わたしの「こだわる」

わたしは、生活の中に「こだわる」ということがあまりない。

これはここにないとだめ。
洗濯ものはこうしないといけない。
家具はこれがいい。
家はこういうものがいい。
――そういった「こだわり」がない。

たとえば、時々コーヒーをのんびり飲みたいだとか、
わたしのものはここに片付けるとか、
習慣のようなものはもちろんあるけれど、
必ず思ったその通りになければならないものではない。
片づける場所も変えられるし、習慣も変えようと気を付けられる。

強いて言えば
挨拶は元気ににこやかに、
感謝の気持ちは忘れない、など
自分の考え方みたいなわたしがわたしとしてあるためのものが
こだわりなのかなと思うけれど、
自分の中で終わる、言わなければ、人に気づかれなければ
この世に存在しない自分の法律、のようなもののように思う。

冷たいとか無頓着
自分がないと言われていいほどこだわりがない。

一時期すごく自分でどうにかしたくて考えたことがあったくらい、
こだわりや「ゆずれないなにか」がわたしにはあまりなかった。

考えれば考えるほど、落ちていくような思考になってしまって、
世界は必ずわたしの思った通りにならないし
「わたし」もずっと同じではない。
そう思うとこだわることにこだわれなくなってしまう、
それによりストレスを受けることが恐ろしい、
いわばチキンなのだろうなあ、と自分で思う。
だから自分の中で終わることだけしか、
何か確固たるものをつくれないんだろうな、と。

けれど、今では自分のこの性質?性格に、まあ肯定的に思っている。
どこに住んでもわたしは「わたし」であるし、
「わたし」についてあまり自分の外から侵害されることがない。
時にあるのかもしれないけれど、
それによってダメージを自覚しない、というか
文字通り「害」を受けない、と言った方が
わたしの意図に近づくかもしれない。

わたしのこだわりが原因になる争いはないし、
こだわりの先がわたしより外になければ
わたしはわたしの中で始まり、わたしの中で終了していて
わたしとしては自分の管理がしやすくていいなあと思っている。

わたしがわたしとして生まれた瞬間から
どのように生きたとしてもわたしらしい、ということを
そのまま体現しているのだと、
大げさながらアイデンティティにもしている。

しかしながら、やっぱりどこかで
こだわりがあるっていいなあ、と思う。
生きてきた中で確固たる特別なものや
自分を象徴できるようなアウトプットがあるように見えて、
素敵だなあと思う。

今は、
「今のわたし」は、こだわらないこだわりのような、
「わたし」にこだわるような生き方をしているような感じなのだろうか
なんて、書きながら気づいた。
こだわりがないと言いつつ、我は強い。
そんなちょっとやっかいな生き物だなと自分で感じる文章だ。

だとしたら、そうしていった先、
老いてしわくちゃに笑うようになった頃に
これぞ「わたし」の何かが見つかるように
それはわたしの外にあるのか、
やっぱりわたしの中で終わるのか、
わたしはわたしの自由を
わたしが侵害しないように
わたしを大切に生きていくことにこだわりたい。

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