臭い

 臭いが気になって仕方がない。

 臭いといっても誰かや何かの臭いではなく、私自身の臭いのことだ。臭いが気になり始めたのはさいきんのことで、きっかけはほんのささいなことだった。通勤で利用している公共交通機関で、空いている席に座ったとたん、隣に座っていた人間が突然立ち上がって行ってしまったのだ。私はもちろん毎日しっかりシャワーを浴びているし、服にだって毎日消臭スプレーをかけている。どちらかといえば臭いには人一倍敏感な方なのだ。それだけに私のショックは大きかった。私は自分の臭いを嗅いでみたが、当然何の臭いもしなかった。無臭と言ってもいいくらいだった。「まあ、私の勘違いか何かなのだろう」と思って、そのときはそのまま会社へ通勤した。

 でも、確かに自分の臭いはそのときを始めとして、他人を不快にさせる何かを含むようになったようだった。公共交通機関で席に座れば、必ず隣の人間は席を立って移動してしまうし、会社でも私が近くを通るたびに周囲の人間が嫌そうな顔をした。コンビニやスーパーで買い物をしていても周囲の人間の目線が気になったし、カフェやバーに行っても私の近くのテーブルに座る人間はほとんどいなかった。

 しかし、不思議なことに特に誰かから何かを言われるというわけではなかった。(直接的にであれ間接的にであれ、他人にそのようなことを言うのはある種の勇気が必要なことだろうが)直接的にも間接的にも、「あなたの臭いは臭いです」と言われたことは一度もない。

 だが、確かに人々は私のことを避けているのだ。

 私はそれからというもの、臭いにはより気を遣うようになった。夜だけではなく、朝にもシャワーを浴びるようにした。頭のてっぺんから手足の先までこれ以上はできないだろうというくらいしっかり洗った。ボディソープやシャンプーもより臭いに対して効果的なものに変えたし、服にかけていた消臭スプレーもより強力なものにした。

 「これで大丈夫だろう」と私は思った。ここまで臭いに気をつければ、周囲の人々が私を避けることもなくなるだろう。

 しかし、人々は相変わらず私のことを避け続けた。公共交通機関では隣の席の人間は必ず移動するし、会社ではこれまでと同じように嫌な顔をされた。コンビニやスーパーではレジに並んでいても周囲の人間の目が気になったし、カフェやバーでも誰も私の近くのテーブルには座らなかった。

 「どうして」と私は思った。どうして周囲の人々は私のことを避け続けるのだろう。臭いの対策に関しては100パーセント完璧なはずだ。夜にも朝にもシャワーを浴びている。ボディソープやシャンプーや消臭スプレーにも気をつけている。自分で自分の臭いを嗅いでみても、特に異臭らしき異臭はしない。でも、一般的に「自分で自分の臭いに気がつくことはできない」と言われているのも確かだ。それなら他人に自分の臭いを確認してもらって、臭いのであれば「臭い」と言ってもらって構わないし、臭くないのであれば「臭くない」と言ってもらえばいいだけの話だ。

 だが、一つ重要な問題があった。私には自分の臭いを確認してもらうような親しい人間が一人もいないのだ。もちろん恋人はいない。友人も一人もいない。犬や猫だって飼っていない(そもそも私の住んでいるマンションではペットを飼うことが禁止されている)。それなら誰に確認してもらえばいいというのだ。

 病院に行くことも考えた。でも何科に行けばいいのだろう。内科に行けばいいのだろうか。それとも精神科だろうか。そもそも医者にどうやって説明すればいいのだ。「私は自分の臭いが気になります」とでも言えばいいのか。内科に行っても精神科に行っても、それで何とかなる問題だとは私には考えられなかった。この臭いは何かしらの病気ではないのだ。

 私は臭いを気にすることをやめた。

 他人は私のことを避け続けた。私はもう「避けるなら避けてくれ」という気持ちになっていた。元々私は誰かとコミュニケーションをするのが好きな性格ではない。どちらかといえば何をするにしても一人でやる方が好きなタイプだ。いまさら他人に避けられたところで別に支障はない。むしろ避けられたままでいた方が快適だとすら言える。「オーケー」と私は言った。

 私は臭い。



thx :)