勘違いした川端康成

『ユリシーズ』との関係が言われる川端の小説に「針と硝子と霧」と「水晶幻想」がある。結論を先に言えば、川端の上記二作品は『ユリシーズ』の技巧を取り入れたものではなく、伊藤整の『ユリシーズ』翻訳とそれを模倣した小説の影響を受けたものだと考えられる。

 「針と硝子と霧」では、冒頭部分で主人公の朝子が郵便箱に投函されていた針を見つけると、括弧にくくられた朝子の内面が挿入される。

(郵便配達ではなかった。若い女かしら。いや、飛び出した頬骨 ― 針を配ってゆく女。八九年前に卒業した女学校の屋根の避雷針。弟も早く結婚しないといけない。夫の整理箪笥に隠してあった女の写真…)

 ここでは「女」と「避雷針」「写真」などが登場しているが、それぞれ長い修飾語がついていることに注目したい。

 「いや、飛び出した頬骨 ― 針を配ってゆく女。夫の整理箪笥に隠してあった女の写真」などと、頭の中で意識的に言語化するとは思えない。つまり川端はこの文を、「無意識的な思考」として書いていると思われる。

 内面の表出としてこのような形式が使われるのは、伊藤整の『ユリシーズ』翻訳文、もしくは伊藤整の小説においてであるが、川端がこの形式を偶然に思いついたとは考えられず、何らかの影響のもとにこの文体を生み出したと考えられる。
 可能性としては①土居の論文 ②『ユリシーズ』原文 ③伊藤の『ユリシーズ』翻訳の三つが挙げられるだろう。内面の表出を括弧で括る形は土居の論文を参照にしている可能性が高い。しかし土居の『ユリシーズ』翻訳では、断片的な形式をほとんど整った形に直しており、名詞句の連続という形では訳されていない。よって、直接的には②か③を参照にしているはずだが、難解な『ユリシーズ』の原文に触れて伊藤と同じような解釈を行い、同じような日本語文を生み出す蓋然性は低い。となれば、「針と硝子と霧」の括弧内部の文体は、伊藤の『ユリシーズ』翻訳文を参照にしていると考えるのが妥当である。「蕾の中のキリ子」等と似ているので、草稿等を目にしている可能性もないではない。


 川端は括弧で括った内的独白について、フロイト的な「無意識」「潜在意識」との関係で理解している。なぜなら、括弧の内部は、深層心理の領域を表したものとして機能しているからである。長い修飾語のついた名詞句の形式も、朝子の言語化した独白と取るより、深層心理を表す象徴として機能しているのである。

 つまり、川端の『ユリシーズ』的な文体は、ジョイスの「内的独白」を模倣したものではない。伊藤整を経由して理解した、フロイト的な深層心理を扱ったものとして作られているのである。

 ジョイスの「内的独白」を模倣しようとしたかもしれないが、伊藤を経由しているので、勘違いしているのである。



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