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中編ファンタジー 【ドードー鳥、見つけた】 (5)

阿佐野桂子




島の外へ

 オーロックスが物思いに沈みながら山を下っている頃、龍とドードー鳥は呑気に散歩を楽しんでいた。急ぐ様子もないから、少なくとも見た目は呑気そうだが、どこか緊張した様子が覗える。
 龍はいつになく険しいと言える程の表情だし、頭の上のドードー鳥は心ここにあらずの感じでぼうっとしている。島を一周し終わったのにまた同じ道を辿り始めているのも他に気を取られている証拠だった。
 島の北側に着いた。温度が低くなったのでそれと分る。北側の海岸線は切り立った岩に囲まれて波も高い。冷たく拒絶する海だ、とドードー鳥は思った。
 もしこの島が囚人の島で、周りが全部こんな冷たい海だったら、どんな囚人でも脱走する気を失ってしまうだろう。
 総ての夢、総ての希望を打ち砕く波だ。夢破れた者の骸を無残にもばらばらにし、見せしめの為に投げ返して来る。飛沫は拒絶の爪、波の音は嘲笑の唸りだ。ドードー鳥にはそんな風に見える。自分を囚人だと思えば尚更だ。
「やあ、目がくらくらして吸い込まれそうだ」
 そっと言った。大きな声を出したら本当に吸い込まれそうな気がしたのだ。
「危ないですよ、しっかり?まっていて下さいね」
 龍が気を揉んで声を掛けた。片方の長い髭をドードー鳥の体に巻きつけたが、それだけでは安心出来ない。髭を器用に操るとドードー鳥を手元に引き寄せた。丸くてふかふかした感触が龍は大好きだった。温かくて丸くて懐かしい感じがする。
「随分遠くまで歩いて来てしまいましたね」
 ドードー鳥を掌に乗せたまま意味もなく空を仰いだ。
 小さな雲が一つ、東側に浮かんでいるだけの良い天気だった。この空を忽ち曇天にすることも出来るが、そんなことさえ忘れてしまう程に青く澄んだ空だ。
 本当は雨と自分は全く関係がないのではないか、とそんな気がしてくる程だ。実際、龍自身にさえ思いがけぬ時に雨が降る時があるのだから、本当は自分の行為の結果ではなく、神様がサイコロでも振っているのかも知れない、と思う。
 自分はその使い走りなのか。何かに動かされているだけなのか。龍は自分の運命について考えてみた。今迄は神様として悪魔として人間の運命を眺めていた。運を嘆く者達の群れが常に彼を取り巻いていたのだ。
 もっと良い運命を! と人間は時に神、時に悪魔の彼に祈りを奉げた。彼の姿が変っても奉げる祈りは一つだ。
 何かに動かされていると感じることが運命を感じる瞬間だ。龍は島に吹き寄せられた自分の運命を思った。つまりこれが運命だったのだ、と人間ならそう言うであろうと思った。
「ずっと考えていたのですけど、島の外に行ってみようと思うんですよ」
 龍は空を仰いだまま言った。ドードー鳥が自分を見詰めているのが分った。彼の心の底も手に取るように分る。
「そんな……、クアッガの言う事を聴くなんて。オーロックスやエゾオオカミが反対していたじゃないか。僕はクアッガが言っていた何とか爆弾がどんな物か分らないから言う資格がないけど、オーロックスの意見は正しいと思う。彼女は今迄だってずっと公正だったんだから、僕は今度だって信じるよ」
 ドードー鳥が真面目な顔で言い返して来たが、心の底でマスカリン諸島が見え隠れしている。手段と口実があれば、もし自分が龍だったら、こんな説教はしないに違いない。龍も真面目な顔をしながら内心でくすっと笑った。無理してるな、と思う。
「ではクアッガさんとオーロックスさんのどちらが正しいのか、見て来ようではありませんか。確かめてみて、オーロックスさんの方が正しいのなら諦めて帰って来ればいい」
「でも、もしオーロックスが正しいとしても、クアッガが信じるだろうか」
 クアッガの猜疑心は深いのだ。
「そうですねえ、怖気付いたのか、何て言われるかな」
 龍は苦笑した。
「では証人が必要でしょう。私が臆病で言っているのかそうでないのか」
「証人だって? 誰か一緒に連れて行くつもりなの?」
 ドードー鳥が素頓狂な声を挙げた。もともと希薄な反対意見だから新たな局面の展開にすっかり心を奪われた様子だ。そしてこれが龍の意図したところだった。
「ええ、証人がね」
 龍は腕組みをして考え込む素振りをしてみせた。証人が必要だが、さて、誰がいいか。龍は首を捻り、唸ってみせた。
「ステラーカイギュウさん以外では島の外に行ってもいいと思っている生き物はいないようだし、第一、私を信用してくれていないみたいだし……」
 ぶつぶつ呟いてみた。
「君を信用していないだって? 何て酷いやつ達だろう!」
 ドードー鳥が義憤にかられて叫んだ。つい最近まで龍を恐れていたクチなのに、これはきれいさっぱり忘れている。
「そうなんですよね、まったく酷い……。信用してくれているのはあなただけです。あなただけが頼りなのですよ」
 ドードー鳥はいい気分だった。自尊心を擽られ体中がこそばゆい。
「僕だけじゃないじゃないか。オーロックスだっている。リョコウバトだっている。君の棲家の近くの鳥だって君を心配している。君を好いている者は沢山いるよ」
 とは言ったものの、龍が一番好いているのは自分だ、と思うと誇らしかった。
「ええ、多分ね」
 今日の龍は懐疑的だった。
「オーロックスさんは素敵なウシです。誰からも尊敬され、彼女も皆を好いているようです。でもね、皆、と言ったので、私を特別信用しているのではないのじゃありませんか?
特別、がいないのは公平にと思ってのことでしょうが、それは公平に皆を何とも思っていないのと同じことでしょう」
 龍は強引に理屈を述べた。オーロックスが聞いたら嘆き哀しみそうだが、今日のところはこれで良いのだ、と思いながら龍は言葉を続けた。
「それにリョコウバトのマーサさんですが、あの子は確かに可愛らしい。でも軽薄で移り気です」
「そんな言い方をしたら本当の友達何かいなくなってしまうと思うけど……」
 ドードー鳥は不安になった。龍の気持が掴めなかったからだ。これ以上は薮蛇である、と龍は判断した。
「私と一緒に島の外に行って頂きたい、とお願いしたいのですよ。あなたを一番信頼しているのですからね」
 ドードー鳥の目を真っ直ぐに見詰めて言った。
 期待した通りの効果がたちまち現われた。ドードー鳥の頭の中で島の外へ、という言葉が鳴り響いている。やたらと咳をし、小さな翼に嘴を入れたかと思うと今度は尾羽を揺すってみたりする。見事に策に嵌ったのだ。
 龍は内心可笑しくて仕方がないのだが表面はいかにも心細げにしていた。あなたが頼りなのですよ、とドードー鳥の心を擽っているのだ。ドードー鳥がふうっと大きな域を吐いた。どうやら龍の作戦成功疑いなし。

海は広過ぎて恐ろしい

 心は弾んでいるのにちらりと不安が過ぎった、龍の頭の上に乗っかって、生まれて初めて海を渡り出した時だ。龍はご機嫌で鼻歌を歌い、ちょっとばかり大きな波が来ても平気だが、ドードー鳥は地面が見えないというただそれだけで落ち着きを失っていた。
 善は急げとばかりに飛び出して来たが、地に足が着いていないことがこんなにも恐ろしい事とは知らなかった。
 行く先に陸地が見えていて、そこを目指して行くのなら多分もっと落ち着いていられるのだろうが、見渡す限り何もない海原が延々と続いている。龍の鼻息と四本の足で水を掻く音が単調に続いている。陸では大きく見える龍も広大な海の只中では放り出された一つの点と同じだった。
 ドードー鳥は両足の爪をぎゅっと立ててしがみ付いていた。行けども行けども海だ。本当に島の外へ出られるのだろうか。さっきからおなじ所をぐるぐる回っているだけのような気がする。
 龍は疲れていやしないか、沈んでしまったらどうしよう。そうしたら、と考え始めると悪い事ばかり思い付く。せめて途中に小さな島、小さな岩でもあってくれればいいのに、と思う。海は広過ぎて恐ろしい。
 うんざりする程太陽に照り付けられて羽根がちりちりに焦げそうだ。月の光で羽根がべったりと張り付いてしまいそうだ。昼は暑く、夜は寒い。気が弱くなって帰ろうか、と言いかけた頃になってやっと違う潮流にぶつかった。
 今迄の海の色とは明らかに異なる色、それが島の外へと通じる潮流だった。やれやれ、と龍も一安心した。これから先は潮の流れるままに身を任せていれば人間の世界のどこかに辿り着く。
 現金なもので、ドードー鳥もまた元気を取り戻した。時折り島影が見えるようになった。もっとたまにだが、遠くを行く船も見える。 
「やっと来たね!」
 ドードー鳥はようやくしがみ付いていた足の力を緩めた。気付かずにいたけれど、足が棒のように硬直していた。
「そうですね、やっと来ました。これから先は人間の世界ですよ。ああ、懐かしいな」
 龍は鼻面を上に向けて臭いを嗅いだ。人間の臭いがする。彼にとっては人間の臭いが懐かしさを運んで来る。
 ドードー鳥も真似してみたが、臭いと言ってもすっかり馴染みになった潮の香りと、どことなく油っぽいような臭いしか感じられなかった。何と言っても土と森の香りが一番いい。マスカリン諸島の香りだ。
 モーリシャス、レユニオン、ロドリゲスの三つの島、そして島ごとに色の違うドードー鳥の仲間達! このまま真っ直ぐマスカリン諸島に行けたら何ていいんだろう、と思った。ピンクジョン、モーリシャスチョウゲンボウ達はどうしているのか。空や野で楽しい歌を歌っているのだろうか。
 確かめたいが彼には用事がある。すっかり忘れていたのだが今思い出した。これは困った、と思う。意気揚々と飛び出して来たものの、ドードー鳥は人間の道具のことなど何も分らないのだ。
「おや、何か心配しているんですか?」
 敏感に察知した龍が顔色を覗う為に片方の目を吊り上げた。
「私が当てもなくあなたを誘ったと思っているのですね?」
 龍はいかにも心外とばかりに大きな溜息をついた。
「クアッガさんみたいに、私は体が大きいだけで何も出来ないと思っているのでしょう。そりゃ、島の中にいる時はその通りですけど」
 でも、と龍は続けた。自分はもともと人間と深い係わり合いを持って生きて来た者だ。人間界に近付けば近付く程、強くなって行く筈だ。心配はいりませんよ、と答えた。実際にも龍は昔のように勇気凛々と漲って来るのを感じている。
「あと少し、ほんの少し何かがあれば、昔通りの私に戻れるような気がするんですが……」
 龍は遥か彼方を通過して行く豆粒のような船を目で追いながら呟いた。きっと金色の玉のことを言っているのだろう、とドードー鳥は思った。失った力の総てを取り戻す金色の玉だ。
「それって、見つかると思う?」
 見つかって欲しいような欲しくないような、妙な気持だ。
「さあ……」
 竜が声を曇らせた。今の内はまだドードー鳥が良く知っている心優しい龍だが、もし金色の玉が見つかったらどう変るのだろうか。
 神様になるのか、悪魔になるのか、どっちなのだろうか。どっちにしてもドードー鳥のまるで知らない龍になってしまうのだとしたら、少しばかり自信がなくても今の龍の方がずっといい。
 途中でクジラの群れに囲まれた。龍より太っているが体は短い。初めて見るドードー鳥にはでっかいオタマジャクシに見えた。クジラは懐かしそうに龍の傍に近寄って来た。利発そうな目だ。
「ステラーカイギュウとはたまに出会うことがありますが、あなたにまたこうしてお目に掛かれるとは光栄です。その節は大変にお世話になり、有難うございました。私共一族は今でも感謝の気持を失っておりません」
 年長のクジラが敬意のこもった態度で挨拶した。クジラに尊敬されているなんて凄い、とドードー鳥は改めて龍を見直した。子クジラが目を真丸くして見詰めている。
「ほら、ずっと昔、捕鯨船を沈めて、私達の先祖を何回となく助けてくれた偉いおじさんですよ」
 母クジラが教えている声が聞える。何でも鯨油を絞る為だけに乱獲されたそうだ。いや、なに、と龍が照れた。
「私共も一時はめっきり数が減りまして頭数を数えられる程になってしまいました。あなたがいらっしゃらなくなってからは本当に酷いものでした。やっと最近になって私共を保護しようという人間も出てきて、何とかこうして生きておりますが、時代は変わるものですね、今ではホエール・ウォッチィングなどと称して私共を愛玩動物のように見ているようです。しかし人間は勝手ですからね、いつまた狩られるかわかりません」
 年長のクジラはそう言って、しみじみ懐かしげに龍の顔を眺めた。ドードー鳥は母クジラに連れられた子クジラが地球上で最後の、ただ一頭のクジラにならぬことを祈るより他ない。
 人間が関心を持ち、保護してくれるのは良いことだと思う。しかし人間は気紛れだからこの先彼等の運命がどうなるか分らない。クジラ達の運命も人間の都合次第なのだ。
 龍はクジラ達に人間の道具のありかを尋ねた。クアッガの言う、瞬時にして池を造る道具だ。
「一体、どうしてそんな物が必要なんですか?」
 クジラが驚いて尋ねた。
「あなた程の力がおありになれば簡単でしょうに。山を動かすことだって、海を干すことだってお出来になるのですから、どんな大きな池だって思いの儘の筈ではありませんか?」
「それが、恥ずかしい話だけど、島では子供のヘビと同じくらい無力なんですよ」
 龍は自嘲気味に言った。自分のだらしなさはステラーカイギュウに聞いているだろうから、隠しても無駄だと思ったのだ。
「そうですか……。ではやはり何か考えねばなりますまい」
 クジラはそれ以上深く追求せずに言った。
「確かにそのような物があるのは知っています。私達の仲間が浜に乗り上げてしまった時、人間が大きな手の形をした機械で水路を切り開いてくれたことがあります。あなたそっくりの固くて大きな手で、一堀りするとあっと言う間に土砂を掻き出してしまうのです」
「それそれ!」
 龍は身を乗り出した。しかしそれは人間が操作する機械で、人間がいないと動かないと言う。だとしたら違う。クアッガの話では簡単に扱えて小さな上に、効果抜群なのだそうだ。
「では爆弾と呼ばれる物でしょうか?」
 クジラは少し考えてから答えた。その中で特に核爆弾の破壊力が大きいと聞いている。
「でも、大変危険だと思いますよ」
 推奨致しかねますが、とクジラは言った。聴くところに依るとその爆弾が炸裂した場所では後々まで奇妙な病気に冒されるのだそうだ。
「それ、それ!」
 龍は一層身を乗り出した。
「で、どこにあるの?」
「さあ、どこにあると言っても……。少し前まではごく限られた場所にだけあったそうですが、今では海沿いのどこにでも置いてあるそうですよ」
 クジラは危険だと言う。しかし危険な物をあちこちに置いてあるのはおかしい。本当に危険なら密かに隠しておくものだし、第一作る筈がない。クジラは大袈裟なのだ、と龍は思った。知っているとしてもほんの僅かを知っているだけなのだろう。
 龍とドードー鳥はそれから暫らくの間クジラ達と共に海を渡った。大人しくて仲間思い、頭も良くて、まさに海の貴族の風格に満ちた連中だった。
 ドードー鳥にも優しくしてくれて、すっかり仲良しになった。クジラと友達になれるなんて素晴らしい。これも龍のお陰だ。ドードー鳥は龍に感謝した。
 やがて大きな陸地が見えて来るとクジラ達は右回りし、別の湾を目指して行く。
「なるべく無理をなさらないようにね」
「君達もいつまでも達者でいてね。なるべく私達のいる島へ来る日が来ないように祈っている。本当は毎日でも会いたいけど、そんな思いはお預けにしておく。君達の顔を島で見る日が来ないように、祈っているからね」
 別れ際に龍はクジラを固く抱き絞めた。

龍の悲しみ

 龍は鼻の穴を大きく広げて盛んに空気を吸い込んだ。なつかしい臭い。人間の臭いが段々と濃くなって来る。
 彼の頭の中は蘇った思い出で一杯だ。常に人間と一緒でしか成立しない思い出を龍は寂しいと思う。ドードー鳥は人間がいなくてもドードー鳥だ。オーロックスはオーロックス自身で存在する。
 しかし自分は人間なくしては存在しないばかりか、その人間によって存在を否定されたのだ。自分を今認めてくれたのはドードー鳥達、そのドードー鳥達を滅ぼしたのは人間だ……。
 もし誰かが人間とドードー鳥達のどちらを選ぶのか、と尋ねたら龍は何と答えただろう。秤に掛けるのは不可能だ。思い出と、これから作りつつある思い出は、自分の中でまだ等分の位置を保っている。
 いや、本当を言えばまだ少し人間の方に振れているかも知れない。ドードー鳥ならば人間を懐かしいとは思わないだろう。
「ドラゴン、どうしたの、泣いたりして」
 ドードー鳥の心配そうな声で龍ははっと我に返った。
「泣いてなんかいませんよ。ほらね、波が顔に掛かっただけです」
 両前足でぴしゃぴしゃと顔を叩いて誤魔化した。人間の為に泣くなんて、ドードー鳥達に対する裏切り行為に思えたからだ。
 そんな龍をドードー鳥は水臭いと思う。クアッガの前でならいざ知らず、自分の前では誤魔化さないで欲しい。そりゃあ人間は嫌いだが、仲間の龍が懐かしいと感じる気持を尊重するつもりだ。
 龍はドードー鳥の気持を尊重するが故に無理をする。無理なんかしなくていいのに、と思う。いや、待てよ、そもそも龍が敢えてクアッガの挑発に乗ったのは自分の為ではないのか。
 龍は自分の為に無理をしているのだろうか。ひょっとしたら……。いや、多分龍は自分がマスカリン諸島を見たいと熱望しているのを知っている。
「ドラゴン、もしかして……」
「わあ!」
 龍が突然大声を上げた。せっかくしんみりと考え事をしていたドードー鳥はびっくり仰天して転げ落ちそうになった。何かが龍の目の前を横切ったのだ。
「見て、見て、ドードー鳥さん! わあ!」
 また龍が叫んだ。となるとしんみりした気持ちなど消し飛んでしまう。横切ったのは魚だ。魚らしき者である。
「何だよ、でかい声出して」
「何だよ、でかい声出して」
 魚らしき者が振り返ってぶすっとした声で言った。四つの目玉でじろりと睨んだ。目玉は四つ、頭は二つだが体は一つだ。
 ついに出た、と同時に思った。ステラーカイギュウの話にあった双頭の魚だ。Y字形の体全体が小刻みに震えている。息を飲んで見詰めている二匹にそいつらは苛立ったようだった。
 どんよりした四つの目玉が粘っこく光った。どうにも目付きの悪いやつだ。その点、龍の方は驚いた割には冷静になるのが速かった。思い出して見れば自分の仲間にも双頭や八頭の龍がいたのだ。
「失礼しました、申し訳ありません」
 眼光に押されて慌てて謝った。とは言ってもやはり変は変。彼の知っている限りでは空想以外では考えられない魚なのだ。
「あなたのような方に会うのが初めてなものですからぎょっと、いえ、びっくりしてしまったのです。何ともその、独特なお姿だな、と思いまして」
 怒らせるともっと気味が悪くなりそうだと判断した龍は低姿勢になった。
「そうかい」
「そうかい」
 そいつが二つの口で答えた。粘っこい目はまだそのままだ。
「ここら辺じゃ別に珍しくないぜ」
 またもや二つの口が同時に言った。
「それよりか、あんたの方が余程珍しいぜ。何て名さ」
「はあ、私は龍、またの名をドラゴンと申しまして、頭の上にいるのはドードー鳥と申します。ところで、あなたのお名前を覗っても宜しいですか?」
「ああ、いいともさ。こっちが正常、あっちが異常、って言うんだ」
 右の頭の口が言った。
「何だと、この間抜け! おまえが異常、俺が正常だ」
 左の頭の口がすかさず言い返した。陰険な口調から察するところ、二つの頭は同じ一つの胴体にくっついていながら仲が悪いようだ。
「いえ、その、種族の名のですが。例えばセミクジラとかアカエイとか……」
「そんなのはないね。以前はあったが今はない。みんなひっくるめて奇形魚と呼ばれているんだ」
「違う、汚染魚だ! 汚染魚と呼ばれているんだよ」
「ふん! じゃあ、お前は汚染魚でいろ。俺は何が何でも奇形魚と言ってるんだ」
 右と左は形相凄まじく睨みあった。同じ胴体を共有していながら仲が悪い。例え八つの頭を持っていても一つの頭と変らぬ生活を送っていた仲間の龍とは大違いらしい。
 名前のことでこんなにいがみ合っているは可哀相だ、と龍は思った。第一、不便だ。何と声を掛けて良いのか迷ってしまう。
「あの、では、宜しければヤヌスの神とお呼びしたいのですが」
 龍はやんわりと提案した。
「何だ、それ!」
「何だ、それ?」
 双頭魚は睨みあいを止めて龍に視線を戻した。よく見ると藪睨みでしかもひどい出目であることが分った。じっと見詰められると胸が苦しくなって来る。ドードー鳥は生唾を飲み込んだ。
 ヤヌスは古代ローマの双頭の神だ。善悪、内外を見抜く力を持った神だ、と龍が教えてやった。
「ヤヌスの神か。そいつはいいや」
 双頭魚が口を揃えて言った。
「じゃ何かい、俺は神様って訳だ」
「俺も神様ってことかい。こいつは堪らないぜ。は、は、はっ!」
 何がおかしいのか口をぱっくり開けて笑ったが、見ている方にとっては笑い顔の方がもっと不気味だ。顔中の弛緩した筋肉がぞろっと剥げ落ちそうだし、大きく裂けた口の中からは赤黒い内臓が飛び出して来そうだった。
「いい名を付けてくれて有難うよ。これで左のやつとも名前のことで喧嘩せずに済むぜ」
 と右のヤヌス。
「お礼に何かしてやろうか。そうだ、お前にも名前を付けてやろう」
 左のヤヌスが機嫌よく言った。
「いえ、名前なんてとんでもございません。ヤヌスの神様直々に名前を付けて頂くなんて勿体無いことです」
 龍は慌てて辞退した。勿体無い、は嘘で、本当は変な名前を付けられたら困るからだ。
「そうか、じゃあ止めにしとこう。何て言ったっけ、龍と言ったな。それじゃ龍よ、何か他にして欲しいことがあるか?」
 双頭魚は煽てられてすっかり上機嫌だ。
「お前でもいいぞ。何かして欲しいことを言ってみろ」
 ドードー鳥にも声が掛かった。もし本当の神様なら飛べるようにして下さい、とドードー鳥は頼んだだろう。
 でもヤヌスの神は急造の神だ。自分の顔の筋肉を動かすことさえ儘ならぬ奇形の魚だ。歪な二つの心を持ったただの小魚に過ぎない。何をしてくれると言うのだろう。ドードー鳥はゆっくりと首を横に振った。龍とて思いは同じだ。
「いえ、どうかお気になさらずに……」
 と言い掛けた時、ヤヌスの顔が険しくなった。
「お前達は欲がないと見えるな。それとも俺が何も出来ないくせに、と思っているのか?」
 出目が一層ぐっと張り出して声が高くなった。
「とんでもない、そんな……」
 急いで否定したが、傲慢な神の怒りは一直線だ。
「ここはエネルギーの海だ。不可能を可能にする海だぞ。過剰なくらいのエネルギーが渦巻いているのが見えないのか。間抜けめ」
 陸を見てみろ! とヤヌスが叫んだ。浪打際近くに白色の巨大な建造物群が見えた。
「あれが我々の神殿だ。エネルギーの源だ。お前はさっき俺達をヤヌスの神などとお為ごかしを言ったが、あの発電所こそ本当の神なんだぞ。神聖にして犯さざるべき物、近付く者を一瞬にして死へ追いやる無限の力、その神を父として俺は生まれたんだ。これは神の海、俺は神の子だ!」
「俺は何でも出来るのだ!」
「発電所万歳!」
「神の子だ、俺は神の子だ!」
「神を馬鹿にするのか、この罰当りめ!」
 ヤヌスの神の口がかっと裂けた。四つの目は死んだ魚の目のように赤く濁り、もはや正常な精神を覗わせる何物もない。
 龍は背筋が冷たくなるのを感じた。異様なのはヤヌスばかりではなかった。ふと気付いてみれば体の回りに数え切れぬ程の魚がびっしり取り付いている。
 それも双頭、体の捩れた者、体の一部が欠損した奇形魚だらけだった。
「俺にも名前を付けてくれ!」
 そいつらは叫んでいた。海を埋め尽くし、ざわざわと押し寄せて来る。
 ぎゃっ、と叫んで龍は飛び上がった。飛び上がりながら取り付いた魚を振るい落とした。ヒルみたいにしつこい奴等を必死で千切っては投げ捨てる。銀鱗が光ってぼたぼたと海へ落ちて行く。それを目で追う余裕さえなかった。
「何て奴等だろう。ああ、怖かった!」
 空へ一気に駆け上がり、雲の上に乗った龍は肩で息をしていた。歯ががちがち鳴って言葉にならない。ステラーカイギュウの話は本当だったのだ。
 何て醜く不気味な魚達だろう。おまけに精神も怪しくなっている。何から何まで瘴気に満ちた海だ。
 クジラ達が言っていたのを思い出した。爆弾が炸裂した後の海域や陸はいつまでも嫌な感じがする。
 それと同じ感じを起こさせる建物が水の近くにある、と彼等は言っていた。嫌な感じとはこの事だろうか。体中が過敏に反応する。何かが皮膚を通ってじわじわと骨の髄まで侵入して来る感じがする。
 寄生生物よりもっと冷たく無慈悲な侵入者は、目に見えぬ塵のように蓄積し、細胞そのものさえ破壊しようと目論んでいる。
 まるで硫酸のように皮膚を焦がす海、異様に温い水。寄生虫ならば個体が死ぬだけだ。硫酸なら溶けるだけだ。両方とも死んで終る。
 しかしこの海はどうだ。穏やかで美しく、見た目は他の海と少しも変っていないというのに、不吉な瘴気が沸騰している。個体の死では終らないもっと惨めな死、誰もが考えてみたこともない苦しみに引き摺り込もうと策動している海だ。
 小さな湾の中に何と沢山の死の影が漂っていることだろう。魚達だけが心と体の病気に冒されているのか。そうではあるまい。
 これだけのエネルギーの照射を浴びて正常であり続けるのは不可能だ。命ある者総て汚染されているに違いない。
「ああ、何て嫌な場所だろう。本当だった、本当に変ってしまったんだ! ステラーカイギュウは正しかった。私の知っている海はこんなに禍々しい海ではなかったのに」
 龍は身悶えして頭を掻き毟った。
 歪な魚と捻れた心、凄まじい禍の奔流、それらの背後で哄笑しているのは白色の建物だった。陽に輝き、まさに神殿のように君臨している。 
 龍はそれらが人間の建てた物であるのを知っていた。自分を追放した人間が現在崇め敬う神の住居だ。
 どんな神が住んでいるのだろう。双頭の神か、のっぺらぼうの神か、龍は目を凝らして覗き込んでみた。瘴気が一層強くなる。
 複雑は器機に囲まれて何事かを祈念する人々の群れ、体中すっぽり何かで覆って蠢く人々、が見えた。これが神に仕える人間達なのだ。
 何と言う無表情。神に仕える歓喜も恐怖も読み取れない。建物全体を覆っているのは息詰まる程の緊張、何物かの拡散の欲求と、それを押さえようとする力の戦いだ。
 神殿とはこんなにも荒々しい平衡の上に立っているのだろうか。そして、神は確かにいた。見てはならぬ神、知ってはならぬ神、触れた者は死ななければならぬ神、絶望の……。
「ドードー鳥さん?」
 龍はぎょっとして身を翻した。ドードー鳥がいない。姿が見えない。無我夢中で奇形魚を振り払っていた時に落ちてしまったに違いない。それとも自分自身の前足が打ち落としてしまったものか。
 尻尾の方にでもいてくれやしないかと急いで振り返って探ってみた。耳の中は、と頭を揺すってみる。鼻をふんと吹いてみる。口をあんぐりと開けて前足を突っ込む。目蓋もひっくり返してみる。
 総て無駄だった。ドードー鳥の羽毛一つも発見出来なかった。雲を掻き分けて下を覗いた。何もいない。何も見えない。さっきは湾全体が蠢いて見える程に群れていた奇形魚の姿さえ見えない。
 白い波が立っていた。龍の全身から血の気が引いて行った。目の前が真っ暗になるのが分った。四肢が冷たくなり、胸だけが張り裂けそうな鼓動を繰り返していた、何も聞えず、何も見えなかった。
「ドードー鳥さん!」
 龍は渾身の力を込めて絶叫した。呼応するように雷鳴が轟き、稲妻が光った。空は一瞬にして暗くなった。沖から強い風が吹き、海が泡立った。重く黒い雲を蹴散らして空を駆けた。荒れ始めた海に身を躍らせ、泥を掬い、岩を動かしてもみた。
「どうしよう。ああ、本当にどうしよう」
 うわ言のように繰り返しながら龍は前足で胸を掻き毟った。爪に血が滲み、やがて雫となって垂れた。
 空にも海にもドードー鳥の姿は見当たらなかった。死体さえ見つからない。死体だって? 龍はぞっとして体を振るわせた。
 飛べない鳥、泳げない鳥が空と海の間に投げ出されたらそんな運命が待ち受けているのかは考えなくても分っている。分り過ぎる程分っている。
 それなのに自分はどれだけ気を配っていたのだろう。たかが奇形魚に驚いただけできれいさっぱり忘れてしまった。何と言う情けなさ、恥知らずだろう。
 二度もドードー鳥の信頼を裏切ったのだ、と龍は自分を責めた。ここではドードー鳥を救い上げてくれるオオウミガラスもいない。
 龍は再び上空へ舞い上がって絶望のうめき声を挙げた。叩きつけるような激しい雨と雷鳴がそれに呼応した。気流が捩れて風がどっと吹き降ろした。
 湾の中はみるみる水位が増して行く。沖から次々と波が立ち、前の小さな波を飲み込んで湾を目掛けて押し寄せる。暗闇の中に荒れ狂う風と波の音がヤヌスの神達の棲む湾を揺さぶり、もみくちゃにしていた。
 奇形の魚達は押し寄せる波の中で壊れた操り人形の踊りを踊っていた。彼等には恐れる心は最早ないように見えた。
 岩に叩きつけられ、白い腹を見せて死んで行く者達の顔には恐れの色はなかった。浜に打ち上げられ、また波に攫われて行く者達の顔はむしろ穏やかと言ってよい程だった。
 醜悪な姿をした魚達の穏やかな死に顔。それは待ち望んでいた物がやっと訪れた時のものに違いなかった。
 神など信じていない、その訪れだけが待ち望むただ一つのこと、と思い定めた者達の安らかな最後だった。つまり彼等こそが湾の奥に鎮座する神殿の意味を最も良く知っていた。
 浜辺に降り立った龍は魚の死骸の中にドードー鳥の姿を求めて歩き回った。死にきれずにもがく魚が早く楽にしてくれ、と龍に囁き掛ける。
「ドードー鳥は? ドードー鳥を見なかったか? 教えてくれ、ドードー鳥はどこにいるんだ?」
 龍は歯噛みしながら尋ねた。
「ふん!」
 腸の飛び出した魚は死ぬ間際にも傲慢さを崩さなかった。
「馬鹿め! 船さ、船を見なかったのか? お前の連れは俺達の仲間と一緒に船に引っ張り上げられて行ったのさ。だがそんな事が俺達に何の関係があるって言うんだ。俺達はやっと死に巡り会えた。そして幸福な……」
 ヤヌスは口から胃袋を吐いて痙攣した。もうその傲慢な口も喋る力がない。龍はそれ等を哀れに重い、苦しみを長引かせぬ為に踏み殺した。
 空は益々暗くなった。稲妻が光って辺りを一瞬照らし出しても空と海の境さえ分らない。風が波を煽り、波が風を煽った。
 湾の左右に骸骨の腕のように突き出している堤防は高波に洗われて震えていた。小さな人間の村落は灯りもなく、深い闇の中で息を潜めている。
 何もかもが漆黒の色、そして荒れ狂う風だった。その中でただ一つ、煌々と輝く巨大な城がある。死ぬ事だけを待ち続けている者達の神殿だ。龍は金色の目をかっと見開いてその白色の神殿を睨み据えた。

「私達の島へ!」

 ドードー鳥は自分を探す龍の声が聞えた、と思った。渦巻く黒雲は龍の姿だ。吹き荒れる風は龍の声だ。鋼鉄のような爪が大気を引き裂き、サソリのように長い尾が海水を打つ音が聞こえた、と思った。
 誰が何と言ってもドードー鳥にとっては世界で一番強く、一番優しい生き物の声だ。しかし聞えたと思ったのは空耳だったのだろうか。
 それともオオウミガラスの翼が水を打つ音、オーロックスの心配そうな声だったのか。ドードー鳥の記憶も暫らくこんがらがったままだったが、やがて嫌でも思い出す事があった。奇形魚の群れだ。人間の世界に遣って来た。人間の世界に戻って来た。では自分はどうなってしまったのだろう。
 朝が来て夜が来る筈なのに何も変らない。代わりに白くて冷たい光がある。空の代わりには灰色の天井があった。
 右も左も前も灰色の壁で、右と左の壁には四角い隙間があった。多分これは窓と呼ばれる物なのだろう、とドードー鳥は考えた。してみると自分は大きな灰色の箱の中に閉じ込められてしまったことになる。
 困った、どうしようとあちこち眺め回したが、自分でも意外なほど冷静だった。いつもならたちまちどきどきと波打つ心臓も今日はどうしてだか大人しくしている。
 寂しい雨と風が窓の外で荒れ狂っているのが分った。空耳ではなかった。龍がすぐ近くまで来ている。こんな激しい雨を降らせ、激しい風を吹かせることが出来るのは龍しかしない。
 自分がどこでどうなっていようと龍は必ず探し出してくれる。そう思うと安心した。慌てず騒がす、生まれたての雛のようにじっと待っていればいいのだ。
 安心すると同時に体の節々が痛むのに気が付いた。なにしろ空の上から落ちたのだから痛いのは当たり前だ。
 ひょっとして怪我をしていやしないか、赤い傷口がぱっくり口を開けていやしないか、と思うと余計痛みが酷くなる気がする。
 自分の怪我にせよ他の者の怪我にせよ、ドードー鳥はほんの少しの血や傷でもぞっとしてしまう。
 幸い傷はなかった。その代わり打った箇所は幾つかありそうだった。痛いという程でもないが、体が思うように動かない。
 一体ここはどこなのか。ドードー鳥はゆっくりと目だけ動かしてみた。灰色の箱の中には自分以外誰もいないようだ。
 頭の上に光があるが、太陽の光ではないことは先程から分っている。少しも温かみのない冷たい光だった。ドードー鳥の毛穴の一つ一つまで覗き込んで来るようなとりすました冷淡な光だ。
 箱の中も冷え冷えとしている。冷気が伝染し、背筋がざわっと寒くなった。急いで身震いをして体温を上昇させた。羽根を動かした後、一歩前に出ようとした。しかし足が動かない。
 恐る恐る足を見ると、足の下に黒い板があった。足はそこにぴったりとくっついてしまっている。体を前後左右に激しく揺さぶってみたが、足の骨が折れそうになっただけだった。
 粘着性の何かを踏んづけてしまって、それで動かないのだ、と信じたかった。落ち着け、と自分に言い聞かせた。何てことはない、きっと目を瞑って十数秒数えれば動くようになる。そして勢い余って尻餅をつき、自分で自分を笑ってしまうに決まっている。
 ドードー鳥はゆっくり待った。十数秒数えても動けるようにならないのを初めから知っていてように辛抱強く待った。永遠の一、永遠の二だ。
 灰色の箱はドードー鳥が想像した通り、人間の建物の中の一室にあった。彼は今や剥製として展示されるのを待っていた。
 龍の頭から転げ落ち、通りがかった漁船に拾われて溺死を免れたものの、何人かの手を経由した挙句、好事家の研究室に運び込まれたのだが、そこまでは良かった。
 彼の不運はその好事家が自分の標本箱にピンで留めて誇りたい為に、希少蝶を捕虫網で追い掛け回す自称昆虫愛好家と何ら変らなかったことだ。
 珍しければ珍しい程標本の価値がある、と信じる人間の仲間だ。大事に育て、観察し、繁殖を試み、数少なくなった蝶や虫達を自然の中で遊ばせてやろうとはこれっぽっちも考えない。
 ドードー鳥の小さな胸の鼓動や慎ましい息遣いは無視された。彼等には「珍しい鳥の標本」としての価値しかない、と判断されたのだ。
 内臓はきれいに保存液に漬けられ、くるくる動く目の代わりに冷たいガラス玉が嵌め込まれ、足は台座に固定された。それもこれも珍しいモノを所有していると誇りたいが為だ。
 ドードー鳥は自分が自分でなくなり、ただのモノになってしまったのを知っていた。悲しいけど知っていたのだ。
 でも夢かも知れない。夢であってくれればいいと思う。夢ならば龍が必ず救い出してくれる。モノではない本当の自分に戻してくれる。
 龍ならば何だって出来るのだ。山を動かし海を干し、雲を呼び嵐を従わせる龍。龍ならば出来ないことはない。龍ならば、そしてこれが夢の中ならば……。
 突然白い光源が消えた。朝なのか昼なのか夜なのか、嘴を突かれても分らぬ闇、灰色の箱を揺さぶる風と濁流のような雨の音だけが一層不安を掻き立てる。
 頭上からどさっと何かが落ちて来て砕け散った。一回、二回、そして三回。三回目の稲妻はとてつもなく大きな火の玉だった。太陽を百も集めたような光が箱の上で炸裂した。光が眩し過ぎて影も出来ない。
 ドードー鳥のガラスの目玉に突き刺さった光は彼の体中を巡って爆発した。光はふいに消え、それから音が来た。音は灰色の箱の右壁にあった窓を吹き飛ばし、左壁の窓を突き破った。
 箱の天井がふわりと飛んだ。そしてまたもや光が来た。光の後はキノコ型の火柱だった。千の太陽の光と熱風が渦を巻いた。動けない鳥の上を千の嵐が吹き荒れた。一時間か一日か、それとも一年だったのだろうか。
 龍がすぐ傍にいる、とドードー鳥は感じた。龍がやって来たのだ。そして自分を守っていてくれる。なぜって、少しも怖くない。
 飛ばされもしないし羽根も焦げていない。こんな恐ろしい破壊の中でびくともせずにいられるのは龍が守っていてくれるからに決まっている。
 しかし龍は酷く怒っているようだった。何に対して怒っているのか、まともに顔を合わせたら焼き尽くされそうな激しい怒りだ。でもその怒りは自分以外の何物かに向けられている。
 ドードー鳥は安らかな気持ちになって小さく息を吐いた。金色の玉を見つけたのだな、と思った。そうでなければそんな凄い事できっこないじゃないか?
 やがて一面火の海になった。火が天を焦がして黒い雨が降った。雨の後は晴れだ。まるで島にいる時とおなじようなトルコ・ブルーの空だ。
「早く島に帰ろうね」
 ドードー鳥は呟いた。もうマスカリン諸島を見なくてもいい。飛べなくたっていい。島の上に広がる空が懐かしかった。そして時折り振る小雨。
 それは草原の花達を生き生きとさせ、森の緑を深くする。龍が遠慮しながら降らせる生命の水だ。鳥達は歌い、島は美しい。
「ほんと、早く帰りましょうね」
 ちょっと草臥れ加減だが優しい声で龍が答えた。
 しっかりとドードー鳥を守っていた彼の鱗は火に焼かれて反り返っていた。顎鬚も焦げ、二本の角の片方が折れていた。彼がどれ程犠牲を払ってドードー鳥を探し出し守り抜いたか、言われなくても充分分る。
 自分のせいだ、とドードー鳥は思った。そもそも自分がマスカリン諸島の夢などを見たのがこんな結果を生んでしまったのだ、とも分っていた。
 モーリシャスチョウゲンボウ、ピンクピジョンも今は人間の保護を受けている身だ。マスカリン諸島が昔のままである筈がない。
 森は追い詰められ、水は汚れている。マスカリン諸島だけが楽園でいられる筈もない。夢を見ていたのだ。
 御免ね、と言いたかった。でも敢えて言わなかった。龍だって言いたいことが沢山あるに違いないのに黙っている。
「爆弾はどうするの?」
 ドードー鳥はガラスの目で見上げて言った。疲れて痛々しいが頼もしい龍だ。
「もうそんなもの、なくなってしまいましたよ」
 竜がドードー鳥の足の台座をそっと外しながら答えた。彼はもう人間を愛してはいなかった。愛しているのは目の前の、吹けば飛ぶような小さな鳥、そして島の仲間だ。
「でも、クアッガが……」
「なくなってしまったのですよ、何もかもね。奇形魚達さえも」
 龍は静かに、しかしきっぱりと言った。
「池は私の前足で掘りましょう。十年かかっても百年かかっても、前足の爪が剥がれても私が掘ってみせます。私達には無限の時間がありますものね。あなたを捜している間にいい場所を考えついたのですよ。なるべく島の自然を損わずに、しかも労力も少なくても済む場所をね。その時は、ねえ、ドードー鳥さん、あなたも手伝ってくれるでしょう?」
「勿論!」
 ドードー鳥は元気に答えた。しかし池などもう必要ではあるまいと思う。奇形魚の群れやこの破壊の様子を聞かせればクアッガだってきっと分ってくれる。本当はいいやつなのだ。
「ところでね、あなたに紹介したい者がいるのですが」
 龍がこの時初めて頬を緩めた。
「ほら、もうそこに来ていますよ」
 ドードー鳥の後で翼を広げる音がした。びっくりして振り返ると薄ピンク色の鳥が立っているのが見えた。
 すらりとした長い足、先の方に行くに従って湾曲している細長い嘴の鳥は、もうずっと前からドードー鳥の後に立って笑いを堪えていたみたいだ。
「私がニッポニア・ニッポン、トキですよ。ドラゴンがなかなか紹介してくれないから待ち草臥れちゃった」
 派手なようで品の良い薄ピンク色のトキは翼をふわりと広げて優雅な挨拶をした。これがニッポン最後のトキなのだ。中国に遺伝子上は同じトキがいるそうだが、日本のトキは絶滅した。
 茶目っ気たっぷりの目、美しい姿。何よりも嘴が湾曲しているのがいい、とドードー鳥は思った。自分と同じだ。ピンク色は以前の龍と似ていないこともない。となれば友達だ。
「では、行きましょうか」
 龍が二羽をしっかりと前足で抱きかかえた。
「ドラゴンに運んで貰えるなんて、素敵だね!」
 トキが前足の間から首を出してドードー鳥に話し掛けた。
「頭の上でいいのに! その方が風が当ってずっとずっと気持がいいんだよ」
 ドードー鳥はもうすっかり先輩気取りで答えた。
「駄目駄目、じっとしていらっしゃい。今度こそはあなたを落しゃしませんからね」
 龍は二羽が息苦しくなる程しっかり抱えたまま一気に空へ舞い上がった。途端に風が起こり、龍の焼け焦げた鱗がぱらぱらと剥げ落ち、新しい金色の鱗が現われた。
 空には金色の龍、地にはまだ所々で爆発を繰り返す金色の玉。ドードー鳥はその金色の玉をじっと見詰めていた。
 失った物を再び手に入れたのだもの、龍が金色に輝いたとしても何の不思議があるだろう。自分のガラス玉の目も、空っぽの体の中も気にならなかった。魂だけで生きている生き物を傷付けることなど、たとえ神様だって出来っこない。
「私達の島へ!」
 トキが明るく叫んだ。
「勿論!」
 龍とドードー鳥が答える。永遠の時の島、絶滅した者達の島、忘れ去られた者達の島へ! 忘れられた? とんでもない。ドードー鳥はいまだって草原をよとよち歩いているし、龍は空を舞って雨を降らしている。トキは島の日当たりのより水辺に美しい姿を映している。ここでは誰もじっとしていない。書物の中に閉じ込められ、忘れようとしても、どっこい、ドードー鳥達は生きている。
                                     

(了)



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