文章を書くことについての覚書(あるいはマヨネーズ)

 文章を書く。

 それは誰の(あるいは何の)ためなのだろう。

 もちろん第一には自分のためだ。村上春樹が『風の歌を聴け』の中でおよそ半世紀前に書いたように、それは「自己療養へのささやかなこころみ」だからだ。そして、半世紀後の物書きの端くれとして、私が文章を書くということに新たな定義を追加するのであれば、「自己解放へのささやかなこころみ」という表現を使ってもさしつかえないかと思う。

 村上春樹の言う「自己療養」というのはある意味ではわかりやすい喩えだろう。文章を書くことによって、自分自身の暗闇の中にあったものを明るい光のもとに引っぱり出し、それを詳細に分析・検証すること。そして、そこから何かしらの結論を引き出し、次のステップに進んでいくこと(もちろんここで引き出された結論というのはあくまでも仮りそめのものに過ぎない)。

 それでは、はたして「自己解放」というのはどういうことかと言うと、例えばこういうことだ。

 ばか!

 あほ!

 まぬけ!

 ごみくず!

 あくまでこれは一つの例だけれど、そのつもりにさえなればこういう文章を書くこともできるということ(高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』は私の定義するところの『自己解放』のもっとも成功した例の一つと言っていいと思う)。

 そしてもう一つはあなたのためだ。あなたというのはいま現在このテキストを読んでいるあなたのことだ。恐らくではあるけれど、私はあなたに何かしらのものごとを伝えたくて、このテキストを書いているのだと思う。あるいはあなたに伝えたいことなんて何もないのかもしれない。それはわからない。

 要するに、私はある意味では自分のためにこのテキストを書き、ある意味ではあなたのためにこのテキストを書いている。

 もしかしたらこのような内容は読者にとってはおもしろくも何ともないのかもしれない。でも、私としてはまず「文章を書く」ということを簡単にでも定義するところから始めなければいけなかった。それだけはどうかわかってほしい。

 恐らく私は(本当の意味では)まともに文章を書くことができない人間なのだ。少なくとも私には「文章を書く」という営みを100パーセント信頼して何かについて書くことはできない。まず「文章を書く」という営みそのものを疑ってみること。全てはそこからしか始められないのだ。

 例えてみれば、私の書くような詩や小説やその他あらゆる文章は、誰にも発見されない無価値な化石のようなものなのかもしれない。未来永劫、インターネットで爆発的に拡散されることもなければ、詩壇だか文壇だかで評価されることも生涯ないのかもしれない。

 それでも私は一種の宿痾のようなものとして、文章を書き続ける。誰かの(何かの)ために。あるいは誰の(何の)ためでもなく。

 追伸:あげるの忘れてしまって、ごめんなさいね、例のマヨネーズ(リチャード・ブローティガンに敬意を表して)。


thx :)