【読書録】中井久夫『私の日本語雑記』1

 嫁が、いつだったかに、まだご存命である、中井久夫に、直接会いに行くということを発想したことがあった。嫁は精神科医療の仕事に就いている。著書を読んで、ただならぬ人だと感銘を受けて、現在の職場の現状に倦んだこともあるのだろう、そういう発想に至ったのであろうが、僕にはとんでもないことに思えた。
 まず、一私人と面会するには、相応の理由が必要であろうという当然の事実は、嫁の頭にはなかったらしい。私塾を開設している人でもないのだ。だが、その決定的な障壁を取り除いてなお、一体我々が、というのは、もちろん自分だってその著書に影響を受けて来たので、有意義な会話や知見が得られればそれに越したことはないが、それを得るだけの身体的聴力、そして精神的張力を、持ち得ているのだろうか、簡単に言うなら、何か相応の疑問というものを持っているのだろうか。もしそれがなければ、その人は遠ざかり、気のいいご老人との会話に終始することだろう、柔道の段位を持つものは、その必要がない限り、最大限の技術や知識を使うことはない、その瞬間にしか、その段位たらしめているものは現れてこない。そして、今もそうだが、この一人物の中に存在している、多様性、というとあまりに簡単になってしまう、精神医学をもちろん中心としていながらも、持っている広がりとその有機的つながりを感じると、未知のものに触れたような怖気が先に立ち、とても嫁が発想したようなことは思いもよらない。しかし、本職であれば、何か切実な疑問も浮かび上がるのかもしれないが、それにしても……
 前置きが長くなった。今回は、そのくだんの中井久夫先生が、2010年に著し、今年の頭に文庫化された『私の日本語雑記』を、読んでみて、いつも私が持つ浮薄な興味である、自分の語学的な知見や技術が少し向上すればいいな、といった軽い気持ちで読んだ所が、全くそんな考えが吹っ飛んでしまい、正面を切ってこの本の一行一行の醸す、論理の匂いのようなものを解明しなければと思った、過程のようなものを書いていきたいと思う。(続く)

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