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レミング(第二部)

 坂本を必ず殺す。

 藤原が自らを殺したのと同じ方法で(つまりカッターナイフを使って)、坂本をこの世界から排除するのだ。それ以外に手段はない。坂本という人物はこの世界におけるもっとも巨大な悪を象徴する一人なのだから、私が圧倒的な偏見でもって断固抹殺しなければいけない。

 坂本の殺害プランは明確かつ単純だ。何らかの方法で坂本を一人きりの状態でおびき出し、すきを見てカッターナイフを首に突き刺す。もし可能であれば頸動脈の辺りを狙って一撃で仕留める。その後のことはまたその後で考えればいい。以上の方法はイスラム国が以前にアップロードしていた動画で学んだ(アラビア語は理解できなかったがボランティアが日本語字幕を付けてくれていたのでそれで理解することができた)。別に思想に共感しているとかでは全然なかったけれど、イスラム国の戦闘員が伝授する殺人のテクニックは、非常に実践的でわかりやすかったのだ。私は動画を見ながら何回もシミュレーションして、頭と体に全てのアクションを叩き込んだ。最終的には動画を見なくても全てのアクションを行うことができるまでになった。

 しかし、私はまだ少年法で保護されている身分とはいえ、罪を犯せば何らかの罰を受けることにはなるだろう。でも私はそれで構わない。私はもうそう決めたのだ。

 藤原、と私は思う。藤原の顔つきや色々な表情や仕草を思い出す。珍奇な喋り方や肩のすくめ方や猫背ぎみの姿勢や独特の歩き方を思い出す。藤原の豊かな知性ゆえの過剰なまでの引用癖や、社会や芸術に対する感性の鋭さを思い出す。本当に藤原という人間は神に祝福されて生まれ、世界に呪われて死んでいった子どもだったのだ。

 藤原、私があなたに代わってこの世界に復讐してあげる。

 ところで「#Lemming」のムーヴメントはいまだに収まる気配を見せていなかった。それどころかますます加速しているような印象だった。サロ=藤原はSNS上ではわりと影響力のあるアカウントだったから、ウェルテル効果とまではいかないにしても、藤原の影響で自傷行為や自殺未遂をしているアカウントは複数確認できた。私がチェックしたネットニュースによれば、日本に限らず、欧米やアジア圏でも、このハッシュタグによる影響は局所的ながら甚大なものだった。サロのように自殺配信をする者、オーバードーズや自傷行為の画像をアップロードする者、毎日のように「死にたい」と投稿を繰り返す者……。もはや誰にも止めることができないほどに「#Lemming」は世界全体をゆっくりと、静かに、しかし確実に覆い始めていた。

06:00

  坂本殺害計画の実行当日、私はいつもよりはやく目覚めてしまう。ベッドの上でスマートフォンを確認すると、まだアラームは鳴っていない。恐らく私は緊張しているのだ。そのまま再び眠ろうとしても、上手く眠りにつくことができない。私はまぶたを閉じたまま、今日一日の段取りをもう一度確認した。何度も繰り返し確認した。私にこんなことができるだろうか、と私は思う。こんなことをすることが本当に私にとって重要なことなんだろうか、と私は思う。大丈夫、と私は自分に言い聞かせる。絶対に大丈夫、と私は何回も自分に言い聞かせる。

07:00

 私はベッドから這い出すように起きて、リビングでトーストを食べる。いつもよりたっぷりマーガリンとジャムを塗って食べる。食後に濃いコーヒーを飲む。いつもの朝のルーティンだ。しかし、トーストもコーヒーもなぜかいつもとは味が違うように感じられる。トーストはトーストのようでトーストではなく、コーヒーはコーヒーみたいでコーヒーではなかった。手が震えて、脚がこわばっているのが自分でもわかる。私は最終的にコーヒーを半分だけ残して学校へ行くことにする。

07:30

 通学電車の中で坂本の恋人の松井が遠くに座っているのを発見する。松井は友人数人といっしょに幸せそうに話をしていた。私と松井とは別のクラスだったので、直接話したことはないけれど、松井はいつ見ても幸せそうな顔をしていた。両親との関係性も、学校での勉強も、友人とのコミュニケーションも、恋人の坂本との関係の進展も、全てが完璧に上手くいっているという雰囲気だった。松井のような人間は私や藤原とは全然違った場所からやって来て、全然違う場所へ行く人間なのだ。順調に行けば松井はこのまま田舎の高校を卒業して、早稲田だか慶應だか知らないが、とにかく東京の名前が知られた大学に行くことになるだろう。

 松井は恐らく坂本が藤原に対してやっていたことを知らないのかもしれない、と私は考えていた。私の独断と偏見にはなるけれど、松井のような清廉潔白で純粋な人間は、坂本がやっていたことの全てを知ったとしたら、正気ではいられないだろうから。少なくとも坂本とはとっくに別れているはずだ。それでもまだ関係を継続しているということは、松井は本当に坂本がやっていたことを知らないのだろう。

08:00

 学校に着く。朝礼が始まるまでにまだ時間がある。教室内にはまだ人影はまばらだが、時間が経つにつれてだんだんとクラスメイトたちが登校してくる。坂本はまだやって来ていない。私は通学カバンの中を覗きこみ、そこにカッターナイフがあることを確かめる。しばらく経ってから松井が教室にやって来る。私はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいたが、松井の姿にはすぐ気がついた。しかし、坂本がまだ来ていないことに気づいて、松井はそのまま友人たちと廊下を歩いていってしまう。やがて担任の教師が現れて朝のホームルームが始まる。坂本はまだ登校してこない。

09:00

 国語の授業。前回に引き続き、村上春樹の『かえるくん、東京を救う』を読解する。銀行勤めの主人公のもとに巨大な蛙が現れて、首都直下型地震をいっしょに阻止してほしいと依頼してくる話だ。私はすでにその短篇小説を読んだことがあったので、クラスメイトが順番に立ち上がってテキストを読み上げているのを半分ばかばかしいと思いながら聞く。

「正直に申し上げますが、ぼくだって暗闇の中でみみずくんと闘うのは怖いのです。長いあいだぼくは芸術を愛し、自然とともに生きる平和主義者として生きてきました。闘うのはぜんぜん好きじゃありません。でもやらなくてはならないことだからやるんです。きっとすさまじい闘いになるでしょう。生きては帰れないかもしれません。身体の一部を失ってしまうかもしれません。しかしぼくは逃げません。ニーチェが言っているように、最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです。片桐さんにやってほしいのは、まっすぐな勇気を分け与えてくれることです。友だちとして、ぼくを心から支えようとしてくれることです。わかっていただけますか?」

 藤原ならもっと上手に読んだに違いない、と私は思わずにはいられない。藤原は本当に芸術的なまでに上手く文章を読み上げることができる人物だった。例えそれがどのような作家のどのようなジャンルのテキストだろうと、一瞬も詰まることなく始めから終わりまで読み上げることができた。私は藤原の席だった場所を見る。窓際のいちばんうしろの席。自殺の件があってから一週間ほどしか経っていないというのに、もう誰も藤原の話をしていない。クラスメイトたちが話しているのは、周りの友人の根も葉もないゴシップとか、SNSで話題になっているトピックとか、アイドルグループのYouTubeチャンネルの最新動画についてとか、そんなことばかりだ。坂本が藤原に凄絶ないじめをしているときも、誰一人として止めようとしなかった人間たち。藤原が死んだところで彼ら彼女らにとってはどうでもいいことなのだろう。坂本はまだやって来ない。

10:00

 数学の授業。素因数分解。私は数学に関しては全く興味も関心もなかったので、素因数分解については何一つ理解していなかった(そもそも素因数分解というのは何をするものなのかさえわかっていなかった)。私は学校に来てからずっとカッターナイフのことを考えていた。それでいてもう半分の自分は普通に日常生活を送っていた。ジキルとハイドのように私という人間が完璧に二つに分かれてしまっているようだった。坂本はまだやって来ない。

11:00

 化学の授業。化学結合。私は理科についても全く興味関心がないので、化学結合に関してもほとんど意味を理解していない。私は相変わらずカッターナイフのことを考えながら授業を聞いているふりをしている。坂本はいまだにやって来ない。

12:00

 日本史の授業。江戸時代におけるキリスト教の弾圧について。私は歴史を学ぶのは好きだったが、今日に限っては授業に全く集中することができなかった。坂本が全く学校に来る気配を見せないからだ。私は休み時間に何回も坂本のアカウントをチェックしてみたが、SNSを更新している様子はなかった。最終更新は昨日の夜のまま止まっている。私はだんだんと動揺してくる。このまま坂本が登校してこなかったら、せっかく立てたプランが全て台無しになってしまう。それだけは何としても避けなければならない。坂本はやはりまだやって来ない。

13:00

 昼休みになる。私は購買でおにぎりを二個と緑茶を買って自分の席で食べ始める。一人で食事をするのはもう慣れっこだった。学校でもプライベートでも誰かと飲食をともにすることの方が珍しかった。このクラスの中で一人で食事をしている人間なんて、いまとなっては私くらいしかいなかった。仲のいい友人たちとグループになって、集団で食事をするのが彼ら彼女らにとっての「普通」なのだ。生前は藤原もよく一人で食事をしていた。でも私から誘うことはなかったし、逆に藤原から誘ってくることもなかった。当たり前といえば当たり前の話だ。別に一人で食事をしている者どうしだからといって、必ずしも仲よくなるわけでもない。仮に藤原から誘ってきたとしても私は色々と理由をつけて断っていただろう。藤原とわずかでも親しくしているところを坂本に見つかりでもしたら、私までいじめのターゲットにされていただろうから。

 私はおにぎりを食べ、緑茶を飲んでしまうと、立ち上がって教室を出た。松井に会いに行くのだ。松井のクラスはすぐ隣だった。教室の外側から松井の姿を探す。中央あたりの席で松井は友人たちと何かしらを喋っていた。私は近くにいた生徒に声をかけて、松井を呼び出してほしいと頼む。その生徒は私を怪しむように見ていたが、一応松井に声をかけに行ってくれる。松井は私の方を見てびっくりしたような顔をしてはいたものの、拒否まではしなかったようだ。すぐにグループを抜け出し、私のもとまで歩いてくる。

「私に何か用ですか?」

 松井の顔はいつも通り微笑みを浮かべていた。恐らく私のことなんて全く知らないにも関わらず、その笑顔は自然な親しみに溢れていた。私は一瞬ひるんでしまうが、シミュレーション通りに話し始める。

「坂本くんが今日お休みみたいなんですけど、松井さんなら何か知っているかと思って。どうかしたんですか?」

 松井は私の顔を見つめたまま返事をしない。私と坂本がどういう関係性なのかがわからないみたいだ。

「ごめんなさい。先生から坂本くんにプリントを渡すように頼まれてるんですけど、どうして休んでいるのかと気になっただけなんです」

 私がそう説明すると、松井は安心したような顔をする。

「なるほど、そういうこと。こちらこそごめんなさい。実は私も詳しくは知らなくて……。きっと体調が悪いだけじゃないかな。坂本くんとはここ一週間くらいそんなに連絡をとっていないんです。いつもは毎日のようにたくさんLINEしているんだけど、さいきんは坂本くんの返事が遅くて。野球部、このごろ忙しいみたいだからそれで疲れてるのかなって思ってるんだけど、私もここのところチア部が忙しいからあんまり気にかけてあげられてないんですよね。ところでプリントを渡すって言ってたけど、もしよかったら私が代わりに坂本くんのところまで行きましょうか?」

「いえいえ、自分で行くので大丈夫です。松井さんは部活で忙しいだろうし、こちらは何にも部活をやってないので、どうせひましているんです。昼休みに突然お邪魔して失礼しました。ありがとう」

 私は松井にそれだけ言ってしまうと、さっさと廊下を歩きだして自分の教室に帰った。プランに多少の変更は発生してしまったものの、まだ軌道修正可能な範囲だ。放課後に全てを決行する。

16:00

 放課後、私は電車に揺られながら、イヤフォンでザ・スミスの『ザ・クイーン・イズ・デッド』を何回も繰り返し聴いている。そして何回もその曲の歌詞を口ずさむ。「Life is very long, when you're lonely.」。私は何が何でも計画を実行する。必ず実行する。

17:00

 坂本が住んでいるのは閑静な住宅街だった。2000年代以降に再開発されたいわゆるニュータウンで、私が住んでいる地元においては一応郊外の高級住宅地というような扱いになっている。もちろん私は坂本の家になんて一回も行ったことはないけれど、坂本はよく週末にホームパーティーをしていて、SNSに動画や写真を位置情報付きで投稿していたので、ネットで検索すればすぐに場所は特定できた。全世界に位置情報付きで顔を公開するなんて、リテラシーが低いにもほどがある。私のような敵対心を持つ人間にその情報を悪用されるなどということは坂本は想像もしなかったのだろう。

 駅前の通りからしばらく歩くと、コンビニやスーパーの姿が消えてニュータウンらしい雰囲気になってくる。私はスマートフォンを確認しながら自分の現在地と坂本の家の場所とを照らし合わせる。大丈夫だ。いまのところ正しい道を歩いてきている。もうしばらく道順通りに進めば坂本の家には着くはずだ。

17:30

 私の現在地を示すGPS上の点と坂本の家を示す点が重なり合う。私は立派に磨きあげられた門の前から坂本の家を見上げる。三階建てのクリーム色の戸建住宅だ。屋根はシックな印象のブラウンに仕上げられ、大きな窓と小さい窓がいくつかあり、なるべく自然光が家の中に射し込みやすいような構造になっている。玄関の前には品のいい庭があり、花壇や植木鉢が並んでいる。私は植物には詳しくないので名前まではわからないが、色とりどりの花が家全体の雰囲気に華やかさをもたらしている。

 私は門の脇に備え付けられているインターフォンを押す。古典的なインターフォンの音が鳴り響く。しばらく待ってみるものの反応はない。もしかしたら坂本はベッドで寝込んでいて、他の家族は全員外出しているのかもしれない。もしそうだとしたら、誰かが帰ってくるまでここで待っているほかない。このチャンスを逃すわけにはいかないのだ。

 しかし、つぎの瞬間、インターフォンに反応がある。「はい」と声がする。

「どちら様でしょうか」

 坂本本人の声だ。間違いない。私の緊張は突然ピークを迎える。私は急にどうしたらいいのかわからなくなる。

「もしもし」

 坂本は依然としてこちらに声をかけてくる。恐らくモニターで私の姿は確認できているはずだが、私のことが誰かわかっていないのかもしれない。私は自分の中の勇気を総動員して応答をこころみる。

「同じクラスの山田です。先生から頼まれてプリントを渡しに来ました」

 沈黙。坂本はいま必死で私のことを思い出そうとしているのだろう。私なんて坂本からしたら普段は存在しているのかいないのかさえわからないような存在なのだ。しばらくして返答がある。

「山田さん、いま玄関まで出ていくから門の前で待っててもらえる?」

「わかりました」

 そしてインターフォンは完全に接続が断たれる。私はそこで待機する。学生鞄を開いてもう一度カッターナイフがあることを確認する。こんなことができるだろうか、と私は再び思う。いや、必ずできるはずだ、と私は自分で自分に言い聞かせる。

 坂本の家のドアが開き、本人が姿を現す。リネン生地のグレーのパジャマ姿だ。毎日学校で見かける制服姿とはかなり印象が違っているように見える。こころなしか病み上がりのような弱々しい印象すらある。昨日までは坂本は普通に学校に登校していたし、特に変わった様子もなかった。私としては仮病を疑っていたのだけれど、本当に風邪か何かで休んでいたのかもしれない。

 坂本は門の前まで歩いてきて閂を外す。そして内側から門を開いて、カルト宗教の勧誘に来た信者でも見るような顔で私のことを見る。私も坂本の顔を見つめる。坂本はひどく疲れているようだった。まるでイラク戦争で疲れきった米兵みたいだった。

「山田さん、もしよかったらお茶でも飲んでいかない?」

 私は全く想像していなかった坂本の提案に言葉を詰まらせてしまう。私のリアクションがあまりに大げさだったせいか、坂本が声を上げて笑い出す。

「怖がらなくても大丈夫だよ。別にお茶に変なものを混ぜたりしないから」

 私はまだ坂本の言ったことが信じられないでいる。坂本が私をお茶に誘った? まさか! しかし、私もいつまでも何も言わないでいるわけにもいかない。私はできるだけ動揺を隠して返答する。

「わかりました。特に予定もないのでお邪魔でなければ寄らせていただきます」

「山田さんってものすごく礼儀正しいんだね」

 私はそうして坂本に誘われるまま、家の中へと足を踏み入れることになった。完全に予想外の事態だ。



thx :)