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はる、なつ、あき、ふゆ、そしてまたはる(14)

 恋人とひどい喧嘩をしたことがあった。

 喧嘩のきっかけはもういまとなっては思い出せないくらいささやかなことだった(たとえばどちらかが買い物で買うべきものを買ってこなかっただとかそれくらいのことだ)。しかし、我々はその「ささやかなこと」を巡ってはげしく言い争った。お互いがお互いを激しく憎んだ。これまで言ったこともないような罵倒表現をお互いが口にした。近所の人たちが警察に通報するんじゃないかというくらいの声で叫び合い、一時は取っ組み合いさえした。私は恋人に殴られ、恋人は私にひっぱたかれた。それくらいひどい喧嘩だった。

 ついに恋人は「もうあなたとは暮らせない」と言った。私も私でヒートアップしていたので「好きにすればいい」と言い返した。そして恋人はさっさと荷物をまとめて、我々の暮らす世田谷のアパートから出て行った。私は大きな音を立てて閉まったドアを見ながら、「どうせ明日あたりには帰ってくるだろう」と思っていた。友だちのアパートだかビジネスホテルだか、どこに行くのかは知らなかったが、とにかくどこかに一日泊まってくれば、明日にはクールダウンして帰ってくるだろう。

 しかし、恋人は翌日になっても帰ってこなかった。LINEを送っても、電話をかけてもつながらなかった。友人に連絡をとっても何も聞いていないと言われた。こころあたりのある近場のビジネスホテルに電話をしても、恋人の名前では宿泊記録はないと言われた(あるいは個人情報を保護する観点からマニュアル上そのように答えるシステムになっていたのかもしれない)。

 とにかく恋人は――100パーセントそのままの意味で――失踪したのだった。

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thx :)