【日記】ドラえもんの二次創作

 妻の運転する車でドライブに行った。ご飯を食べただけで、大したことはしていなかったけれども充実した一日になった。帰って来て、妻がツイッターでリツイートした、「のび子ちゃん」というウェブ漫画を読んだ。名前から想像する通り、ドラえもんの二次創作らしい。検索すれば出てくるので、ぜひ読んでほしい。とてもいい話だった。
 ピクシブでその漫画を描いた人がいて、それを感想付きでツイートした人がいて、それのリツイートを見たのだが、元のツイートをした人が、
・なぜ、ドラえもんの世界でこの話を描いたのか
・ドラえもんは、ほとんど出て来なくてこの話の中でほとんど機能していない
 という旨の感想を書いていた、総評としては、とても感銘を受けたことは確からしい。自分も読んでみて、いい話だと思った。

 のび太は、生まれた性別は女だったのだが、「女の子するのが面倒」だったので、おそらく小学生に入る前から、男の子として振る舞っていた。だが、それが出来なくなってきたので、中学に入学した時に、思い切って、周りの友人関係はほとんど変わらない状態で、「のび子」という、本来の(?)性別に戻り、生きていくことを決めた。話はそこから始まる。
 のび子の次にウェイトを置かれているのは、何と出木杉だ。
 出木杉は、中学に入ってから、だんだん学業その他が上手くいかなくなってきた。ジャイアンでさえ、得意のスポーツで推薦を取ろうと目標を定めて成功しつつあり、のび子に至っては、「メカの作れる」高校に入学するため、学業に専念しだし、ついに出木杉を追い越してしまう。
 出木杉は、これは普通の男子学生と同等くらいなのだろう、性欲の波に呑まれてしまい、他の学生にも抜かれるようになってしまう。
 異性として、のび子を意識しだす。だが、そこには憎しみも含まれていた……

 話の大筋はこんな感じだった。ドラえもんは、既に彼らの中心にはいなかった。いなくなった経緯は分からない。のび子が、この性別の他称というのか、それをした後、その変化についていけなくなった時に、幻影として現れてくる。
 のび子は、成長すること、女の子として生きていくこと、それらすべてから、何というのだろうね、ドラえもんに解放してもらいたがったが、幻影のドラえもんは、「それはできない」といって突き放し、やがて消えてしまう。

 まず、なぜドラえもんの世界を利用して、この物語が描かれたのか。僕はこれは明確だと思う。ドラえもんの世界は、男の子を中心として書かれた、かなり性的バイアスのかかった世界であるにもかかわらず、それが万人の子供の頃の景色であるというような顔をしているから、それをひっくり返す必要を感じた、というか、そこに一番インパクトを与えることができると感じたのだろう。
 第二に、この物語において、ドラえもんは何の道具も使わず、ただ幻影として現れただけだから、いわばチョイ役としてしか出て来ずキャラとして機能していない、という言い方ができるか。僕はこれも、そんな事はないと言える。
 この世界における、というか、もともとの原作世界からそうだと思うのだが、ドラえもんの機能とは何か。それは、どんなひみつ道具を出すか、秘密道具を出す能力があるのか、という所に本質はないのではないか。本質は、身近な人の「願いをかなえてくれる」存在であること、そして、無性的な存在であること、永遠の友人であること。
 いわば、第二の親であり、友人である。子供時代独特の、つまり、性別がはっきりと生み出される前の、誰もが友人であった世界の象徴として、ドラえもんはいる。
 ドラえもんが不在であるとは、つまり、もう性別が分かれて、機能し始め、誰もが友人であるというわけにはいかず、親との関係は、「どんな願いもかなえてくれる」ものではなくなる、ということだ。
 最後の場面で、ドラえもんは、ものすごく普遍的で、つつましい一つの願い、「大人になることの苦しみ」「性別を持つということの苦しみ」から解放してほしい、という、叶わない願いを、単純に告白するためだけに出てきた。そして、「それはできない」と、やはり単純に言うことになった。
 苦しみは、抱えながら生きていくしかない。そう宣告して去る。これは、あの時期ののび子に一番必要な言葉であったことを思えば、全体として、あのとき必要な願いを叶えていた、ということにもなろう。
 ドラえもんの不在と、ほんのわずかの再会は、これ以上ない彼らの関係性の表現になっている。

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