わたしの「気をつける」

「ありえない」

幼い頃から使い方を考えている言葉だ。

「有り得ない」という言葉を発する時、

だいたいの人が目の前の出来事や

人から聞いた話に対して感想として

用いていることが多いような印象がある。

わたしは、なんでだろう、と思う。

だって、目の前にある出来事なのに。

だって、誰かには起こった話なのに。


気をつけるようになったきっかけは、

幼少期に自分の「普通」の話をした時に

「ありえなーい!」とお友達から言われたことだ。

ちょっぴり心が苦しかった。

あることをなかったみたいにされた気持ちがして、

ちょっぴり悲しくなった。

だからなんとなく、

みんなの真似っこをして

「ありえなーい」って言うのをやめようと思った。



小学校高学年の時だ。

憧れの兄が慕っている先生が担任になることになった。

先にあげた「ありえない」をはじめ、

今身についているほとんどのわたしの「気をつける」が

意識的になり、定着したのは

この先生の影響が大きいと思っている。

特に、

「言葉は言うだけで伝染する。」

その先生が言っていた。

所属していたバスケの顧問でもあった先生は、

部活動のときと

学校のときと

雰囲気が違うのに、言うことは似ていた。

人間の「芯」とか「軸」っていうものがブレない人だったと思う。

だから、部活動のときだけ怒りっぽい先生に注意されることは

道徳の授業みたいに感じていた。

「できない」とか「疲れた」とか「飽きた」とか

言うことも感じることも悪ではないけど

マイナスな言葉を言ってチームが良くなるのか?

誰かいいプレーができるのか?

自分が自分のネガティブに打ち勝つ動きができるのか?

先生は言う。

全員涙目で「いいえ」と言う。

だけどあの中で、

道徳の授業として聞いていたのは、きっとわたしだけだったんじゃないかと思う。

学校生活でも、お家でも、

例えばお引越しして環境が変わっても。

周りに人がいる時全ての時間がそうだなと

わたしはその時感じた。

だから、ずっと気をつけた。

先生もきっとそんな効果は望んでいなかったかもしれないけれど、

今も根強く残っている。


中学2年生の時だ。

控えめな反抗期に入ったわたしは、苛立っても母親に当たれず、

言葉遣いを荒っぽくして女の子らしさを捨てたり

学校の嫌いな人達に冷たい正論をぶつけたりして憂さ晴らしをしていた。

けれど、荒んだ空気感やイライラというのは、マイナス言葉を発さずとも自然と出るらしく

無意識下でため息をついていた。

母はそれを見逃さなかった。

「何のアピール?それ。言いたいことあるなら言えば?いちいち見せつけるみたいにされると鬱陶しいんだけど。」

と、母は言った。

自分のイライラが伝染してしまったことに

「しまった。」と思うと共に

伝染は言葉だけじゃないのか。

とわたしは学んだ。

母は、基本的に怒らない人だ。

大事な時だけ怒る人だ。

だからこれは大事なことなんだ。

先生が言っていたことと同じように、これもどんな時も言えることなんだ、と思った。

だから、ずっと気をつけた。

もしかすると母は、

反抗期という一時に釘をさしたかっただけで、こんな効果は望んでいなかったかもしれないけれど、

今も根強く残っている。


わたしの「気をつける」たちは

誰に強制されたわけでもないのに

戒めのようにわたしに絡みついている。

職場でも、初めて人に会う時も、

家にいる時も、

マナーやルールよりも強く、

最優先で履行されている。

だから時に

文字通り、溜めすぎた息が詰まるように感じて

苦しくなる時も、もちろんある。

すごく弱った時に、

本当にひとりになって

ふう、と息を吐いて

つかれた〜と声に出して

ああ、言ってしまった

と思うと同時に

やっぱり言っても別にいいこともないな〜

と思う。

だから、

1人の時でよかった〜

気をつけててよかった〜と、

気をつけていたことたちの意味を知る。


ある日誰かに

「あなたがずっと明るくて救われた」

と言われて

気をつけていたことたちの

大きな意味を知る。


永遠に思ってもいないポジティブな言葉を吐いているわけではない。

ずっとずっとニコニコしているわけではない。

何があっても暗くならないということもない。

ただ、吐かないように気をつけただけで

わたしから誰かに、わたしのマイナスが伝染することは少なからず回避出来ているみたいだ。

それはわたしにとって、

すごく幸せで、すごくうれしい。

無知ゆえに、失礼なやつだとイライラさせてしまうこともある。

わたしとは違う、相手の「気をつける」もあるのだ。

わたしじゃない誰かが抱く感情は、

何がきっかけで、何を思うのか、何通りもあり過ぎて、考えることが難しい。

だから、そういうものはまず誠意で返して、その都度きちんと覚えて、

新しいわたしの「気をつける」に加えていけばいい。


「わたし」をこの世に有り得るものとするために、

「わたし」の思ったことを発したい。

だけど、「おもうこと」は誰かに伝染することがある。

それならほんの少しでも

心が軽くなるようなことがいい。

だからわたしは、

わたしの「気をつける」を、大事にしている。

今日も明日もわたしの「気をつける」は

わたしの最優先がいい。

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