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「僕の心のヤバイやつ」の不徹底さ

 ずいぶん前に「僕の心のヤバイやつ」を全部読んだ。アニメが全話終了してからなぜか追っかけで視聴したことでどっぷりハマり込み、半ば衝動的に原作を全巻大人買いした。旅行で東京に来た時には洗足に聖地巡礼に行って、駅構内の特設コーナーを撮ったり、山田と市川が座った駅前広場のベンチに腰掛けてみたり、客観的に見てかなりキモいオタク行動に熱中したものだ。
 要するに、僕は夏の間にすっかり「僕ヤバ」のファンに仕立て上げられてしまったわけだ。だから、ファンの戯言としても批評としても書きたいことがたくさんある。
 結論を先に書くと、この作品は「完成度90%の脱厨二病漫画」だと僕は考えている。高いクオリティを誇っているが、100%ではない。厨二病を脱していく過程が主にテーマとなっているが、その詰めがやや甘い、というのが僕の感想だ。
 簡単に「僕ヤバ」のストーリーを説明しよう。主人公は中学二年生の市川京太郎という少年だ。物語は始終、彼の一人語りで進行していく。市川は厨二病をこじらせた典型的な「陰キャ」であり、日々周囲のクラスメートに殺意を燃やしている。中でも陽キャの典型かつスクールカーストの頂点と言える美少女であり、雑誌のモデルをしているクラスメートの山田杏奈に激しい殺意を抱いている彼だが、徐々に思い込んでいたのとは違う顔を持つ山田に恋愛感情を持つようになる。一方、山田の方も市川に特別な感情を抱くようになり、二人は徐々に親密になっていく。そんな二人の距離が縮まっていく過程を描くのが「僕の心のヤバイやつ」だ。
 結局説明が複雑になってしまったが、要は「平凡な少年と美少女とのラブストーリー」という、手垢の付いたドラマツルギーに忠実な口当たりの良いストーリーが展開されていると思えばよい。実際、掲載誌には「陰キャ少年と陽キャ美少女の極甘ラブコメ!」というキャッチコピーが付いている。しかし、「僕ヤバ」が本当に書いているものは山田ではなく世界の方にある。
 僕が考える「僕ヤバ」は、市川が「世界の複雑さを美しさとして引き受けられるようになるまで」の話だ。
 まず、物語開始時点の市川は、図式的な人間観を持ち、安っぽい厭世観に浸っている。中学受験に失敗して友人と離れ離れになった市川は、自分に友人ができないことを「僕は頭がおかしい」とサイコパスを気取り、「この世の”破壊者”」を自称することで転嫁している(そのためシリアルキラーや殺人心理学についての本を多く読んでいる)。さらに教室で猥談に興じる男子を「ゴミ男子ども」と見なし、女子を「クソ」と断じる。そして山田が、陰キャである自分のような「底辺を見下している」「クソ女」という被害妄想を膨らませ、彼女を殺害する計画を密かに立てている。恋愛や友情に不信感を抱き、「青春」の図式から抜け出したと思い込んでいる市川だが、実際はむしろ逆だ。周囲の人間を典型的な図式に押し込め、偽悪的な解釈で世界を理解したふりになっているのが第一巻での市川である。
 しかし、彼のそんな安易な人間観は物語が進行すると共に改められていくことになる。まず市川は、山田が図書室で菓子を貪り食べているという、「陽キャ美少女」という図式にふさわしくない光景を目撃する。さらに本屋で自分が載っている雑誌の読者に自己アピールを試みる山田に遭遇したり、雑誌に載っている「知らない女の人みたい」な山田を目にしたりして、「なんだかくだらない感情を持っていた気がする」と、自分の思い込みの空疎さを自覚することになる。
 そして、山田への恋愛感情を自覚した市川は、校外での遭遇や職業見学などを経て、山田と信頼関係を築いていく。さらに彼は山田との交流を軸足に、今まで憎悪・軽蔑(するふりを)していた人間や風景をも素直に愛せるようになっていく。周囲の人間‥‥‥家族や男友達、クラスの女子たちの真価に気付いていくのだ。足立や南条などの登場人物の誠実な一面が明らかになっていくあたりのエピソードは少々後付けに感じられなくもないが、それが逆に市川の視界が広まっていくのをリアルに追体験させる効果を持っている。その結果、第八巻で市川は「山田がいなくても楽しい」とまで言い切ってしまう。
 第一巻時点で、世界の複雑さを(理解はしていながら)見ない振りをしていた市川は、山田との交流を通してそれを直視し、さらに複雑さを美しさ、楽しさとして読み替える術を学んでいったのだ。「僕ヤバ」では、そうした変化による日常の中でのコミュニケーションの綾やちょっとした感じ方の変化が、繊細に、しかし明確に描かれている。ここまで「脱厨二病」を美しく描いている作品はあまりない。だから、同じように厨二病と美しい世界を対比させて描いてきたヨルシカ(「だから僕は音楽を辞めた」あたりに顕著)がアニメ第一期のOP主題歌を担当したことは必然ともいえる。
 だから基本的には僕は「僕ヤバ」を評価する立場なのだが、実は第八巻以降のこの漫画の展開に危うさを感じてもいる。山田への告白という一大イベントを終えてしまったこの作品は、市川と山田の(山あり谷ありの)蜜月を描いていく、口当たりの良いだけの淡白な展開に堕してしまうのではないか、という危惧を感じさせるのだ。もちろんファンとしてはそれはそれで大歓迎(というか、ぜひそうなってくれと願っている)なのだが、それでもやはり、ここまで脱厨二病作品として高い完成度を保っていた「僕ヤバ」は、今予定調和の快楽を提供するだけの平板な作品に転落するか否か、微妙な綱渡りを行っているように思えてならない。
 そしてもう一つ、この先の展開で表出してくるのではないかと心配される問題が、僕が最初に述べた、脱厨二病の詰めが甘いという弱点だ。
 評論家の成馬零一は、単行本の目次で一エピソードを「カルテ」と数えていることから、この漫画が厨二病を「治療する」漫画として描かれているという説得力のある指摘をしている(1)。治療を行うのは当然山田であり、裏を返せば、市川が世界の美しさに開眼していく前提には、治療する存在=山田からの愛という前提があると言える。つまり、「無条件の愛に依存した厨二病克服」という、この種の作品が陥る穴に落ちてしまっているのだ。(2)
 何が言いたいかというと、「僕の心のヤバイやつ」から山田を引き算して本当に市川は厨二病なしに世界を愛せるのか、説得力がないということだ。何を言っているのだ、そもそも「僕ヤバ」は山田が市川に世界の魅力を気付かせていくという趣旨の漫画じゃないか、と反論が来るかもしれない。もちろんそうだ。そうなのだが、ものすごく軽蔑されそうなことを言ってしまうと、都合よく女の子に好かれてリア充になった少年に「世界は魅力にあふれている」と言われたら、どちらかというと感動より殺意の方を感じてしまうのだ。
 市川が「山田がいなくても楽しい」という宣言通り、山田抜きで世界を愛せるようになるためには、山田の愛はあくまで「きっかけ」でなければならない。しかし、きっかけであるはずの山田の愛情が厨二病を脱する上で半ば前提化している。「僕ヤバ」において市川が気付く世界の美しさには、山田との恋愛というイベントが大きい比率を占めている感じがするのだ。これは半分ラブコメ漫画のお約束のようなものなので、それにケチをつけたところで何にもならないということは百も承知だ。しかしその「山田に無条件に愛される」というお約束がラブコメ漫画として決定的な面白さを与えている一方で、一人の少年の成長物語としての「僕ヤバ」から説得力を大きく減殺してしまっていて、それがこの作品の弱点なのだ。
 ただ、作者もその点には自覚的と思われ、ささやかな抵抗を試みてはいる。市川が山田に恋するのと、山田が市川に愛情を抱くようになるのにはタイムラグが存在しており、山田からの愛は完全に無条件のものとしては描かれていない。明言はされていないが、山田は市川が自分のささやかな窮地に勇気を奮って助けを差し伸べてくれることに対して好意を抱いたらしい。市川自身も、山田からの愛が無条件であることを望んではおらず、彼なりに自分が胸を張れるようなアクション(試験勉強を頑張ったり、卒業式で式辞を読んだりする)を度々起こしている。明らかに桜井は「脱厨二病」の物語から山田という補助輪を外し、市川が無条件の愛に依存することなく、全てを自分の力で手に入れる物語を作ろうとしている。実際にある程度それは機能している。
 しかし、桜井の「脱厨二病作品」の図式への抵抗は不完全なもの(安全でパフォーマンスの域を出ないもの)であったと言わざるを得ない。市川が山田に告白するという展開を設定した時点で、厨二病克服のストーリーから「無条件の愛」を排除できないことは決定づけられていた。
 もし、市川が山田に恋人としてではなく友達として付き合っていきたいと打ち明け、告白を拒絶するという展開を作ったなら、桜井は完全に「無条件の愛」に依らない厨二病克服を達成することができただろう。もちろんラブコメ作品としては破綻待ったなしだろうし、僕自身もそんな展開を読んだら怒ると思う。というか、普通にエンタメ性の強いラブコメとして成り立っている作品にこんな注文を付けるのはお門違いというものだろう。しかしそこまでしないと市川が本当の意味で厨二病から脱することはできないと思うのだ。
 だから、僕は個人的には、この先の展開で市川が山田抜きでも世界を愛せるということを本格的に証明してほしいと思っている。具体的には、一回山田と別れる展開を作るなどして、市川の目に映る「山田のいない世界」を第一巻時点と比較する形で描いて欲しい。何回も書いたように僕は「僕の心のヤバイやつ」が大好きだし、作品としても大傑作だと考えている。しかし、この作品は「脱厨二病文学」として、さらに先へ進むことのできるポテンシャルを秘めているのだ。とことんそれを突き詰めて欲しい、という我儘で締める。


(1) https://www.youtube.com/watch?v=em_yYiTFJGA
(2) 典型的な脱厨二病作品とは、例えば「涼宮ハルヒ」を思い浮かべてもらえればよい。学校生活に宇宙人や超能力のような非日常が存在しないことを憂う高校生・涼宮ハルヒが文化祭やクラブ活動を通してスクールライフを謳歌する本作は、ハルヒが典型的な厨二病を克服していく過程を描いた作品である。物語序盤、「ただの人間には興味ありません」と教室で宣言してしまうハルヒは、「僕ヤバ」初期で周囲の人間の真価に気付けず、ただ苛立ちと殺意を募らせていた市川とほぼ符合する存在と言っていい。
 しかし、ハルヒが学校生活の楽しさに気付いていく背景には、語り手である男子・キョンからの異性としての関心があり、「無条件の愛情に依存した厨二病克服作品」に留まってしまっていると言える。
 あるいは辻村深月の「凍りのくじら」はどうか。この作品は、世界の複雑さに厭世観を持つ少女・理帆子が、別所という青年との交流を通してその複雑さを引き受けられるようになる成長を描いているが、終盤で別所が理帆子の亡父の化身であるという事実が明かされる。これはミステリーとしては上質な快楽を提供している一方で、少女の成長を無条件の父性に依存したものとして、脱厨二病作品としての射程を大きく縮めてしまっている。

参考・引用文献
桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』1~9 秋田書店、2018年~2023年


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