わたしの「したい」

23歳の頃、とあるきっかけで
自分が何者なのか、
何をやってる時自分を許しているのか、
深く深く考えたことがある。

どんな人生にしたいのか。

それを考えるためには
わたしが成長過程で思い描いた
叶えられなくて気になっていた「将来の夢」を取っ掛りにするのが
わたしには必要だった。


「あの時小学校の先生になりたかったのはどうして?」
「あの時保育園の先生になりたかったのはどうして?」
「あの時お花屋さんになりたかったのはどうして?」


根幹となる想いを、途方もなく考えた。
好きだから、素敵だから、ではなく、細かく詳細に
「なぜ好きなのか」「何を素敵と思うのか」
「そこから何を見出したいと思っていたのか」を
考えた。
具体的に何を欲し、
その感情に行き着いたのかを考えた。


その結果、わたしのやりたいことは、
三つあった。


一つは「子どもの成長に寄り添いたい」
先のないどこかから沸き立つ、
子どもに対する強い想いがあった。
子どもをなし育てたい。母親になりたい。
本能的なものだと自覚している。


もう一つは「わたしだけの持ち物が欲しい」
わたしは、幼い頃よく「自分の持ち物がない」という感覚に襲われ、それを恐ろしく思っていた。
自分がここに存在することの意義や
自分が誰なのか知るためのツールが何も無いというような気がして恐ろしいのだ。
だから、自分だけの何かが欲しい。
先生もお花屋さんも、
特出した知識を要するという印象があった。
人に教えるための、植物を生かし販売するための知識。今に思えばどんな仕事でもそのような知識・技術を得ることはできるのだが、単にそれらはいずれも当時の自分に興味のあるものだった。
自分だけの知識が欲しい。
それによって、自分の存在を肯定したい、そんな気持ちがあったのだと思っている。


そして三つ目、
「明日に向かう元気な気持ちを作りたい」
先生になりたい気持ちの中に「道徳の授業がしたい」というものがあった。
とある先生の時間割を無視した学活や道徳の時間が大好きだったからだ。
何が好きだったか、を考えると
「あの時間は、いつも吐けないわたしの気持ちを吐き出す最高の時間だったから」に尽きる。
道徳の時間は、人の心の声を聞く時間だった。
誰かに気づいて欲しい「わたし」を、感想文や回答にのせて、いつも蓋をして苦しくなっている心を楽にしてやる時間だった。
あの時間のおかげで、苦しい気持ちをすっきりさせることができた。
どんなに嫌なことがあっても、「あの時間があれば」と頑張ることができた。


わたしだけではなく
きっと色んな人が
何か我慢したり、
苦しいと感じたり、
そんな気持ちを隠したり、
上手く表現出来ないまま心を家に持ち帰ったり、
そんな日がありながら生きていると思う。

そんな時の明日への気持ちは、
人によっては、「明日こそはきっと」なんていう
希望を含ませることもできるのかもしれないけれど
憂鬱な時が続くと「明日だって同じだ」と
重たく思ってしまうこともあると思う。

わたしはそんな時の
そんな誰かの、
そんな自分の、
明日の元気を作れる人になりたい
と思っていることに気がついた。


わたしのやりたいことを叶えようと思った時、
わたしの生きたい場所へ行くまでを考えた時、
たくさんの道があることに気がついた。


すると、
叶えられなくて気になっていた「将来の夢」たちへの未練のようなものはすうっと溶けて行った。
「今でいいんだ」「今から出来ることがいっぱいある」
という気持ちが
自分の肯定に少なからず繋がった。

わたしの現在までの過程に
わたしじゃない部分もない。
当時漠然と思い描いた夢を通して
きちんと根幹では繋がっていたのだ。
あの時のわたしも今のわたしに還ってきている。
つまり、全部わたしだ。


明日の幸せ、明日の元気のために、
どんなことをしようか。
わたしとわたしの身の周りの人達のために
何ができるか。

それは職業なのか。
それは言葉なのか。
それは行動なのか。

これが常にあるわたしの原動力だ。

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