わたしの「書く」

ゆっくり何かを考えたいとき
わたしは
言葉を紡ぐこと、タイピングをすることがすき。
書く、ということがすきなんだと認識している。


書く、ということについて考える。
ここでいう書く、はアウトプットのことだと自覚している。
紙に鉛筆を用いることだって
スマートフォンにタップすることだって
PCにタイプすることだって
言葉を紡げば
それはわたしにとって書くということ。

わたしは何を考えているのか、
それを言語化できないきらいがある。
自分の根底にある想いみたいなものを
口にしたいとあまり想わないところがある。
それをすごく不安に思うこともある。

取るに足らないことばを
口から捨てるように出して、
乱暴なことばを投げるように出して、
自分を強く見せることに執着していたことがあった。

今のわたしは口にするなら「たのしい」がいいと思う。
だから、昔の癖を抜く訓練をしている。
ニュートラルなときにふと出たことをSNSに書く。
自分に強がらない。
そういう訓練。

ただ、
「言語化にあたっておこる感情とのちいさなズレ」
「わたしだけが知っている宝物にしたい何かへの
 本当は口にしたくないのにという想い」
みたいなものがたまって
どうしたらいいか、わからなくなって
またそれを不安に思うときがくる。

わたしはそんなとき、なんでもいいから書きたくなる。
だから、詩を書いている時間は
たくさんの周りのものを見る。
見たものを書く。
書いているデバイスも紙も、
書くという結果、起こるなにものも
そのときのわたしには関係がないのだ。

見たという記憶が
見たものの質感や色が
その時のわたしの気持ちとしてタンクにたまる。
すると、すごく安心する。

「時計が動く」「スピーカーから震える音」「庭に赤い花」
――やっぱり、ほっとする。

わたしは、書くということがすきだ。



書く、ということについて考える。
ここでいう書く、は文字どおり動作のことだと自覚している。
書き写す作業がすき。
ペンを握り、思ったように動かす。
すてきな配置、角度に仕上がる。
「文字」というものになる。
魔法みたいな作業でだいすきだ。

タイピングゲームもすき。
指が絶えずに動かないといけない状態がすごくすき。
手が動いたつぎの瞬間に文字がでてくる。
おもしろい。ふしぎ。やっぱり魔法みたい。

たくさん手を動かして何かが起こる。
何かを起こしたくて、たくさん手を動かす。

そうすると、脳みそを感じる。
わたしの目が脳みそに「ここだぞ、ここに書くんだ」と
書く場所を見せているのを感じる。
手が動くための細かな筋肉のうごきを感じる。
体中がそんなふうに動くために
呼吸をして、栄養をとって、
血液が体中をめぐっているんだと
物理的に「わたし」を感じる。

魔法みたいな、魔法じゃないみたいな
わたしのせいだけど
わたしのせいじゃないみたいな。
ペンがなければ、
そういう仕組みの機械じゃなければ、
書くこともできないのに、
そこにわたしの手もなければ絶対に起こらなかった
奇跡みたいな出来事に感じる。

どきどきする。わくわくする。

今この文章を書いている時間だってずっと
そんな魔法みたいな奇跡みたいな出来事が
わたしの世界で起こっている。

わたしはどうしても、書くということがすきだ。

昔のわたしなら、全部ないしょのこと。
ちょっとずつ出していこうかなと思う。

自分から出ていったたくさんのことを拾い集めて、
あたらしい一つの宝物にしてまた自分に戻していく。

心のタンクに余裕をつくって
新しい魔法と奇跡を心にいれていくためのこと。


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