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キュー氏の(非常に)奇妙で複雑な一日(1)

 キュー氏=私はすぐに何かがおかしいことに気がついた。配偶者が全くの別人になっていたのだ。一瞬、何かの勘違いかと思った。しかし、何度見ても配偶者はいままで知っていた人間とは全く別の人間になっていた。そもそも目鼻立ちが全くの他人だったし、背格好も全く違っていた。間違いなく昨日までとは違う人物だった。

「どうしたの?」と配偶者は私の動揺を隠しきれない様子を見て言った。

 私と配偶者は朝食を摂ろうとしているところだった。配偶者はキッチンで目玉焼きとベーコンと鮭を焼いてくれているところだった(それが毎日の決まったメニューだった)。私はベッドから起きてきてキッチンにいる(全くの他人としての)配偶者を発見したのだ。

「別に何でもない」と私は言った。

 しかし、朝食を取っている間も私は配偶者の顔を確認せずにはいられなかった。どう見ても他人の人間が配偶者の振りをしているのだ。確認せずにいられるわけがない。どうしてこんなことが起きたのか、私には全くわけがわからなかった。昨日までの世界では(原発やセクシュアル・マイノリティや気候変動やメンタルヘルスなど数えきれないほどの問題を含んでいるにはせよ)全ては滞りなく進んでいたのだ。

 あまりにも自然に配偶者がテーブルの向かいに座っているので、私はだんだんと本当に自分の勘違いなのではないかと思い始めてきた。配偶者の目鼻立ちや背格好が違う気がするというだけのことで、本当は何も違ってなんかいないのだ。そう考える方が筋が通っていた。まともに考えて昨日と今日で配偶者が全くの別人になっていることなんてありえないだろう、と私は自分で自分に言い聞かせようとした。

 でも、それは無理な相談だった。どう見ても他人であるところの人物が自分といっしょに暮らしていることになっているのだ。私が何か異常な病気になって頭がおかしくなったのでなければ、100パーセント間違いなく配偶者は他人になっていた。だが、外見上は全くの他人になっていても中身まですり替わっているということではないようだった。仕事の話、ニュースの話、冷蔵庫の中にある食材や飲み物についての話、皿洗いや洗濯に関する話など、毎朝交わしているような会話を問題なく交わすことができたからだ。

 もしかしたら夢を見ているのかもしれない、と私は思った。

 通勤電車の中で私はまたしても異変に気がついた。乗客たちが使っているスマートフォンが違うのだ。私が知っているiPhoneやAndroidなどのスマートフォンとは微妙に何かが違う気がした。何が違うのかと聞かれても具体的に指摘することはできないのだが、それでも確実に何かが違う気がした。 

 スマートフォンだけではなかった。SNSも全く知らない名前のサービスになっていた。TwitterやFacebookやInstagramなどというSNSはどこにも存在しなかった。Googleで検索してみたが(ありがたいことにGoogleは存在していた)やはり検索結果にも出てこなかった。しかし、なぜかその名前も知らないSNSのアカウントを私は持っていることになっていた(TwitterやFacebookやInstagramに投稿していた内容がそのまま代替の新しいサービスで投稿したという事実にすり替わっていた)。

 私はようやく「これは夢なんかではないのだ」ということに気がついた。

 会社に着いても状況は同じだった。何もかもが微妙に違っていた。まず私の役職が違っていたし、業務も違っていたし、部下や同僚や上司も別人になっていたし(配偶者と同じように外見が違うだけで中身はそのまま引き継がれていた)、そもそも会社の名前が違った。オフィスも違ったし、席の配置も違ったし、パソコンの機種も違ったし、使っているソフトも違った。全てが完璧なまでに微妙に違った。しかし、私は一切の滞りなく仕事をすることができた。頭は非常に混乱しているのにも関わらず、体は仕事を覚えているようだった。

 私はパソコンのキーボードを叩いて仕事をしながら、なぜこんな状況に陥ってしまったのかを考えてみた。まともに考えてこんなことが起きるのはありえないのだ。それにこの異常事態に混乱しているのは私だけのようだった。配偶者や電車の乗客や会社の人間たちは、自分が昨日までと別人になっていることや社会のさまざまな部分が変更されていることに対して、何も混乱している様子はなかったし、むしろ「いままでずっとこうだったのだしこれからもずっとこうなのだ」という態度だった。

 第一に考えられるのは私の頭がおかしくなったということだった。精神疾患について詳しいわけではないが、恐らくこういった症状が見られる何かしらの精神疾患があるのかもしれない。しかし、私は自分が精神病になったとは信じられなかった。

 第二に考えられるのは――私はむしろこちらの説の方が有力だと考えていたのだけれど――パラレル・ワールドに迷い込んでしまったということだった。まるで通俗小説やエンターテインメント映画のような仮説だったが、自分が精神病になったと信じるよりは、パラレル・ワールドに来てしまったと信じる方が簡単だった。恐らくは昨日眠って今日起きるまでの間に、何らかの原因によって私はいままでのAという世界からBというこの世界に移動してしまったのだ。私がいま直面している全ての異常事態は「パラレル・ワールド説」で説明がつく。

 私はいままで自分のことを一応はまともな人間だと信じて生活してきた。多少常識と違う考え方をしたり、些細な性格上の欠陥があるにはせよ、奇人変人というわけではないだろうというつもりで人生を送ってきた。だから、何かにつけてもそこまで定石を外したような思いつきや考え方をする方ではないつもりだった。しかし、現在体験している状況を全てクリアに説明するには、「パラレル・ワールド」という、とうていまともとは言えない概念を持ってくるしかなかった。

 OK、と私は混乱した頭で考える。要するに私はパラレル・ワールドに迷い込んでしまったのだ。

 私は定時で仕事を切り上げると街に繰り出した。携帯には配偶者からメッセージが届いていた。「友人と食事をしてくるので遅くなります」。確かに前から配偶者は「近々友人と食事をする」と言っていた。しかし、もう私は配偶者のことを元の配偶者だとは思えなくなっていた。当たり前だ。外見も背格好も違う人物をどうして同一人物だと認識できるというのだ。私はメッセージを返さずに携帯をポケットにしまった。

 あてもなく私は街をさまよった。仕事中にも色々と考えていたのだが、いま私が最優先にしなければならないことはこのパラレル・ワールドから元の世界に戻ることだった。しかし、元々私は自分でこのパラレル・ワールドに移動してきたわけではない。従って元の世界にまた移動する方法もわからない。そうこうしているうちに私は知らない場所にまで歩いてきてしまっていた。毎日通勤や退勤で使っている道とは違う道に迷い込んでしまったみたいだ。そこは飲み屋街のようだった。ひとまず私は「営業中」と札が出ていた「見張り塔」というバーに落ち着くことにした。

 「見張り塔」の店内は狭くはあったが非常に清潔だった。ブルーが基調になっている洒落た内装、カウンター席の前に数脚並んでいる赤いスツール、ジミ・ヘンドリックスがライブをしている写真のポスター(恐らくウッドストック・フェスティバルのときのものだ)、ダリの絵画の複製(恐らくダリだと思うが私は美術に詳しいわけではないので確信を持ってそうだと言えるわけではない)。客は誰もいなかった。私はいちばん奥の席に座ってハイネケンを注文した。ビールはすぐに出てきた。そして私は酒を飲みながら煙草を吸い始めた。とにかく落ち着く必要があった。しばらくしてマスターが「お通し」と言って簡単なつまみが載った皿を出してきた。私は思いきってマスターに話しかけてみることにした。

「さいきん何か変わったことはありませんでした?」

「変わったこと?」

 マスターは何かを思い出そうとしているように目を細めて私のことを見た。きっと私のことを前に一度来た客だと思ったのだろう。一般的に言って初対面の人間は「さいきん何か変わったことはありました?」とは聞かないからだ。しかし、しばらくしてマスターは思い出すのを諦めたようだった。そして何か変わったことがなかったかどうかを考えた。

「ぼく自身には別に変わったと言えるようなことは何も起きてないけど、一つ挙げるとすればボブ・ディランが死んだことじゃないかな。この店の名前も元はと言えばディランにちなんでいるわけだからね。あれはショッキングな出来事だった」

 私はマスターの顔をまじまじと見つめた。マスターも私の顔を見つめた。この世界ではボブ・ディランはついこの間死んだことになっているのだ、と私は思った(私の元いた世界ではボブ・ディランはノーベル文学賞を受賞して現在もネバーエンディング・ツアーをしているところだったと思う)。

「特にボブ・ディランのファンではないのであまりニュースを追ってなかったんですけど、死因って何だったんですか」と私は試しに聞いてみた。

「結構大きなニュースになったのに」とマスターはびっくりしたように聞き返した。

「さいきん忙しくてニュースを見ていなかったんです」

「ディランはNYで銃撃されて殺されたんだよ。まるでジョン・レノンみたいにね。ネットニュースで見たところでは、ディランを撃ったのは狂信的なファンだったと言われているみたいだけど、特定の政治的思想を持った人間だったとも言われていて詳しいところはまだわかっていないそうだ。もしよかったらYouTubeに銃撃の瞬間の動画が上がっていたと思うから、気になるなら見てみるといい」

 そこでバーの扉が開いて新しい客がやって来る。「いらっしゃい」とマスターが言う。新しい客は私と同じ一人客で、私とは反対側のいちばん手前の席に座る。「ジョニー・ウォーカーの黒をロックで」とその客は注文する。そしてウィスキーが提供されるとその客も煙草を吸い始める。私と同じアメリカン・スピリットのペリックを吸っていた。相手もそのことに気づいたようで煙草のパッケージを持ち上げて私に微笑みかけてくる。

「同じだ」

「同じです」と私は返事をする。

 その客はケー(K)と名乗った(一応ではあるがプライバシーに配慮してイニシャルでの表記とさせていただく)。IT関係の中小企業に勤めているという話だった。軽い世間話のような話をする中で私も自分のことをケーに紹介せざるをえなかったのだが、いまの私には正直に自己紹介をすることができなかった。配偶者も変わってしまっていれば、職場も変貌してしまっているのだ。かろうじて自分自身のみが自己を定義するものとして残っている状態と言ってもいい。そんな人間にまともな自己紹介などできるわけがない。私は配偶者のことや仕事の話を適当にでっち上げてケーに話した。どうせこの場限りの相手だ。嘘がばれる心配もないだろうし、仮にばれたところでどうということもない。ケーにしたところで本当のことを話しているわけではないのかもしれない。ケーは自分はつまらない勤めびとで趣味もほとんどないのだと言った。独身で自由をもてあましてはいるが、人生に刺激がなくこれといった目標も見当たらないのだと語った。私は話半分に聞きながらビールをゆっくりと飲み、煙草を何本か吸った。

「ところで」としばらく雑談をした後でケーが言った。

「何でしょう」

「ゲームに興味はありませんか?」

「ゲーム?」

「ロシアン・ルーレットです」

 ロシアン・ルーレット、と私は思う。

「ほら、拳銃に銃弾を一個だけ詰めておいて、こめかみに押し当てて引き金を引くゲームです。何となくイメージがあるでしょう」

「ロシアン・ルーレットはわかりますけど、拳銃なんていったいどこにあるんですか?」

「ここにあります」と言ってケーはポケットから拳銃を取り出し、カウンターの上に置いた。

 私は一瞬拳銃を見て、次にケーの顔を見た。ケーは柔和な微笑みを浮かべて「おもちゃです」と説明した。

「おもちゃはおもちゃですが、ロシアン・ルーレット用のものです。こめかみに当てて引き金を引くと通常なら『カチッ』と音がします。これは空を引き当てたということを意味します。しかし、『バンッ』と音がしたときには、銃弾を当ててしまったということになります。その場合は負けです。ひまつぶしに一回だけどうです?」

 私はケーがおもちゃだと説明した拳銃を見た。それはかなりリアルだった。ほとんど本物みたいに見えた。私はケーにことわってから拳銃を手にとってみた。おもちゃにしてはかなり重かった。この拳銃は本物なのではないかと私は思った。しかし、非銃社会のこの国で、本物の拳銃がどこからともなくいきなり現れるなんてことはありえないだろう。それともこのパラレル・ワールドではこの国は銃社会になっているのかもしれない。しかし、そんなことをいちいちケーに確認したら確実に頭がおかしい人間だと思われる。第一、わざわざ本物の拳銃を用意してまで、初対面の人間にロシアン・ルーレットを吹っかける人間がいるとは考えにくい。もしいるとしたらそれはただの狂人だ。

「わかりました」と私は言った。

「一回だけなら」

「そうこなくっちゃ」

 ケーは微笑んで財布からコインを取り出した。そしてコイントスの結果、私が先攻でケーが後攻ということになった。私は拳銃を手にとってこめかみに押し当てた。しかし、おもちゃだとわかってはいても、なかなか引き金を引くことができなかった。 

「6分の1の確率ですから大丈夫です」とケーは言った。

「ひと思いに引き金を引いてください」

 そう言われて私は意を決することにした。つまるところただのゲームなのだ。指に力をこめて引き金を引くと「カチッ」と音がした。空だった。

「次は私の番です」

 ケーは私から拳銃を受け取ると素早く引き金を引いた。「カチッ」。

「それではまたあなたの番です」

 そうしてロシアン・ルーレットは順調に進んでいった。私、ケー、私、ケー。しかし、そこまでゲームをしても「当たり」は出なかった。「なるほど」と言ってケーは拳銃を手にとって中を確かめた。マガジンを引き抜くとそこから弾がぱらぱらと出てきた。それは素人の私にもわかるくらい100パーセントリアルな本物の拳銃の銃弾だった。私はびっくりしてケーを見つめた。ケーは何でもなさそうに肩をすくめた。

「驚かせて申し訳ありません。実はこの拳銃はれっきとした本物なんです。あなたが本当にあなたであることを確認したくて、それであなたを騙してしまいました。そのことについては謝ります」

 私は何も言えなかった。本物の拳銃? 私が私であることを確認する?

「私は恐らくあなたが必要としている助けをあなたにもたらすことができると思います」とケーは言った。

「あなたはここではないどこかへ行きたいと思っている。いや、ここではない別の世界に戻りたいと思っている。そうでしょう?」

 またしても私は何も言えなかった。ケーというこの人物はいったい何者なのだ?

「黙って着いてきてください。そうすれば私はあなたを元の世界に帰してあげることができると思います」

 ケーはそう言ってカウンターに代金を置いた。そこには私の支払いの分も含まれていた。私にはもう何も選ぶことができなかった。パラレル・ワールドから元の世界に戻るには恐らくこの人物の言うことに従うほかないのだ。例えろくでもない世界にせよ、私にとってはやはりここは別の世界なのだから。

「わかりました」と私は言った。

 ケーと私は「見張り塔」を出た。月が20世紀の前衛絵画の中のオブジェのように夜空に浮かんでいた。

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thx :)