5-03 「植物園駅」

9人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は親指P「パルマコンとしてのノスタルジア」でした。

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【前回までの杣道】

5-02「パルマコンとしてのノスタルジア」親指P

5-01 「記憶の縦パス」Ren Homma

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 プラトンの『パイドロス』の冒頭で、ソクラテスはパイドロスに対して、ファルマコン/パルマコンという言葉の由来となったパルマケイアーの神話を語っている。パルマケイアーは治療のための泉を意味し、その泉のほとりでポレアス(北風)にさらわれた若き乙女オーレイテュイアがパルマケイアーと遊んでいた際に、ポレアスに押されて奈落の底に落とされてしまう。治療のための泉と若き乙女の死。治療薬であると同時に毒薬でもあるパルマコン——

 するすると流れる青黒い水面に、君の影が揺れている。君自身も水流に耐えるかのような格好で、欄干にしがみついている。僕たちはずっと押し黙って、釘付けにされていた。河川敷のバラ園は植え替えのために全くのがらんどうで、僕たち以外に誰も往来はなかった。ぼんやりと日時計に目をやると、結構な時間を過ごしていたみたいだ。

 僕は〈睡りの世界〉について君に語りたかった。僕は時々、夢を見るんだ。顔も知らない誰かと旅に出る夢。夢の旅はいつでもリラックスした気分でいられる。行く先はどこもかしこも素敵なんだけど、いずれは起床してネクタイを締め、せわしい勤めに出ないと行けないからさ。朝の7時に目覚まし時計がうるさく鳴り出す前に、僕はその土地の絵葉書を買っておくんだよ。現実の脳みそに、夢で見た景色を焼き付けるために。決して忘れたくないから。君は口を開く。分かりますよ。私も睡りが趣味ですから。端的な返答と質問。たとえば、どういう景色を見たんでしたっけ。

 たとえば。僕のお気に入りの場所はあそこだろうな。海の向こうまで延びる巨大な吊り橋。海面から見上げると、紙細工のように精巧に組まれた橋板が魚鱗のようにきらめいているのが分かる。それは美しく、圧倒されてしまう光景なんだよ。橋上には遊園地や住宅街が延々と広がっていて、そこに住む人々は橋のことを〈鯨〉と呼んでいる。あまりに長大なので、〈鯨〉の果てを誰も知らない。一度も地上を見ることなく一生を終える人だっているはずだよ。でもみんな日に焼けて幸せそうだ。僕自身は〈鯨〉が湾岸に架かる辺りの、日の差さない橋の下に家を構えて暮らしているのだと思う。睡眠時の自分はとても寡黙なので、詳しいことは分からないのだけど。すぐ近くには、これまたひどく大きな城堀があって、多くの男女が水遊びをしている。水質は沼のように不衛生なんだけどね。ちょうどよい温かさと深さを気に入って、みんな堀に飛び込んで水泳したりするのさ。あなたは海辺の夢ばかり見てるのですか。ううん。いろいろな場所に行くよ。

 たとえば。堀をはすに走るように駅がある。あんな湿地にどうして鉄道が敷設できたのだろう。考えてみれば現実離れした光景ばかりだ。そこから銀色の電車に乗れば、温室のようなガラス天井のターミナルに辿り着く。そこは〈睡りの世界〉の入り口の一つでもあると思う。とても湿気のつよい駅で、濃霧が視界を遮っているんだ。さっきまで堀で水泳していたような連中も、この駅ではみんな各々のレインコートを着こんでいる。不思議な場所さ。駅に正しい名前はないけれど、みんなは通称で〈植物園駅〉と呼ぶ。蔦の絡まったプラットフォームがうねうねと湾曲し、ここが何番線なのかも迷ってしまうんだ……。君は僕の言葉を遮るかもしれない。鯨のように巨大な橋。迷子になりそうな濃霧の駅。ひょっとして、〈睡りの世界〉のあなたは幼い子供なのではないですか。

 そうかもしれない。より精確に言えば、僕自身の身体は伸び縮みしているのだと思う。だって僕は城堀でクロール泳ぎをしていた。ホテルでチェックインを済ませたことだってある。ほら、あの檜木で組まれたファサードが偉容を語る、天を突くような超高層のホテルだよ。客室からは、ガラス瓶のように丸く透明な建物が乱雑に生えた目抜き通りが見えた。本当に賑やかできらびやかだった。いや、あの辺りはそんなに繁盛していなかったはずですよ。そうだっけ。

 けれども。あの尾根にいる時の僕は祖母に抱かれたくらいの年齢かもしれない。崖下まで一直線といった感じの、あの切り立った花崗岩の塊に銀電車が登っていく時は。稜線を辿ればコテージ風の洒落た喫茶店があり、女学生達がデッキから景色を眺めている。あの尾根を歩くとき、僕はまったく幼く軽やかな気分でいるはずだ……。いや、僕自身のことはどうだっていい。大事なのは、〈睡りの世界〉は一つの物語として綴じられていて、すべての場所は繋がっているということだ。そのことを、僕はつよく確信している。〈睡りの世界〉は僕にとって生の裏地とも呼べるものだ。僕の身体をやさしく包む、肌触りの良いブランケットなんだ。僕は抱かれたい、愛撫されたい。その襞のなかで、湿気を吸い込み死んでいきたい。〈鯨〉の近くが僕の本来の住処なんだ。その想いは生まれてからずっと変わらない。なるほど。クローゼットの内奥に逃げ込むように、〈睡りの世界〉に引きこもろうとしたんですか。いや、今はちゃんと理解しているよ。目覚めと睡りは半々で良いということ。勤めを終えて毛布にくるまれば、僕はいつでも〈植物園駅〉に帰ることができる……。


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次週は6/13(日)更新予定。お楽しみに!

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