保育園児の蝶々とり、大学には入ったらダメという記憶

ー保育園児の蝶々とり、大学には入ったらダメという記憶ー
A tale of a kindergarten girl who stopped chasing a butterfly at the entrance of the university campus

昨今、多様性を合言葉にした社会変容のススメをよく聞くようになった。多様性とはもともと生物多様性の概念から来たもので、嚙み砕いていうと、人間のことばかり考えていないで、蝶々さんの住みやすい環境も考えよう、ってこと。そういった多様な生態系にとって住みやすい社会/地球をという考え方が、障害者の自立支援や、ジェンダーフリーへ応用された。こうして、差別についてわれわれが実地的に行動できる社会的規範を得つつあるともいえる。
特に、2020年から続くコロナ禍において、行動の制限の苦しさを地球全体が自分たちの問題として苦しんでいる今だからこそ、移動の自由が社会によって制限され続けてきた障害当事者の声などが多くの人の耳に届くようになった。エゴが強い我々は自分の足元が崩れるときに初めて社会の問題に触れ始めるともいえるのだろうか。
地球環境問題もそうだろう。あまりに暑さが命に関わる事態だという社会認識を得て初めて社会が環境問題を考え始めている。しかしこれもコロナ禍の感染拡大と同じで、気付いたときはもう遅く、我々にできることは感染拡大を少しでも抑えて、被害者を少しでも減らす工夫をし、はやく感染拡大が収束することを自宅で祈ることしかできない。地球環境問題はそういった段階にいるといってよいだろう。
今、我々にできることは環境変化による被害、これからさらに訪れるだろう命に関わる被害を少しでも減らす努力だ。これから訪れる被害を想像することだ。享受する情報やサービスの中毒症状が各地でみられる現代社会において、想像力の欠落は大問題だ。ただこれもコロナ禍によって、これから先を予測して行動せざるを得ない状況に陥って初めて、我々が環境を想像することを得ているともいえる。
ここでは環境を想像するために蝶々さんの力を借りることとする。ある休日に京都大学の脇の道路を歩いていると、蝶々取りをしている親子を見た。保育園児の娘が、網をもったお父さんと蝶々をおいかけていた。その蝶々さんは京都大学の構内に入っていった。そのお父さんは「関係者以外の入構禁止」という看板を見て構内に入ることを諦め、それを暗に少女へ伝えて、少女もそれを悟って諦めた。このことによる社会が回る仕組みに対する損失は大きい。
大学の使命、公共の福祉としての大学の使命は、学問という社会基盤を社会共有することにある。その社会共有の仕方は、研究や教育という形が主である。大学が公共の福祉を守るならば、大学という場はその少女に蝶々さんを追いかけ続ける機会を与えるべきであった。
むしろ、少女が蝶々さんを追いかける自由を止めてはならない。その少女が蝶々さんを追いかけ続ける休日を貫徹することによって、彼女が地球環境問題を解決する未来を得ることは誰も否定できない。大学はそういった多様な学びを提供する場であるはずで、学術がそのような営みの土台に立っていることも、誰も否定できない。

ーヒエラルキーをつくって管理、おえらさんは禁止すきー

どうして大学構内に蝶々さんを追いかけた親子が入れなかったのだろうか。それは、大学が「関係者以外の入構禁止」という看板を立てたからである。さて大学のこうした運営は誰が決めるのだろうか。それは会社と同じように執行部と呼ばれる大学内部のトップ機関で決めている。
社会の知の公共財である大学が「関係者以外の入構禁止」にすることの、
損失を徹底的に議論したかといえば怪しい。経営するということは、施策のメリットとデメリットの秤を常に見ないといけないわけだが、深い意図が感じられない。
蝶々さんを追いかけた少女が京大構内に蝶々さんと一緒に入られなかった損失は大きいわけなので、明らかに大学執行部はその施策を誤った。蝶々さんを追いかけたその親子は京都大学の外縁に存在する人たちである。外縁に存在する人たちが、京都大学の領域の境界に立てないということは、京都大学は開かれていないということである。
閉じてしまった場が迎える未来は、勢いがしぼんだ未来である。勢いがしぼんだ場からさまざまな困難を解決するアイデアが生まれるはずがない。勢いを取り戻すためには、過ちを顧みる必要があり、変わる必要がある。そのときの合言葉は、批判恐れず連帯求めて、である。
過ちから閉じる方向を得た場の改善は簡単ではない。批判は簡単だけれども、実際に変わることを演出するためには並大抵の努力では叶わない。閉じる方向を選んでしまったその理由、その本質を理解しないと事は始まらない。大学が閉じる選択をしたのはなぜか、その議論から始めないといけない。
その理由の一つには、管理強化というキーワードがあるだろう。とにかくお偉い人たちは管理が好きなのである。蝶々さんを追いかけた少女を管理する了見を大学執行部が持っているはずがない。今後、大学を経営するのであれば、その少女の協力が必要なのは明らかのことだ。
新興企業ならともかく、大学構内というのは自由に散歩ができるという歴史上の事実がある。それは、国公立大学というのは税金で運営されているわけだから、その土地の所有権が国にあって、国にあるのだから国民にはその場に立つ権利があるのである。
しかし、大学が法人化されて、その土地の所有権を大学が持つようになった。施設管理権を行使して、蝶々さんを追いかけた少女の未来を奪ったのである。気が付けば、大学という場に立つことすら、大学執行部の許可がいるそんな時代が来たのである。大学構内に蝶々さんを追いかけるためには、まず大学の中にある喫茶店でその少女はオレンジジュースを飲まないといけない、そんな時代が来たのである。
大学法人という名のもとのヒエラルキーに教員も学生も職員もみな隷従させられ、学術文化を築いてきた貢献人の一人になるはずの、蝶々さんを追いかけたその親子を排斥する変革の我々はその協力者なのである。

ースマホ世代、lineグループ、仕事のコミュニケーション能力低い、自発的なヒエラルキー構造を作っているとしか思えないー

ただこのヒエラルキー構造は今の社会構造にあるあるのようにも思える。例えば、今の若者たちはまずLINEグループありきで事が進むらしい。スマホが国民の主食となったのは10年も経っていない。皆がスマホを持つようになったころ、大学生から、LINEグループからの抜け方や、同級生との一日中のLINEグループ内での会話を聞いた際は、倒れそうな絶望感を感じたものだが、今やそれが当たり前のこととなっているらしい。
といえ、他人と仕事をするのが当たり前の企画の世界では、携帯電話での会話、ショートメール、もしくは、e-mailでコミュニケーションは行われる。LINEグループなどなくても全く困らない。
若者たちと企画をする際、彼ら彼女らにとって当たり前のLINEでのコミュニケーションがないのだから、戸惑うのも当然でもあるが、仕事を進めていくときに、仕事ができない若者が多いと感じる。にも拘わらず彼らは数名から100名ほどのグループLINEを駆使して組織形成を行っている。
そうならば、その組織というのは、ヒエラルキーが形成されていないと回らないのではないかと感じる。仕事ができないのに組織を束ねる方法というのは、ヒエラルキーを作るしかないからだ。ただそれも、ヒエラルキー構造を意識しているわけでなく、自発的にそのヒエラルキー組織が形成されるようである。良く言えば分業制ともいえるかもしれない。あなたはこのヒエラルキーではこの位置にいてね、わたしはこの組織ではこの位置で楽させてもらうね、といったところだ。
若者と企画するときによく感じるのが、メール内容が、仕事のようなのである。仕事ができないのにメールだけ仕事のようなのはなぜかずっと不思議であったが、組織形成のための自発的なヒエラルキー構造の中で彼ら彼女らは仕事をしているのである。だから、仕事のようなメールなのである。
ただ企画のような個人事業の世界に入った途端に何もできないようになって、ヒエラルキーに馴れてしまった結果、丁稚奉公はできなくなって仕事の仕方を身に着けることができないのである。ただしこの集団性というのが急速に変化しているスマホ的現代社会の特徴であるわけなので、この集団性を受け入れざるを得ない。いつの時代も若者が時代を作るのである。
このLINEグループ集団性がまさに蝶々さんを追いかけた少女をいじめた大学法人管理ヒエラルキーと合致したのだ。だから、誰もその看板に違和感を持たず、今日の大学もその日常を過ごしている。結局、我々は大学という知の公共財の歴史を絶やすわけにはいかないので、今後奮闘する必要がある。そのためには、若者の集団性に問いかけることが第一歩と思われる。

ーデジタル、イノベーション、グリーン問題の時代は、超管理時代。ー

若者のその集団性の鍵がスマホにあるのであるから、スマホを観察せざるを得ない。デジタル産業革命はちょうどロックからパンクロックへの過渡期である、70年代中旬以降に起きたと考えている。そのキーワードは離れたところで各種営みが可能になるということである。
ポータブルCDウォークマンや、携帯電話などがその例である。もうやってられねえよ、ってのがパンクロックの原動力だが、固定電話でのコミュニケーションにやってられない社会と変革したのだ。その固定コミュニケーションが嫌な価値観が成熟してスマホに中毒したのだ。
それは紅茶や砂糖、スパイスに中毒した地中海の時代の変革とさえいえるだろう。砂糖などの流通にさまざまな階層が分断された社会経済が存在したわけだが、今我々が過ごす、若者の集団性が勃興しているこの時代は、まさにその分断が起きている最中である。その集団性が社会を覆っている時代は、急速な地球環境問題を起こし、社会の管理強化が進んでいる。
もはや、監視カメラと自由を論じる時代でなく、監視とどう向き合うか、という時代に変わってしまったのである。超管理時代の生き方に、若者の集団性というのが鍵になる可能性がある。キーワードは、超管理時代と若者のスマホ集団性である。
何かに抵抗するときに管理止めて!、と叫ぶよりも、管理下に入って内部抵抗する、というやり方がある。蝶々さんを追いかけた少女の悲劇を繰り返さないためには、若者の集団性を駆使することによって、大学法人の超管理時代の空気を変えると良い。
「関係者以外の入構禁止」の看板には実態はなく、少女のお父さんがそれを無視して蝶々を追いかけても一向に問題はなかった。その看板自体、グレーな存在であるという事実があるのだが、そのお父さんが大学に忖度してしまったとも見ることができる。今の社会、圧倒的な権力には忖度してしまう大人の性質の問題でもあるのだ。
この大人の忖度性質というのは、イノベーションという変動局面とも密接に連結している。イノベーションというのは本来は技術革新のことで、町工場で多数生まれたものであるが、このイノベーションというのは意味が改変されていて、例えばLINEなどのことである。
多数の人の生活を改変させてある特定企業が圧倒的な利益を生む仕組みのことがイノベーションといわれる。雑巾の延長上に超優秀なホコリ取りの化学繊維があってもそれはイノベーションと彼らは呼ばない。イノベーションに必要なことは、寺の雲水の仕事を奪って、日本各地の寺に掃除ロボットを購入させることだ。
そんなアホな仕事をだれがやるのかというと、コンサルと称される人たちが多数暗躍する。そのコンサルという人たちは誰のために動くかというと、掃除ロボット会社のCEOのために動く。なぜ動けるかというと、CEOなる圧倒的な権力に忖度するからである。CEO様方の社会ビジョンは素晴らしいと忖度できるからである。
超管理時代には圧倒的な権力の誇示が重要な社会変革のための姿勢なのである。こういった権力への忖度性と、若者の集団性、の相性を良く観察する必要がある。若者の集団性はスマホでの仲間同士のグループLINEなので、対面上は圧倒的な権力を拒否しているからである。

ー少女の記憶を明るいものにするために必要なことは?ー

こうして、社会人という名の権力への忖度性と、若者によるスマホ集団性の対立が、
蝶々さんを追いかけた少女が奪われた未来を取り戻せれば、それが大学の公共性の歴史を守ることであることが分かった。
これは簡単なことでもあって、忖度に馴れた大人と、LINEグループばかりしている若者が、大学内外の同じ場に立てば良い。その場で生まれた課題を一つずつ解決すればよい。
問題点が京都大学に潜むエリート性にあると分かったのであれば、蝶々さんを追いかけた親子から見たそのエリート性や、掃除ロボット会社のCEOから見たそのエリートたちを、その像を我々が自省し、その自省した結果を若者のグループLINEが取り込めば良い。
但しそこには、大学の知の公共性の歴史を引き継ぐのだという強い信念はいるだろう。しかし仮にイノベーションなる大学内の生活改変の波に負けなくて、その少女が大人になったときに、蝶々の研究に取り組む基盤が大学に残っていれば、その少女の記憶は明るくなる。
多様性を論じながら、外縁が蝶々をも追いかけられない社会というのは、矛盾している。矛盾を許容したとしても、偽善に侵されている。偽善の先に成功があることもまた事実ではあるが、学術を芸術と同じ線に乗せるとすると、偽善では良い成果がでないこともまた事実だ。大学の構成員が、芸術の力を借りて、自省する機会は非常に重要な場だ。

ー胡椒の例、世界システム、安価な天然胡椒、価値を生まなかったイノベーション科学、ここになにか未来があるのでは?ー

とはいえ、イノベーションというまか不思議なものと向き合わないといけないこと、これからの大学人の使命でもある。少なくともに日本において、国力として、数物科学でいうならば、ゆっくりと多様体を学べる空気が淀んでいる。歴史学でいうならば、哲学としての人類史を追求する余裕はなくなってきている。
ここで数理科学と歴史学の一つの接点の例として胡椒を考えてみる。胡椒を生産地から都市へ流通させ、近代世界システムが作られた。地中海を取り巻く国家が世界中を侵略していった時代に胡椒は貴重品であった。その後、19世紀20世紀となって、現代科学が勃隆を迎え、当然のように胡椒が人工合成された。ノーベル化学賞受賞者のスタウディンガーらによって人工合成された。しかし、今2000年代、どこを見渡しても人工胡椒は見られない。むしろ天然胡椒が100円で売っている。
胡椒の歴史において、人工胡椒、つまりイノベーション科学は何の役にも立たなかった。今のイノベーションを国家政策として推進し、学術の在り方を根本から変えようという仕組みは、この人工胡椒研究を推進するものだろう。
対して、実際に役に立ったのは、胡椒を100円で世界のスーパーマーケットへの生産流通網の構築だった。地中海の時代と根本から何も変わっておらず、変わったのは貴重品を安価にした、ということだけだ。
イノベーションが目指しているものは、安価な胡椒では成り立たない地中海時代から続く生産流通網の維持なのだろう。安価な胡椒の変わりの地中海生産流通網の代表例がスマホであるのだろう。
本来、胡椒を供給していた側の東アジアが、スマホや半導体を世界流通させるようになったことは、一つの革命だろう。当然の如く、地中海流通網を維持しているCEO連合は焦っている。ヒエラルキーを維持しようと、躍起になっている。日本はどこに向いているか?
コロナ禍の時代、もともとGDP成長が世界最低の日本、日本の高度経済成長支えた名だたる企業が経営不振に陥る中、多数の大企業がCEO連合の欧米のデジタルベンチャーを子会社として買収することで、過去最大利益を上げている。これは麻薬だろう。例えば、企業が大学を大学債を通じて買収にかかっているとも見ることもできるが、麻薬漬けになった大企業が大学でシラフに戻りに助けを求めているとも見ることすら可能だ。
我々は広い視野を持って、大学の在り方、この国の在り方、世界システムについて、再考するための場づくりは可能だ。

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