名前のよくわからないもの

 名前のよくわからないものと生活している。

 元々私は一人暮らしなのだけれど、名前のよくわからないものがやって来てからは二人で生活している。あるいは一人と一匹というのが正しいのかもしれないけれど、そもそも名前のよくわからないものの数え方として、「一匹」というのが合っているのかどうかすらわからない。もしかしたら「一個」という方が正しいのかもしれない。私には名前のよくわからないものが生物なのか物体なのかさえわからないのだ。

 仕事からマンションに帰ってきて、名前のよくわからないものを発見したときには、何がどうなっているのかまったくわからなかった。ただ、何かが「いる」か「ある」ということはわかった。しかし、私の語彙では「それ」がいったいどういうものなのか表現することができなかった。それでも、あえて表現するとしたら、「べたべた」していて「ぐちゃぐちゃ」していて「ぬちゃぬちゃ」していて「ぬるぬる」しているもの、ということになる。オノマトペでしか表現することができないくらい、本当に「それ」はよくわからないものだったのだ。

 これは何だ、と私は思った。

 私は「それ」を部屋から追い出そうとした。まず、箒とちりとりで「それ」をつつき回して、ドアから追い出そうとした。しかし、「それ」を部屋から追い出すことはできなかった。一旦部屋から追い出しても、ドアのすきまから戻ってきてしまうのだ。それから掃除機を使って「それ」を吸い込もうとしてみた。でも、「それ」を吸い込むことはできなかった。掃除機が壊れる前にスイッチを切った。

 つぎに私は「それ」を殺そうとした。害虫や害獣と同じだ。追い出すことができないのなら、申し訳ないけれど殺してしまうしかない。私はありとあらゆる方法をこころみた。手で叩いたり、足で踏み潰したりした。ファッション雑誌で叩き潰したり、ゴキブリ用スプレーを吹きかけたりした。バスルームに運んで、ケトルで沸かした熱湯をかけたり、バケツいっぱいの氷水をかけたりした。トイレに流してしまおうともした。

 ついに私はあきらめた。

 公安に通報して、「これ」を何とかしてもらおうとも考えた。あるいは業者に連絡して、「これ」をどうにかしてもらおうとも考えた。でも、私はあまりに疲れすぎていた。ちょうど仕事で新しいプロジェクトが始まるところで、私はそれに参加することになっていたのだ。色々な準備やら何やらで忙しく、この数日はまともに食事も取っていなければ、まともに眠ることもできていなかった。「これ」にこれ以上労力を費やす体力は残っていなかった。

「いい」と私は言った。

「いるならいなさい。いなくなるならいなくなりなさい。もう何でも君の好きなようにしてくれればいい」

 私はルームウェアに着替えた。キッチンでレトルトの食品を作り、テーブルに座って食事をした。その後、風呂に浸かって、シャワーを浴びて、顔を洗って、歯を磨いた。それから、ベッドで眠りにつこうとした。しかし、眠ることはできなかった。

 「これ」をどうするべきなんだろう、と私は思った。

 第一、公安に通報するにしても、業者に連絡するにしても、いったいどのように説明をすればいいのだ? 「変なものがいるんです!」と言う以外に説明のしようがない。

 とりあえず私は「これ」に名前を付けることにした。「名前のよくわからないもの」。

「君の名前は『名前のよくわからないもの』だ」

 ベッドで目を閉じたまま、私は「名前のよくわからないもの」に言った。「名前のよくわからないもの」は何も言わなかった。私はそのまま眠ってしまった。

 でも、いつになっても、私はどこにも連絡しなかった。

 平日は相変わらず仕事で忙しかったし、休日はプライベートの予定こそなかったけれど、せっかくの週末を業者や警察とのやりとりで無駄にしたくなかった。別に名前のよくわからないものは何かを汚したり、壊したりもしなかったし、特に私に危害を加えるということもなかった。私には友人も恋人もいないし、犬や猫の一匹も飼っていない。地方に住んでいる身内ともほとんど疎遠になっている。名前のよくわからないものと生活を営むことに、私はだんだんと慣れてきてしまっていた。

 名前のよくわからないものはまだ私のマンションに住み続けている。

thx :)