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シュミレーション仮説と仮想現実主義(simulationism)

シュルレアリスムと仏教思想については、以前の記事を読んでいただくとして、今回はその発展として、仮想現実主義について書きたいと思う。
はじめに、仮想現実主義(simulationism)とは筆者の造語であり、既存の言葉としてあるものではない。
仮想現実主義(simulationism)のアートの定義は、広くシュミレーション仮説に基づくアートとした。それは、シュミレーション仮説が今後人間社会に大きな影響を及ぼす可能性のある仮説であり、社会との繋がりを重視する現代アートの世界において、あらゆる方向性、多様性のアートをあらかじめ許可しておくためである。
では、本題である仮想現実主義とはいったいどのようなものかを、その考えに至るの経緯も含めて説明したいと思う。

まず、仮想現実主義のはじまりは、やはりシュルレアリスムにある。
前回、前々回の記事でも取り上げているように、シュルレアリスムの根源は、アンドレ・ブルトンの第一次世界大戦での体験にあると私は考えている。
政治的、社会的背景のもと、あまりにたくさんの人間がその思想に関わることで、非常に多彩な理解を可能にしてしまったシュルレアリスムは、結果として、まるで水に落とした一滴のインクが、薄くなりながら広がっていくようにその本質がよく見えなくなってしまった。
若い医師のたまごで、担架兵として従軍したブルトンが見た光景は、死人と生きているが今にも死にそうな負傷兵士の入り混じった、まるで地獄のような光景だったと予想する。しかし、その生と死が入り混じった景色に美しさを感じてしまったブルトンの不可思議な感情がシュルレアリスムの根源であったに違いないと私は考える。

さて、ここで仏教思想の「空」が登場する。
「空」とは、空っぽという意味ではない。
色即是空空即是色とあるように、全は無であり、無は全であるということ。つまり、二項対立はもともと同じものなので、生と死や、明と暗、プラスやマイナスというように分けること自体がそもそも間違いだということ。

シュルレアリスムがこの「空」の概念を取り込むとどうなるか、おそらくは岡本太郎氏の対極主義のようなところへとたどり着くだろう。
岡本太郎氏がフランスで活動していた頃シュルレアリストと交流があったことは、あらためて説明する必要もないと思うが、明らかに対極主義はシュルレアリスムの影響を受けている。岡本氏が仏教思想の「空」を対極主義に反映させていたかどうか定かではないが、対極主義はまさしく、「空」のシュルレアリスムであると私は考える。
ところが、この対極主義は日本から世界へと大きく発展することはなく、岡本氏もアニミズムやシャーマニズムの方向性へと向かい、そして今に至る。 

さらに時は進み、2000年代「シュミレーション仮説」が登場する。
シュミレーション仮説はオックスフォード大学教授で哲学者のニック・ボストロム氏が2003年に提唱したもので、現在でもその可能性については賛否両論ある考えだが、端的に言えば宇宙は実はシュミレーションであり、我々は仮想現実の中に生きている、というものだ。
我々の存在がもしも仮想現実上の情報体だったとしたらどうだろう?仏教思想の「空」はあまりに美しく現実にあてはまるのではないだろうか?
ビデオゲームの世界やキャラクターは、確かに存在するが実在はしない。存在と無が一体となっている。
まさしく、仏教思想の「空」そのものではないか。
シュミレーション仮説がもしも真実ならば、量子力学や宇宙学、哲学、宗教学、その他あらゆる分野に変化をもたらすだろう、もちろん美術においても多分に漏れない、ここでついに対極主義は発展のタイミングを迎えたのだと私は考える。
シュルレアリスムは「空」を得て対極主義へ、そして、さらにシュミレーション仮説を得て、仮想現実主義へ。
仮想現実主義(simulationism)とはすなわち、シュルレアリスムが仏教思想とシュミレーション仮説を取り込み、美術思想としての規模をより大きくしたものである。私のメディウム、二項対立するカオスの最適化(Optimizing Dichotomous Chaos)はこの仮想現実主義というマクロな思想体系のなかでの、ミクロなメディウムにすぎず、仮想現実主義のアートはこれから時間をかけてアート界の新しいムーブメントとして、大きく波及していくことだろう。


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