うつろってただよう

〈あらすじ〉

都内の大手医療機器メーカーの営業マン岡田海人。彼は愛する婚約者明梨との結婚を控えて、大きな仕事も任されるようになっており、順風満帆な人生を歩んでいる。そんな彼には誰にも言えない”趣味”があった。自らにメイクを施し、女性物の下着や服装を纏い楽しむいわば女装癖だ。男性の面として明梨を愛し、女性の面として誰かに愛されたい岡田にとってこのまま続いてしまう恵まれた人生では思いが排反してしまう。心に幼なさの残る岡田は自らの手で過去現在に折り合いをつけ、未来を切り開けるのか。



私はひとり外から侵入してくる街の喧騒に目を覚ます。夏の休日、渋谷の朝。

薄く目をあけベッドの天蓋を見つめてゆっくりと呼吸をする。昨日の景色を反芻しながら胸から湧き出る温かい思いを認めて目を閉じる。やっぱり素敵な人だった、また会いたい、と他人事に思う。

再び目をあける。気怠い体を起こせば左手に小さなはめ殺しの窓、その手前には微かながら朝日に照らされる小ぶりで一見するとオモチャのような朱色のカーテンが吊られている。私はそれを眺める。ごおごおとうるさいエアコンの風に吹かれ時折揺れるコーデュロイ生地に不思議と惹かれてやまない。昨日の秘密を分け合うよう
でなんだか居心地悪くそわそわする。

フローリングに並ぶペラペラのスリッパに両足をねじ込み立ち上がる。下着の違和感をなおし胸元にリボンのついたサテンのキャミソールを整え、外泊用ボストンバッグからクレンジングタオルのケースを手にして洗面所に向かう。乱れた黒髪を指で梳かす。鏡に映った顔はメイクが少しよれてこそいたがそこまで見栄えは悪くなく思う。メイク技術の上達を実感する。前髪を指先で定位置に流し、いま一度顔を凝視する。夢の時間はもう終わり。いずれまたやってくることを願う。この瞬間の感慨は毎回ちょっと寂しい。

息を吐く。

両手の親指を頭髪の生え際に滑らせる。面を剥ぎ取る様に黒髪のウィッグを後方に捲り、あらわになったウィッグネットも取る。オールバックに固まった短髪を雑に荒く梳かして鏡を見る。こうなるとやたらと主張の激しい顔面がピンスポを当てられた様に際立つ。ケースからタオルを一枚抜き取り目元に当て、じんわりとした体温と共にクレンジング剤が絵の具を溶かす。それを柔らかく拭う。左右でそれを繰り返すと私の飾り気のないアイホールがあらわれる。新たな一枚を出して今度は顔全体の化粧を落としていく。その冷やかな感触を覚えると不意に鼻唄が喉を鳴らした。目を閉じて考える。誰の曲なのだろう。昨夜ここにくるまでの道中で耳にした曲。道玄坂を彩っていた曲。単調かつキャッチーなリフレインの曲。あってもなくても同じ曲。すぐに忘れる曲。

寒色に汚れたタオルを捨ててベッドの隣のソファに座り、ボストンバッグへクレンジングタオルのケースを収納し次は保湿パックの入った別のケースを取り出す。一枚取って鏡も見ずそれを顔に覆う。今度は顔全体が一度に均等に心地よく冷却される。体重を全てソファに預けてしまう。疲れた、と思う。私、疲れてるのか。

気がつくと顔に張り付いたパックが乾いていた。時計を見る。三十分あまりもの時間を寝てしまっていた。取り急ぎパックを剥いでゴミ箱へ放りバッグから乳液ボトルを取り出し数プッシュ分を手に広げ顔に馴染ませる。

手に残った乳液をティッシュで拭き取り一息つくと急に腹が減ったのでテレビ画面でフードメニューを確認し小ぶりなピザとペプシコーラを注文する。

「渋谷にこんな落ち着いた場所あったんだ」

「先週の仕事終わりに先輩と来たんだ。則本さんって人と」

「かっこいい人なんだね」

「仕事は誰よりもできるし教養もあって豆知識も豊富で。何か弱点はないのかってつい探しちゃうんだけど、見当もつかないんだよ」

渋谷駅直結の商業施設に入る、日本酒と蕎麦を楽しめる飲食店で俺は明梨とディナーの時間を過ごしていた。向かいのソファ席に腰掛ける明梨の背後で高層ビルが煌々と照り、その麓を幹線道路が横断する。俺は右手にもったグラスをテーブルに戻す。

「則本さんはお酒にも明るくてね」

「いい男なんだね」

明梨はいたずらな笑いを交えて言う。

「またいろいろ教えてね」

「もちろん。受け売りだけど」

日曜日のこの場所には初めて来たが思いのほか混んでおり俺たちは二十分ほど待ったのちにようやく入店できた。渋谷という街はアラサーの俺たちにとっては若者の遊び場としか映らないのだが、案外大人の社交場としての一面も併せ持っているということを明梨にも共有したく、ここをディナー会場として利用したのだった。

明梨は今日の昼間まで学生時代の友人と葉山へ一泊二日の旅行に出ていた。夕方に帰宅したお疲れ気味の明梨と相談し夕食は外でいただくことにして、東急田園都市線を利用し渋谷駅にきた。

酒好きな明梨に気に入ってもらえたようで俺はほっとして長野の地酒の入ったグラスを煽る。明梨は立派なかしわ天の乗ったそばを勢いよく頬張り、俺はローストポークとねぎまにちまちまと口をつける。明梨の思いの外大盛りの蕎麦はもうすぐ食べ切ってしまいそうだ。疲れた体に温かい蕎麦はさぞ沁みることだろう。

光量を落とした店内には休日の時間も残り少なくなった社会人たちの和やかなムードが飽和している。


会計を済ませて店を後にし俺たちは手を繋いで渋谷駅の田園都市線のホームを目指し歩きだす。蒸していて粘っこい外気が肌にまとわりつく夜だった。

「いや〜久しぶりに温かいお蕎麦食べたけど美味しいかったなぁ」

「店で食うとやっぱり違うよね」

明梨は握った俺の手を前後に大きく振って足取りも軽やかだ。俺はこういった彼女の無邪気なところがたまらなく好きなのだ。

「はぁ〜。酔っちゃった」

駅へ繋がる連絡通路を歩く。隣の明梨はまぶたを少し開けて渋谷の狭い空を眺めている。その視線の先には千切れた雲が街の明かりに淡く照らされ所在なさげに有るだけだった。

「旅行は楽しかった?」

「めっっっっちゃ楽しかった。海も綺麗で天気も最高で、いい夏休みになったよ」

「いいな。今度一緒に行こうよ」

「その時は案内するね。テラス付きの可愛いカフェもあったんだよ」

はしゃぐ明梨はどう頑張っても薄くしかまぶたを開けられない様子で両目をこちらに向けてきて、早速ワクワクが止まらないらしかった。

「あんなとこに別荘があったら最高なんだろうなぁ」

とりとめのないこと等を明梨は言い続けていた。


三軒茶屋駅から昭和女子大学近くの団地へ続く道のりを俺たちは手を繋ぎ二人の未来を話しながら歩いた。今度のお盆休みは明梨の大分の実家にお邪魔すること、ボーナスが入ったら洗濯機を新型のドラム式のものに買い換えることなどの近い話題から、子どもをいつ作るかや、家族が増えれば団地から出たいということ、子どもと一緒に行きたい旅行先のことなどの遠い話題まで、ざっくばらんに話をした。夏の夜風がほろ酔い気分の俺たちをいくばくかさましながら心地よく包み込み、そして軽やかに通り抜けていった。

「カイちゃんは一人の時間を何して過ごしてたの?」

朗らかな声色で明梨は上目遣い気味に尋ねる。いつも通りに答える。

「金曜と土曜は仕事だったよ。今日は明梨が帰ってくる二時間ぐらい前に起きた」

「のんびりしてたんだね」

「そうだね」

俺がいたって普通に言うと明梨は進行方向をまっすぐと見つめた。急に顔に翳のかかった様子で俺は少したじろぐ。

「明梨、どうかした」

「いや、カイちゃんって私に隠してることないの?」

金魚掬いのポイが破れる瞬間のように俺は息を飲んだ。秘密を悟られないように堪える。誰にも言わない甘くてほろ苦い秘密。

「なんでそう思ったの」

「カイちゃんって全部を大きい括りで言うからさ。なんだか面白くない」

「っえ」

俺は明梨が一体何を言いたいのか分からなかった。普段の俺のエピソードトークが面白くないと言うことか。思ったことをそのまま明梨に伝えると、

「そうじゃなくて、なんて言うのかな。うんと、繋がってる感じ、が薄いというか。えぇっと、なんだろうな」

明梨自身も現在進行形で言葉を精査し紡いでいるようでなんとも歯切れが悪い。俺はといえばその言葉をゆっくりと聞くことしかできずもどかしい。

「心の繋がりが細い気がするの」

今度はしっかりとした口調で明梨は言い切る。

「繋がり」

俺は夜空にその言葉を投げてみる。そいつと俺との脈絡がまったく思い当たらず思考停止してしまいそうだ。

「そう、繋がり。時間の使い方として仕事だとか飲み会だとかはわかるんだけどその時の心の動きをもっと教えてほしい。情報だけじゃなくて感情も教えてほしい。その時どう思ったとかそんなことでいいから。私たちまだ付き合ってそんなに時間も経ってないけど一応婚約者だからさ」

明梨は俺の目を見ていっぺんにそう言い放つ。茶色くて澄んだ瞳に吸い込まれそうだ。

「うん、わかった。努力する」

「あっ、ごめんね。ありがとう、嬉しい」

明梨はバツの悪そうに俯く。

「もしかして、寂しい思いさせてた、よね?」

小さく頷く明梨。

「そっか、それは申し訳なかった。ごめん」

「いいの、私もこんな風にしか伝えられなくてごめん。私はもっとたくさんカイちゃんと話したい。なんにもならないようなくだらないこともカイちゃんから聞きたい」

「わかったよ。たくさん伝える」

明梨はまたしっかりと前を向いて口角を上げた。ひとと付き合うことの難しさと楽しさを明梨は俺にたくさん教えてくれている。


「はい、かしこまりました。ではそれらを来週の火曜日にお持ちいたします。はい、よろしくお願いいたします。失礼致します」

固定電話の受話器を定位置に戻し、電話中にメモ用紙に記した事柄をパソコン画面で整理していく。

『13:00 コゾノヘルスHD様 SHINING ご案内』

来週の火曜日の欄にそれを打ち込むと同時に社内チャイムが鳴り昼休みを知らせた。

「よし、みんな休憩としよう」

相川部長が営業部全体に声をかけ、自らが一番ノリでオフィスフロアを後にする。その後ろ姿と淋しくなった頭頂部を眺めていると、

「飯行こうぜ」

と、則本さんに死角から声をかけられた。思わず声を出して驚く俺を則本さんは笑って見ていた。

「わりぃ」


西新宿に佇む本社ビルから一歩外に出るとそれと同時に滝汗が全身の皮膚という皮膚を濡らした。コンクリートに囲まれたここら一体の陰湿な酷暑は何年過ごしてみても慣れられるような代物ではなかった。

「クソアチいし冷麺でも食うか」

袖を肘の高さに捲り第二ボタンまで開けた白シャツ姿の則本さんからの有難いお言葉に共鳴し灼熱の太陽の下、オフィスを出る直前に履き替えた通気性抜群のスニーカーで闊歩する。

乱立する高層ビル群の合間を縫いたどり着いたのは新宿駅からほど近い雑居ビルの地下へと続く階段だった。その脇に立て看板がありそれによるとどうやらこの先は韓国料理店へと続くようだった。

「マジでよくこんなとこ知ってますよね」

「飯だけが俺の生き甲斐なんだよ」

それにしてもっすよ、という言葉が出てくるが則本さんのそばに六年もいたらそれが彼の真理なのかもしれないとようやく感じ始める。

則本さんは最初からそうだった。大学を出たばかりの俺を含めたフレッシュマンたちを営業部のエースはよく食事に連れて行ってくれた。昼は新宿で、夜は東京中の何かしらの星のついた複雑な味の美味い飯をほぼ毎日のようにご馳走になり、今にも生きる大切なことも数多く教わった。今もそれは変わらずで俺は空いた時間があればそれをすぐに伝え、自分からは進んで行かないようなところばかり連れて行ってもらっている。

当時はそんなスマートな則本さんの姿に憧れて俺も実践してみたりした。他部署の同期や学生時代の友人、東京に遊びにきた両親を連れて行ったりした。もちろんかけがえのない時間を得られたと思うがなかなか続きはしなかった。やはり則本さんの食への執念はただものではないのだと行動してみて実感した。

ハングルで示された商品名と整った容姿の韓国人を起用した酒類のポスターが左右に並ぶ階段を下ると上半分がガラス窓になった扉、それを俺の前をゆく則本さんが押し開けると冷房の効いたひんやりとした空気が外に漏れ出てきた。それを全身で感じて俺は生き返るような心持ちとなる。

「イラッシャイマセ」

カタコトの日本語を話す青年と則本さんは言葉を交わし、二人掛けのテーブル席に通され俺たちはそこに腰を落ち着ける。俺はメニュー表を則本さんが見やすいように開く。

「おすすめは冷麺なんだけど、好きなのを選んだらいいよ。ここはなんでも結構美味しいからさ」

「そうなんですね。でもせっかくなんで冷麺をいただきます」

「だな。それにしても今日も暑くてヤになるね」

「ですね」

左手首のサブマリーナをいじくりながら則本さんは天気に愚痴る。先ほどの青年がお冷を持ってきたついでに冷麺を二つ注文する。青年は手書きで注文をとったのち厨房に姿を消すのを見計らって則本さんが話し出す。

「で、最近仕事いい感じじゃん。コツを掴んだか」

「コツ、って言うんですかね」

「やり方?」

「そっちの方がしっくりきました」

「又の名をコツという」

三十年弱の人生の中で何かを熱心に取り組んだ経験の乏しい俺にとって『コツ』と言う単語に馴染みが薄かったのだが、則本さんが言うのならきっとそうなのだろう。俺は仕事のコツを掴んだのだ。

「そうですね、”コツ”を掴めてきたように思います」

「それは何よりだな。まぁ、俺としてはお前が毎日のように忙しくしてるから今日みたいに飯に誘うのも気が引けてな」

喋りながら何気ない顔でおしぼりで手を拭く則本さん。それに倣って俺もおしぼりで手を拭こうとするが、思いがけずそれは熱々で純白のおしぼりと変わらず凪いだ顔の則本さんに驚く。

「いえいえ、ぜひ誘ってください」

「仕事はおろそかにするんじゃねぇぞ」

「もちろんです。俺はいつも仕事ファーストです」

「いい心意気だ」

満足そうな則本さんはお冷に口をつける。

店内は俺らと同じ境遇と思しき背広姿が目立った。立地や時間を鑑みるとそれは至極当然である。この店は入店した時も気になったがそこそこの音量で陽気なトロットが流れて続けている。きっとオーナーの趣味なのだろう。

運ばれてきたふた皿の冷麺をお互いかき込みながら、美味いだのなんだのと言い合う。麺の小麦の風味とピリ辛のミョウガ、キュウリの食感、そのあとにくるレモンの爽やかさが頭蓋骨に満たされた嫌な気怠さをさっぱり洗い流してくれた。ミョウガもキュウリも久しぶりに食べたなと不意に思う。

俺たちはただ無言で冷麺をかき込み続けた。お互いに八割がた食い切ったころで則本さんがお冷をぐいっと飲んで口を開いた。

「今日夜空いてる?」

「まぁ、空けれますけど、なんかあるんすか」

空いたコップにお冷を注ぎにきた青年に則本さんは朗らかに「コマウォヨ」と言った。

「お得意様との接待で赤坂でいい肉食うんだけど、お前もどうかなと思ってな」

「マジすか。俺もいずれ接待とかしなきゃなのかなと思ってたんでご一緒したいです。勉強させてください」

則本さんから笑いが漏れた。

「そうか、じゃあ夕方ごろまた声かけるわ」

「はい、お願いします」

則本さんは残りの冷麺を一息に流し込んだ。俺もそれに続く。

仕事ができて教養があって豆知識があって、その上いつも機嫌がいい。こんな大人になりたいなという幼稚な考えを俺は強く覚えた。


夏の夕陽が傾き始めた頃、俺は会社の地下駐車場に停めてあるメルセデスベンツの助手席に乗り込む。運転席の則本さんがエンジンをかけ、スマホを見ながらカーナビに目的地を設定してシフトレバーを『D』に入れる。滑らかに車体は動き出す。地上に出てすぐ自動設定されているエアコンが涼しい風を強く吐き出した。

「いろいろ準備してあるからその都度教えるわ」

「いろいろってなんですか?」

「手土産やら酒の好みやらそんなとこ」

店で顔をあわせる前からもう接待は始まっているのか。

「なるほど」

車は夜になり始めた東京をながす。優美な白色のセダンはこの街にもってこいだろう。都道によく映えていそうだなと車内からぼんやりと思う。

三十分ほどの移動時間で則本さんから様々なご指導ご鞭撻を頂戴した。則本さんは接待に集中し、俺が担当するのはグラスが空いたら注いだり追加注文したり、おしぼりやお冷、お茶の手配などだ。俺は俺でやることがどうやらたくさんあるらしかった。一瞬で会食も終わってしまうだろうからその間だけは気を引き締め続けておけ、とのことだった。

俺はワクワクしていた。すっかり大人になったもんだと実感する。接待をする側の人間になったのか。しっかり則本さんもサポートしよう。新規契約も勝ち取ろう。もしかしてそれは欲張りすぎか?

「明梨さんには連絡したのか?」

「もちろんです」

明梨との件で則本さんにはたまに相談をしていたので温かい気遣いの言葉をくれた。

「そうか。まぁ、きっと楽しいと思うぞ」

「はい。楽しみます」

「いい心意気だ」

俺は文字通り、襟を正した。


則本さんのセダンに乗り込んだ瞬間どっと疲れがきた。

会食は則本さんの巧みなコミュニケーション能力で大いに盛り上がり、先方も俺を気に入ってくれていたようで『今後ともどうぞよろしく』というお言葉も聞けた。
しかしなにぶん初めて尽くしだったために俺は疲弊していた。

そこにいるメンバー全員に気を配り、テーブル上に気を配り、時間に気を配り続けた。大人ってこんなに大変なのか。雰囲気は楽しかったが、心からは楽しめなかった。ただただ反省だ。

「疲れたか」

主宰の則本さんは運転席から前方を見ながら言う。

「そうですね。恥ずかしながら」

声をあげて笑う則本さん。自分の顔が赤くなるのを感じる。

「そうだよな。家に着くまで休んでたらいいさ」

「ありがとうございます」

お言葉に甘え俺はリクライニングを最大限まで倒して目を閉じる。今になって則本さんの分の日本酒の酔いが回ってきた。今の俺は泥になったみたいだ。


「岡田海人く〜ん」

「カイちゃん起きて〜」

声は聞こえるのにまぶたが開かない。顔に思い切り力を入れてそれをこじ開けた。目線の位置にある後部座席の窓から、垂直に聳えるマンションが見えた。我が家だ。

運転席から俺の名前を呼ぶ則本さん。そしてなぜか助手席の窓から車内に身を入れる明梨がいる。

「ぅえ、明梨、どうして?」

「お迎えだよ。もうちょっと喜んだらどう?いい夢は見た?」

両腕を窓枠に乗せる明梨は膨れっ面で言う。則本さんは俺らをにこやかに眺めていた。

「マンションの下で女の子が立ってて誰かと思ったら『岡田海人の彼女です』って言うからさ」

「マジすか、すんません」

俺は顔面を両手で擦りながらリクライニングを起こしてシートベルトを外す。明梨は身を引っ込めて数歩ほど下がった。

「今日はありがとうございました。家まで送ってもらっちゃって。いろいろ勉強になりました」

「なんてことないさ。我が社の将来を担う優秀極まりない人材様なんだからこれくらいさせてください」

「ちょっと勘弁してくださいよ」

則本さんは大きく口を開けて笑う。

「じゃあおやすみ」

「はい。おやすみなさい」

俺がドアレバーに手をかけて外に出ようとすると則本さんは俺を呼び止める。

「どうしました?」

「いや、どうってことないんだけど。しっかり明梨さんを愛せよ」

「もちろんですよ」

バツのついた先輩の言うことには嫌に重みがあった。

「だよな、天下の岡田様には心配無用か」

俺は何も返さず外にでる。

「おい冗談だって」

「わかってますよ。お気をつけて。ありがとうございました」

俺がドアを閉めるとセダンは住宅街の道を滑っていった。十字路を左折するその時まで俺は車に手を振り続けた。

マンションの方に振り返る。明梨は部屋着のTシャツと短パン姿で立っている。

「ただいま」

「うん。おかえりなさい」

くたびれきった俺は明梨のあとに続いてエントランスを抜けエレベーターに乗り込み五階に向かう。

「飲んだ?」

「飲んだ」

数秒の沈黙の後、
「先方が俺のこと気に入ってくれたみたいでさ、『ゴルフはするのかい』って聞かれて」

「何て答えたの」

「大好きですって嘘ついちゃった」

「ヤバ」

「だよな」

五階の廊下を部屋に向かって俺たちは笑い合って進んだ。

玄関に踏み入り無事帰宅した瞬間に俺は明梨を後ろから抱きしめた。

「酔っ払いすぎだよ」

俺の胸の中で明梨がゆっくりと呼吸するのがはっきりわかる。生きてるんだと思う。愛おしいと思う。大切だと思う。

「お風呂入れる?」

「一緒になら」

「子どもじゃん」

俺の腕の中で明梨が笑っている。

「好きだ」

俺は明梨とずっと一緒にいたいだけなのだ。それって子どもなのかな。そうなのだとしたら俺は一生子どものままでいたいと願うだろう。

うだるような暑い朝、俺はクローゼットに仕舞い込んだボストンバックと社用のビジネスバッグを両手に抱えて、白地のバンドTにチノパン、黒のニューバランスで家を出る。三軒茶屋駅から渋谷駅、そこから環状線に乗り換えて新宿駅に向かう。構内のコインロッカーでビジネスバッグだけを預けて駅を出るとお手厳しい直射日光を全身に浴びながら新宿歌舞伎町方面を目指す。背後に大ガードを見ながら都道を進み区役所通りを左折し目的地までひたすら歩く。腕に巻いたSEIKOを確認する。まだ約束の時間まで十二分に余裕がある。この後見る夢を想像すると居ても立っても居られず、心ばかりが先にいってしまいそうだ。

交差点を右に曲がり二本目の路地に入る。ここまで来ると通りはすっかりと歓楽街の様相を呈している。排泄物か生ごみか、なんともいえぬ慣れない匂いが鼻をくすぐる。

その建物は急に現れた。

五階建ての外観は一目ではホテルとはわからない。入り口付近の植え込みには細い木が一本生えておりその傍に小粋な噴水が柔らかい水を吐き出している。

中がパンパンに入ったずっしりと重いのボストンバッグを握りなおしエントランスに進む。自動扉が開くと優しいオルゴールの音色が聴こえた。輝きを放つパネルから部屋を選びフロントで鍵を受け取る。

「ごゆっくり」

曇りガラスの奥から聞こえた声は男性のものだった。

エレベーターで五階まで上がり部屋を目指す。部屋番号を示すボードが点滅している。もらった鍵で解錠して入室する。室内はタバコの香りとホコリっぽさがほのかに漂い、テレビ、ローテーブル、ソファと大きめのベッドがあるだけの汎用で殺風景な部屋だった。ボストンバッグを一旦ソファに置いてその隣に腰掛ける。

「あっちぃ〜」

Tシャツを脱ぎながらローテーブルに置かれたエアコンのリモコンを操作し冷房を二十三度の強風で作動させる。脱いだシャツとチノパンをハンガーで壁にかけてバスルームに向かう。一刻も早くこの夏ならではの不快感から抜け出したい。下着を脱ぎ全裸になってラブホテルサイズの大きなバスルームでここまでの道のりでかいた汗を洗い流す。シャワーの温度レバーを青い側の限界まで回す。冷水を全身で浴びると陰のうが縮み上がる感覚と言い表し難い多幸感があった。

「はあ〜。ふお〜。きい〜」

俺の奇声が浴室に響き渡る。シャンプーとボディーソープを用いまとっていた不愉快さとはここで決定的におさらばする。

綺麗さっぱり熱と汗を洗い流してバスローブに身を覆いソファに座る。冷蔵庫にあったペットボトルの水を一口で半分ほど飲み干して息をつく。一仕事やってのけた気がしたが壁掛け時計を確認してもさして時間は進んでおらず独り、落胆する。ふと部屋中がしっかり冷えた感覚を覚えて冷房を二十七度の弱風に設定し直す。ボストンバッグから保湿パックを取り出し一枚を顔に乗せる。

目を閉じる。

私、すごくワクワク、フワフワしてる。本当に楽しみだ。遠足の日の朝のような時間。

革張りのソファにべったりと背中をつけ考える。これから見る夢のことと、私の感じる思いと、あの人の喜ぶ顔を。

もう彼とは数えきれないほど会ってきた。こんなに何度も会いたくなる男ってほんとに稀だ。大概は一回で満足だが、なぜ彼には何度も会いたくなってしまうのだろう。幾度経験してもコントロールし切れないこの思いを彼も感じてくれていたら嬉しいな。

パックを剥がして乳液を軽く塗る。手に残ったものは首や腕に撒く。テーブルの上のティッシュを一枚抜き取り顔を軽く叩いて塗りすぎた乳液をティッシュオフする。スキンケア用品諸々をボストンバッグに収納し、ウサギのキャラクターの化粧ポーチを取り出す。それを片手に洗面所に移動してマットな木製のハイスツールに座る。鏡の横のライトをつけると枠の中に収まったまっさらな私と目が合った。


「メイクしてあげるよ」

二十歳の頃に付き合っていた当時の恋人とのイチャつきの延長でメイクをされたのがおそらく全ての始まりだった。

その時はメイクについて何の知識も持ち合わせぬどこにでもいる男子大学生だったためにされるがままだった。

「綺麗な顔してるよね」

と彼女は手を動かしながらしきりに言った。顔が痒くなってもかくと怒られるので太ももをつねるなどして必死に我慢したりした。化粧品独特の匂いにくしゃみも出た。俺はイキイキした彼女の声を聞きながら三十分ほど顔をいじくりまわされた。

「じゃあ目を開けてください!」

彼女の力強い声を合図にテーブルの上の鏡を見るとそこには俺の知らない世界が広がっていた。大きく強調された目もと、キリッと凛々しい眉毛、強く上を向いたまつ毛、ほのかに桃色の頬、艶やかな唇。ファッション雑誌のモデルさんのように調

和のとれた綺麗な顔がそこにあった。

ほげーっと鏡を見続ける俺を見かねた彼女も鏡の中の俺を見る。

「結構可愛いじゃん」

「ぉん」

俺は俺自身に見惚れて気の無い返事しかできなかった。その時はそれ以上何も考えられなかった。

俺ってこんなに輝けるんだ。メイクって面白いのかも。

メイクを落としてその後に俺たちは回転寿司を食べに行った。その日は土曜日だったために店内は家族連れで大変賑わっていた。

俺はその日中ずっと上の空だった。順番待ちをしている時も、流れている寿司を眺めている時も、彼女が俺に話しかけてくる時も。俺は頭の中で、またあの人に会いたいと願ってしまっていた。

「どうしたの?体調悪い?」

「あ、いや、うん、大丈夫。ほらどんどん食べよう」

「本当に大丈夫なの?」

全くもって大丈夫ではなかった。俺は未だかつて経験したことのない輝かしい世界へ飛び込もうとしていたのだから。

帰宅後に俺は早速、こっそりとネット動画でメイクについて検索をかけていた。その当時メンズメイクというジャンルは存在していなかったのだが、ごくわずかな人々がそのニッチな分野で活動をしていた。俺はその人たちの動画を日々見続けて知見を深めていった。その結果メイクの奥深さを痛感し世の女性たちの多くは来る日も来る日も時間をかけてこんな大作業を繰り返しているのかと、驚きと尊敬の念を持った。

そして自分でもメイクを施してみたいと、徐々に思い始めるのだった。

しかしすぐには行動に移せなかったがその思いに踏ん切りがついたのは就職活動を控えた頃に彼女と別れひとり身になったタイミングであった。当時住んでいた最寄り駅前の薬局にてスキンケアグッズ、ベースメイク用品、アイメイク用品、リップとチークを大量買いして帰宅後に洗面台にて記念すべき初めてのメイクを試みた。もちろん最初の出来はひどくガタガタだった。おかしなところに引かれたアイライン、濃すぎるアイシャドウとチーク、ケバいアイブロウ、はみ出しすぎのリップ等、不慣れ故のおもしろメイクになってしまったが『化粧』という行為を初めてにして心から楽しんでいる自分がいた。

それを繰り返すうちにその姿を誰かに見て欲しいと思うようにもなっていた。

そしていつか、女性としても愛されてみたいとも思いはじめた。

数ヶ月間、学校終わりやバイト終わり、サークルや友達との飲み会終わりにワンルームの自宅でメイクの練習を重ねた。一日ずつ、一歩ずつ、あの日出会った綺麗な人に再会するためペンを走らせ色をつけた。そんなある日、地元へ帰省した折に連絡をよこしてきた高校時代の友人とチェーンの居酒屋で飲み交わした際に彼が不思議なことを言い出した。

「俺さ、女装ヘルスってのにハマってんだよ」

そいつは生粋の性欲魔神として名の通った男でアルバイトで稼いだ金の必要最低限だけを残してほとんど風俗嬢に貢ぐようなやつだった。そんな奴が何周も回ってたどり着いたのが女装ヘルスというものだったらしい。

俺はその話を聞いて、そんな世界があるのか、俺もやりたい(もちろん嬢として)ととても自然に思った。まさしく青天の霹靂。

自分の女装姿を客として来る見知らぬ殿方に見てもらい愛してもらう。お店に所属すればお金をもらいながらその趣味を思う存分楽しむことができる。

そこからは早かった。

三週間後、五反田に店を構える女装ヘルス「漂」に在籍が決まり数回の研修を受けたのち早速出勤した。源氏名を『リナ』とした。

下着だけは自前でウィッグや衣装、化粧品は一通り揃っていてお店の更衣室で支度し、お客様の待つ部屋まで向かいプレイをする。基本的には嬢がお客様の全身を責めてご奉仕する。客層としては予想通り中年男性が多く初めのうちは苦労した。どうすればより喜んでもらえるのだろうか。どんな言葉や態度で接すればいいのだろうか。悩みは尽きなかった。出勤は色んな兼ね合いもあり基本的には月二回程度だった。

その後の俺は無事に第一志望だった医療機器メーカーへの就職が決まり大学を晴れて卒業。しばらくは本職の方が忙しくてなかなか出勤できない時期が続いた。その憂さ晴らしとしてコツコツと女装用品を買い揃えた。ウィッグや可愛いお洋服に悩殺必至なセクシーランジェリーを手に入れては着用し、頭の先からつま先までを渦巻く高揚感と熱くなる内臓の蠢きを覚えたものだ。

数年振りほどの出勤となった秋口、新規で私を指名してくれた男性がいた。名前をタクロウさんと言った。

私がプレイルームに入り自己紹介をしたあたりでタクミさんが、

「俺が責めていい?」

と言った。私は彼の趣向の赴くままにされた。九十分間のほとんどを焦らされ続け最後の最後には口で犯された。彼の人体をコントロールするその敏腕ぶりに私の両足はけんけんがくがくになった。

帰り際彼とSNSアカウントを交換した。彼は個人用、私はキャスト用のものを。それからはSNSのダイレクトメールでやり取りをした。次の出勤日が決まれば連絡しその度に彼はお店に来てくれて私を指名し遊んでくれた。

「次は外で会わない?」

八回目の来店でタクロウさんは言った。店の中で会っているとその範疇のプレイしか楽しめない、俺はもっと色んなことをリナちゃんとやりたい、とのことだった。当時世間知らずだった私は彼の言葉にまんまとそそのかされて数回ほどタクミさんと個人的に会ってしまった。

もちろんそれは業界としてタブーな行為だったと、後々になって知らされる。

それが店側にバレるのは時間の問題だった。夏を前にしたある日、店長に呼び出された。

「店外で会うのは規則違反だ。申し訳ないがこれ以上面倒は見れない」

そう言われ、私は「漂」を退店した。

「いいじゃん。これからは自由に会えるね」

その後タクロウさんと会ったタイミングで事の顛末を報告するとそのような言葉をかけられた。正直なところ、私自身もそう感じていたのでその音が耳に入ったとき胸が躍ってしまった。


それからも私たちは定期的に逢瀬を重ね、甘く切ない夜を分かち合ってきた。

古い記憶を手繰り寄せながら今日も俺は私に成る。あと二十分もしたらタクロウさんがきてしまう。急がなきゃ。鏡に映る私はファンデーションを叩いて肌のトーンを整える。

「迎えまで来てもらっちゃって本当に大丈夫でしたか?」

「もちろんよ。私たちも海人くんが来てくれるのを心待ちにしちょったんやから、こんくらいはお安い御用やん」

運転席からハキハキとした口調でそう言うのは明梨の母、怜子さんだ。短く駆られた黒髪で運転席のシートにすっぽりと隠れてしまうほどの小柄な女性。俺と明梨は濃い緑色の軽自動車の後部座席で特に喋る事なく大人しく座って各々車窓から長く続く自然をただ眺めている。怜子さんは時折大きな声で俺たちを気遣い話を振ってくれる。

「変わらず田舎でごめんね。何もないけんさ」

「そんな事ないですよ。俺は皆さんにご挨拶をしに伺ったんですから」

そう言い切って怜子さんの反応を待ったが特に何かアクションを起こすわけでもなくただただ車を走らせるばかりだった。そうなってからようやく、俺はもしかしたら大変不躾なことを抜かしてしまったのかもしれないと自認した。

「でもこうやって自然に囲まれて育った子どもたちには羨ましく思うばかりですよ」

さりげなくフォローを入れてルームミラー越しに怜子さんの反応を見る。

「そうなんかな。都会で育つのも私は意味があると思うけどねぇ」

また選択を誤ったように思う。

「ちょっとお母さん。カイちゃんが気ぃ遣ってくれちょんのやから否定せんでよ」

それまで外ばかり眺めていた明梨が痺れを切らして応戦してくれた。

「どっちがいいとかもないんやけん。なぁ」

怜子さんとの会話からすっかり方言を取り戻した様子の明梨は俺に微笑みを投げる。

「いや、お母さんもそんなつもりじゃないけんね、海人くん。あんまりこういう状況に慣れちょらんだけやけん、あんまり気にせんでな」

「はい、もちろんです」

俺は前方に向かいできるだけ明るい言葉をかける。

右に首を振ると明梨はじっと俺の顔を見ていた。婚約者と一緒に里帰りできた喜びか、はたまた不器用な肉親に対する薄い嫌悪か、何とも取れぬ表情筋の動きをしていた。


車は大分空港から一時間余りを走って別府市の山間にある四階建ての市営団地の駐車場に入庫した。

「長旅お疲れ様。お父さんが料理してくれちょんけん、たらふく食べや」

ひと足先に車から降りた玲子さんが俺たちを先導して団地の階段を上がっていく。スーツケース等の荷物は空港から今回泊まるホテルにあらかじめ送ってもらっているので俺たちは最低限の手荷物だけでやってきた。

二階の一室に怜子さんが鍵を開け入り、その後を明梨、次いで俺が続く。

「ただいま」

二人の声かけののち、

「お邪魔します」

と、俺も声を出す。

玄関からの動線上に台所がありそこでエプロン姿の秀伸さんが作業をしていた。明梨の父であり怜子さんの旦那である人。メガネをかけてこちらも小柄の頭髪の薄めな穏やかな人。

「ご無沙汰しております」

俺の言葉に反応し振り向いた秀伸さんは少し下にズレたメガネを指の第二関節で押し元の位置に戻して、

「おぉ〜、海人くん。よおきたね。もうすぐ飯できるけんテキトーに座って待っちょってな」

頭はまた一段と淋しくなってはいるが変わらずの陽気な言葉で俺に着席を促してくれる。

「ありがとうございます。めっちゃ腹すかしてきました」

「そんなん言われると変に緊張するわぁ」

「お父さん、今日はなに?」

いつの間にか俺の隣から台所を覗いていた明梨が秀伸さんに話しかける。

「チャーハンや、明梨、好きやったやろ」

「うん、大好き」

ザ・男飯といった具合か。

「海人くんはチャーハンはどうや」

「めっちゃ好きです」

「そりゃよかった。唐揚げもあんで」

顔をシワだらけにして笑った秀伸さんは調理に戻る。


「いただきます」

四人が掌と声を合わせる。秀伸さん以外の三人はすでに瓶ビールを互いにお酌し合いながら嗜んでいた。

ダイニングテーブルに並ぶのは数々の秀伸さんによる手料理。揚げたてきつね色の唐揚げ、ピーマンがアクセントのパラパラチャーハン、葉野菜多めのサラダ、具沢山豚汁。それぞれが大皿小皿の上で今かいまかと食べられるその時を待機している。

こぢんまりとしたLDK空間は食欲を掻き立てる甘い香りが漂っている。

「美味しい」

大皿にこんもりとよそわれたチャーハンをスプーンで崩して口にした瞬間、それが営業部で学んだことを遺憾なく発揮するような場面では決してないとわかっているのだが、しかし俺は自分から漏れ出る感動を言葉にして抑えることはなかった。

「秀伸さん、美味しいです。何だかとてもあたたかく感じます。本当に美味しい」

「カイちゃんの言うとおり。ほんまに美味しい。久しぶりにパパのご飯食べた」

そこに明梨も加勢してくれる。

「若い二人に言われると俄然嬉しいわ」

秀伸さんも変わらぬ柔らかい笑顔を俺たちに向ける。

「何よその言い方。私に言われるのは嬉しくないみたいやん」

『酒に弱め』だと自己評価していた怜子さんはもうすでに若干ではあるが出来上がりつつある。旦那の不必要な一言が癪に障ったらしい。

「ちゃうやん。あんたは殿堂入りやん」

「、、、あっそ」

照れからか急に威勢のなくなる怜子さん。俺にはその様子が可笑しく映る。しおれてしまってただただ箸を動かし続けている。

おもむろに秀伸さんは立ち上がり台所で何か作業をしたのちダイニングテーブルに戻ってくる。その片手にはお酒が握られていた。

「勝手に酎ハイ作ったけん、ビールは三人が飲みよ」

秀伸さんはそういうとぐいっと大きな一口を煽ってみせた。

幸せな夜を共にさせてもらっていると感じる。テレビでは興味深げなドキュメンタリー番組が流れている。


宴もたけなわとなり俺と明梨、怜子さんは台所に並び洗い物をする。女性陣がスポンジを駆使しどんどん汚れを取っていき、俺は洗った食器たちを布巾を用い水気を拭う。

「カイちゃん、テーブル拭いてくれる?」

一通り洗い終わった明梨に言われるがままに従う。俺は明梨に布巾を手渡しダイニングに向かいテーブルの上に放られたタオルでテーブルの隅々を拭く。

「海人くん、ちょっといいかな」

ダイニングテーブルの席でひとり、しっぽりと水割りの焼酎を飲んでいた秀伸さんに促されるまま俺は隣に腰を据えた。

「どうかしましたか」

俺の問いかけにモジモジとするばかりでなかなか切り出さない秀伸さん。何かやらかしたのか。それとも発そうとしているそれがなんとも言い出しづらいことなのか。

「いやぁ、まぁ何というかね」

「お父さん、お風呂はどうする?」

秀伸さんがやっとの思いで言いかけたところに怜子さんが台所から秀伸さんへ呼びかけた。

「あぁ、そうやな、お母さん先に入っちょって」

「わかった」

台所からお風呂場があるらしき方向へと怜子さんは進む。明梨はまだ食器を拭いているらしかった。

「海人くん、明梨とのことなんだが」

秀伸さんが満を持して喋り出す。

「はい」

俺は背筋を正す。どんなことを言われるのかのあたりはついている。いつでもこい。何でもこい。

「娘のことを君はどう考えちょんのか、教えてほしい」

秀伸さんは俺の目をまっすぐに見つめる。奥に置かれた温かい黒目が揺れている。

「明梨さんは俺の人生にとって、なんとも変え難い、大切な存在だと思っています」

丁寧に時間を使って、俺は応える。

「そうか、それは、嬉しいな」

少しだけ口角を上げてほがらかに秀伸さんは言う。

「君と明梨は結婚するのか」

先ほどまで穏やかだった瞳の奥で揺れる火が酸素をたっぷり吸い込んで大きくなったように見える。それは物事の本質を見破ろうとする目だった。

俺は少し迷った。ここはどう応えるべきだろうか。とりあえず安心してもらうのが先だという結論をつけて話し出す。説得力を有したものにするべく俺はゆっくりと時間を使って言葉を紡いでゆく。

「必ず、必ずしたいと思っています。俺のような人間にとってやはり明梨さんはとても大切で必要な人ですから」

「そうか」

秀伸さんの雰囲気がまた変わったように見えた。全身の筋肉が細かく振動してる。表情筋には力がこもり前腕には薄く幾本かの筋が走った。左手に持っているグラスが締め付けられて苦しそうだった。

「僕もね、君になら明梨を任せたいと思えるわ」

秀伸さんは硬直したダイニングの空間に柔らかい言葉を投げる。俺はそれをしかと受け止めるように専念する。

「はい、ありがとうございます」

そう応えて、俺はいつの間にか台所の全ての音が停止していることに気付いた。こちらの気を飛ばしている様子の明梨の気配も感じる。

おもむろに秀伸さんは俺の手を掴み目を見据える。少しひんやりとしているがしっかりとした、歴史を刻んできた厚い手と細い指だった。

「海人くん、明梨を幸せにしてあげてな」

優しく微笑む秀伸さん。明梨はこの笑顔を受けて育ったのか。秀伸さんの想いに応えたいのが俺には何もできることはなく、秀伸さんの手を力強く握り返した。

俺は秀伸の言葉を聞いて目頭を熱くする。こぼれ落ちそうになるものをどうにか堪えようとしてしまう。

「あと海人くんには、お義父さんと呼んでほしいな」

俺は照れ臭くその言葉を聞いた。

「はい、お義父さん。よろしくお願いします」

俺たちは互いに耳を真っ赤にさせたのち、ゆっくりと握り合った手を解いた。


レンタルした国産のコンパクトカーに俺と明梨は揺られている。明梨の運転で大分の道を走る。よく晴れた国道を自動車は快調に飛ばしている。

「空気の美味しいとこに行こう」

俺に言わせれば大分のどの空気も東京のそれとは比べ物にならないほどに上質に感じられるのだが、地元民代表の明梨がいうのならおそらく段違いにいいものなのだろう。

「どこまで行くつもりの」

しかし、車はすでにゆうに一時間は走り続けていた。流石に美味しい空気を吸うためだけにそんな長時間座っていられるほど俺はいい子にはできずにいた。

「疲れた?ちょっと休憩しようか」

ようやくだ。ようやく凝り固まった体を解消できそうだ。明梨は車を道沿いのコンビニに入れて駐車する。久しぶりの運転だと張り切っていたがそれも頷けるほど明梨はそれが上手だった。バック駐車も一で切り返しただけですんなりとおさめてしまった。

各自トイレ休憩や飲み物調達を済ませて明梨が再び車を走らせる。

「だからどこに行くんだよ。言われてもわかんないから教えてくれ。場所と大体の所要時間を」

俺は助手席で不満を垂れ流す。

「わかったよ」

それに耐えかねた様子の明梨がついに口をひらく。しっかりめに溜めを作って話しだす。

「九重といういうところに向かってます。時間はあと四十分ぐらいかな」

「四十分!?今からさらに四十分もかかるのか!?」

思っていた以上にロングドライブであることが発覚し俺は明梨の冷ややかな目線を憚らずに大声で駄々をこねる。流石に腰と尻が爆発してしまうぞ。

「でもきっとカイちゃんも気にいる場所だから」

俺は未来の自分にしっかりといいリアクションしろよと期待せずにはいられなかった。


明梨の予言めいた言葉通りのことが起きた。俺は車から降り立った瞬間に九重が好きになった。

まず初めに感じたのは、やはり段違いの空気の澄み方だった。これを空気というのならば俺たちが日頃から吸い込んでいるのは泥水の霧かもしれない。

口、気管、肺に何の引っかかりもなく溶けていき息を吐き出すのが勿体無いと感じるほどに綺麗だった。

そしてどこまでも広がる青空と、足元を覆い尽くす果てしない草原。上下で圧倒的な大きさを讃える地球と宇宙の存在をありありと実感させられる。

俺は直立不動のまま自然をこの身で感じていた。その隣で明梨はイタズラっぽく俺に話しかける。

「ほら、そのかんじだと来て良かったって思ってるでしょ」

言い当てられた。何だか恥ずかしくも嬉しい。

「そう、だな。来て良かった」

俺は明梨に向き直り笑顔で言う。

「連れてきてくれてありがとう」

「どういたしまして」

明梨もとびきりの笑顔で答えてくれる。

「明梨」

俺たちは二人きりで地球に立つ。

「ん?」

かわいいな、愛おしいな。

「東京に帰ったら」

俺の好きな人と、俺の大切な人たちとこの気持ちを分かち合いたい。

「子ども、作ろっか」

気がつくと地球が俺にそう言わせていた。俺の全身には力がこもっていた。背筋が伸び胸は開いて顎が引いていた。両足は重力にいつまでも逆らい続ける大きな迫力すら帯びていた。

「急に?」

明梨の声は震えていた。彼女の顔を見るとボロボロと大粒の涙を流していた。

「ダメかな」

俺はイタズラをお返しする。

「ダメなわけないじゃん」

明梨は両手で顔を覆って次々と溢れる涙を拭い続ける。俺は明梨の震える肩を慈しみ抱きしめる。

「愛してる」

「私も」

俺たちはずっと一緒だ。

私のアナルにタクロウさんの熱くて硬いモノが入る感触を覚える。肛門括約筋がグリグリとこじ開けられ上皮がピタッとそれにまとわりつく。依存的に気持ちいい。

「いいでしょ」

タクロウさんはいじらしく言う。

「すっごい気持ちいいよ」

なぜだか今日の私は自分の体を制御しきれない。やたらと声が漏れるし、気を抜くとすぐに筋肉が痙攣してしまいそうだ。

下半身の肌どうしが激しくぶつかり合う乾いた音がホテルの一室でこだまする。タクミさんは腰を動かしながら私のペニスを手でしごく。

「あれ、なんかいつもより大きくない?」

「そんな、ことぅぁ、ないよ」

いや、多分というか、確実にそんなことある。数ヶ月ぶりに会ったのだから感じられずにはいられないだろう。タクロウさんもそれをわかって言っていると思われた。

やっぱり、楽しい。心底からそう思える。私はこれが好きだ。

いろんなところを旅して、いろんな移ろいを経験して、私もそれに身をまかせ漂っていたいと、心からそう思った。

私はもしかしたら結婚は向いていないのかもしれない。明梨さんを愛する気持ちに偽りはないが、とても自然にそう思えてしまった。

それでいいのかな。こんなもので本当に満足なのかな。

私の中から出てくる暑い未来が、私のお腹の皮膚を汚した。自分のことが不意に嫌になってしまった。


「私たち、もう会うのやめませんか」

シャワーから出てきたタクロウさんに私は唐突に提案する。髪をタオルで拭いていたタクロウさんは手を止めて慌てたように私の隣に座った。

「どうしてそう思ったの」

耳元でタクロウさんは優しい声で私に問う。何度でも聞きたいと思ってしまう声だった。

「私、自分の未来を考えたら、ここで区切りをつけたいと思ったんです。わがままでごめんなさい」

私は彼と目を合わせる事なくいっぺんに言ってしまう。タクロウさんはゆっくり時間をかけてその言葉を反芻しているようだった。この気味悪く鈍化した空間にいてもたってもいられず、私はソファにタクロウさんを一人残して洗面所に逃げ込んだ。

鏡に映った女性のような格好をした自分は今にも泣き出しそうな、子どもみたいな情けない顔をしていた。

私のこれまでの人生を顧みると比較的自由に過ごしてきたのかもしれないと思う。これと言ったしがらみも制約も特にない。それが私にとってある種のアイデンティティーだったように思える。

でも、もしかすると、それってやっぱり子どものままなのかもしれないと、ようやく、最近になって思い始めた。いい加減大人にならなきゃいけないようにも思う。

自分には幸運なことに人生をかけて愛したい人がいて、その人も自分のことを愛してくれていると実感して生活を続けられている。人の幸福とはそれ以上の何を言おうか。人はそれ以上に何を求めようか。

私は傲慢な人間だけは好きになれなかったし、これからもなりたくない。それだけは決して動かしてはならないピースだ。いま持ちうる最大限の幸せを噛み締めて生きていきたい。

私の未来に描きたい道筋にタクロウさんが必要なくなってしまったと自覚してしまった。

私は鏡を見つめ続けている。もしかして、いまこの場所で、今後の人生を大きく左右する瞬間なのかもしれない。いいや、そんな大仰なことではないだろう。

でも少なくとも、何かが動き出して、何かを手放す瞬間ではあるように思う。

ホテルに備え付けのおそらく安物のクレンジングオイルで化粧を落とす。洗面所で私は一人戦う。これまで積み重ねてきたちょっとした自信や誇りを余すことなく削ぎ落としていく。

もう私にこれらの事は要らない。

ありがとう。そしてごめん。

冷たい水道水で顔面を濡らして完全に流し去るよう努力する。ティッシュを複数枚ボックスから抜き取り顔に強引にあてがう。乱暴に顔の水気をとってスキンケアもろくにせずにそのままの勢いでウィッグとネットを剥ぎ取る。手に持ったそれらを洗面所のゴミ箱へと叩きつける。

鏡には荒んだ俺が現れる。ケジメをつけよう。首から上は男性、それより下は女性という滑稽ないでたちだった。

ソファに座ったまま気の抜けた雰囲気のタクロウさんはとっくの昔に乾いているはずの頭頂部をいまだにタオルで撫でていた。その近くに立つ。タクロウさんが俺を見上げる。

「タクロウさん」

「もうリナさんじゃないんだね」

廃人のような顔をして俺を見るタクロウさん。彼を俺は概念としてぼんやりと眺める。

「今まで本当にありがとうございました。それと勝手な事を言ってごめんなさい」

何を考えている風でもないタクロウさんに俺は目を合わせる勇気を持ち合わせていなかった。

「何度も会ってきた日々は無駄だったのかな」

力なくそう発するタクロウさんの声が俺の両方の鼓膜を揺るがす。

「多分、そんな事ないんじゃないですかね。少なくとも、俺にとっては」

「リナさん」

それは誰だ。俺はリナなんて名前じゃない。反応する気のない俺に気づいてタクロウさんは続ける。

「最後に名前を教えてください」

俺は何も話したくなかった。このまま消えて無くなって欲しかった。過去も未来も何もかも。

「ごめんなさい。無理です」

誰かドアを蹴破って入ってきてほしい。この時間をものすごいスピードで推し進めてほしい。内臓が内側へ折りたたまれてしまいそうだ。

「俺にとってあなたはリナさんです」

タクロウさんは一切体は動かさず口だけでそう呟く。俺はそのセリフに俺は少しだけ頷いてみせた。本当にごめんなさい。

「いつかまた会えるといいなと思います」

やっぱりタクロウさんは筋金入りのいい人間なんだな。そう思うと同時に両目から涙が溢れた。

それは私の頬を濡らし今までの記憶と甘い時間をきれいさっぱり洗い流してくれる。

「今まで本当にありがとうございました。私はとても幸せでした」

腰を九十度近く曲げて私はタクロウさんに思いの丈を伝える。

これを最後に嘘をつかずに生きていくことを彼と私と俺に誓って言葉を放つ。






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