見出し画像

長編ホラー【続々・幽霊のかえる場所】 第一章

阿佐野桂子




あずみんのパティシエ修行

 十月に製菓学校の専科を終えた『九頭龍社』の末っ子あずみんは人間「苅野あずみ」としてフランスに留学した。
 なにしろマリー・アントワネットが「パンがないならお菓子を食べれば?」と言ったというエピソードが残されているくらいだからフランスは菓子の本場なんだろう。
 マリーさんの件は、ブログやツイッターが炎上するように文脈の中の一部が取り上げられただけ、との説もあるが、室町時代からずっと百姓だった僕にはどうでも良いエピソードだ。
 大農家でない限り百姓はいつも粗食だった。食材の余りが廃棄されるようになったのは僕から見ればつい最近だ。その分を発展途上国に回せば救える命もあるのに、日本人も贅沢になったものだ。
 成績優秀者に送られる賞状を親神様の社に奉納したあずみんは羽田から飛行機で発った。
賀茂さん、ミツミネ、宝子ちゃん、だいきさん、つくもさん、僕と麻利亜さんが見送った。パティシエを目指して海外留学する龍神はおそらく初めてに違いない。
 しかも背中に緊急連絡用に世界旅行中に亡くなったピッピーの霊が憑いている。幽霊さんはインドからイスタンブール経由でヨーロッパに行く予定だったそうだ。
 これを機に国際親善となればいいのだけど、西洋には神様は三人しかいない。キリストのお父さんとアッラーとユダヤの神だ。三柱とも兄弟同然なのに仲良しとはいかない。
 この三柱がちっぽけな極東の島国から来た小龍にお声を掛けて下さるとは考えにくいし、西洋での龍は悪者扱いだ。性格も違って片やゴジラみたいに火を吹き、片や降雨、河川管理、日本領海守護の水神だ。
 広大な土地を支配下に置く三柱。ちっぽけな島に八百万の神々が住まう日本。宗教学的には多神教から一神教に収斂されて行くらしいが、僕は個性的な神々が喧嘩もせずに共存している日本が好きだ。
「ところで安曇はふらんすの、どの辺りに留学するのだ?」と帰りのモノレールの中でだいきさんが九十九番目の妹のつくもさんに呑気に尋ねている。
「兄上は今頃何を言っているのじゃ。ふらんすと言えばぱりであろう」
 だいきさんはヘビメタ仕様の格好だし、つくもさんはお堅い国語の先生みたいなスーツ姿だ。ミツミネは定番のライダー・スーツに濃いサングラス、賀茂さんは膝の抜けたGパンに水色のスモックを着ている。背の高い三人に混じると賀茂さんはまるで幼稚園児そのものだ。
 まともなのは正しい四歳児の格好の宝子ちゃんと正しいサラリーマン姿の僕だけだ。ファッションセンス・ゼロの賀茂さんに代わって僕の妻の麻利亜さんが二人の服選びをしてくれている。
 その度に麻利亜さんの服も買ってしまうのだが、男って馬鹿だね、幽霊の妻でも綺麗な服を着てくれると嬉しくなる。釣った魚に餌をやらない男の気持は僕には無縁だ。
 だいきさんもつくもさんも末っ子の留学に賀茂さんのお金が使われている事にまったく気付いていない。製菓学校の費用も賀茂さん持ちだ。
 神様関係者は、人間世界で生きるにはそれ相応のお金が必要だという事にそもそも思い至っていない。故にお気楽だ。『九頭龍社』の親神から金の鱗を預かっているが、今の所それを換金してはいない。
 パリの製菓学校の授業料は免除だが、渡航費と滞在費はあずみんの負担で、それは即ち賀茂さんの負担だ。あずみんがフランス洋菓子店でバイトしたお金はお小遣いとしてユーロに換金して持たせている。
『バイオ・ハザード』社から報酬として受け取った残りの一千万円弱のお金には今の所手を付けていない。天然ボケの賀茂さんではあるが、きちんと宝子ちゃんの将来を考えている。
 小中高は公立の学校へ通わせる予定らしいが、授業料がタダでも諸々の費用が掛かる。大学まで行かせたら更にお金が掛かる。中国の「一人っ子政策」は緩和されたが、日本の一般家庭では経済的理由で一人か二人にならざるを得ない。子供が十人もいたらテレビが取材に来る時代だ。
 アパートに帰る途中で「二時間焼肉食べ放題」の店に入った。大食漢三人が入店してその後店の対応はどうなったか、滑稽過ぎて今の僕に語るのは無理だ。テレビの「大食い女王」の面子が店のメニュー全品を食べ尽くす、の番組でも見ているようだった。以後その店では出禁を言い渡された。

『トイレの花子さん』

 つくもさんがあずみん仕様に学校の調理室みたいに作り変えてしまった部屋は元の状態に戻ったが、そのまま賀茂さんが継続して借りている。人でない者がうろついている二階に普通の人間が入居するのは無理だろうし、入居したらしたで面倒だ。結局三室分の家賃を賀茂さんが払っている。実に勿体無い。
 あずみんがフランスに旅立った後、十二月に入ってからだが、僕は賀茂さんに元の家に戻ったらどうか、と提案した。あそこなら現在も払っている固定資産税だけで済む。それに無駄に広い。駐車スペースもある。
 一階は応接室兼ダイニング、二階は二間のプライベートルームが四室、三階は『賀茂流霊能者協会』の道場だった。建物は古いが古いなりの趣がある。
 おおばばさまが高知から上京する時に私財を売り払って手に入れた土地だ。始めは小さな家だったらしいが、ばばさまの時代に木造三階建てが許可され、新築して現在に至る。兄の正樹が死んだ後、これを固定資産税だけ払って空き家にしておくのは惜しい。
 僕が提案している間、ミツミネは事務室のソファーに座ったままサングラスの奥から僕をじっと見ていた。ミツミネも元の家で柴犬として十年暮していた。ばばさまのぐうたら亭主と金遣いの荒い正樹が賀茂さんを金蔓としてしか扱っていなかった生活を苦々しく思い返しているのだろう。
「青梅の家か? まあ、あそこなら気兼ねなく使えるけどねえ……」
 今でもアパートを気兼ねなしで使っていると思いますが。
「本来なら正樹兄が結婚して子供を育てるのに使うのが良かろうと思っていたんだけど、私より先に死ぬとはね。霊能力はあっても兄が早死にするとまでは予想が付かなかった。家を担保に借金をするかも、ぐらいは思っていたけど、担保にもならない家って事かな。『賀茂流霊能者協会』の看板を上げていて、近所では浮いた存在だった。空き家になった今では幽霊が出ると噂されているらしいよ」
「本当に幽霊が出るのか?」
「出る筈ないじゃん、田中っち。微弱ながら結界は張ってあるよ」
 じゃあ、問題ないでしょ。たとえ幽霊が居付いていたとしても賀茂さんの御札で消せる。
それよりも何よりも経費の節減になる、と僕は力説した。異常な食費代を充填出来る。
「確かに、自分の家があるのにアパートを借り続けてているのは無駄だね。でも引越ししたらこばちゃんが困るんじゃないの?」
 こばちゃんとは『バイオ・ハザード』社の元上司、現家主の小林課長だ。賀茂さんがこばちゃんの収入の心配までしてどうする。
「こばちゃん……、いや、小林課長が今のアパートを紹介してくれた頃と事情が違って来ているんだから、それはそれ、これはこれでしょう。持ち家のある人がわざわざアパートに住む必要はないでしょうが」
「それはそうだね。格安家賃でも毎月三室分払うのは結構きつい。ミツミネ、どう思う?」
「保子が良いと思う方にすればいいのではないか。私はどこに住もうと構わない。保子と宝子がいる所ならどんな所でも付いて行く」
 婦唱夫随の狼さんの答えがこれだ。
「ではミツミネ、宝子を連れてどうなっているか一度見に行こうか。卒業した小学校も見てみたい。ばばさまが小学生だった頃におおばばさまが学校に仕込んだ幾つかのトラップはまだ生きているかな」
 小学校にトラップ? 嫌な予感しかしないけど、それはなに?
「田中っちの通った小学校では『トイレの花子さん』はいなかった? おおばばさまがばばさまの小学校生活を少しでも楽しくしようと思って『トイレの花子さん』を仕込んでおいたのよ。当時はまだ和式トイレだったから子供達はキャアキャア騒いでいい思い出になっているらしいよ。私が入学した頃には立派な新築のコンクリ校舎になったし、トイレも洋式になっていて、怖さ半減だったけどね。それでも噂は残っていて、校舎の一番端の北側のトイレの一ヶ所は開かずのトイレになっていたけどね」
 賀茂さんは懐かしげに語っているが、『トイレの花子さん』を憑けるとは悪戯が過ぎる。いい思い出どころかトラウマだ。
 今は「子」がつく名前の女児は少ない。振り仮名を振ってくれないと読めない名前、所謂きらきらネームが主流だ。花子という昔のスタンダードな名前が却って恐怖心を煽る。
 僕の幽霊妻の麻利亜さんはそのまま「まりあ」と読めるが、同級生の中に「聖女」と書いて「じゃんぬ」と読む子がいたのだそうだ。多分聖女ジャンヌ・ダルクから拝借したのだろうが、将来火炙りにならなきゃいいね、としか言えない珍名さんだ。それよりも、
「あのさ、賀茂さん、『トイレの花子さん』って、実在するの? 幽霊、それとも物の怪の類なのかな」
 さあ? と賀茂さんは首を捻った。
「『口裂け女』みたいな都市伝説じゃないの? 伝説でも長く言い伝えられると実体を持つ。でも今は大分弱っているみたいだね。『口裂け女』も人間の女子が、化粧が面倒臭いとかの理由でマスクをつけるようになってからは衰退気味だ。街中マスクだらけじゃ、『口裂け女』も脅かし甲斐がないだろうからね。私が見た時の花子さんは殆ど消えそうだったから、実家に連れ帰って二階の共同トイレに憑けてある。正樹兄は鈍感だったから花子さんには気付いていなかったけどね。ああそうだ、花子さんは人間が住まなくなった家でどうしているかな。他のトラップとセットにしておけば良かったのに、っておおばばさまに怒られたけど」
 花子さん以外のトラップって、何だ? 色々疑問はあるが、花子さんは青梅の実家に実在してるらしい。おおばばさまが憑けた花子さんを孫の保子さんが拾って来た。どう考えても理解不能な家族だ。青梅に行く気になったら僕と賀茂さんはここでお別れになるのだろう。ちょっと……、いや、大いに寂しい。

吸血鬼の良心

 青梅は中央線に乗れば東京駅まで乗り換えないで繋がっている。電車で行くのかと思ったら賀茂さん達はミツミネの車に乗って出掛けた。
 賀茂さんは電車に乗るとかなりの確率で幽霊と出くわすので出掛かる時はいつもタクシーかミツミネの運転する車だ。おおばばさまとばばさまもちゃっかりと同乗して行った。実家だから当然だろう。
 一方僕は『世界文献社』の次の次の企画、鬼畜な方々、『シリアル・キラー特集』を抱えていた。シリアル・キラーは定期的に殺人を犯す人で、アメリカの銃乱射事件のように一度に大量の人を殺すのとは違う。
 三十三人殺しの津山事件や神戸児童殺人事件や秋葉原事件とは性格が異なる。大量殺人はぷっつん系だが、シリアル・キラーは定期的に人を殺すのが楽しい連中だ。ぷっつん系より計画的で用心深いのがサイコパスのシリアル・キラーだ。
 アウトロー吸血鬼も連続殺人犯だが、こちらは己の快楽の為ではなく、血液が欲しいから人の命を奪った。『バイオ・ハザード』社に所属していれば殺人までしなくても血液が手に入ったのに敢えて単独で行動していたのはサイコパスの連中も混じっていたのだろう。
 僕は賀茂さんと共に灰にした吸血鬼の顔を一人一人思い出していた。鈴木愛恋の恋人、名古屋の「伊藤」と名乗った高校生風の吸血鬼、大阪の教団の教祖をしていた少女、札幌の運転手はサイコパスっぽい。
 吸血鬼の為にも人間の為にも灰になってくれて有難う、だ。彼等が人間の手によって捕えられたら大人しく生きている他の吸血鬼の存在までが危うくなる。
 もっとも「私は吸血鬼で、血を飲まなければ生きて行けないのだ」と主張しても信じる人間はいないだろうが、DNA検査までされると困る。
「日本でまず思い付くのは大久保某とか宮崎某ですけど、シリアル・キラーの有名どころは白人さんですよね。やっぱり米を食っている連中と肉が主食の連中とは違うんでしょうね。えっと、これヘイト・スピーチですかね」
 最近はすぐ炎上するので差別的発言には慎重になっている。僕のデスクには「差別用語辞典」が置いてあるし、以前使っていたワープロ専用機では「部落」が変換出来なかった。
 山梨に旅行した時に立ち寄った場所には「××部落」と堂々と案内板が出ていたんだけどね。場所によってはデリケートな問題なのだろう。
「そんな事ないんじゃない? 白人、黒人、黄色人種って言うし。テレビでも白人男性とか黒人男性とか言ってるじゃないか。日本人を指して黄色い猿、って言ったらさすがに侮辱じゃないの、って思うけど。ま、おまえの母さん出臍、ってからかうのとは違うな」
「何ですか、その出臍って。相手のお母さんのお臍を見た事あるんすかね」
 若林君の世代では「おまえの母さん出臍」は相手の子供を傷つける効果はなさそうだ。代わりに中指を立てる。外人さんがよくやるポーズだが、元々は母親を侮辱するサインだ。
「おまえの母ちゃんでーべーそ」と囃す方がまだ可愛げがある。
 暫く出臍談義をした後にシリアル・キラーへと話は戻った。僕が副編集長をしているオカルト雑誌のネタはパソコンを起動すれば幾らでも拾えるが、それを言っちゃあ、お終いだ。
 企画によって売れ行きは違うが『輪廻と転生』では結構な量の書き込みが読者交流サイトを賑わした。現在の平凡な自分に耐えられない前世の巫女や戦士達からだ。中にはソウル・メイトを探しています、とか。
 後十年も経ったら変てこな書き込みをした自分を懐かしく、また恥ずかしく思い出すに違いない。十年後もまだ思い続けているとしたらそれはそれで問題だ。
 念の為に賀茂さんに読んで貰ったが一笑された。「ばぁーか」と返信して置けば、と言われたが編集者は読者交流サイトにはいかなる返信もしない方針だ。但し、怪しげな宗教勧誘と思われる書き込みについては速攻で削除する。
 拾えるネタも殆どない。読者交流サイトではもう何百回も銀河戦争が勃発し、聖戦の騎士やら王女やら巫女が地球上に転生している。
 今の所、人類型生命体が住めるのは地球だけだから皆、地球目掛けて転生して来る。他に住めそうな星を具体的かつ科学的に教えてくれるといいんだけどね。
「こうして見るとシリアル・キラーってやっぱり男が断然多いですね。女性の場合もなくはないですが、少数派。それに毒殺魔ですね。和歌山の砒素事件も女性ですし」
「ああ、それね。現在係争中の事件は止めておこう。冤罪の可能性も無きしもあらずでさ、毒入りカレーに関してはネット民の中には嵌められたんじゃないか、って擁護派もいる。
本人も否認してるし、シリアル・キラーって感じでもないし。現在進行形の事件は取り扱い注意だな。テッド・バンディとか、冤罪の可能性ゼロに絞っておくのがいいんじゃない?」
「自殺願望のある女性を九人殺害した事件もじゃあ、今回は止めておきますか。その後の詳細な情報も入って来ないですし」
 結局、過去の有名どころに犯罪心理学の先生のレポートを付ける。事件そのものはメジャーなので先生のレポートが肝だ。ついでに座談会でもして貰おう。
 怖がりの若林君は事件現場写真にいちいち反応して気分が悪そうだったが、麻利亜さんは勝手にマウスをスクロールしてしげしげと眺めている。凄惨な死体画像もモノクロだとどこか非現実的だ。
 殺人犯の中には殺した相手が夢枕に立って眠れず、それで自首した例もあるが、シリアル・キラーは良心の呵責何てものはないのだろう。
 僕等吸血鬼は血液が合成出来るようになるまでは非合法な手段で人間から血を頂いて来た。そこに良心の呵責はなかったのか、と問われれば返す言葉がない。ただ、殺しはしなかった、と弁明するしかない。
 実際、血を飲まなければ死ぬ、と気付いた仲間の中には良心の呵責に耐えかねて自主的に仮眠に入ってしまった連中もいる。
 合成血液が開発された今、『バイオ・ハザード』社の調査部ではそのような吸血鬼の仲間の発掘にも係わっているらしい。僕も良心があるなら仮眠するべきだったのだろうか。
 昔、仮眠に入った吸血鬼は将来合成血液が安定的に供給される世の中を想定出来なかった筈で、永眠覚悟で眠りについただろう。
 千年、或いは何千年の時を経て、スーツ姿の調査員に棺桶の戸をノックされて起される気分はどんなものだろう。合成血液ですよ、と血液パックを渡されてもきょとんとしているに違いない。
 それから物凄い勢いで仮眠してから現代文明までの知識を教え込まれる。そんな場所がどこかにあるのだが、調査部の活動はトップ・シークレットだから僕等の耳には届いていない。
 若林君が定時に帰った後、僕は麻利亜さんと吸血鬼の良心について話し合ったが、仕方ないんじゃないの? で麻利亜さんの意見はあっさり完結した。「仕方ない」。良心を鈍らせるには便利な言葉だ。

『夕暮れの体育館でバスケをしている少年』

 次の日の昼、ぼさぼさの爆発頭で起きて来た賀茂さんが青梅の話をしてくれたが、賀茂さんが卒業した小学校は実在していた。小学生の頃の賀茂さんの姿を想像出来ない僕には本当に学校があった事自体が奇跡だ。 
 正樹兄と袂を分かって小林課長のアパートに引っ越すまで三十年間住んだ家だ。久し振りの実家は懐かしかったに違いない。おおばばさまもばばさまもあちこちの柱を撫で回していたらしい。
「でもさ、霊能者協会何て看板を上げている家は世間から浮きまくっているじゃない。人の出入りも多いから怪しげな宗教団体かと思われてさ。宗教団体が問題を起すと警察がそれとなく巡回して来たりしてたな。ばばさまも私も学校へ通うようになると……。まあ、色々あったわさ、っていう話になってね。宝子には『賀茂流霊能者協会』の娘としてではなく『三峯探偵社』の娘として普通に生活して欲しいんだよね」
 もう充分普通ではないと思うが、世間的には『賀茂流霊能者協会』の娘より探偵社のお嬢ちゃんの方が聞えはいいだろう。父の職業「探偵社社長」も充分に興味を引かれるだろうけどね。元同僚の高橋が言っていたように「何とかリサーチ」とでも命名して置いた方がスマートだったかも知れない。
「でさ、結論から言うと、引越しは止めにした。実家は貸家にする。地元の不動産屋に相談したら社員寮とかシェア・ハウスとして貸し出したらどうか、って言われてね。借り手がつけば家計の足しになるだろうし。そういう事で話は纏まった。田中っちがウチの家計の心配をしてくれたのに、悪かったね」
 僕は賀茂さんの口から悪かったね、何て言葉を聞いたのは多分、初めてだ。いつも怒られ慣れている身としては天変地異が起こるのでは、と勘繰ってしまいたくなる。
 考えてみれば霊能者協会の看板を上げている家の娘は地元にいる限りは風当たりを覚悟しなくてはならない。賀茂さんがぽろりと漏らしたように色々あったのだろう。
 例え看板が探偵社に変わっても、賀茂さんが三峯保子に変わっていても、地元の人が顔を覚えている限り色眼鏡で見られる。宝子ちゃんを普通の娘として育てたいなら実家に戻るにはハードルが高い。
 貸家にするにあたっては墨痕凛々とした看板も撤去して部屋も空っぽにしなくてはならない。不動産屋は地相を見たり家相を見たりと、ばばさまの顧客だった人で、だから全部任せて来た。
「人は忘れっぽい生き物だ。一度何の関係もない借り手が住めば『賀茂流霊能者協会』の存在も消えるだろうね。将来ミツミネと一緒に三峯宝子があそこの場所で『三峯探偵社』を続けてくれればいいな、と思っているよ。家は建て替えなくちゃならないかも知れないけど、土地の取得代は掛からないからね。プレハブでもいい、とミツミネには言ってある」
 賀茂家の女は長生き出来ない。自分がいない将来を考えての選択だろう。それに賀茂家が三代住んだ場所だ。手放したくない気持も分かる。
 ただ、賀茂さんのいない将来を語られたミツミネの胸中やいかに、だ。この世から姿を消しても賀茂さんは霊体として留まる。幽霊の麻利亜さんが地面から一㎝上を漂っているように賀茂さんもそのように存在するのだろう。
 しかし賀茂さんがおおばばさまとばばさまと直接会話が出来ないように、ミツミネは宝子ちゃんの夢を通してしか賀茂さんと会話出来なくなる。豪快に大食いする姿も見られなくなる。他の幽霊とは話せるのに、身内の霊とは話せない。
 僕には霊界の仕組みがどうなっているのかよく分からないが、神使いと雖も人間の寿命を延ばす事は出来ない。
 青梅に行った後、ミツミネは珍しく動揺していた。妻の遺言を早々と聞かされたら、それは落ち込むだろう。でも、ミツミネには賀茂さん亡き後にも守るべき掌中の珠、宝子ちゃんがいる。
 僕は自分から青梅行きを勧めながら内心ほっとしていた。ミツミネとは異なるが、今の僕には賀茂さんがいないアパートは味気ない。二階に普通の人間が入居して来ても「隣は何をする人ぞ」で、お互いの部屋を行き来する事はないだろう。
 今となっては「いる」のが当然の幽霊や狼も龍もアパートには来なくなる。神様関係にもお目に掛かる機会がなくなる。お化け屋敷より刺激的なアパートだ。どんなアトラクションより面白い。
「それでだね、田中っち、実家から『トイレの花子さん』を連れて来たから、よろしく」
 賀茂さんが事務所のトイレを指差した。トイレのドアがほんの少し開いている。
「実家のトイレでぽつねんとしていたから可哀相になって連れて来ちゃった。子供の頃からの遊び相手だからね。後は『夕暮れの体育館でバスケをしている少年』と、『踊り場の鏡』の二体だよ。こっちは小学校で消えかかっているのを連れて来た。どれも無害な伝説だから気にしなくてもいいからね」
 気にしなくてもいいからね、って賀茂さん、早速アトラクションの追加ですか。トイレの花子さんと一人バスケをしている少年は大体想像が付くが、踊り場の鏡って、なに?
 ミツミネが苦笑を浮かべている間、宝子ちゃんはトイレの隙間を見ながら小さく手を振っている。おかっぱ頭の昭和レトロな十歳くらいの少女が部屋の中を窺っているけど、あれが「トイレの花子さん」か?
 謙信がお櫃とお菜が乗った盆を持って入って来た。賀茂さんの遅い朝食、宝子ちゃんの昼食だ。丼が二つしか用意されていないから花子さんはご飯を食べないのだろう。食費が掛からないのならいいかもね、となし崩し的に認めてしまう僕。花子さんとはいい関係が築けるのだろうか。
 『夕暮れの体育館でバスケをしている少年』の名は地域によって異なるが賀茂さんのいた小学校ではヨシオ君で通っていたそうなのでヨシオ君に決定した。いちいち『夕暮れの体育館で……』と呼ぶのは面倒臭い。
 ヨシオ君は下校時間に子供が帰った後、一人でバスケの練習をしている、事故で亡くなった六年生の男児だ。夕方の五時になるとボールを打ちつける音を立てる幽霊もどきだ。
 ボール遊びをしている姿を見ると死んでしまうらしいのだが、実際に見た子は死んでいる筈だから、その本体は永遠の謎だ。それでも小六の男の子と認定したのは誰だろう。
 僕は四時出社なので休日にしかその音を聞けないのだが、一人遊びはつまらないのだろう、十五分もすれば音は止む。いつも出現は五時なので謙信は夕飯の準備の時計代わりにしている。
 『踊り場の鏡』は校舎が木造だった頃、階段の踊り場に取り付けられていた等身大の鏡だ。今の鏡と昔の鏡は材料や製造法が異なり、ある角度、光の入り具合で自分以外の何者かが映って見える事があったそうで、それが幽霊と恐れられていたらしい。その鏡は賀茂さんの私室に取り付けられて、本物の幽霊達を楽しませている。
 通称『幽霊鏡』が映し出す幽霊はまた格別な趣だろう。初めの頃は『幽霊鏡』自体が幽霊にびっくりしていたらしいが、廃棄される運命を逃れるばかりか、毎日綺麗に磨かれるようになって賀茂さんに感謝しているそうだ。
 賀茂さんの私室には滅多に足を踏み入れない僕だが、一度だけ鏡を見せて貰った。
僕が正面を向くと左右どちらかを向いた僕らしい人物が映る。後を向いて振り返ると正面を向いた僕らしい人物が映る。フィッティング・ルームの鏡としては最適だ。
 賀茂さんが青梅に行ってから二ヵ月後に実家は十五年借り上げの社員寮になった。これで賀茂さんも立派な家主だ。
 契約書を作成する為にまた青梅に行った賀茂さんは三階の天井裏に埃を被って置いてあった日本人形を回収してお炊き上げし、新しい護符付きの別の日本人形を置いて来た。これで台風、地震が来ても倒壊する事はなく、火事にもならないらしいが、好奇心で天井裏を覗く輩がいたら腰を抜かすだろう。
 ひょっとしたらこのアパートの天井裏にも日本人形を仕掛けたのだろうか。覗いてみたい気もするが、暗い天井裏にひっそりと立っている人形を想像するだけで怖い。
 青梅の実家の人形は有名な人形作家の作品よ、と賀茂さんは自慢しているが、精巧な作りである程怖い。いや、キャラクターの縫いぐるみでも充分怖い。オカルト雑誌編集者だって本物の呪術はお断りだ。

『世界文献社』

 競合するオカルト専門出版社の社長はUFOだろうがUMAだろうが超古代文明だろうが羨ましいくらいあっけらかんと何でも信じている。
 単行本専門で、僕の所でライターをしていた『竹内文書』のビリーバーである破魔矢君はこちらでデビューしている。大河小説みたいな作品は現在三巻目だ。一、二巻は二刷まで行っている。
 『世界文献社』の同僚若林君は「破魔矢さん、ウチで引き止めておいたら良かったのにねえ」と愚痴っているが、そもそもオカルト雑誌は若社長のお遊びで、本来は学研の徒御用達のような堅い出版物を扱っていた会社だ。
 オカルト雑誌発行の編集部はお気楽な部署として見事に浮いている。僕は副編集長だが、編集長はテーマが決まれば殆ど介入して来ない。
 昼過ぎに出社して来るのはザラで、出社してもひたすらネット・サーフィンに明け暮れている。本人はネタ探しだと弁明しているが、本当かどうか大いに怪しい。
 それを証明するように編集長宛にやたら宅配便が来る。クリスタル何とか、と書いてあったので水晶玉でも購入したのかと思っていたら飲料水だったりする。
 現在破魔矢君が活躍中の出版社の元編集者だ。オカルト関係についてはもうゲップが出るくらい堪能しているのだろう、と僕らは推測している。
 しかし元いた会社の縁で沢山のオカルト専門ライターと繋がっている。次回のテーマは『闇に蠢く都市伝説』と決まっているが、それなりの原稿は集めてくれる。若社長が引き抜いて来ただけの仕事はしているという事だ。だから誰も文句を言わない。

宝子ちゃん5歳の誕生日

 十二月二十四日、宝子ちゃん五歳の誕生日だ。服を贈るのが慣例みたいになっているので僕は前日早起きして麻利亜さんをデパートに連れて行った。ネットで買うのも楽しいが、やはり現物に触れてみたいのが女心らしい。
 子供用の服売り場で服を三着買った。一着は花子さん用だ。僕は難色を示したのだが、麻利亜さんがどうしても、と言うからだ。
 昭和レトロな格好をしているからこその花子さんではないかと思うのだが、女は子供でもファッションには敏感よ、と言われればそんなもんかな、とも思う。
 しかし花子さんの設定は正確には何歳くらいなのだろうか。伝説には意外と細かな設定が付属しているのものだ。それに花子さんは声掛けオバケの類だ。実体を見た人はいない。
 僕が事務室を覗いた時に見た時は丸襟の白のブラウスに箱襞の赤いスカート。昭和レトロな花子さんはおおばばさまが勝手にこしらえたものに違いない。
 勝手に作ったイメージなら勝手に変更してもいいんじゃない? 花子さんだっていい加減飽きてると思うわ、と麻利亜さんが言い張るものだから僕は花子さん用の服も買わされた。年齢は十歳に設定。
 もう一着はヨシオ君の服だ。こちらはいかにも「バスケ少年」が着ていそうな半袖シャツに七分丈のパンツだ。十二月の末に半袖でいいのだろうか。
 宝子ちゃんの服は麻利亜さんが特に念を入れて選んだ。パフスリーブでウエスト部分にリボンが付いているお姫様仕様だ。大人の服より子供の服の方が高い。
 店員さんに「子供さんがお三人いらっしゃるのですね。成長が楽しみですね」と言われたが、僕の子ではないし、多分、花子さんとヨシオ君は成長しない。但し、あずみんと違って学費が掛からない。
 そのあずみんだが、フランスの菓子専門学校へ入学して暫くは短足、胴長、色黒のチビな日本人、とからかわれたらしい。本体が短足、胴長の黒龍なのだから致し方なしだが、フランスに行ってから開設したブログで愚痴っている。
 その度につくもさんがからかった相手を沼に沈めている。勿論、夢の中での話しだが、あずみんをからかうと悪夢を見る、とそれはそれで抑止力になっている。どこまで過保護なんだか。
 あずみんは自分の悪口を言われている事が分かるくらいフランス語に堪能になったのだろうか。堪能まで行かなくても悪口を言われているらしい気配ぐらいは分かるだろうけどね。
 世界中の権力者も悪夢を見て心を入れ替えてくれればいいんだけど、そこまでは関心がなさそうなつくもさんだ。
 買った服は宝子ちゃんの分を除いて総て賀茂さんにお焚き上げして貰った。
「おやまあ、田中っちは花子さんとヨシオ君の服まで買ってあげたの。着てくれるかどうかは分からないよ。麻利亜ちゃんと違って子供は気紛れだからね。ほう、今回は赤いドレスか。血の気のない麻利亜さんの肌色にぴったりだね。幽霊っぷりが一段とアップしている」
 フィッティングもしないで買った服だが、確かに幽霊っぷりがアップしている。
全身血塗れ、と見えなくもない。でもこれは麻利亜さん自身のセレクトで、麻利亜さんが満足なら僕も満足だ。
 女性が服を二着並べて「どっちが似合ってる?」と聞いて来たら「どっちも良く似合うよ」と言っておくのが正しい答えだと聞いている。下手に「こっちかな」などと言うと必ず反対を選ぶのが女性だそうだ。
 さっそく賀茂さんに着せて貰ったワンピース姿で、「おじさま、有難う。『キッズ・スクール』のキリストさんのお誕生日会に着ていきます」と丁寧なお礼をされた。
 霊能者と神使いの間に生まれた娘が「救いの御子は」と歌っている姿はどう考えてもちぐはぐだが、賀茂さんは気にしていない。
 日本ではキリストさんも八百万の神々の一柱にしか過ぎないと思っているからだ。それに今の所、キリストさんからのお声掛かりはなし。
 誕生日当日『三峯神社』からお銀さんが五頭の子供を引き連れてやって来た。生後八ヶ月で、上から一井、双葉、三顧、白久、五胡で、双葉と白久が女の子だ。当然だが、これは本名ではなく、通り名だ。
 大口真神様から頂いた名は親兄弟であっても口には出さない。僕の想像だけど、本名を呼ばれてうっかり答えると『西遊記』に出てくるキンカクとギンカクみたいに瓢箪に閉じ込められてしまう、みたいな感じだろうか。
「瓢箪に閉じ込められるって? 瓢箪ではないけど、当らずとも遠からずの想像かな」
 その後、賀茂さんは長々と説明してくれたのだが、簡単に言えば僕が田中という偽名、あるいは符丁を使っているのと同じ様なものらしい。
 僕の室町時代の名は××だ。知らない人間に「おまえはあの時の××だろう」と言い当てられたら、多分ぎょっとする。
「田中っちが田中某で通しているように本当の名など知ろうと思っちゃいけないよ。私のような普通の人間が仮の名を教えて頂くだけでも稀有な事なんだからね」
 賀茂さんから説明とも説教ともつかない話を頭を垂れて聞いているとどかーんと部屋が揺れた。まさか、だいきさん? 
 事務室の中を牧羊犬みたいに走り回っていた子狼五頭が一瞬で静まり返った。お山の「杉の爺」以外の龍神に会うのは多分初めてだろう。初めて会った他所の龍神がだいきさんとは可哀相に。
 だいきさんは相変わらずロック・バンドのメンバーのような格好だった。今回はウォレット・チェーンの代わりに髑髏のイラストが入った大判のスカーフを腰に巻いている。
「我が未来の嫁の宝子よ、五歳になったと聞いたので祝いに来てやったぞ。後十年で我が妻であるな」
 だいきさんはミツミネとお銀さんが睨んでいるのにも気付かない。「我が未来の妻の」という枕詞を外せば誕生日を祝いに来てくれたいいおじさんなのだが。
「このおじさん、誰?」と子狼の一井君が調節なしの大声でお銀さんに尋ねている。「しっ」とお銀さんが一井君の口を塞いだ。「この方は『九頭龍社』の長兄のだいき殿だ。失礼のないように」
 お銀さんが子狼に紹介したが、子狼達は既にだいきさんを遊び相手に認定したらしく、髑髏のスカーフや先の尖ったブーツに噛み付いている。
「お銀殿といい、保子といい、我が好みの女子は既に妻となり子を生しておる。これ、宝子、我との約束を違うでないぞ」
 なにしろ長兄であるからして、五頭の子狼が噛み付いて遊んでいても鷹揚だ。ジャケッとのポケットから七色に光る玉を取り出すとぽいと子狼達に投げ与えた。
 子狼達は齧っても美味しくなさそうなだいきさんを放って玉を追い駆け始めた。九十九頭の同胞もこうして遊んでやったのだろう。
「だいきおじ様、私、約束はしていません」
「そうだよ、宝子は大きくなったら私の嫁になるのです」
 ボール遊びから抜け出した一井君がソファーに座っている宝子ちゃんの隣にジャンプして体を摺り寄せている。
「おまえは誰じゃ。なに、一井とな? まだボール遊びに興じるチビのくせに生意気な事を言いおって。宝子は我のフィアンセであるぞ」
「宝子は今、違うと言ったではありませんかか。まだ小さいが宝子が嫁に行く年頃には私も立派な狼になる」
「つまり、恋敵と言う訳じゃな。しかし一井はまだ生まれて八ヶ月。我は四千年の年を経ている。霊力では我に敵うまい」
「それでも宝子は私のものです。宝子も私を好きになる」
 お銀さんが目を真丸にして我が子を見詰めている。これって、小学生の初恋みたいなものだろう。初恋は成就しない確率大だ。
 お山で夏休みを過ごした時、宝子ちゃんはお銀さんの子と仲良く遊んだみたいだが、五歳の女児を取り合って何を言ってんだか。神界は嫁不足なのだろうか。
「だいき様、一井様、嫁にするとかしないとかまだ早い。それよりも誕生会の支度が出来たようです。お食事になさっては如何ですか。今年は北海道の米は豊作だったようですし、冬眠に入らなかったヒグマの肉も手に入ったようです」
 賀茂さんがさりげなく食欲に誘導した。神様関係者は食前に話していた会話を忘れる癖がある。早速だいきさんが乗って来た。
「北海道のクマか。それは食べ応えがあるであろう。大宮の氷川様にもヒグマを一頭献上したと聞いておるが」
「氷川様はお食べにならずに社の内で飼っておられるそうです。その為眷属方は常に用心の為に獅子を連れて参内なさるようで。難儀な事でございますね。お食事はあずみんの部屋にご用意してあります。保子様はあずみんが戻ってきた時の為にと部屋代を払っておいでです」
 大鍋を抱えた謙信がアピールしたが、だいきさんの辞書には「部屋代」という項目はな いから見事にスルーされた。
 だいきさんを始めとする大食い達がどっと部屋に入り、握り飯とヒグマの肉鍋で饗宴を始めるいつものパターンだ。そこに五歳児の宝子ちゃんも加わっている。誕生会にヒグマの肉って……。
 半分は狼の血が入っているからいいものの、誕生会のメニューはもっと小綺麗な物が並ぶのが常態ではなかろうか。
 トイレの花子さんがドアを細く開けて覗いている。事務所のトイレに憑いているのかと思ったらトイレのある場所は移動可能らしい。
 狼と龍が大食いしている姿を初めて見たに違いない。花子さんも今やワンダーランドの一員だ。その内慣れる。いつもより顔が引き攣って見えるのは気のせいだろう。
 事務所のトイレの前にプレゼントの服を置いてあるけど、受け取ってくれるだろうか。そしてヨシオ君への七分丈パンツのチョイスは正しかったのだろうか。物の怪に服を買ってやる僕も相当いかれている。

年末年始の休暇旅行

 『三峯探偵社』は簡単な依頼を二、三片付けるとさっさと年末年始の休業に入った。
 あずみんは一時帰国するのかと思っていたら、製菓学校の寮で同室の、東洋人の女子と一緒にヨーロッパを急ぎ足で旅行している。
 僕は洋菓子より和菓子派なので良くは知らないが、国によって独特の菓子があるらしい。
 ベルギーはチョコレート大国らしいし、この時期、有名店のブッシュ・ド・ノエルは外せないとかで、行く先々でブログに菓子の写真をアップしている。写真を見ているだけで甘い香りが漂って来るようだ。
 ミツミネ一家と謙信は半年前から予約していたオーストラリア旅行へ出発した。当然ながら『バイオ・ハザード』社系列の旅行会社主催の旅で、グレイトバリア・リーフをシュノーケルを付けて海中散歩を楽しむらしい。マンタとかサメをお土産に持って来なきゃいいんだけどね。
 おばばさまはちゃっかりこのツアーに参加、おおばばさまは私室にいる幽霊達を連れて恒例の寺社巡りだ。年末年始になると急に信心深くなる国民性で、有名寺社は人で溢れているが、幽霊なら幾ら混雑していても問題ない。
 神様関係者から甘く見られている僕は神様がいなさそうなディズニー・ランドに決めた。客を飽きさせないようにアトラクションが変わるこの施設は麻利亜さんのお気に入りだ。
 僕は人間大のネズミには興味がないのだが、他に行く場所を思い付かない。後は水族館とか動物園とか。思い切ってミツミネ一家のように海外とか。イギリスは嫌だけど。

赤い紙、青い紙

 ディズニー・ランドから帰ってみるとアパートは一階も二階も静かだった。あずみんも謙信もいない。いるのは花子さんとヨシオ君だけだ。時々トイレのドアが開く音と午後五時に壁に玉をぶつける音がするだけだ。普通の人間ならこれだけでラップ音が、と騒ぐのだろうけど、常態化してしまえば怖くもなんともない。それに悪さをしたりもしない。
 昭和の中頃、僕が聞いている話では汲み取り式の和式便器から手が出てきて、「赤い紙、青い紙どっちがいい?」と聞く物の怪がいたそうだ。どっちと聞かれて赤と答えても青と答えても死んでしまう。
 じゃあどうすればいいんだ、という事になるが、要するにトイレに行く時は便所紙を忘れるな、って事だ。今と違ってどこのトイレにも紙が置いてある時代ではない。
 物の怪さんは注意喚起の為に便所に待機していた、とも言えなくもないが、汲み取り式の便槽にずっと潜んでいるのは物の怪的にはどうなんだろう。
 田舎を除いて殆どが洋式水洗トイレになった今、「赤い紙、青い紙どっち?」は消えてしまった。子供を怖がらす物の怪がいなくなればなる程、子供は怖い物知らずの生意気になる。
 僕が誰もいない事務所を覗いてみたらトイレの前に置いておいたプレゼントの箱が消えていた。ドアの隙間から有名キッズ・ブランドの服がちらりと見えた。
 ね、やっぱり女の子は新しい服が好きでしょう、ヨシオ君も着換えてくれているわよ、と麻利亜さんが赤いドレスでくるっと一回りした。
 はいはい、じゃあ、来年も花子さんとヨシオ君に何かプレゼントする事で決定。がさつな賀茂さんでは物の怪の着替えまで気が回らないだろう。
 オーストラリアから帰って来たミツミネ一家は見事に日焼けしていた。季節が逆だから当然だが、冬に日焼けは贅沢だ。今回はお土産は定番のコアラの縫いぐるみだ。わざわざオーストラリアで買わなくても日本でも売っているんじゃないですかね、賀茂さん。
 オーストラリアにはフクロオオカミ呼ばれる狼がいたが、絶滅している。日本のように祀られていないから、フクロオオカミのスピリットは感じられなかったそうだ。

新年最初の依頼

 七日を過ぎると探偵事務所も通常営業に戻る。最初の依頼はイジメの相談だった。新年そうそう気分が沈むような依頼だ。
 留守電にはいっていた依頼を賀茂さんは受けた。賀茂さん自身が『賀茂流霊能者協会』の娘で、青梅の小中高では浮いた存在だったからだ。
 直接イジメに遭ったりはしなかったが、「拝み屋」の娘は敬して遠ざけられる存在だった。偏見かも知れないが、僕が同級生だったとしてもあまり近付きたくない。
 賀茂さんが青梅に戻らなかったのはそういう思いを宝子ちゃんにさせたくなかったからだ。
 都心の短大に通うようになってからやっと「拝み屋」の看板から外れ、友達が出来た。ミツミネが賀茂さんと出会ったのはこの頃で、だから「普通に学生生活を楽しんでいたぞ」と言えるのだ。
 依頼者は午後一時にやって来た。悲しいことに依頼者の少年はイジメを苦にして既に亡くなっている。中学校の屋上から投身自殺だ。事件後、屋上には高いフェンスが巡らされて立ち入り禁止になっている。
 亡くなった少年、翔君の両親の背中には翔君の幽霊は憑いていなかった。事件があってから半年経つが、賀茂さん情報では翔君はまだ校舎の屋上にいるらしい。
「それでご依頼の件をもう一度確認したいのですが」と賀茂さんが両親にお茶を勧めた。静岡の『山住神社』から秩父の『三峯神社』を経由して下賜された貴重なお茶だ。
「もう一度詳しく、と仰いますか。私共夫婦はこの半年間、血を吐くような思いで暮して来ました。翔がいない現実を未だに受け入れられないのです」
 お気持は重々承知しておりますと賀茂さんは頭を下げた。依頼は加害者の特定だ。賀茂さんは既に翔君の幽霊から話を聞いて特定済みだ。但し、幽霊から聞いた、では証拠にはならない。
「翔は長男で中学一年でした」と父親の古林氏は湯飲みを手にして話し始めた。
 舞台は公立中学校。荒れた学校という噂はなかったので安心していたのだが、おっとりした性格に目を付けられて上級生の悪がき三人にカツアゲされたのがイジメの始まりだ。
 要求金額はどんどん増えて最後には数十万単位になった。親の財布から盗んだ金では既に払える額ではない。近くに住んでいるお婆ちゃんの貯金通帳を持ち出して、事件が発覚した。
 その頃の翔君は丸坊主になって帰宅したり、服が泥で汚れていたり、指を骨折していた。
事ここまで至れば両親も自分の子供がイジメに遭っていた、と嫌でも気付く。
 学校を休ませて担任に相談している最中に翔君は自殺した。残された日記にはS,K、Nの頭文字の中三に脅されていた事が克明に記されていた。
「担任と校長に面談を申し込んで日記を見せたのですが、当校にはイジメはない、と開き直られました。翔が遊ぶ金欲しさに家から金を満ち出したのではないか、とまで言われました」
 古林氏の口調には強い非難が感じられた。学校関係者は学校側を守る事だけに腐心していて、埒が明かない。
「翔君の自殺は悲しい出来事でしたが、他の理由で悩んでいたのでは、とこうです。翔が自分で頭を丸刈りにしたり自分で指を骨折する理由何て私達には思いつきません。それに持ち出した金額は合計すると百万円近くになります。ゲームセンターやカラオケ店に入る姿を目撃されていたそうですが、翔は自発的にそんな所へ行く子ではありません」
「翔君の日記にあったS、K、Nの生徒の名を特定して欲しい、とのお考えですね」
「ええ、学校側は加害者の見方のようですから。私達夫婦が学校へ行っても先生方は緘口令を敷かれているように誰も話を聞いてくれません」
 賀茂さんの質問に父親が皮肉を込めて答えた。
「分かりました、中三の生徒に当ってみれば三人の名は浮かび上がって来る筈です。ただし、お父様、名前が分かっても直接当人とは接触なさらないようにして頂けますか」
 それよりも、と何か言いたそうな父親を賀茂さんが制して僕を見た。あちゃ、また僕に振るつもりか。
「お父様に『調査依頼書』をお渡しした田中ですが、出版社にツテを持っています。学校と話しても埒が明かないのなら公にすべきです。週刊誌で取り上げられて世間が騒げば、学校側もシラを切り続ける訳には行きません」
 但し、と賀茂さんは息を付いた。
「週刊誌に取り上げられると古林様のプライバシーがなくなります。それに、なぜ子供の異変に気付いてやれなかったのか、さっさとと転校すれば良かったのに、と思う人達も現われます。夜道を歩いていて襲われた女性になぜ夜道を歩いていたのだ、と責める輩がいるのと同じです。被害者になるには被害者にも落ち度があった説ですね」
「翔に落ち度があった、と言いたいのですか」
 古林氏の顔が真っ赤に膨れ上がった。我が子に、自分の家庭に非があった、と言われたら、そりゃあ激怒するだろう。古林氏の全身がわなわなと震えている。依頼者を怒らせてどうするつもりだ。
「いえ、翔君に落ち度があったと言っているのではありません。悪いのはあくまで加害者です。しかし、そうは思わない人もいます。今、週刊誌を引き合いに出しましたが、SNSでも同じです。学校がのらりくらりと交わそうとするなら最終的には事件を学校の外、つまり公に公表しなくてはいつまで経っても埒が明きません。公になった時の覚悟は出来ているか、と伺っているのです。翔君には小学校三年の弟さんがいますね?」
 公にしろ、しかし世間の注目を浴びるリスクはある、と賀茂さんは言っているのだ。
 弟は「イジメに遭って自殺した子の弟」という色眼鏡で見られる。同情されるだろうがそれがイジメの原因にもなる可能性も捨て切れない。
 古林氏が赤鬼なら母親は幽霊のように青くなった。緊張状態のまま暫く沈黙が続いた。こういう時の賀茂さんは悪魔みたいだ。賀茂さんは冷静に古林氏の答えを待っている。

幽霊時間

 この依頼の結末はテレビの報道番組を見れば分かる。『なくならないイジメ 教育現場の隠蔽体質』特集で古林夫妻がインタビューを受けている。
 『三峯探偵社』が特定した三人の中学生は依然として匿名のままだが、加害者側の親が記者に追い駆けられているのだから学区内では特定されたと同じだ。
 三人は現在休学中で、一人は部屋に閉じこもり、一人は入院、一人は親戚の家に預けられている。親の家には無言電話や罵詈雑言を連ねたメールやファックスが連日届いている。
 週刊誌に情報を流したのは僕ではない。総ては賀茂さんの仕掛けだ。翔君の日記をコピーして送った。勿論、翔君の許可は得ている。「ご両親が君の為に戦ってくれている。恨みは晴れたか?」と校舎の屋上で霊体同士で話し合ったそうだ。
「恨みって言うのかな。それとはちょっと違うみたいなんだけど。お父さんとお母さんと弟には悲しい思いをさせちゃったよね。だから僕も悲しい。あのさ、おばさん、夜になると怖い人が来て、僕の腕を引張るんだ。今はそっちの方が怖い。死んだら終わりだと思ってたんだけど、死んでも虐められるのかな」
「恨みつらみ、哀しみ、未練などを抱えているといつまで経っても行くべき所へ行けなくなる。そこに悪い霊が付け込んで来るんだよね。今夜は私が結界を張っているから悪い人は来ない。今迄過ごして来て楽しかった事を沢山思い出しなさい。一番最初の楽しい記憶は何だ?」
「幼稚園の運動会かな。僕、これでも足は速かったんだよ、おばさん。中学校の時も徒競走はいつも一番だった」
 それから幽霊時間の二時間、賀茂さんは「おばさん」連発の思い出話を聞いて帰って来た。翔君はこの世で楽しかった記憶だけを持って行くべき所へ行ったそうだ。
 目出度し目出度しだが、両親の戦いはまだ続いている。今は怒りが行動の原動力になっているが、悲しみが癒えるのはいつだろう。両親の心のアフター・ケアは多分、宝子ちゃんに引き継がれる。

心霊捜査官

 二月のある日、僕が事務所に顔を出すとミツミネが留守番電話を繰り返し聞いていた。顔つきが険しい。また死体発見の事件か。
 『三峯探偵社』は秩父で殺害されて埋められていた事件以来、事件で亡くなった人の関係者からの依頼は受けない。思ったより後始末が面倒だからだ。
 とは言え、放ってはおけないから小林課長を経由して捜査一課の吸血鬼の警察官(?)に情報は入れている。その彼は現在「心霊捜査官」と渾名されているそうだが、吸血鬼が目立っては困る。
「ミツミネ、怖い顔をしてどうした。難事件発生か?」
「いや、そうではないが、これを聞け」
 再生された声は耳に快い中年の男の声だった。相手は岡崎と名乗っている。親しげに近況を尋ねている。保子、と呼び捨てにしているのが気になるくらいだ。
「岡崎、か? 賀茂さんの親戚じゃないのか」
「いや、保子には岡崎という姓の親戚はいない」
「じゃあ、学生時代の同級生とか、青梅時代の近所のおっさんとか?」
 ミツミネが知らない相手を僕が知っている筈がない。賀茂さんが起きて来たら直接聞けばいいだけだ。ひょっとして賀茂さんの恋人だった人だったりして?
 昼頃起きてきた賀茂さんはあずみんがいた部屋に直行して宝子ちゃんと一緒にご飯を食べた。あずみんが帰るまでここで食事をすると決めたようだ。
 フリーマーケットで買ったとかいう刑事ドラマに出て来るようなスチールのテーブルと折り畳み椅子で食事をしている姿はいかにもがさつな賀茂さんらしい。
 そもそも私室さえ普通の女性のように飾ったりしない。服や本はダンボールに放り込んである。唯一の家具と呼べるのは一面なのに三面鏡みたいな『幽霊鏡』だけだ。
 その代わり台所は大幅に改造してちょっとした飲食店の厨房みたいになっている。大型冷蔵庫が鎮座していて、食に関しては充実している。
 人外ばかり住む二階では家具がなかったり女性らしい華やかな色合いがないのを不思議がったりする者がいない。
 僕の部屋は麻利亜さんの要望で花柄のカーテン、壁にはリース、テーブルの上にはガラスの花瓶が置いてあって、いつも新鮮な花が活けられている。
 ベッド・カバーだって季節に合わせて取り替える。麻利亜さんは物理的な事は出来ないので、実質僕が言われるままに整えているんだけどね。
 賀茂さんがお焚き上げしてくれるようになってから麻利亜さん用と僕の服用の洋箪笥が二つ置いてある。
 後は仕事用のライティングデスク。台所用品がないのは僕も麻利亜さんも必要としないからだ。
「ああ、美味しかった。謙信は一段と腕を上げたね。死んだら謙信のご飯が食べられなくなると思うと今の内に食べておかなくちゃ、って、ついつい食べ過ぎちゃうね」
 悲観的なんだか楽観的なんだか分からない言葉を発しながら賀茂さんが宝子ちゃんと一緒に事務所に入って来た。

 いつもは賀茂さんが天の岩戸から出て来ると失われた魂の半分が戻ったように活力が漲るミツミネだが、今日は少々テンションが低い。まさか岡崎氏イコール元恋人説? ミツミネが賀茂さんを見初めたのは短大生の頃で、賀茂さんが話さない限り、小中高の頃は知らない筈だ。
 前に付き合っていた相手がいたとしても今はミツミネの妻で子供もいるのだから昔の男何てどうでもいいだろう。
「留守電を聞いていたのだが、簡単な調査の依頼が二件あった」
 ミツミネは宝子ちゃんを抱き上げながら留守電のメッセージを再生した。宝子ちゃんはおとうさまの膝の上で既にパソコンを起動している。
「父親の違う兄弟の行方が知りたい? 放火魔の見当をつけてくれ? また警察官からの依頼か。まったく少しは自分で捜査しろ、って。まあいいや、両方とも引き受けよう。それと、三件目は……。岡崎? 誰だっけ」
 幾ら天然呆けでも昔好きだった男の姓を忘れる筈はないだろうから、元恋人の線は消えた。
「昔の依頼人かな。いや、違う。私の名を呼び捨てにするのはミツミネとおおばばさまとばばさま、それに神様くらいだけど……」
「保子が『三峯神社』に参拝に来た時は女子三人で来た。その時は男友達はいなかったがな」
 女子短大なんだから当たり前でしょうが、と賀茂さんが幾分切れ気味にミツミネを睨んだ。自慢じゃないけど、小中高では男子に声を掛けられた覚えはない。
 賀茂さんが偉そうに断言するとパソコン画面を見ていた宝子ちゃんがキーボードを打つ手を止めて「異性にもてない宣言」をしたおかあさまをちらりと見た。口元が笑っている。
「しかし、何だろうね。私に子供がいると知っている。青梅からアパートに引越したのも知っているようだ。『賀茂流霊能力者協会』がここに移転したのを知っているのは不動産屋のおじさんぐらいのものだが。さて?」

 思い出すまで他の件を片付けよう、と賀茂さんが指示を出した。
「ミツミネ、御札を飛ばすから窓を開けてくれる? 放火魔の件を先に片付けよう。宝子、大体の見当はつくか?」
「犯人の住所はここから北西のこの辺りじゃないかな」 
 宝子ちゃんが既にグーグル・アースを表示している。放火魔は川沿いを移動しながら空き家を狙っている。これは警察発表で、霊力とは関係ない。
 単なる手抜きか、それとも宝子ちゃんの霊力アップに期待してか、最近の賀茂さんは宝子ちゃんを積極的に手伝わせている。
 宝子もそう思うか、と頷いた賀茂さんは御札を一枚放った。御札は賀茂さんの式神となって飛んでいった。
「異父兄弟の居所を知りたいのは相続の問題かな。宝子、どう思う?」
「相続って何ですか、おかあさま」
「私が死んだ後、おとうさまと宝子が探偵社を継ぐような状態だな」
「保子、今日は死という言葉を口にするのは二回目だ。どうした? 具合でも悪いのか?」
 ミツミネが声を掛けた。熱でもあるのかと手で賀茂さんの額に触れたが、手が大き過ぎて顔が隠れてしまった。
 丼飯を三杯食べて病気もないだろうが、確かに簡単に自分の死を語る賀茂さんはいつもの賀茂さんではない。
「そうかな? 適当な例を思い付かなかっただけだけど。依頼人は五十過ぎの男だね。今更異父兄弟の居所が知りたいにはなぜかちょっと興味があってね。宝子、大体の見当は?」
 うーん、と唸りながら宝子ちゃんは一旦日本地図を表示させてからズームさせて行った。
「北海道ではなさそうですよ。本州にも九州にもいないみたい。香川県に御札を飛ばしてくれませんか、おかあさま」
 うん、宝子が言うならそうしよう、と賀茂さんは御札を飛ばした。
 宝子ちゃんは正に天才としか言いようがないが、グーグル・アースが出現してから調査はぐっとやりやすくなったのだそうだ。
 ちょっと前までは南東だの北北西だのと極めてアバウトな感覚だけを頼りに御札を飛ばしていたんだよ、と賀茂さんの講釈が入った。僕に言わせればそれはそれで凄い。
「田中っち、こばちゃんに電話をして『心霊捜査官』に犯人の住所と人相風体、これからの行動を教えてあげなさい。放火魔は何度でも放火を繰り返す。次の犯行は五日後。現行犯で逮捕出来るよ。それから、ミツミネ、もう一人の依頼者には明日事務所に来るように電話しておいて。どうやら母親が前の夫との間に出来た子と会いたいようだね。夫の方に子供を置いて来た事情を今の内に語っておきたいらしい。五十六になったその時の子が今更母親に会いたいかどうかは分からないけどね」
 ミツミネと僕は賀茂さんに言われるままに電話を入れた。『心霊捜査官』、またのお手柄だ。
 犯行現場が川沿いに集中していること、犯行時刻から大体のプロファイリングは出来ているんだろうけど、あまりどんぴしゃで当てると疑われるよ。

薬草園の男

 僕等が用件を片付けている間に謙信がお八つを持って入って来た。ローズヒップ・ティーに「六花亭」のお菓子だ。
 ローズヒップ・ティーはおおばばさまとばばさまと一緒にデパート巡りをした時に買った。『湯倉神社』のウサギさんも洒落た物を買って来る。
「ローズピップ・ティーとは懐かしい。短大生の時に友達とハーブ・ティーを出す店に行ったよ。カモミール・ティーは風邪を引きそうな時に体を温めてくれるらしい。西洋の民間薬みたいなものだね。宝子もそろそろ薬草の勉強を始めるといい。トリカブトは全草猛毒だけど無毒化したら附子と呼ばれて鎮痛に効果がある。『賀茂流霊能者協会』では薬を処方出来ないけど、相談者の体質に合った市販の和漢薬をさり気なく勧めたりはしている。さりげなく、がミソだよ、宝子。私達は医者じゃないから処方箋を出す訳にはいかないからね」
「はい、おかあさま」と宝子ちゃんは素直に頷いた。今、『賀茂流霊能者協会』の営業トークを伝授中だ。

「おとうさまと一緒に薬草園に行ってみよう。薬草と毒草の見極めは始めの内は難しいよ。春先にニラとスイセンの葉を間違えて食べてしまう人がいるだろう? いざと言う時の為に宝子にはしっかりと薬草を覚えて欲しい。おとうさまもお山に生えている植物には詳しいんだよ。神様や神使い達は市販薬を飲まないからね」
 お腹を壊した神様がよろよろしながら薬局に駆け込む姿を想像するのは楽しいが、実際にはあり得ない。
 そもそも神様や神使いは病気などしない、と僕は思っていたのだが、長く生きていれば病気の一つくらいはするのかも知れない。
 そう言えば、『氷川神社』支社の一宇さんは風邪をひいて玉子酒を飲んで寝過ごした、とか言っていたような……。
「では春になったら宝子を薬草園に連れて行くとしよう。ところで、保子、岡崎とか言う男を思い指したのか」

 「六花亭」の菓子に手を伸ばしている賀茂さんにミツミネが焦れたように尋ねた。話は大きく迂回してやっと元に戻った。
 ミツミネとしては妻を保子呼ばわりする招待不明の岡崎が気になっているに違いない。御札を飛ばせば正体は判明する筈だが、なぜか賀茂さんは御札を飛ばさない。
「トリカブトで思い出したんだけど、私が小学校へ入学する前、ばばさまに連れられて薬草園に何度も足を運んでいた頃だ。薬草園は幾つかあるが、どこへ行っても会う男の子がいた。ばばさま相手に薬草談義をしていた。中学生くらいの少年だったかな。薬草に詳しい人だね、と感心した記憶がある。それが多分、岡崎だ。岡崎は本名ではないとすぐ気付いたけどね、薬草の知識はプロ並みだった」
 面白いエピソードを話してあげよう、と賀茂さんは宝子ちゃんの頭を撫でた。
「岡崎は毒にも薬にもなる薬草に特に興味があるようでね、私とばばさまのいる前でトリカブトの株を引っこ抜いてみせた。当然ばばさまは声を上げたが岡崎は笑いながらそれを自分の持っていたバッグに仕舞った。トリカブトは全草に毒がある。株を盗んだのも驚きだったが、素手で株に触った岡崎がその手を口に持って行かないかと心配した。しかし、岡崎は得意げに薄いビニール手袋を外してみせた。毒草泥棒の確信犯だね。それ以降薬草園で岡崎が毒草泥棒をするのを何回か見た。あの子は危険だ、とばばさまが言っていたのを思い出した、って話だよ」

 賀茂さんの姓名を知ったのはその時だろう。賀茂さんは自分の姓名を秘匿したりはしない。でも岡崎は本名を名乗っていない。
 それから何回か青梅の自宅付近で岡崎の姿を見掛けたが賀茂さんが小学校に入学する頃にはストーキング行為は収まった。だから忘れていたんだけどね、と賀茂さん。
「そんな大事な事をなぜ今迄黙っていた!」とミツミネが額に青筋を立てたが、「だって忘れちゃったもんは忘れちゃったんだもん」と相変わらず天然呆けの賀茂さんが「六花亭」の菓子に手を伸ばしている。
 ミツミネの声が大きかったので謙信が慌てて菓子を追加しに来たが、ミツミネのお怒りのポイントはそこではない。
「謙信、このお茶、美味しいね。お代わりくれる?」賀茂さんがさりげなくフォローした。謙信は大急ぎで台所から戻って来ると新しいローズヒップ・ティーを追加しながら賀茂さんに何事かを耳打ちした。どうやらばばさまからの伝言らしい。
「霊能者親子に近付いて来るとは岡崎も霊能者か?」
 ミツミネが睨み付けるものだから謙信は早々に台所に戻った。とんだとばっちりだ。
「霊感はあるけど霊能力者ではなかったね。超能力モノが流行った時期だから興味を持ったんだと思う。感化されやすい年齢だったし、なまじ霊感があるから色々なオカルト本を読み漁って自分も霊力を身に付けたがっていたよ。その努力、電話の声から察するに、どうやらダークな方に向かってしまったらしいね。おばばさまが気をつけろ、と言っている」

 岡崎は悪霊に己の魂を食わせ、生きながら悪霊になった。更に悪霊を取り込み続け、今は力の強い悪霊になっている、とばばさまが忠告して来た。
「それで、今頃また接触しようとしているのは何故だ」
 宝子が目的だろうね、と賀茂さんはあっさり答えた。宝子ちゃんを攫って意のままに動かせれば今以上の霊力を手に入れる事が出来る。
 宝子ちゃんは将来賀茂さん以上の霊能力者になる。しかしまだ体は五歳児だ。今ならまだ宝子ちゃんを攫うチャンスがあると踏んでいるのだろう。
「でも賀茂さん、宝子ちゃんは護身剣を持ってるじゃないか。どんな悪霊……、この場合は悪霊化した人間? そいつが襲って来たら護身剣が守ってくれるんじゃないの?」
「剣を抜く時間があればね、田中っち。そうでなければ護身剣ごと攫われる」
 今考えてみると秩父で殺された女子や虐められて自殺した子に集っていたのは岡崎の手下の悪霊だった可能性がある、と賀茂さんは額に手を当てた。
「御札を飛ばしてやっつければ? 或いは神様に守護を頼むとか」
「わざわざ犯行予告のような電話をしてくるって事は岡崎もそれなりの霊力を身に付けている証だ。岡崎目掛けて御札を放てば却ってこちらに来る道筋を与えるようなものだね。それに神様方は社に不敬を働きでもしない限り人間同士の争いには介入なさらない。つまり宝子を守るのは私達だ」
 話を聞いているミツミネはオッド・アイの狼の姿で毛を逆立てていた。低い唸り声が地を這って事務所全体が振動している。

 この狼と賀茂さんを挑発して来るとは驚きだ。岡崎にはそれなりの自信があるのだろう。
宝子ちゃんがお山で修行中の時に狙わなかったのは、「太らせてから食う」算段をしていたらしい。
「ミツミネ、唸っている暇があったら結界を強化しなさい。宝子のような特殊な子が狙われやすいのは想定内じゃないか。今日電話をして明日襲って来るつもりはないだろうけど、用心するに越した事はない。謙信〜」と賀茂さんは謙信を呼んだ。
「これから宝子が『キッズ・スクール』に行く日はおおばばさまとばばさまに守護を頼むと伝えてくれないか」
「おおばばさまとばばさまは既にご承知です。休ませてはどうかと話をされていましたが、それでは宝子様が籠の鳥のようで可哀相だとか。お二人のような強い霊体が憑いて行けば岡崎もそう簡単に宝子様を攫う機会はなかろう、と仰っています」
 さすがにお母様とお婆様だね、良く分かっている、と賀茂さんは頷いた。
「あの、保子様……」
「なに? まだ伝言があるのか?」
「いえ、そうではありません。私は宝子様に名前を頂きました。その私が宝子様をお守りする力がないのが情けなく……」
「ああ、それは気にしなくてもいいよ。謙信は宝子と私、時には神使い達にも一生懸命ご飯を作ってくれる。謙信が作ってくれたご飯が宝子を育ててくれる。それで充分有り難いと思っているよ」
「謙信が作ってくれるご飯はいつも美味しいもの。お部屋もいつも綺麗にしてくれるし。おかあさまには出来ないお仕事ですよ?」
 おかあさまが家事万端不得手と言っているに等しいが、賀茂さんは気にしない。
 謙信は感涙に咽びながら台所へ戻った。本体がウサギさんだから戦力にはならないだろうね、多分。
「それで賀茂さん、岡崎の居所は分かっているのか? 分かっているなら先制攻撃とか」
 僕にとっても宝子ちゃんは身内みたいなものだ。しかも将来は賀茂さん以上に霊力の高い霊能者になる子だ。むざむざ岡崎の餌食にはしたくない。
「敵は本能寺にあり、ですよ、田中っちのおじさま」
 はあ? 何言ってるの、宝子ちゃん。
「グーグル・アースで特定してみたんです。電話が来た時は京都の本能寺跡の近くにいました。今は移動中で、どこへ向かっているのかは分かりません」
 宝子の言うように岡崎は移動を繰り返している。おそらくあちこちで悪霊を憑けて身を太らせているんだろう、と賀茂さんが窓の外に目をやった。
「岡崎を追跡すればこちらの動きも筒抜けになるね。御札も飛ばせない状態だから今は守護に徹するより他はないだろう。ミツミネ、いい加減に元の、じゃなくて、いつもの三峯剛の姿に戻りなさい。だいき様が重量オーバーでソファーを壊したように今のミツミネは大き過ぎて場所塞ぎだ。せいぜいキツネの襟巻きぐらいならいいんだけど」
 キツネの襟巻き発言にプライドを傷つけられたのか、少しは頭が冷えたのか、ミツミネは元の大男になった。どちらにせよ威圧的だ。

 そんなこんなの後、放火魔は五日後に現行犯逮捕された。現在余罪を追及中だ。即日入金が確認され、「賀茂さん、最強!(笑)」の小林課長からのメールが届いた。古墳時代の吸血鬼が(笑)はないだろうが。
 異父兄弟を探している人は次の日に事務所に来て『調査依頼書』を書いて契約成立した。居場所は既に分かっているが、一週間後にまた来て貰う約束だ。
 おそらく僕が香川県まで出張して調査した、となるのだろう。香川にいる息子の父親は既に亡くなっている。家族を持つと色々あるよね、が僕の感想だ。
 七百年生きて来て、何回か結婚した元同僚の高橋は家族というものをどう考えているのだろう。

黒塗りの高級車

 『三峯探偵社』は通常営業中だ。一粒種の宝子ちゃんが狙われていても一家揃って隠れて暮らす訳にはいかないからだ。となれば静かなる臨戦態勢あるのみだ。
 「キッズ・スクール」にはおおばばさまとばばさまが、人間で言うSPとして宝子ちゃんに憑いて行っている。
 牧師さん夫婦は霊感なしのタイプだから教室に霊体が漂っていても問題なしだ。
 僕の五百数十年の体験では宗教家であっても霊感なしのタイプが殆どだ。さすがに教祖になるくらいの人間は霊感持ちだが、霊感持ちイコール霊能力者ではない。
 その教祖様が依頼をして来たのでびっくりだ。しかもアポなし、陰陽師みたいな格好で黒塗りの車をアパートに横付けで御降臨。
 賀茂さんは昼にならないと起きて来ないから教祖様は事務室で二時間放置状態だ。ミツミネ相手に教理や自慢話を披露していたらしいが、神使いに神の講釈など釈迦に説法状態だろう。
 お釈迦様なら弟子の話に耳を傾けて下さるだろうが僕と賀茂さんが事務所に入った時、ミツミネは爆発寸前状態だった。賀茂さんなら十分と持たないだろうからミツミネの方が気が長い。
 霊感持ちならミツミネが普通の人間とは違う、と気付きそうだが、何も感じていない風だから教祖様は霊能者どころか霊感もない。

 珍しく髪をきちんと整えた賀茂さんは事務所に入るなり顔を顰めて依頼者の頭の上に視線を固定した。僕にも黒い渦が依頼者の頭上をぐるぐる回っているのが見える。
「うっとしい蠅が集っているが、どうする、保子」
 ミツミネの声はひんやりしていた。二時間も悪霊が集った自称教祖様を相手にして苛々も極限状態なのだろうが、まずは賀茂さんの指示を仰いでから。婦唱夫随のミツミネらしい。
 賀茂さんが起きて来るとすぐに朝食兼昼食を運んで来る謙信も今回は待機中のようだ。
「蠅、ですか? 田舎ならいざ知らず、この帝都にまだ蠅がいるとは珍しい。下水道が塞がれ、ゴミ収集車が走り回っている現在、蠅は姿を消したと思っておりましたが」
 教祖様は事務所の中を見回した。蠅が集っているのはあなたの頭の上です。
「弊社は事前連絡なしの相談はご遠慮願っているのですが、折角ですからお話を伺いましょう。今までお話を伺っていたのが社長の三峯です。私と、今そこに立っているのが調査員の田中です。『調査依頼書』をお渡しして」
 事務員になったり調査員になったりと僕の設定はころころ変わる。僕は事務机の書類入れから依頼書を取り出して教祖様に渡すとそのまま事務椅子に腰を下ろした。
 賀茂さんはミツミネの隣に座った。視線は悪霊に固定したままだ。悪霊は動きを止めてじっと気配を窺がっている。
 幽霊を連れてやって来た人はいるが、悪霊を連れて来たのは初めてだ。なまじ霊感があるなどと吹聴していると悪いモノに憑かれやすい。教祖様には自覚症状がない。
 教祖様は小太りで背が低い六十代くらいのおじさんだ。陰陽師コスプレがなかったら印象にも残らない普通のおっさんだ。ぽちゃぽちゃと肉付きがいい手をしきりと動かしている。
「先程から社長に説明させて頂いたのですが、私はこう言う者でして」と教祖様がミツミネの前に置いてある名刺を賀茂さんの前に滑らせた。
 多分何とか教団の総裁とか書いてあるのだろうけど、賀茂さんは名刺を一瞥した後、急に立ち上がると、事務室の南側の窓を開けて下を見た。
 僕も釣られて下を見たが、アパートに横付けされた黒塗りの車が見える。助手席には中年の男が座っている。専用運転手か。二時間も待っているとは辛抱強い。

 ほう、成る程ね、見事に気配を消している、と僕には意味不明な言葉を発した賀茂さんは静かに窓を閉めた。ミツミネがソファーから飛び上がって同じ様に窓の下を見た。
「あんたは何を連れて来たんだ?」とミツミネが普通の人間なら肝が冷えるような声で教祖様を問い質した。しかし教祖様は感心する程鈍感だった。頭の上の悪霊が判断を鈍らせとしか思えない。
「ああ、助手の高畑ですか。彼は熱心な信者さんの一人で、十年も私の車の運転をしてくれています。今回もこちら様に伺う話をしたら場所を知っているから、と申しましてね」
 ミツミネ、今日は偵察に来ただけだ、落ち着きなさい、と声を掛けた。
「それで、教祖様、今回ご依頼の件は何でしょうか」
「ああ、そうだった、実は信者の娘が一人家出をしていましてね、その行方を捜して頂きたいのです」
「教祖様なら行方はご存知では?」
「確かに失せ物捜し、人探しをしたりもしますが、たまには手におえない事もありましてね。そんな時には専門家にお願いしているのですよ」
「教祖様が探偵社を使って人探しをされる。まあ、悪いとは申しません。優先されるべきはいなくなった人の安全確保ですからね」
 手に負えない事案は探偵社に調査させ、手柄は教祖様のものにする。探偵社の調査費に上乗せして何倍のも寄付金を要求するのだろう。
「で、家出された事情はお分かりですか?」
「ご両親が私の教団に入信して多額のご喜捨を頂いています。娘さんはその事で激昂して家を出た、と聞いています。縁なき衆生は度し難しですな。親戚、お友達の家に立ち寄った形跡はないようです」
 娘さんは母親より余程常識人だ。本当の宗教家ならエンドレスに喜捨を求めない。喜捨の額が多ければ多い程幸せになれると説く宗教はいかがわしい、と断じて良い。それを貧しい人に還元するなら話は別だが。
「分かりました、では『調査依頼書』は個人名が宜しいですね」
「そうですね。高畑の名前にしておいて下さい」
 ずうずうしいったらありゃしない、と思ったが、何故か賀茂さんは鷹揚だった。では一週間後にお出で下さい、と悪霊憑きの教祖様をそのまま帰した。

 黒塗り車が発車したのを確認すると賀茂さんは宝子ちゃんを呼んでグーグル・アースで信者の娘がいる場所を特定させた。学生時代にクラブ活動をしていた時の恩師の家にいるらしい。
「ではひとまず安全だね。この問題が片付くまではそこに居て貰おう。どれ、ご飯にするかな」
 まるで事務所の中の会話が聞えていたかののように謙信がお櫃と、お盆の上に器用に大皿を載せて現われた。ばばさまとおおばばさまには事務所の様子は筒抜けだ。
 今回は八宝菜に餃子と中華風だ。箸休めはキュウリの梅肉和え。昼間からボリュームたっぷりだ。賀茂さんと宝子ちゃんはあずみんの部屋イコール食堂に移動した。
「保子、岡崎は放って置いていいのか。呑気に食事をしている場合ではなかろう」
 ずっと怒気を溜め込んでいたミツミネがまた狼の本体を現して吠えたが、賀茂さんはお構いなしに餃子を食べ始めた。宝子ちゃんは八宝菜を小皿に掬っている。
「あれまあ、煩い狼だこと。ここで戦いを始める気か? 二階には結界が張ってあるが、衝撃波は一階の住人にも及ぶよ。下手をすれば向こう三軒両隣にも影響が出る」
 ミツミネが本気モードに入ったら回覧板が回る範囲内は何らかの影響が出る、って事らしい。アウトロー吸血鬼退治の時は全力を出し切っていなかったのか。
 ミツミネが不満そうに唸った。宝子ちゃんは「おとうさま、格好いい! お嫁行くならおとうさまみたいな人がいいな」と丼飯の上に八宝菜を掛けている。
「いや、宝子はどこへも嫁にやらん。やるとしても私より霊力の強い相手でなければ許さん」
「自分より霊力のある相手か。もし宝子が夫婦喧嘩をした時には加勢してやれないんじゃないの?」
「う……、夫婦喧嘩か? 私と保子は夫婦喧嘩などしないではないか」
「ミツミネは優しい狼だからね。優しいと言えば、『九頭龍社』のだいき様はどうだ? ああ見えても根は純情だし、面倒見もいい。霊力も強いよ」
「だいき殿か? それは……」
 今や完全に話題が逸れた。女子の雑談、恐るべしだ。男は常にどこに転がって行くか分からない話しに振り回される。ミツミネは元の大男に戻っている。

「それよりも、ミツミネ、トイレの中にいる一井様を引き摺り出しなさい。花子さんが迷惑している」
 はあ? 一井殿がなぜここに、とミツミネは大股で事務所に戻るとトイレのドアを開けた。  
 ころんと一井君が転がり出た。
 今はシベリアン・ハスキーぐらいの大きさに成長している。ミツミネはそのハスキー犬もどきの首根っこを掴むと一本背負いでソファーの上に投げ落とした。
 これ、一井殿、ここで何をしている。お山を守るのがおまえの仕事だろう。お銀殿には何と言って出たのだ、と一井君を睨み付けた。
 床に投げ落とさなかったのはミツミネらしい心配りからだろう。普通なら骨の一本ぐらい折れている。
「おとうさま、一井様は私を案じて来てくれたのよ。一緒にご飯食べない?」
 いそいそと宝子ちゃんの方へ向かおうとした一井君の尻尾をミツミネの大きな手ががっしりと掴んだ。
「ここで物を食べるのは一向に構わんが、その前に私の質問に答えなさい。宝子を案じてとはどういう事だ」
「宝子が攫われると聞いたからです。宝子は将来、私の嫁になる。だから守りに来ました。母上は一番下の五胡が熱を出して寝込んでいるので看病しています。心配を掛けないように黙って出て来ました。これで質問には答えました。尻尾を離してくれませんか」
「生意気な口をきく小狼だ。私の力を知っての上の物言いか。お銀殿の子でも容赦はしない。今すぐお山に投げ飛ばしてやろうか」とミツミネが凄んだ。
「ミツミネ、小さな子をいじめてはいけないよ。一井様、こちらにいらっしゃい」
「一井様、八宝菜、美味しいですよ」
 妻と子二人して勧めるのでミツミネは渋々手を離した。謙信が慌てて料理と丼を追加しにやって来た。
「おや、今日はヒグマの肉ではないのですか。八宝菜とは何ですか」
「ヒグマは容易く手にはいりませんよ、一井様。色々な野菜と肉などを炒め、ウズラの卵を添えてあんかけにしたものです。餃子は細かく切った野菜と挽肉を混ぜて皮に包んで焼いたものでございます。中華料理の基本中の基本でございますよ。どちらも店によって入っている野菜は違うようでございますけどね」
 謙信が熱心に説明したが一井君は殆ど聞いていなかった。さすがに丼飯は食べずらいのだろう、途中で十八歳くらいの人間の姿になった。
 背が高くて将来が案じられるくらいのイケメンだ。見目麗しいお銀さんとイケメンの大仙君の息子だ。醜男である訳がない。

 人間に化ける霊力はついたのだろうが、それで宝子ちゃんを守れるかどうかは疑問だ。それに宝子ちゃんが狙われている情報をどこで知ったのか。この疑問は賀茂さんが解いてくれた。
「一井様、事務所に置いてあるコアラの縫いぐるみに仕掛けをしましたね? そんな事をなさらなくともいつでも遊びにお出でになればいいのです」
 一井君に教育的指導を入れたが、丼飯をかき込みながらもごもご言っているので迫力に欠ける。
「あの灰色のクマみたいな縫いぐるみがコアラという物ですか。宝子が無事に育つように願掛けをしておいただけです。結果として宝子が狙われているとの情報が飛び込んで来ました。嫁になる娘を守るのは男として当然の役目でしょう」
 まだ人間の食べ物に慣れない一井君はおそるおそる餃子を口に入れたが、気に入ったらしくあっという間に二十個平らげた。
「霊力をつけてお山守るのが一井様のお役目でしょう。まだ嫁取りを考えるのは早いですよ。それに嫁を迎えるなら狼は狼同士が宜しい」
 そう言った賀茂さんは食べるのに忙しくて一井君が立ったままなのに気が付かない。
「でもミツミネ殿は人間の嫁を貰ったではありませんか」
 煩い小童だ、おまえの助けなどいらん、それに宝子はまだ五歳だ、とミツミネが一井君の頭をぽかりと殴った。一本背負いした時より機嫌は直っている。
 ミツミネは事務所から折りたたみ椅子を二つ持って来ると一つに一井君を着座させ、もう一つにどっかりと腰を下ろした。
 宝子ちゃんが一井君の丼に八宝菜を掛けてあげている。所謂、中華丼と言うやつだ。一井君は宝子ちゃんと競うように丼のお代わりをしている。まったく神様関係者は大食揃いだ。
 先に食べ終えた賀茂さんは一旦私室に戻ると小さな紙袋持って帰って来た。まだ丼に食らいついている一井君の前に紙袋を置いた。

「五胡様が熱を出して寝ておられるとか。母上は心配なさっているでしょう。この紙袋の中に賀茂家秘伝の漢方薬が入っています。食べ終わったらこれを持ってお帰りなさい。薬缶半分の水で煮出して飲めば熱が下がる。ついでに五臓六腑の掃除してくれますよ」
 神使い相手なら薬事法には抵触しないのだろう。しかし、またコウモリの羽根とかイモリの黒焼きとか。有象無象が詰まっていそうだ。
「こら、田中っち、何を考えてる。コウモリの羽根もイモリの黒焼きもれっきとした薬だよ。それに今回は別の処方だ」
「おかあさまの薬は良く効きますよ、一井様。おかあさまは薬草に詳しいの。私も春になったら薬草の勉強を始めます。一井様も一緒に薬草園に行かない?」
 箸を置いた宝子ちゃんが誘うと満面の笑みを浮かべた。初恋は純真だ。
 僕は吸血鬼になる前は一日中働き詰めで、恋をする暇もなく四十歳近くになってしまった。初めて貰った嫁が幽霊の麻利亜さん。いかなる天の采配か。
 生きている人間の思いは複雑だが、幽霊になると単純な思いしか残らない。面倒臭い駆け引きなしに僕に憑いていてくれるのは幸せだ。麻利亜さんが踏み切りに執着する霊でなくて良かった。
「宝子は可愛いだけでなく優しい女子だね。だから私は宝子が大好きだ。薬草園には一緒に行こう。宝子の母上、薬は有難く頂いて行きます。許しも得た事だし、ちょくちょく遊びに来るよ、宝子」
 一井君は他の神使いと同じ様に食い散らかしたままお山に帰った。どういう教育をしてるんだ? 少しは謙信を見習え。

悪霊に憑かれた教祖様

 問題の教祖様は一週間後に再登場した。依然と同じ黒塗りの車だが、運転手が違う。教祖様は運転手が入れ代わっているのに気付いていない。頭の上の悪霊も消えていて全体的に萎んでいる。賀茂さんが調査の結果伝えようとすると教祖様は大きな溜息を吐いた。
「その件については必要がなくなりました。この一週間の間に教団内で不祥事が多発しまして、続々と信者が脱退しまた。それどころではないのです」
「どんな不祥事かはお伺いしないのが良いのでしょうね。それならお越し頂かなくても電話で依頼を中止されても良かったのですが」
「いえ、こちら様にはお手数を掛けましたので直接お詫びを、と思いまして。調査費用はお払いします」
 このおじさんは案外律儀だ。賀茂さんはゆったりと微笑みながら書類をシュレッダーに掛けた。もともと調査などしていない。白紙の書類だ。
「当社は成功報酬制です。ご覧の通り、調査結果はシュッダーに掛けましたので、当社は仕事をしなかった、とお考え下さい。故に費用は頂きません」

 こうして教祖様は帰っていったのだが、間もなくして教団は解散した。頭の上に悪霊を乗せいていた教祖様を岡崎が『三峯探偵社』偵察の為に利用したものと思われる。
 目的を果たした後は教団を引っ掻き回した挙句、悪霊を摘まみ食い姿を晦ましたのだろう、と言うのが賀茂さんの推理だ。
 汚いやり方だが、悪霊を連れて行って貰った教祖様はある意味ラッキーだ。普通のおじっさんに戻った後は、自らが蒔いた種と思って誠実に後始末をするしかない。
 教祖様を自称する人の中には飽くまで金儲けのビジネスと割り切っている輩もいる。案外そちらの方が儲かっていたりするものだ。
おじさんが妙な霊験を受けてしまったのは悪霊のせいだろうが、一体、どこで憑かれたものやら、だ。

一井君と大山君

 宣言通りちょくちょくアパートにやって来るようになった一井君と僕(プラス麻利亜さん)とミツミネ一家は草木が葉を伸ばす頃、一家総出で薬草園巡りを始めた。これも宝子ちゃんが立派な魔女……、もとへ、立派な霊能者になる為の重要なお勉強らしい。
 『三峯探偵社』は『世界文献社』と同じ様に土日は完全休業だから僕もミツミネ一家に付き合った。これだけの面々が揃えば岡崎も手を出せない。
 芽吹きの頃の薬草の鑑定が一番難しいらしい。僕にはセリとドクゼリの区別がつかない。僕がイギリスから帰る時に遭遇した根性の悪い幽霊に教わったようにキンポウゲ科の植物は要注意だ。
 ぞろぞろと大名行列のようだが、実質人間は賀茂さん一人だ。後はハーフの宝子ちゃん、人間に化けている神使い二体と幽霊が三体。吸血鬼の僕。霊感持ちがいたら百鬼夜行に見えるだろう。
 宝子ちゃんは新しく買ったタブレットを持って植物辞典を参照しながら一株ずつ確認している。
パソコンが普及した頃、僕はわざわざパソコン教室に通って操作方法を習ったものだが、今の子は生まれた時から携帯電話もパソコンもあるから日常のツールとして当たり前のように使用している。
 但し、さすがに薬草、毒草となると現物を直接目で見て観察するしかない。僕もポケット版の薬草辞典を持って来ているのだが、写真だけでは正直、判断が付かない。セリ科の葉っぱはどれも同じに見える。
「青梅の家にはおおばばさまとばばさまが集めた薬草が植えられていたんだけど、この前見に行った時にはただの荒れた花壇になってしまっていたね。宝子が青梅に戻る日が来たらまた薬草園を作って欲しい。謙信もおとうさまも薬草には詳しいから手伝ってくれるよ」
 はい、おかあさま、と宝子ちゃんは素直に頷いた。

 まだ高知にいた頃の賀茂家代々の女達は薬草の知識を生かして人助けをしていたらしい。今は他人に薬を調合して渡すのは法律に触れるが、知識だけは受け継いで欲しい、とおおばばさまもばばさまも願っている。
「保子様、先程から私達の後をそれとなく追って来る者がおりますが」
 江戸時代の丁稚みたいに大きな荷物を背負った謙信が賀茂さんに耳打ちした。すわ、岡崎出現か、と僕は身構えたが、身構えてたところで非力だから何も出来ない。
「謙信は気を見る事はまだ出来ないか? あれはミツミネと同じ様な気を放っている。一井様、父上をこちらにお呼びしなさい。ベンチに座ってお八つの時間にしましょう、とね」
「ありゃ、宝子の母上は何でもお見通しですか。外出すると聞いて父上がガードマンとして駆けつけました。五胡に薬を作ってくれたお礼だそうです」
 一井君は大山君のいる場所に駆けつけると父上を引張って来た。何をどう勘違いしたのか、一昔前に流行ったヒップホップ系の若者に化けている。
 狼のミツミネと言い、龍のだいきさんと言い、神様関係者はファッションセンスがおかしい。化けるならもっと世間に溶け込んだ格好をして欲しいものだ。
「目立たぬようにして後を追っていたのだが、ばれていたか? 宝子の母上は勘が鋭い」
 勘が鋭いのではなく、あんたが目立ち過ぎです。
「五胡様の体が元に戻られてなによりです。大山様は今や私の夫、ミツミネの御同輩です。礼などと水臭い」

 私の夫、の件でミツミネの顔が弛んだ。センスが悪い上に単純だ。一井君は麻利亜さんのアドバイスに従ってチノパンに長袖のポロシャツを着ている。ちょっとオジサンぽい。
「丁度歩き草臥れた所です。謙信がお八つを沢山持って来てくれたのでご一緒に如何ですか」
 勿論、頂こう、と大山君はさっさとベンチに座ると一井君を手招きした。本当に礼をしに来たのか疑問だ。
「一井の話では宝子が狙われているそうだね。一井がぎゃあぎゃあ煩いので見に来たのだが、今日は平穏だ。途中で霊体が一人いたが、熱心に草を眺めていて、私に目もくれなかった」
 ベンチに横一列に並んだ賀茂さん、宝子ちゃん、一井君、大山君は謙信がリュックから取り出した「千秋庵」の「山親爺」と「ノースマン」に齧り付いている。
 干菓子は見るからに高価そうだ。こういう高価そうな菓子をばくばく食べている連中の気がしれない。マリー・アントワネットみたいに首を切られれば少しは反省するのだろうか。
「あの霊は昔ここで働いていた草守です。今でも心に掛けているのでしょう」
「くさもり? それは何だ」
「桜の木を守る人を桜守と呼ぶように草を守る人です。私が勝手に命名しました」
「はあ、成る程ね」
 イナゴの大群に襲われたように菓子はあっという間に食い尽くされた。ペットボトルのお茶も無くなって、帰りの謙信は身軽になっただろう。
 食いこぼしをみつけたアリが一匹やって来た。その内ベンチの回りはアリの行列が出来る。
「さてと、今日は不穏な動きも感じられない。一井、母上が待っているから早く帰って来るのだよ。ミツミネ殿、四月の大祭でまたお会いしよう」
 大山君が立ち去ろうとした時、謙信がリュックの奥から「千秋庵」の菓子の詰め合わせを出して「お銀様へ」と手渡した。まったく気が利くウサギさんだ。
 大山殿は結局、菓子を食べに来ただけだな、とミツミネが呆れている。しかし賀茂さんもおおばばさまもばばさまも呑気に笑っている。
 ぶつくさ言っているミツミネだって賀茂さんと出会わなければずっとお山を駆け巡っていたに違いない。

 神様関係者は人間の生き死になど気にしていない。基本的に自己中だ。ただ稲荷神の白緒さんやミツミネのように人間の女子を好いてしまう場合もある。
 もし賀茂さんがミツミネと一緒でなければアウトロー吸血鬼狩りには行かなかっただろうし、僕も麻利亜さんと出会わなかった。妙な縁だ。
 それから三月一杯薬草園巡りが続いた。大山君が顔を出したのは最初の一回だけで、お供はいつもの面々だが、僕と麻利亜さんは二回目以降は同行しなかった。
 そう言えば東京タワーには行ってなかったわね、と麻利亜さんが思い出したからだ。地元にいるとつい忘れてしまう。
 僕はタワーから眺める景色に感慨無量だった。巨大なビルとマンション、住宅が隙間なくぎっちり建ち並ぶ東京。ここに日本の人口の十分の一が住んでいる。
 どこかの小さな国の国家予算以上の予算を動かしている東京都。僕が見掛け上の死を何回となく繰り返して過ごして来た街だ。
 『バイオ・ハザード』社を探してみたが、沢山の高層ビルに埋もれて特定出来ない。『バイオ・ハザード』社ならどこの会社にも負けない高層ビルを建てる財力があるだろうが、目立たないのが信条だから今も中層階のビルだ。
 一般客が訪れるのは年に一握り。一応バイオ関係の仕事をしている謎の会社。黒塗りの社屋を見ても足を止める人間はいない。
 普通の人間は誰一人として気付かない吸血鬼達の日本支部だ。あらゆる業種に手を広げているワールド・ワイドな組織だが、その実体にまで辿り着いた人間はいない。『バイオ・ハザード』社は僕の誇りでもある。

第二章へ続く


 
   




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?