者で盛大にやろう、と彼女に言っていたのだ。島中ならオオナマケモノだって当然入っているものだ、と彼女は思う。大体、いつも爪弾きにしているのが変なのだ。
 しかしクアッガがそう思って言ったのかどうか。クアッガの思惑を気にするのではないが、オオナマケモノが何か役に立つだろうか。いや、それよりもまた邪魔をしやしないか。ドードー鳥は考えあぐねて龍の意見を求めた。
 龍は自分自身が微妙な立場にいるのでオオナマケモノの味方をしてやりたかった。敬遠する方には幾つもの理由があるだろうが、敬遠されている方は辛い。
 彼に果たして辛いと思う感情があるかどうか疑問だとしても、どんな生き物にも魂がある。魂は一人ぼっちではいられない。
「私がいつも一緒にいて見ているから大丈夫ですよ、ドードー鳥さん。クアッガさんに言って駄目ならオーロックスさんに頼んで参加させてあげて下さいな。決してもう二度とヘマは……」
 と言いかけてあわわ、と龍は苦とを噤んだ。リョコウバトが睨んだからだ。
「そうよ、今度はドラゴンがついていてくれるんですもの、怪我させたりしないわ」
 クアッガにもそう言っておいたのよ、と彼女は無邪気な顔に戻って付け加えた。
 オオナマケモノは相変わらずぼうっとしたままだ。それでも自分が話題になっているのが分ったらしく、嬉しがって太い尾を一振りした。お陰でまた一本、木が倒れた。

 島の夕暮れ時には一瞬風が止み、波も砂浜もオレンジ色に染まっている。森は暗い背景に沈み、島は輝くオレンジ色と黒の二色だけになってしまう。
 島全体が輝くオレンジ色の中の小さな点になり、太陽の黒点のようにゆらゆら揺れながら消えてしまいそうだ。
 海が一望出来る小高い丘の上に立つオーロックスの姿も、消えて行く最後の黒い点のように揺らめいていた。
 誰もが見惚れてしまう雄大な角も昼間よりすっと細く見えて、波の煌き加減では体ごとふっと掻き消えてしまいそう。
 潅木の下のクアッガも、自慢の縞模様がやっと見える程度で、いつも昂然と持ち上げている首がどちらの方向を向いているのかも分らない。
 海に泳ぐ者達の水音も聞えず、波さえ音を立てるのを忘れて静まり返っている。誰もがふと無口になってしまう島の夕暮れだった。
 しかし祭りの知らせが吹き抜けた後はいつもの島の様子とはかなり違っている。
 第一、クアッガがじっとなんかしていない。そろそろ塒に帰りたい鳥達を叱咤激励し、眠り足らずにまだ半眼の夜行性の生き物達を小突き、張り切っている。
「やだなあ、もっと真剣に考えてくれよ。このところマンネリだから少し変った趣向でさ、今度来るやつをあっと驚かしてやろうじゃないか」
 皆の意見を求めているのだが、出された意見を真先に潰すのも彼なのだ。
「ほら、そこのあんた達、あんた達の国の問題なんだぜ。もっと真面目に考えてよ」
 名指しされたのはニホンオオカミとエゾオオカミだ。
「本当はあんた達が先頭になって考えるべきなんだよ。ニッポンって国の人間が無茶やってくれたお陰でこういうことになるんだから。アフリカ産の俺なんて本当は関係ないんだ」
 とまで決め付けられて二頭はむっとしたようだ。彼等は自分が認めたリーダーには忠実無比だが、勝手にリーダーぶっているクアッガの言いなりになる気はない。
「今迄に出た中にだって結構いい案がなったように思うがね」
 ニホンオオカミより幾らか忍耐強いエゾオオカミが苦りきった顔で言った。
「水鳥の集団舞踏なんか、なかなかきれいだと思うが」
 鋭い牙がちらちらしている。痩身で凄みのある体つきから「きれい」という言葉が出ると「美味い」と同義語のように迫力がある。しかも彼は島で一、二を争う程の紳士だ。
 その紳士を怒らせるのは得策ではないのだが、すっかり舞い上がっているクアッガはフンと鼻先で一笑した。彼の考えではどれもこれも陳腐で焼き直しに過ぎないのだ。自分の縞模様のように派手いて上品なのが望ましいのだ、と思い込んでいる。
 ニホンオオカミやオガサワラアブラコウモリ達が「ニッポン」を持ち出されてむっとしていた。ハシブトゴイやキタタキ、ミヤコショウビン達鳥類も同様なのだが、こちらはさっきから眠くて仕方がないので寂として声もない。
「ではどうしたら納得がいくのかね。さっきから否定ばっかりしているが、否定を幾つ重ねても埒が明かない。ひとつ君の意見をうかがいたいものだね」
 エゾオオカミが切り返した。片っ端から駄目だと決め付けられると疲れて何も言いたくなくなる。否定するからには他にいいアイデアがあるに違いない。いや、出してみろ、とエゾオオカミは迫ったのだ。
「いや、その、今のところは……」
「何だって? まさか何も考えていないと言うのじゃあるまいね」
「何も考えていない訳じゃないけど、皆の考えも聞いてから、と思ってさ」
 クアッガの声が少し低くなった。実のところ、何も考えていなかったみたいだ。がしかし、こんな事はしょっちゅうだから一堂今更怒る気になれない。
 気に障るのは何かとしゃしゃり出て来る事だ。こういう上っ調子な手合も必要だのだが、たまにはその高慢な鼻を折ってやりたくなる。元気なのは結構だが、迷惑する者もいる。
「ふむ、なるほど」
 意味有り気な沈黙の後に、低いが良く響く声でエゾオオカミが言った。
「では、意見も出尽くしたようだから、そろそろ君の考えを聴く番だ」
 そう言われてクアッガの自慢の縞模様が急に色褪せたように見えた。遅まきながらエゾオオカミ達が腹を立てているのに気付いたらしい。
 首を垂れてしおしお後に下がったクアッガに代ってオーロックスがその場を纏めなかったら、祭りの相談も随分と陰気になってしまったに違いない。
「そんなに慌てて考える必要もないでしょう」
 と彼女は呆れていた。雄達の考える事と言ったらどうにも性急で目が回りそうだ。まるで餌を撒かれた養殖魚みたいにわっと集って食い散らかそうとする。
 雄達の方が寿命が短いから性急になるのだとしたら、それは充分同情するが、自分のペースに合わせる為には地球の自転さえ倍速にしてしまいそうではないか。
 ステラーカイギュウの報告ではニッポン生まれのトキは二羽だと言う。これではゼロと同じ意味だ。百羽でも五千羽でもゼロと等しい時がある。現に七十七羽から二千羽へと復帰した筈のヒース・ヘンは最終値ゼロを迎えたのだ。残された只一つの小さな群れを災難が襲えばそれで終わりだ。
 生き物の数がどれだけいれば安全なのかを自然は示してくれない。だからこそ出来得る限り沢山の子孫を残そうと試みる。ニッポン産のトキの絶滅は時間の問題だ。 
 しかしニホンカワウソ、ツシマヤマネコ、イリオモテヤマネコ、アホウドリ、ライチョウ。タンチョウ、シマフクロウ達はどうなのか。
 彼等にはまだ望みがあるかも知れない。ほんの少しの機会と思いやりを人間が示してくれれば生き残れる者達はまだいる。いや、いて欲しいのだ。
 現にタンチョウはその優雅な姿故に愛されて、徐々にではあるが絶滅の危機から這い上がろうとしているというではないか。人間を信じている訳ではない。ましてや頼みにしている訳でもないが、彼等にはまだ運命の女神が微笑んでくれるかも知れない。生き残るチャンスはある。
 オーロックスの言葉は島に棲む者達の願いでもある。それに、鳥達の大半はこっくりを始めているし、夜行性のもの達は気もそぞろだ。
「そうだね、祭りと言ったってはしゃぎ回ることでもないし」
 エゾオオカミが言った。いつも鋭い目付きだが今は別の色を浮かべている。他ならぬニッポンのことだから、一番心を痛めているのは彼だったのかも知れない。
 あらかた陽が沈んでしまった頃、皆はぞろぞろ棲家に戻った。龍は夜目の利かないドードー鳥とリョコウバトを送って行くことになった。彼にとっては昼も夜も同じだ。
「ねえ、皆があっとおどろくような事ってどんなことでしょうね」
 龍は頭の上の二羽にひっきりなしに話しかけた。今迄は空の上から眺めるだけだったのが晴れて参加出来るのだから嬉しくて仕方がない。何か自分にもやれることがないだろうか、と一生懸命考えている。
 ところが聞かれたドードー鳥の方は夕闇と同じくらい頭の中がぼんやりし始めていたものだから生返事を繰り返している。もっとましな返事をしたくても、ふわっと欠伸ばかり出てしまう。
「たいしたことじゃなくたっていいのよ、要は気持ですもの。クアッガさんはいつも大袈裟過ぎるのよ」
 リョコウバトがドードー鳥の欠伸を見ながらくすりと笑った。笑った後につられて可愛い欠伸を一つした。
 それでもまだ龍は拘っていた。この気持は誰にも分らないのだ、と思う。分ってくれるとしたらオオナマケモノぐらいだが、その彼は猪突猛進していた元気はどこへやらで、また蹲って大木の根本にいた。これでは話し相手になってくれるどころか、彼を木の一部と勘違いしてが集る虫達を振り落としてやらねばならない。
 大人しくていいやつに違いないのだが、大人し過ぎて自分だけの世界に閉じ籠っている状態だ。相談相手としては不適当。
 竜の金色の目はサーチライトのように光っていた。夜行性の生き物達が驚いて道を開け、怪訝そうに振り返った。話に聞く深海魚の散歩とはこのようなものかしら、と思ってドードー鳥はなかなかいい気分だった。

リョコウバト

 夜が明け、朝になって、早起きの羽虫達がぷーんと快い羽音をたてて飛び上がった。ドードー鳥はまず片方の目を開けて伸びをした。
 寝坊な方のもう片方の目がぱっちり開くと思い切り背伸びをし、小さな翼を二、三回ぱたぱたと揺すった。
 我ながら情けない翼だな、と思う。こういうのを退化と言うのだろうか。退化なんて格好悪い言葉だ。オーロックスのように適合と言ってくれた方がすっと素敵だ。
 すっかり目が覚めた後は日課になった走る練習だ。これは何と言っても他の者達が起きて来ないうちに限る。
 よたよた走っているのを見られるのは恥ずかしいし、冷やかされるのが怖いから、なるべく目に付かぬ場所でこっそりやることにしている。それでも早起きの虫達には格好の悪い姿を見られてしまうが、彼等は表情を変えたり、からかったりしない冷静な連中なので気が楽だ。
 何をするにもまず足腰が大事、とオーロックスが教えてくれたので「、足、腰、足、腰」と唱えながら走る。足、で右足を出し、腰、で左足を出す。
 足は分るけれど自分の腰はどこかしらん、と一瞬でも思うと足が縺れるから、何も考えず無念夢想で、ひたすら「足、腰」と唱えながら走る。
 本人は走っているつもりだ。よろけて尻餅をついたり、つんのめってねじ伏せられた格好になってしまっても、その分を引けば残りは走っている計算になる。
 太鼓腹が左右に揺れ始めるとその揺れで足を取られ、前進しているのか横這いしているのか自分でも分らなくなってしまうのだが、歩いているよりは確かに速い。
 気のせいか、いや気のせいどころか、スピードだって出る。お腹も凹んだような気がする。食事の量を減らしているので時々眩暈がするが、確実にスマートになっている。先祖がえりという言葉だってある。
 歩いていると自然に翼が開いて来る。バランスをとる為なのだが、離陸直前の鳥の姿と同じで、何やら今すぐにでも跳び立てそうな気がして来る。
 鳥の仲間でも助走がないと飛び立てない種類がいる。斜面を利用して、傍から見たら身投げでもするのかしら、と思うような不恰好な姿で飛び立つ鳥もいるくらいだ。
 となればドードー鳥の今の格好がまさにそれだ。後は上昇気流を?まえて、うまくそれに乗ればいい。ドードー鳥は自分が飛んでいる姿を想像するだけで感動で目が潤んだ。
 会ったこともない彼の先祖だが、彼等がマスカリン諸島の上空を舞っていた姿が目の前に見えるようだ。ドードー鳥の創生期である時代、楽園の第一日目だ。
 しかし気流となると彼の知識の範囲外だ。大体飛んだ事がないのだから空の様子はちんぷんかんぷんだ。記憶の底を探っても呆れる程からっぽだ。空には空の道があり、そこを通れば楽に飛べるらしいのだが、いったいそんな道はどこにあるのだろう。これはひとつ、専門家に聴くに限る。
 という訳で「足、腰」と唱えながら龍の姿を求めて草原までやって来たのだが、生憎彼は専門家ではなかった。
「いやどうも、御免なさい。私、鳥ではないものですから」
 と頭を掻いた。鳥でもないし爬虫類でもない、となると分類上も怪しい存在だ。もともと怪しいのだが余計怪しい。
「ええ、その、敢えて言えば怪獣とでも言いましょうか……」
「かいじゅう?」
 龍を植物と考えるのは適当ではないように思う。菌の集合体と言うのも、何となくぴんと来ない。では動物かと思うと動物とも違うらしい。大体、何でも分類したがるのは人間のなかでも特にリアリストの学者がすることだ。
 彼等は河童や不死鳥や人魚や一角獣という連中を認めようとはしない。迷信や妄想の世界に閉じ込め、彼等ばかりか彼等を見た、と称する同胞さえ卑しめてしまう。
「人間がまだ大きな自然の中で震えていた頃、まだ自分がほんのちっぽけな者でしかないのだ、と思っていた頃は私達も生きていけました。恐れや憧れが私達の体を養っていたのです。でも今、人間が地球上で一番強くなり、自分自身が神に等しい座に上った時、恐れも憧れもなくなりました。夢、幻の世界は跡形もなく滅びてしまったんです」
 と龍が言った。つまり分類不可能なのだ、とドードー鳥にも分った。
「ですから、私は風の力を利用して飛んでいるんじゃないのです。自力で飛んでいるのでもないのです」
 そう言えば、飛ぶ筈だから飛んでいるのだ、と言っていたのを思い出した。彼の場合は嵐であろうと逆風であろうと天候・季節に関係なく飛行する。何とも妙なやつだ、とドードー鳥は思った。
 龍は誰かに似ているようで誰にも似ていない。生き物は相手のどこかに似た部分を見つけた時にほっとするものだが、龍はいったい誰を見てほっとするのだろう。訳が分らない、とはこの事だ。
「だから怪獣と言うのですよ」
 と龍が笑った。目の周りの、そこだけ柔らかい皮膚に細かい細波が寄っている。屈託のない笑い声だった。
 いぜんよりずっと顔色がいい。体全体が赤みを帯びて生き生きしている。緑の黴も消え、ピンク色ではなくて赤い龍だ。何と言っても日光浴が良かったのだろう、とドードー鳥は思った。龍が健康になってくれたのが嬉しかった。
 さてそうなると空の様子を聞くのは他のものに頼んだ方がいい。となればリョコウバトだ。彼女なら正真正銘飛ぶ鳥だ。じゃあ、と言って行きかけたのを龍が呼び止めた。お忘れですか、と言いたげな顔だ。
「私と一緒に泳ぐ練習をするんでしょう? いやになっちゃったんですか?」
 ドードー鳥の尾羽を掴んだ。恨めしそうな顔だ。岩に挟まれたと同じで動こうたって動けやしない。跳びたい、泳ぎたい、と一遍に欲張ると実に大変なことになる。体が幾つあっても足りないな、と初めて気が付いた。
「天気もいいし」
 と龍がつけ加えた。彼がここにこうしている限り、晴天であるのは確かだ。
 泳ぎたいのは事実だ。オオウミガラスのように、べーリングシマウのように自由自在に泳げたら素晴らしいだろう。
 海や湖の中にはまだドードー鳥が一度も見たことがない美しくて不思議な世界がある。体中発光している魚や、クアッガの縞模様を持つ魚、おのおの美しく、海に適合した生き物達をじかに自分の目で見られたら素敵だろう。陸海空の三つの世界を行き来できたら毎日がうんと楽しくなるだろう。
 外海に続く潮流があると聞いたらなお更だ。泳ぎを覚え、達者になったらその潮流に乗って行く。目指す先は、勿論マスカリン諸島だ。一目でもマスカリン諸島を見る為なら、また殴り殺されたって構わないと思う。
 ドードー鳥の先祖が始めてマスカリン諸島に辿り着き、その上空を舞った時のように、緑豊かな島の空を自分も飛んでみたい。立派な動機だ。
 しかし、怖いのも確かだった。かつて空を飛んでいた先祖も、多分泳ぎはしなかっただろうと思うし、ドードー鳥とて自分の体が泳ぎに適していないのを知っている。
 飛ぶ可能性を半々としたら、泳げる可能性はまったくゼロだ。泳ぎたいと願う気持が高まるにつて、泳げないだろうと思う気持も強くなっていく。当然不安で一杯だ。生き物はみんな海の中から生まれて来たのかも知れないが、忘れてしまうくらい大昔の話だ。
「ねえ、僕も泳げると思う?」
 ドードー鳥はすっかり弱気になって尋ねた。もし泳げないと言われたら諦めてもいいような気がする。土台無理な話なのだ。オオウミガラスがいやにあっさりとしていたのも、本当は泳げっこないと思っていたからだろう。
 龍は首を振りながら考えていた。彼の長い経験の中で今迄泳げなかった者が泳げるようになったかどうか考えた。ついでに、飛べなかった者が飛べるようになったかどうかも記憶の中を掻きまわして捜してみた。
 そして、あった、あった。彼の一番身近だった生き物、即ち人間だが、彼等ときたら走るのも遅い、泳ぐのも下手、ましてや空など飛べなかったが、今では立派に泳ぎ、飛ぶようになったではないか。
 走るとなれば馬より速く、泳ぐどころか深海にまで潜り、飛ぶのは音速だ。龍は可能性の尻尾を見つけ出して破顔一笑した・尻尾があれば胴体があり、頭がある。形が揃う。
「私に任せてくださいな」
 龍はどんと胸を叩いた。ドードー鳥にとっては何よりも頼もしい響きだった。

ブレーメンの音楽師

 龍が島の仲間に受け入れられたので、太陽はここしばらく安心して日中の散歩を楽しんでいる。丁度山の天辺で一休みしている頃、ドードー鳥と龍は海に向かっていた。途中でリョコウバトを誘い、オーロックスに出会ったついでに彼女も誘い、ぞろぞろと海を目指していた。
「ブレーメンの音楽師みたいですね」
 と龍が弾んだ声で言ったが、ドードー鳥達には何のことやら分らなかった。
 オーロックスの角の上にリョコウバトがとまり、龍の頭の二つの角の間にドードー鳥が神妙な顔をして座っていた。
 リョコウバトはさっきからわくわくしていて、一番お喋りだった。ドードー鳥が泳げるものと信じきっている。オーロックスは内心止めた方がいいのでは、と言いたいのだが、龍が付いているのだから、まあ溺れ死ぬ心配まではないだろう、と思いつつ黙々と歩いていた。
 そしてドードー鳥は正直言って生贄の心境だった。自分で言い出した事なのに無理矢理やらされるような気になってしまっていた。水は冷たくて恐ろしい。しかも湖ではなく対岸が見えない海だ。
 竜の説明によると泳ぐ練習は真水より海水の方が楽なのだそうだ。塩辛ければ辛い程よろしい。現に死海と呼ばれる湖は塩分が濃い為にどんなおでぶさんでも浮いてしまう。
「川は却って怖いのですよ」
 と龍が説明した。
「川の端と中程では流れの速さが違うのです。流れに乗って行けば簡単そうだけど、実は泳いでいるんじゃなくて流されて行ってしまうのです。反対に、流れに逆らえば二倍、三倍の力が必要ですしね」
「沼はどうなの?」
 リョコウバトは尋ねた。初めて泳ぐなら沼の方がいいんじゃないかしら、と思っていたのだ。
 沼や湖は穏やかだ。水面を乱すのは風と木の葉と時折跳ねる魚だけで、後はしんと静まりかえっている。見るからにこちらの方が楽そうだ。
 ところが沼や湖を侮ってはならない。見たところは確かに大きな水溜りに過ぎないが、この水溜りが結構深い。しかも急に深くなる。足を入れた途端、そのままずぶずぶと底まで行ってしまう。引き摺り込まれ、しかも底は冷たい。
 引き摺り込まれる、と聞いた途端、ドードー鳥はぞっとして身震いした。そう言えば、底なし沼があったっけ、と思う。底がないなんて、一体どうなっているのだろう。泥の中に少しずつ沈んで行くのを想像するだけで羽毛が逆立って来た。
「あら、ドラゴンはそんな恐ろしい所に棲んでいるの? 勇気があるのね!」
 リョコウバトが感嘆の声を挙げた。勇気も何も、そういう決まりになっているからなのだが、英雄を見るような目つきで見られるといい気分だ。
「え、まあ、静かなのだけが取り得です」
 龍は思い切り渋い声で答えた。
 要するに泳ぐなら海が一番いいのだ、と龍は言う。浅い所から深い所まで変化に富んでいるし、泳ぎやすい。始めは波打ち際でぱちゃぱちゃ遊んでいれば良いのだ。何はともあれ水に慣れる、これだ。
 ごつごつした岩の、ざっぱあんと波の打ち寄せる所に連れて行かれたらどうしよう、と戦々恐々としていたのだが、龍とて心得たもので、やって来た所は遠浅で、波あくまで穏やかな海辺だった。
 寄せては返す波の音に延々と続くなだらかな砂浜、そして青空の中にぽっかり浮かぶ白い雲。越し方行く末などをぼんやり思うには絶好の風景だ。しかし海で泳ぐとなると話は別だ。
 大体、波というやつ、これが曲者だ。足の下の砂まで攫って行くから体ごと持っていかれそうな錯覚に陥る。ふらっと体が揺れて目が回りそうだ。
 目が回りそうだから足を一歩踏み出す。その繰り返しで段々深みに嵌って行く。気が付いた時には首まで浸かっていて、あ、と思った時に大波が来て、後は天地逆さま、海に飲み込まれているという寸歩だ。実際はどうなのか知らないが、そんな気がする。

「やあ、今日は波が穏やかですね」
 小手を翳して沖を眺めていた龍が呑気な声で言った。リョコウバトは海と砂浜を行ったり来たりはしゃいで飛び回っている。
 さっきからずっと黙ったままのオーロックスは依然として黙ったままで、蹄で砂を掻き散らしながらじっとドードー鳥の震える足を見詰めていた。
 水掻きのない足は水に濡れて心細そうだった。丸々とした下腹も濡れて冷たそうだ。何もかもが無防備で痛々しい。陸に棲むドードー鳥が何だってまた泳がなくてはならないのだろう。水鳥の真似をしなくってもいいのに、と思う。
 体を鍛えるのはいいけれど、ちょっと無茶過ぎやしないか。ドードー鳥は自分以外の者になりたがっているように見える。何になりといのか知らないが、今のままで充分ではないか。
「あ、魚が跳ねた! ほら、見て見て!」
 頭の上のリョコウバトの明るい声がした。一瞬銀鱗を光らせてまた波間に消えた魚も人間の世界ではついぞ見掛けなくなった魚だった。
 彼女の声が合図でもあったかのように、ドードー鳥は思い切って足を踏み出した。指の間をさらさらと砂が崩れて行く。くすぐったい感触、これが泳げるドードー鳥への最初の第一歩だ。
 輝く第一歩が震えているのはいささか情けないが、月に降り立った時の人間の足だって多分震えていただろう。目は真っ直ぐに波を見ていた。波が寄せて来る沖、沖の先の外界へ通じる潮の流れだ。
 泳げなくてもいい、せめてカモメのように波に漂う術を知っていたら、波がそこまで運んでくれる。
 多分に空想癖のある彼はもうすっかり達者な水鳥になったつもりで先から先へと夢を追っていた。相変わらず海は恐ろしいが、夢を追う気持の方が強かった。夢の前では現実など実に小さな障害だ。いや、障害でさえなくなる。
 波の音は子守唄、耐えざる催眠効果だ。空想の父、妄想の母。空想の母であっても差し支えないが、とにかく心ここにあらざる状態にさせるので要注意だ。
 非力な者程空想に捕まりやすい。たった今震える足を水に浸したばかりだというのに、ドードー鳥がすっかりその気になってしまったのも波の催眠効果のせいだった。呑気なリョコウバトも龍も気付かなかった。気付いたのは冷静なオーロックスだけだった。
「いやあ、逃げ足の速いやつですね、あの魚。あいつの名は何て言ったっけ。そうそう、確か……」
 龍がリョコウバトに話し掛けている間にドードー鳥は胸まで海水に浸かっていた。胸から首はすぐだった。あっ、とオーロックスが悲痛な叫び声を挙げた時には頭が消えていた。
 まるで入水自殺のよう。塩水を飲んだドードー鳥を小さな波が攫って行った。オーロックスが砂を蹴って海に突進した。振り向いた龍も咄嗟に状況を飲み込んで海中に身を躍らせた。ドードー鳥の姿はどこにも見当たらない。

(4)へ続く


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