わたしの「がんばる」

「自分で思っているより世の中は」
ある時からわたしの頭の中には常にこのフレーズがあるように思う。

思っているより世の中は、
わたしを必要としていない。

わたしはそれをポジティブに受け取っている。
こうしなくちゃ、ああしなくちゃというものは
今まで少なからずわたしを消耗していた。
だから、これに気づいたときは本当に救われた気持ちになった。

わたしは「かけがえのないわたし」で
「世の中を動かす一員」ではあるけれど
時の神クロノスではないし、
世界の時間の流れを好き勝手できる能力はない。

こう思うと、
わたしのよくわからない、責任感?義務感?使命感?なんだろう、
とにかく、生きていていいのか悪いのかわからないあの不安感がなくなる。

思っているより世の中は、
悪意でばかりはできていない。

わたしが様々なことに恵まれているからだ、と言われたら
そうなのかもしれない。
なぜならわたしの友達は、本当にすばらしい。
あたらしい家族も本当にすばらしい。
わたしの経歴を知る人には、疑問符を打つ人もいるだろうが、
生まれ育った環境さえも本当にすばらしいと、わたしは認識している。

世界中みんな、言うほど暇ではない。
さほど忙しくもない。
だから、知りもしない他人に、目立つように生きてもいないわたしに、わざわざ悪意らしい悪意を向けてくる人は多くないように感じている。


SNSなどで多方面から情報を得ている人には
悪意が目に見える場所にあると思う。
それが世界の代弁であるように、裏を返せば自分にも向けられているかのように。
けれど、わたしの感覚では、それは世界の大多数ではない。
し、さらに言うと
「こいつを傷つけてやろう!」
「こいつを貶めてやろう!」と率先している人間は
ごくごく一部で、
殆どの人はその人自身の正義の上で言動していて、
それが他人を刺す言動である、という場合が多いように見える。

実際に自分が、肌に耳に触れる生活圏だと、余計にそうだ。
悪意らしい悪意はあまり多くない。
かと言って善意が多いということもない。

だから、傷つくことも多いし、知らないうちに傷つけていることも多い。
それゆえの心配事や、苦しみも多い。
だけど、思っているより世の中は悪意でばかりはできていない。

わたしはずっと、自分で本当の意味でそれを理解するまでは、
自分が世界で一番至らない、
唯一の汚点のような
不要物のような
憎まれて当然の、関わった人すべてを不快にする
卑しい生き物なのだから、
頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、
意義を、価値を少しでも「普通」にするために
頑張らなきゃ
わたしがダメなせいで誰かが理不尽に悪意を向けられないように
頑張って「普通」に擬態せねば
と思って生きていた。

文字通り、頑なに、張り詰めて。

でも、わたしが思っているほど、
世界はわたしを必要としていないし、
世界から悪意を向けられることはない。

それがわかった途端
せめてわたしの周りはたのしく、穏やかであれと
日々生きるのに精いっぱいになった。
負の感情にとらわれて「頑張って」いる場合ではなくなった。
他人が向けられているかもしれない悪意について
身動きが取れない程思い悩んでいられるほど人生に余裕がなくなった。

楽しく穏やかに過ごすためには、
楽しく穏やかなる環境を整える必要がある。

わたしにとってそれは視覚の中にあるものよりも
感覚や精神的な環境に比重が大きいようで
大丈夫なところにいるんだ
と安心するのが大切だった。

今のわたしの「頑張る」は頑なでも張り詰めてもいない。
たぶん、やっと「普通」に浸透している意味で、がんばる時に使えている気がする。

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