ペーネロペー(短篇/ラブ・ストーリー/13,249語)
「ペーネロペー」という名前がホメロスに由来することを知っていたおかげで、私はペーネロペーと近しくなることができたのだ。言ってみれば、そのユーザーネームはペーネロペーに群がる幾多の異性を選別する門番の役割を果たしていて、私はたまたま『オデュッセイア』を読んでいたおかげで、第一関門をクリアすることができたというわけだ。
大学の食堂でペーネロペーと知り合った経緯を話すと、あちこちに寝癖がついたままのボブヘアに黒縁眼鏡をかけたあおいは頬杖をつきながら「何ていうか、スノッブで嫌味な感じ」と感想をつぶやいた。確かにそう言われれば、スノビッシュで嫌味ったらしいエピソードかもしれない。
「ペーネロペーって、ギリシャ悲劇の登場人物だった?」とあおいはスマートフォンを指先でいじりながら、大して興味もなさそうに尋ねた。
「惜しいけど違う」と私は答えた。「ペーネロペーはホメロスの『オデュッセイア』に登場する人物で、英雄オデュッセウスの配偶者。『オデュッセイア』はオデュッセウスがトロイア戦争から故郷に帰ってくるまでを描いた叙事詩なんだけど──」
「イタケーの王である英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、数年間におよぶ漂泊が語られ、オデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す探索の旅も展開される。不在中に妃のペーネロペーに求婚した男たちに対する報復なども語られる」とあおいは私のややこしくてまわりくどい説明をさえぎって、ウィキペディアの記事を読み上げた。
「簡単に説明するならそうなる」
「それで」とあおいはあくまで儀礼的な雰囲気で話を続けた。「要するにマッチングアプリでそのペーネロペーさんだか誰だかとマッチングして、スノビッシュで嫌味ったらしい会話で気が合ったから会いましょうってことになって、しっかりやることやっちゃいましたって話?」
「簡単に説明するならそうなる」と私は繰り返した。「でも、ときとしてあまりにシンプルなあらすじは物語のエッセンスを捉え損ねるものだし、実際それだけの話でもないんだ。この話には長くて・ややこしくて・まわりくどいバージョンと、さらに長くて・ややこしくて・まわりくどいバージョンがあるんだけど、あおいはどっちがいい?」
あおいはため息をついた。
*
ペーネロペーとマッチングしたのは全くの僥倖だった。
少なくとも私はペーネロペーのアカウントにライクを付けたときのことを記憶しているが(ペーネロペーの顔写真は鏡越しに撮影されたセルフィーで、髪型と何となくの顔の輪郭くらいしかわからなかったし、プロフィールも必要最低限だったので、ほとんど情報を得られなかった)、向こうは私のアカウントにライクを付けたときのことなど全く覚えていないに違いない。何しろマッチングアプリというシステムにおいては、あくまでも女性が「選ぶ」側で、男性は「選ばれる」側だからだ。恐らくペーネロペーは自分のアカウントにライクをしてきた異性をほとんど一瞬のうちに取捨選択し、私はまずその段階で生きのこった。そして、ペーネロペーと無事マッチングしたという通知を見た私は「初めまして」と当たり障りのない挨拶を送信した。しかし、このままでは数多くのライバルたちが送るメッセージに埋没してしまうとの危機感を覚えた私は、すぐに追加のメッセージを送ることにした。
「旦那さんはまだトロイア戦争から帰ってきません?」
ペーネロペーからはすぐに返信が来た。
「夫はまだナウシカアーのもとから帰ってきません」
私たちはそれから何回かメッセージをやりとりした。ペーネロペーは私にいくつかの質問をした。「学生さん?」「はい」、「大学では何の勉強を?」「英米文学です」、「アルバイトは?」「大学の友人のつてで編集プロダクションのアシスタントをしています」(大学の友人というのはもちろんあおいのことだ)、「あなたの好きな作家は?」「レイモンド・カーヴァーとポール・オースター」、「あなたの好きな映画は?」「ジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーの映画全般」。当然、私もペーネロペーにいくつかの質問をしたが、ペーネロペー個人に関する情報は全てはぐらかされ、「好きな作家は?」「好きな映画は?」という質問にだけ答えが返ってきた(『学生時代から好きなのはグレイス・ペイリーとリディア・デイヴィス』、『フランスに留学したときに観たアニエス・ヴァルダの映画全て』)。私がペーネロペーについて知り得た情報はたったのそれだけだった。
ひと通りメッセージをやりとりした後で、ペーネロペーは私にこう言ってきた。
「もしよろしければ、今週の土日のどちらかでお会いできません?」
正直、マッチングした当日に相手から誘われるとは思ってもみなかった私は、多少動揺はしてしまったものの、すぐに「もちろんお会いしたいです」と返事をした。
そのようにして、私とペーネロペーは会うことになったのだった。
*
ペーネロペーが初めて会う場所として提案してきたのは新宿御苑だった。新宿御苑になんてこれまで一度も行ったことがなかったけれど、私は二つ返事で承諾した。どこであれ、とにかくペーネロペーに会うことができればそれでよかったから。
しかし、アポイントメントの当日、私は電車が遅延したせいで、約束の時刻よりも遅れて待ち合わせ場所に到着することになった。ペーネロペーには「申し訳ないですが遅れそうです」と連絡はしてあったものの、既読になるだけでいっこうに返事が来なかった。新宿御苑の門の前で待ち合わせをしていたのだが、どれだけ周りを見渡してもペーネロペーらしき人物の姿は見えなかった。もしかしたらペーネロペーは初めての待ち合わせの時間すら守れない私に愛想をつかして帰ってしまったのかもしれない。あるいはそもそもペーネロペーなどという人物は存在せず、見ず知らずの誰かのいたずらに担がれただけだったのかもしれない。それでも一応(実在が怪しくなった)ペーネロペーに「着きました」というメッセージだけは送っておいた。一時間待っても会えなかったら帰ろう、と私は思った。コードレスのイヤフォンを耳に装着して、私はシティ・ポップのプレイリストを聴き始めた。そしてソーシャルメディアのタイムラインを適当にスクロールしながら、ペーネロペーがやって来るのを待った。山下達郎、大貫妙子、佐藤博、杏里と聴いたところで、不意にペーネロペーからメッセージが送られてきた。「もしかして、私のすぐ目の前にいる?」。私はスマートフォンの画面から視線を上げ、目の前にいる人物を見た。
ペーネロペーはシックなミニボブにカットした髪型、フランス人形のような二重の瞳、金のイヤリングをつけた美しい形の耳、すっきり通った鼻筋、艶のある赤いリップが塗られた唇をたたえ、キャメル・カラーのトレンチコートに黒いタートルネックという格好で、私の目の前に立っていた。片手には厚い文庫本を一冊ほどしか持ち運べなさそうなサイズのバッグを持ち、足元はカジュアルにオフホワイトのチャック・テイラーを履きこなしていた。纏っている雰囲気からして、学生の私よりは明らかに年上だろうという推測はできたが、それでは実際にいくつくらいなのかということになると、さっぱり見当がつかなかった。正直に言って、私の想像していたよりもはるかに美しい人物だったので、私は思わず息を呑んでしまった。私はイヤフォンを外した。
「**くん?」とペーネロペーは私の名前を口にした。
「ペーネロペーさん?」と私も相手の名前を口にした。
それから私たちは初対面の人間同士がするような形通りの挨拶をひと通り済ませて、新宿御苑を歩き始めた。週末ということもあって、辺りは老齢の夫婦や家族連れや若い恋人たちといった人々で賑わっていた。空は気持ちがいいほど晴れわたっていて、遠くにはあまりにも牧歌的なひつじ雲が浮かんでいた。
「**くんはどうして私と会う気になったんだろう?」とペーネロペーは歩きながら尋ねた。
「『オデュッセイア』でペーネロペーを口説こうとした男たちと同じ理由です」と私は答えた。
「つまり夫の不在にかこつけて人妻を誘惑しようと?」
「本当に既婚者なんですか?」
ペーネロペーは謎めいた微笑みを返すだけで、私のその質問には答えなかった。私たちは何となくの順路に従って、御苑を歩き続けた。どこかから鳥の群れのさえずる声が聞こえた。
「**くんはいま付き合っている人とかいないのかな?」とペーネロペーは再び質問をした。
「いません」と私は正直に答えた。「大学の二年まで地元に残してきた恋人と遠距離恋愛をしてましたが、去年のクリスマス直前に別れました。それきり、もう一年くらい誰とも付き合っていません」
「なるほどね」とペーネロペーは興味深そうに言った。「ちなみにその子とはどうして別れちゃったんだろう?」
「よくある話です。その恋人とは高校のころからずっと付き合っていたんですが、卒業した後、僕は東京の大学へ進学し、恋人はそのまま地元の企業に就職して働き始めました。初めのころこそ、一ヶ月に一回くらいの頻度で僕が地元に帰省したり、あるいは恋人が東京に遊びに来たりして、親密な関係を続けていたんですが、世の中の遠距離恋愛の例にもれず、だんだんとすれ違うことが増えてきました。僕もアルバイトやらサークルやらで忙しくなってきたし、恋人も任される仕事が増えるにつれて忙しくなってきて、普段の連絡がおざなりになっていきました。何とかお互いの都合をつけて会うことができたときですら、何となく話が合わなくなってきてしまいました。そういう気づまりなデートを何回か繰り返した後で、恋人から『ほかに好きな人ができた』という連絡がありました。特に僕の方としても異論はなかったので、お互い合意のもとで別れることになりました」
「**くんはその子のどういうところがいちばん好きだった?」とペーネロペーは腰の後ろで両手を組んで歩きながら言った。
「どういうところが好きだったかと聞かれても、うまく答えられません」
「ろくに好きでもないのに付き合ってたの?」
「そういうわけじゃなくて」と私は言った。「特定のポイントが好きだから付き合っていたというより、総体として好きだから付き合っていたんです。要するに──」
「ときとして、あまりにシンプルな概略は物語のエッセンスを損なう」とペーネロペーは言った。「ずっと昔に読んだ本の一節。誰の何てタイトルの本だったかは忘れてしまったけど。人が人を好きになる理由もきっと同じで、決してわかりやすい言葉になんて翻訳できないんだよ」
「それなら、どうして僕に元恋人の好きだったところを聞いたんですか?」
「**くんなら言葉にできるかと思って」とペーネロペーはいたずらっぽく笑った。「作家志望なんでしょう?」
「まさか」と私も笑った。「僕はただアメリカ文学が好きなだけの学生です。自分で何かを書こうなんて思ったこともありません」
「そう」とペーネロペーは残念そうに言った。「でも、いまは何も書きたくなくても、いずれ何かを書きたくなるかも」
「かもしれません」
「そのときは私をいちばん最初の読者にしてね」とペーネロペーは冗談まじりに言った。
「サインも付けて郵送で送らせてもらいます」
ペーネロペーは北欧の魔法使いみたいに微笑んだ。私たちのすぐそばの原っぱでは、まだ小さい兄妹が走り回って声を上げていた。
*
私とペーネロペーはその後、六本木の国立新美術館に移動することになった。ひと通り新宿御苑を歩いたところで、まだディナーに行くには早すぎるということで、ペーネロペーが前から気になっていたという「ベルト・モリゾ、メアリー・カサット、マリー・ブラックモン 知られざる印象派の秘宝たち」という美術展に行くことになったのだ。私たちは丸ノ内線、銀座線、千代田線を乗り継いで、乃木坂駅から国立新美術館へ続く直結通路を歩いた。そして受付でチケットを買い(ペーネロペーが私の分のチケット代まで支払ってくれた)、ベルト・モリゾやメアリー・カサットやマリー・ブラックモンやその他同時代の画家たちの絵画を見て回った。
「昔は画家になるのが夢だったんだ」とペーネロペーは一枚の絵画を見ている途中で言った。
それは額縁の隣に書いてあるタイトルの通り、ブルーの肘掛け椅子の上に不貞腐れた子どもが一人で座っているという絵だった(隣にはもう一つ同じようなブルーの肘掛け椅子があり、そちらには茶色い犬がうずくまっている)。
「画家?」と私は絵画に視線を注いだまま繰り返した。
「ちいさいころから絵を描くのが好きでね、区のコンクールなんかに出してはよく賞状をもらってた。両親は親ばかもいいところだったから、私をギフテッドだ何だってもてはやしちゃって、本当にはずかしかった」
「フランスへは絵の勉強をしに?」と私はペーネロペーの方を見て聞いた。
「うん」とペーネロペーは頷いた(それは私の個人的な質問に対して初めてペーネロペーが答えた瞬間だった)。「藝大の教授の薦めでエコール・デ・ボザールに二年間留学した。こういうこと言うと年齢がばれるけど、ちょうどシャルリー・エブドの事件があったころ。私も六区の下宿に住んでいたから、全然他人事じゃなかったんだけど」
ペーネロペーがそこまで話したところで学芸員がつかつかと歩み寄ってきて、私に対して「絵に近づきすぎだ」という注意をした。私は確かに床に描かれたラインを一歩超えてしまっていた。「申し訳ありません」と私は学芸員に言った。それで何となく会話が中断されてしまい、ときどき絵画について一言交わすほかは、ミュージアム・ショップに行くまで何も話さなかった。ペーネロペーはミュージアム・ショップで絵画があしらわれた絵葉書を何枚か見ていた。私は何も買わなかった。
*
「待って。あまりにも洒落臭すぎない?」とそこまで聞いたあおいが眼鏡を中指で押し上げながら言った。「ハルキ・ムラカミじゃないんだから」
「でも、本当にあったことなんだから仕方ないだろう」
「都合よく脚色してない?」
「してない」と私は言った。「キリストとブッダにまとめて誓ってもいい」
あおいはそこまではっきりと言い切った私を一応信用したようだった。時刻はすでにランチの後の講義が始まるころになっていて、食堂には学生たちの姿はまばらになっていた。しかし、私もあおいも金曜日のこの時間はすっかり空きコマになっていたので、まだ時間だけはたっぷりあった。
「ここまで聞いたらおしまいまで聞かせてほしいんだけど」とあおいはあくびを挟みながら言った。「それで美術館に行った後はどうなったの?」
「地中海料理のレストランに行った」
あおいはまた何か言いたそうに目を細めた。
*
「地中海料理?」
「うん」とペーネロペーは美術館を出たところで言った。「麻布十番に前から行ってみたかったレストランがあるんだけど、もし地中海料理が苦手じゃなければ」
「恐らくこれまでの人生で一回もまともに食べたことがないので、地中海料理が何かもわかりませんけど」と私は言った。「エスカルゴとかですか?」
「それはフランス料理」と言ってペーネロペーは笑った。「でも、ものはためしだからね。どう?」
「エスカルゴでも何でも、ぜひ」
麻布十番まで移動する電車の中で、私はグーグルで「地中海料理」と検索してみた。普通においしそうだった。
*
麻布十番の「サンチョ・パンサ」で、私とペーネロペーはディナーのコースを注文し、それぞれスペイン産の白ワインを飲みながら、カルパッチョの盛り合わせ、生ハムのサラダ、カジキマグロのトマト煮込み、牛ハラミ肉のソテー、きのことベーコンのペペロンチーノを口にした。デザートのシャーベットが出てきたころには、私もペーネロペーもすっかり満足していた。店内にはどことなく怪しげな響きのスペイン音楽が流れ、壁にはサンチョ・パンサがロバにだきついて泣いている場面の挿絵が飾られていた。
「**くんはこの後何か予定ある?」とペーネロペーは洋梨のシャーベットを食べながら言った。
「特に何もないです。ペーネロペーさんは?」
ペーネロペーは私の質問には答えなかった。私も洋梨のシャーベットを食べながら、しばらく返事を待ってみたが、やはり答えは返ってこなかった。その間、私はエコール・デ・ボザールに留学していたころのペーネロペーの姿を想像していた。カルチェ・ラタンの下宿に住み、パリの街並みをさっそうと歩いていくペーネロペーの姿を。恐らく当時から周りの人間をひきつけてやまなかったであろうペーネロペーの美しさを。道行く数々の異性を拐かしたであろうペーネロペーの媚態を。
私はペーネロペーがパリの路上で年上の異性に声をかけ、自分の下宿に連れこむところを想像した。そして、ドアを閉めるなり、相手のズボンを下ろし、下着越しに性器をまさぐるさまを想像した。ペーネロペーはそのまま硬くなった相手の性器を取り出し、唇でくわえこむ。そして快楽に表情を歪める相手と、舌と唾液をからめて性器をなぶり続けるペーネロペー。やがて相手はペーネロペーの口の中でオーガズムを迎え、精液がほとばしるように出るだろう。どくどくと脈打つ性器から何回も精液は出続けるだろう。まるで銀河の果ての暗闇に吸い込まれていく彗星のように。
*
私とペーネロペーは二回続けてセックスをした後で、ベッドの上で煙草を吸った(私はペーネロペーの吸っているヴァージニア・エスを一本もらった)。赤坂のホテルの高層階にある部屋からは、東京の夜景を一望することができた。ビルの窓にはまだオフィスの明かりがともっていて、ミニチュアのように見えるたくさんの車がヘッドライトをつけて都市の間を縫うように走っていた。私はペーネロペーの先ほどまでのあられもない姿態を思い返していた。私に馬乗りになって激しく腰を動かしていたペーネロペー。私に背後から犯されてなすすべもなく喘ぎ声を上げていたペーネロペー。部屋の中にはペーネロペーのスマートフォンから流れるエリック・サティの『新・ピアノ作品集』が響いていた。ゆっくりと苦しみをもって、ゆっくりと悲しさをこめて、ゆっくりと厳粛に。
「ペーネロペーになる前は末摘花だった」とペーネロペーは突然言った。
「末摘花?」と私はわれに返って返事をした。
「末摘花」とペーネロペーは煙草を吸いながら繰り返した。「私の子どものころのあだ名。小学校のときに国語の先生が『源氏物語』の話をして、その流れで末摘花のエピソードを紹介したんだけど、当時の私は想像を絶するほど醜くて、おまけに末摘花そっくりにいつも鼻の先が真っ赤だったの。だからすぐに私のあだ名は『末摘花』になって、クラスメイトたちからからかわれるようになった。中学に上がってからはそれがいじめに発展して、やがて私は不登校になった。高校も通信制のところを探して通った。それでもずっと絵を描くのは好きだったから、美術の家庭教師をつけてもらっていたんだけど、その人の母校が藝大だったの。だから私も藝大をめざしたんだけど、一年目と二年目の受験はあっけなく失敗してしまった。一年目に落ちたときは単純に私の技量が不足しているせいだと思ったんだけど、二年続けて落ちたとき、私は『藝大に落ちたのは自分の容貌が醜いせいだ』と信じこんだ。そして両親に頼みこんで、整形手術をすることにした。もちろん初めこそ両親は猛烈に反対していたけど、私がしつこく説得したおかげで、やがて渋々とではあるけれど承諾してくれた。『但し、整形にかかる費用は自分でアルバイトして稼ぎなさい』と言われた(そういうところは厳しかったから)。だから私は出会い系のアプリで何人もの年上の異性をエスコートして、短期間で整形費用を稼いだ(だって普通のアルバイトなんてしてたらどれだけの時間がかかるかわからないでしょう)。何ヶ月かして、顔のパーツの全てを整形するだけの費用が貯まったとき、私は東京中でいちばん評判のいい医者を探して、しっかりと時間をかけて施術してもらった。目、耳、鼻、口、その他全てのパーツを美しく変えてもらったの。そのかいもあって、私は三度目の藝大の受験にも合格した。そのとき、私は『これまでの人生がうまく行かなかったのは私の外見がひどく醜かったからなんだ。美しくなりさえすれば全てはうまく行くようになるんだ』と思った。実際、整形手術をしてから、私の人生は見違えるように素晴らしいものになった」
私はそこまでの話を聞いても、何も言わずに黙っていた。正確には何も言えずに黙っていた。
「パリに留学していたころ、一人の男性と出会った。それがいまの夫。そのころの夫は将来を嘱望された若い外交官の卵だった。在外研修で日本からソルボンヌの大学院にやって来ていて、私とは或る週末の昼下がりに十一区の『ラ・ベル・エキップ』というカフェで知り合った。一人でお茶をしていた私に、やはり一人でカフェにやって来た夫が声をかけてきたの。『相席でよければ利用できると言われたんですが、こちらのテーブルにご一緒しても?』。もちろんそんな台詞は口から出まかせに決まっていた。確かにお店は混み合っていたけど、よく見れば空いているテーブルはあったし、相席する必要なんて全然なかったんだから。それでも私はそんなヘタクソなナンパをしてきた夫をおもしろがって、相席することを許可した。そこから私たちが親密になるまではあっという間だった。お互い外国の小説と映画が好きで、当時の私はボーヴォワールの、当時の夫はサルトルの熱烈な信奉者だった。政治的には左翼で、当時の日本政府が推し進めていた原発政策や特定秘密保護法案や集団的自衛権の行使なんかには概ね反対だった。『外交官の卵のあなたがそんなことを言っていて大丈夫なの?』と私が冗談めかして言うと、『外交官の卵である前に俺は一人の生活者だ』と夫は銀縁の眼鏡を押し上げながら言った。私は夫のそういうところを好きになったんだと思う。それからお互い留学していた間の二年、私たちは恋人どうしの関係を続けた。そして無事二人ともフランス滞在を終えて、日本に帰国した段階になって結婚した。私は大学を卒業して、美術関係の書籍を扱う出版社に就職した。そのかたわら初めての個展を開くために、プライベートの時間を使って作品の制作も続けていた。夫は夫で正規の外務省職員として働き始めて、毎日忙しそうにしていた。二人ともなかなか休みも合わなかったし、寝る時間も起きる時間もばらばらだったけど、それでもお互いの仕事にプライドを持って、はりのある毎日を送っていた。そして、結婚して一年が経ったころ、私たちは第一子を授かった」
ペーネロペーはそこで煙草を灰皿に押しつけた。私も吸殻を灰皿に捨てた。
「やがて子どもは無事に生まれた。予定日よりもだいぶ遅かったせいで難産だったけど、それでも生まれてきた子どもは健康そのものだった。産休と育休をしばらく取った後、私は仕事に復帰する予定だった。でも、夫はいざという段になって、私が復職することに難色を示した。『別にわざわざ仕事に復帰することもないんじゃないか』と夫は言った。『赤ん坊のうちはまだ色々世話も必要だろうし、生活するだけだったら正直俺だけの稼ぎでも事が足りる。それに君は絵を描きたいんだろう。わざわざ仕事に戻るよりも家にいた方が自由に時間が使えていいと思うんだけど』。私はその夫の口ぶりを聞いたとき、一瞬にして『この人は子育てに一切関わるつもりがないんだ』ということを悟った。そして『この人は私のことを召使いか何かだと思って見下しているんだ』と確信した。もしそうじゃなければ、そんな台詞は言えないでしょう。私はそっくりそのままのことを夫に言った。すると夫はいきなり私の頬を張った。『二度とそんな口を利くなよ』と夫は言った。夫の顔は醜く歪んで、額の血管が浮き出るくらい激高していた。ベビーベッドでは子どもがおとなしく眠っていた。直後に夫は『悪かった』と謝ってきた。『最近、俺も新しい仕事を任されて疲れているんだ。どうかしていた』。私は確かに最近すっかり痩せてしまった夫に泣きつかれながら、どうしたらいいのかわからずにいた。はげしく混乱しているのと同時に、はげしく怯えてもいた。夫に暴力を振るわれたのはそのときが初めてだったから。でも、夫はそれからことあるごとに私を殴るようになった。普段は決してそんな素振りは見せないのだけれど、少しでも私が夫の意見に反対するようなことを言うと、とたんに暴力的になった。だんだんと暴力の度合いがエスカレートしていくにつれて、手口はより巧妙になっていった。顔やなんかの人目につく場所は殴らず、服で隠れるような部位だけを殴った。物理的な暴力もすごかったけど、精神的な暴力もどんどんすさまじくなっていった。暴力を振るったすぐ後で、夫は必ず私に泣きついてきた。典型的なドメスティック・バイオレンスだった。さすがに子どもには一切手を出さなかったけど、それも時間の問題だと思った。だから私は夫の帰りが遅かった或る夜、子どもをつれて逃げ出した。私は品川駅から静岡方面行きの新幹線に乗って──」
ペーネロペーはそこで黙った。初めは言葉を選んでいるのかと思ったのだけれど、しばらく経っても話が再開される様子がないので、私はペーネロペーの顔色をうかがった。何だかひどく体調が悪そうに見えた。「大丈夫ですか?」と私は聞いてみた。「大丈夫」とペーネロペーは弱々しく微笑んだ。
「しばらくして転機があった」とペーネロペーは突然疲れてきた様子で再び口を開いた。「夫のフランス行きが決まったの(パリの日本大使館に配属されるとのことだった)。夫はそのころには外に愛人を作っていて、私に興味をなくしていたころだった。形こそ単身赴任ということになったけれど、実際はその愛人をフランスまで連れていって、パリ郊外のマンションに囲い始めた。でも、私にとってはもう何もかもどうでもよかった。東京のマンションの広い部屋にのこされた私は毎日一人で過ごした。毎日一人で目覚めて、毎日一人で眠った。毎日一人で家事をして、毎日一人で食卓についた。毎日一人で外に出かけては、毎日一人で帰ってきた。夫から持たせてもらったクレジットカードがあったから、お金は好きなだけ使うことができた。でも、私は毎日一人で食器を洗ったり、毎日一人で洗濯物を干したりしている間、自分という存在が決定的なまでに孤独であることに気づかざるをえなかった。だからマッチングアプリなんかに登録したの。色々な人と交わってみたくて」
ペーネロペーはそう言ってベッドの中にもぐりこみ、私を手招きして誘った。私もベッドの中にもぐりこむと、ペーネロペーは身体をぴったりと寄せてきた。そして、私の耳元でこう囁いた。
「なんてね。いままでの話は全部嘘だよ」
私はペーネロペーの顔をもう一度よく見ようとしてみた。しかし、いつの間にか部屋の電気は消えていて、ペーネロペーの顔を見ることはできなかった。そのころ、音楽はエリック・サティからビル・エヴァンスの何かのアルバムに変わっていた。絶対に聞いたことのあるはずのメロディだったが、どうしてもどのアルバムだったか思い出せなかった。ワルツ・フォー・デビー? アンダーカレント? インターモデュレーション? そして、私はペーネロペーの話がどこかおかしかったことに気がついた。何かが矛盾しているのだ。何かが破綻しているのだ。しかし、突然、私は自分が圧倒的なまでの眠気に襲われていることに気づいた。そのまま私は底なしのまどろみの中に引きずりこまれていき、急速に私の意識はシャットダウンされた。
*
アー、と叫ぶ自分の声で私は目覚めた。
ものすごく変な夢を見たはずだったのに、どうしても思い出せなかった。外の光を見る限りでは、もうとっくに朝になっているようだった。起床したときには、隣にいたはずのペーネロペーの姿は消えていた。書き置きも何もなかった。恐らくペーネロペーは先にチェックアウトしたのだろう。私は床に投げ捨てられていた服を拾い集め、下から上まで順番に着た。そして、チェックアウトの時刻が迫っていることに気が付き、慌てて部屋を出た。
ルームキーをフロントで返却しながら、私は「そういえば連れが先にチェックアウトしたと思うんですが、何時ごろに出たのかわかります?」と聞いた。フロントの人間は「お連れ様?」と不思議そうに聞き返した。
「**様は昨夜お一人でこちらにチェックインされております」
「一人?」
「お一人でございます」とフロントの人間は繰り返した。「ご宿泊料も一名様分しかいただいておりませんし、確かにお一人でいらっしゃいました。昨夜は私が受付させていただきましたので、よく記憶しております」
「本当に?」
「左様でございます」
さっぱり訳がわからないまま、私はフロントの人間に礼を言って、赤坂のホテルをチェックアウトした。ホテル前の大通りに出てみると、頭上にはすっかり青空が広がっていた。空には昨日の昼間と同じように、やはりひつじ雲が浮かんでいた。スーツを着た人々が忙しなく通りを行ったり来たりし、車やタクシーやバスがひっきりなしに通りを走っていた。しかし、もう昨日までとは何かが違っていた。何かが決定的に異なっていた。それが何なのかはわからなかったが、目の前の東京の情景はまるで前衛的な絵画のように奇妙に歪んでいた。かすかに耳鳴りもしていた。ペーパークラフトのように平板な街をどこへともなく歩き出した私は、もう私ではなかった。
*
「で?」とあおいは呆れたように言った。「それで話は終わりなの?」
「一応」
「要するにどういう話なわけ? ペーネロペーさんっていうのは何者だったの? あなたは本当に一人だったの? ねえ?」
「まあまあ」と私は質問責めするあおいをなだめた。「この話には後日談があるんだ」
*
ペーネロペーとの夜を過ごしてから一週間ほどが経ったころ、私はソーシャルメディアのタイムラインで、たまたま一本のネットニュースを見つけた。NHKの公式アカウントによる投稿で、タイトルは「樹海に親子の変死体 死後一週間経過か」。記事によれば、山梨県の青木ヶ原樹海で、肝試しに来ていた大学生のグループが親子のものと思われる死体を発見し、司法解剖によって生後一年と推定される子どもの死因は絞殺、親の死因はロープで首を吊ったことによる縊死と断定された。恐らく心中自殺と見られるが、死体からは身分を証明するものが何も発見されなかったため、現在身元の特定を急いでいるとのことだった。
私はペーネロペーの話のどこがおかしかったかに気がついた。ペーネロペーは子どもを産んだと話していたのに、途中から「夫がパリに行ってから一人で生活していた」と言い続けていたのだ。そして、不自然に話が中断されたとき、ペーネロペーは「品川駅から静岡方面行きの新幹線に乗った」と話していた。もちろん仮説ではあるが、樹海で発見されたこの親子がペーネロペーとその子どもだったとしたら、私が一週間前に会ったペーネロペーという人物はいったい誰だったのだろう?(あるいはいったい何だったのだろう?)
江戸時代の怪談の中に似たような話があったのを私は思い出した。世にも美しい人と豪邸で一夜を過ごしたはずの主人公は、朝になって自分が何もない廃屋に横たわっていることを知る。調べていくうちに、昨夜寝床をともにした人物はとっくの昔に死んでいたことがわかり、主人公は「恐らく私は一夜の享楽と引き換えにして、幽霊に魂を半分持っていかれてしまったのだ」と確信するにいたる。そして、半分だけの魂になった主人公は以降の人生で、一人の知己とも交わらず、一人の配偶者も娶らず、孤独に暮らしていく運命となる。
もしかしたら、私も怪談の主人公と同じように、一晩の快楽と引き換えにして、ペーネロペーに魂を半分差し出してしまったのかもしれない。そして、私はこれから生きていく中で、誰からも愛されることなく、誰をも愛することができず、孤独に生きていく運命を決定づけられたのかもしれない。「なんてね。いままでの話は全部嘘だよ」とペーネロペーは言った。あるいは私の考えすぎかもしれない。江戸時代ならまだしも21世紀の現代社会において、幽霊に魂を半分取られるなんて話が信じられるだろうか? ばかばかしいとは思いながらも、私はもう自分の魂が半分になってしまったのだという感覚を忘れることができなくなってしまっていた。いや、まさか。
thx :)