わたしの「我慢する」
「みんな自由にみんなの自分を生きている」
わたしの基本的な、不変的な考えのひとつだ。
ふと、過去の自分の出来事をぶわっと思い出して今になってよくよく考えて、ハッと気づいた自分がそこにいる、みたいなことがある。
今日はそれを忘れないように書いてみる。
恋人や家族や友達と何か意見交換をしている時、
(多分シチュエーションから判断すると一般的には「言い争い」という場面なんだろうけれどわたしの態度や感覚に「争う」がないため意見交換としか言いようがない流れになるので、こういう場合のことをさらっと書いてしまうと伝わらないのが難しい…と思いながらカッコの中に本意を閉じこめた)
「せっかくだから言いたいこと言いなよ。(言おうよ)」
と、持ち出されることが度々あった。
毎度困った。
毎度何もないのだ。
問いかけや提案に対して、わたしは基本的に「言葉のとおり」に「裏を読まず」に素直に応える。それがわたしなりの誠意だからだ。だから、きっと本意はこうなんだろうな、と思うことがあっても、まずはこういう時は素直に「ない」と応えた。
でも、きっとやっぱりこの場面で求められる内容は「相手に言っていないこと」と「相手への言い難い要求事項」であるとは思うのだけれど、「相手に言っていないこと」で「言いたいこと」なんてないし、ましてや「言いにくい要求事項」なんてなかった。そもそも他人に対する「要求事項」が基本的にない。
あえて何か要求をするなら「あなたはあなたのままあなたの自由の中でわたしはもちろん誰にも支配されないで生きてくれ」といったところだろうか。
言いたいことなど、普段言っているものだけである。むしろわたしの中で、普段言いたいことは我慢していない。伝える手を変え品を変え時間を使い、言いたいことは全部言っている認識だ。
けれど、
わたしの家族は、わたしのことを結婚相手に「この子は我慢して言えない子だ」と紹介したし
わたしの友達は、わたしが何か心の内を明かしてみると「いつも我慢して言わないんだから〜」と心配してくれた。
その時も少しあれ?と思った。身に覚えがないから。
アイデンティティは他人から見た自分も含む、ということを国語の教科書の評論文か何かで読んだことがあって、そのことが頭にずーっと残っていて、25歳くらいまでは、自分の思う自分と他人の中の自分が違う苦しさから逃れるために、他人から見た自分に自分を依存させることでギャップをなくしていた。
なので、きっとみんなが言うように、わたしは我慢してしまう性格で、きっといっぱい我慢してきたんだろう。と他人事のように捉えて、自分のことを労ったこともある。
でも、今思えば、やはりわたしは我慢などしていないのだ。
一般的に大変な思いやしんどいこと苦しいことなどがあったであろう時に言動が少ない人に対して、「我慢している」と認識したり、されたりすることが多いだろうとは認知している。
しんどかったことはもちろんあったし、誰かの言動がきっかけで心が乱れることももちろんあったけれど、「しんどい」や「苦しい」と、それを「我慢する」、とは、わたしの中では全然別のものなのだ。
わたしの中で「我慢」は「したいのにしなかったこと」「したいのにできなかったこと」だ。
「なんてひどいことを言うんだ!」と思うことを言われても、それはその人の素直な意見で、わたしが単に受け取った時に心がマイナスな方に動いてしまっただけだと自己認識する。
そして、思うことも言うことも自由だからな。それはお互いにそうだよな、と思うので、「ひどい!」を言いたくなったら言ったし、言いたいと思わなかったら言わなかった。
自分でしたい振る舞いを選んで好きに振舞った。笑えない時はデフォルトの表情でいたし、逆に笑ったろ。と思ったら笑った。
我慢などしなかった。
わたしは、心の内を明かしたいと思った時は明かし、明かす必要がないな、言いたくないな、という時は言わない。
自分の心の内をわざわざ視覚や聴覚まで使って自分に刻んで残すことの方が苦しいと判断することが多いのかもしれない。
わたしにとって「言動しない」は「我慢」ではない。
「当時口にしなかったけど踏ん張って乗り越えたかもしれないなあ〜」と思うことたち は、わたしの中で、全くもって「我慢」したことたち ではなかった。
だから、今になって思うと、我慢した自分を労ったことがある自分も「うわあ恥ずかしい!醜い!ひやー!」というくらいに、わたしは我慢したことがない。
例えば、
「言いたいこと」ではなく
「思っていること」があったら言って欲しい
のように言われて、その問いかけに応えたいと思って、わたしの頭の中のものたちが感想文みたいにつらつらと出てくることもあった。
ただ、そういう問いかけを受ける場面というのはやっぱり一般的にいうところの言い合いのきっかけになるような時が多くて、それに対する回答は、内容から遠回しに伝えたい願いみたいなものを探られる対象になりがちだった。
わたしの回答は本当に感想に過ぎないし、わたしの自由の中で思っていることだけを純粋に明かしたものたちだ。
でも、そういうわたしの言葉の背景か何かを汲み取ろうと努力しようとしてくれる人が多くいる。わたしの後ろには何もないのに。
裏も表も何も無いことを上手く伝えられない。わたしの中の何かを相手の中で作られていく気持ちがして、時々、素直でいることを難しいと思うことがある。
わたしの中のわたしはわたししか知らなくて誰の耳にも目にも留まらなければそれはそこに居ない(存在しない)ことと同義だ、とわたしは思っている。
だから、わたしはわたしを
ありのままにこの世に置くために、
存在するために、
わたしのことを素直に人に伝えるし、裏とか表とかもなくそのままゴロンとこんなふうにnoteに出すこともある。
それでも、わたしの後ろに何もない誰かを探られてそれがわたしだと言われると、わたしじゃない誰かにわたしの名札をつけたワタシモドキを目の前に置かれた気持ちになる。うぐぅとなる。
でも冒頭に書いた通り、
みんなが自由にみんなの自分を生きている
と本当に思っているので、
「わたしの名札をつけたわたしとは違う誰か」を目の前に置かれても、違うんだけどなあと思うだけ。うぐぅとなるだけだ。
違うことを伝えたい相手にはちゃんと違うことを伝える。
そんなふうにしている。
わたしは「我慢する」が出来ないでいる。
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