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キュー氏の(非常に)奇妙で複雑な一日(2)

 私はケーに連れられてホテル街へとやって来た。どうしてホテル街になんて来なければいけないのかと、私は何度も質問しようと思ったが、「黙って着いてきてください」と言われたことを思い出して黙っているしかなかった。「見張り塔」を出てからケーは私に対してひと言もしゃべらなかった。政治的正しさに配慮した説明もなければ、ウィットに富んだジョークもなかった。我々はそのようにしてカップルしかいないラブホテル街を歩いていった。

 あるホテルの前でケーはいきなり立ち止まった。私も足を止めてその建物を見上げた。「いとなみ」という名前のホテルだった。ラブホテルの名前としてはなかなか気が利いている、と私は場違いな感想を持った。「いとなみ」で人々は愛のない(あるいは愛のある)営みをするのだろう。

「ここです」とケーはようやく口を開いた。

 つまりケーは最初からこのホテルに行くことを決めていたのだ、と私は思った。行きあたりばったりに歩いてホテルを決めたわけではない。私はうなずいてケーの後について「いとなみ」の自動ドアを通った。

 私とケーは部屋番号と部屋の写真が並んだパネルの前に立った。ほとんどの部屋が埋まってしまっていたが、唯一404号室だけが空室だった。ケーは404号室のパネルを指差し、「ここです」と再び繰り返した。私も再び黙ってうなずき、4階にあるらしい目的の部屋をめざした。


 「エムです」

 「エヌです」

 404号室は一般的な「ラブホテルの部屋」というイメージを完璧に守っていた。ベッドがあり、テーブルがあり、必要最低限の家具と家電がある。「いとなみ」は外観からしてそうだったが、内装からしても相当な年代を感じさせた。どうやらかなり古いラブホテルのようだ。私もまだ配偶者と恋人の関係だったときに何度かラブホテルを利用したことがあったが、ここまで古いホテルは初めてだった。一回目の東京オリンピックの時代から存在していたのではないかと疑いたくなるほどだった。

 そして部屋の中央には二人のバニーガールがいた。正真正銘本物のバニーガールだ。ウサギの耳をつけて網タイツを履いた二人の女性が部屋の真ん中で我々を待っていた。私はいったいどういうつもりなのだとケーの顔を見た。しかし、ケーはまたしても私に状況を説明するつもりはないようだった。

「料金は先払いでお願いします」とエムだかエヌだかが言った(私には二人の外見上の区別がつかなかった)。

 ケーは黙って所定の料金を払った。エムだかエヌだかは一万円札の枚数を確認すると「ありがとうございます」と言った(かなりの金額のようだった)。そしてケーは私の方を見て「始めましょう」と言った。

「何を?」

「やるべきことをやるんです」

 ケーのその言葉がまるで一つのサインであったかのように、エムだかエヌだかはベッドサイドのパネルを操作して音楽を流し始めた。オールディーズ専門のチャンネルらしく、エルヴィス・プレスリーの『ラヴ・ミー・テンダー』が流れ始める。

 ケーはエムだかエヌだかと抱き合ってキスを始めた。もう私には目もくれなかった。それくらい夢中になってキスをしているようだった。私はただでさえ混乱していたのにますますわけがわからなくなってきた。なぜ娼婦を買うことが私を元の世界に戻すことに役立つのだ。あるいはケーはただの異常者で私にでたらめを言っていただけだったのかもしれない。

 エムだかエヌだかの片方が私に近づいてくる。そして私の腰に手を回し、脚をこちらにすりつけてくる。エムだかエヌだかは言った。「安心しなさい。決して悪いようにはしないから」。

 私はもう「なるようになれ」と思った。これが本当にパラレル・ワールドからの脱出に役立つのかどうなのかはわからないが、ものごとの真偽や正否を判断するには私はあまりにも疲れすぎていた。今日という日は非常に奇妙で複雑な一日だった。ここまで来てしまったらもはや流れに身を任せるしかない。

 そのようにして私とケーとエムとエヌはセックスをした。型通りのフェラチオやクンニリングスがあった。正常位で交わり、後背位で交わり、騎乗位で交わった。かなり長い時間をかけて我々は交わった。そして私とケーがオーガスムを迎えるまでの間、エルヴィス・プレスリーは歌い続けていた。どうやらプレスリー専門のチャンネルだったようだった。

 ひと通りの性行為が終わると私とケーは服の乱れを整えた。エムとエヌはその間ベッドに横たわって何かしらを囁き合っていた。そしてときどきくすくすと笑った。私やケーとのセックスについて何かしらの情報交換をしているのかもしれない。あるいはそれについてちょっとしたジョークを言っているのかもしれない。

 ケーは突然拳銃を取り出した。先ほど「見張り塔」でロシアン・ルーレットをしたときに使った六連発式の拳銃だった。そして私が何かを言うすきもなく、ケーはエムとエヌに照準を合わせた。エムとエヌはまるで夢見るような顔つきで銃口を見つめていた。ケーは引き金を引いた。エムとエヌそれぞれに向けて一発ずつ。サイレンサーが付けられていたのか銃声はほとんどしなかった。エムとエヌはベッドに倒れて頭から血を流し始めた。ベッドのシーツが血で赤く染まり始める。

 そしてケーは拳銃を構えたまま「ここからが本題です」と言った。

 エムとエヌの死体にしばらくして異変が発生し始めた。エムとエヌの唇が上下に開き始めて、そこから「名前のよくわからないもの」が現れたのだ。

 「名前のよくわからないもの」は巨大な虫に近いものだった。エムとエヌの口から突然姿を現した二匹のそれは、ゆっくりと這い出てきてその全貌を少しずつ明らかにした。エムとエヌの唇は大きく開かれすぎて、顎が外れてしまったようだった。「名前のよくわからないもの」たちはエムとエヌそれぞれの口にまたがるようにして這い出てきた。しかし、全貌がわかってくるにつれて、それはただの虫とは似て非なるものだということがわかった。ぬるぬるとした(あるいはぬめぬめとした)細長い体には無数の目のような器官がついており、側面にはまた無数の耳のような部位がついていた。特撮番組で地球に襲来する怪獣のような姿だ、と私は思った。部屋の中央あたりまで這ってきた二匹は絡み合うようにして合体し、より巨大な形へと変貌した。「名前のよくわからないもの」はもはや部屋のほとんどを占めるくらいのサイズにまで大きくなっていた。

 ケーはすきを与えずに「名前のよくわからないもの」に向かって発砲した。連続で射撃したが「名前のよくわからないもの」にほどんど損傷はないようだった。どうやら銃弾が弾かれてしまっているらしい。「名前のよくわからないもの」はくねくねと気持ちの悪い動きをしながら、確実にこちらへ接近してきていた。私はあまりの恐怖から動くことも喋ることもできなくなってしまっていた。

「普通の銃弾なんてただの時間稼ぎにしかなりません」とケーは言った。

 私はケーがポケットから金色の銃弾を数個取り出し、拳銃のマガジンに素早く装填するのを見た。「吸血鬼は金色の銃弾でしか殺せない」という逸話を私は思い出した。この「名前のよくわからないもの」もまた、特別な銃弾でしか殺すことができない生き物なのかもしれない。

「いまから一分以内にけりをつけます」

 ケーはそう言って「名前のよくわからないもの」に再び発砲した。確かに今度はダメージを与えているようだった。「名前のよくわからないもの」は血を流して体を震わせた。そして接近するのをやめた。「名前のよくわからないもの」は反対方向に動きだした。逃げようとしているのだ、と私は思った。ケーもそれに気づいたのか、数歩踏み出してさらに近い距離から続けざまに発泡した。金色の銃弾は「名前のよくわからないもの」に全て命中し、相当なダメージを与えていた。ケーに退治されるのも時間の問題だった。

 しかし、そこで「名前のよくわからないもの」は床にブラックホールのような空間を出現させた。バニーガールの唇から現れたときのように、今回はそこに逃げ込もうとしているのだ。ケーは逃がすまいと最後の一発を「名前のよくわからないもの」に撃ちこんだ。しかし、「名前のよくわからないもの」は素早くブラックホールに這いずりこみ、姿を消してしまった。ブラックホールは急速に消滅しようとしていた。

「我々も行きましょう」とケーは言った。私はもうケーに従う以外にどうしようもなかった。

 ケーと私はブラックホールに飛び込むようにして、「名前のよくわからないもの」の後を追った。

 ブラックホールに飛び込んだ後、私は落下しているのか上昇しているのかわからない不思議な感覚に襲われた。恐らく落下しているのだと私は判断した。しかし、間違いなく落下しているかと言われると、もしかしたら上昇しているのかもしれないという可能性も捨てきれなかった。宇宙空間のように周囲は真っ暗で、ノイズのような轟音が鳴り響いていた。ときどき極彩色のイメージが現れたり消えたりした。そして、空間は激しく乱れて揺れていた(まるで巨大な地震に襲われているかのように)。私はいったいこれからどうなるんだろう、と落下あるいは上昇をしながら私は思った。ケーとは本当に何者なのだ? ホテルで待っていたバニーガールの二人組はいったい何だったのだ? そして「名前のよくわからないもの」とはいったい何なのだ? 私はいったいこれからどこへ行くのだ?

 夜中に私が目覚めるとき、配偶者はほとんど隣でぐっすりと眠っている。私は一人でキッチンへ行き、ミネラルウォーターを飲む。あるいは冷蔵庫の中をチェックして、ちゃんと料理をしなければ食べられるものなど何もないという事実を再確認する。私は夜中に一旦起きてしまうと、再び眠りにつくことがなかなか難しいたちなので、たいていは本を読んで朝がやって来るのを待つことになる(現在はボブ・ディランの伝記本を読んでいる)。

 つい先ほどまで見ていた夢について、私は本を読みながら考えてみた。サルバドール・ダリがドラッグをやってトリップした状態で描いたようなひどい世界だった、と私は思った。私はほとんど悪夢というものは見ないのだけれど、先ほどの夢はひさびさの悪夢だった。それも特別ひどい悪夢だ。しばらくは忘れることができないだろう。

 私はそのまま朝までボブ・ディランの伝記を読んでいた(ニューヨークに出てきて下積みをしていた時代の逸話からロックへ転向してライブで客からブーイングを受けたという有名な逸話のあたりまで)。日が上り、カーテン越しに光が射しこんでくる。私は配偶者をそろそろ起こそうと思った。生活習慣に関して配偶者は非常にちゃんとしていたし、いつもであれば私に起こされなくても自分で起きてくるというタイプなのだけれど、今日ばかりは起きられなかったようだ。昨日はひさびさに会った友人と遅くまで街に繰り出していたせいかもしれない。帰ってきたのも終電ぎりぎりだったはずだ。

 しかし、ベッドで寝ている配偶者の顔を覗きこんだとき、私は思わず戦慄してしまうことになる。私は息を呑んだ。配偶者が全くの別人のままだったからだ。しかもその顔は夢で見たのと全く同じ顔だった。私は配偶者を起こすのをやめ、リビングに戻ってソファに腰かけた。

 恐らく、と私は思う。恐らく私はまだパラレル・ワールドにいるのだ。ケーは私を元の世界に戻すと言った。そして、そのために自分に着いて来いと指示した。着いて行った先にはバニーガールの二人組がいて、セックスをすることになった。ケーはその二人を拳銃で撃ち殺し、「名前のよくわからないもの」を招き寄せることになった。ブラックホールに飛び込んだはいいものの、恐らく私とケーはあの異空間の中ではぐれてしまったのだ。ありとあらゆる出来事がまるで意味不明だったし、理解することなどとうてい無理な相談だったが、それでも目にしたことや耳にしたことは全て実際に起こったことだったのだ。

 まだしばらく私は元の世界には帰れないだろう。再びケーに会えるかどうかもわからない。「見張り塔」に行けばもしかしたらまた顔を合わせることもできるかもしれない。「名前のよくわからないもの」がどうなったのかも不明だし、そもそもなぜケーがあれと戦っていたのかもよくわからない。全ての謎を解き明かさなければきっと私は元いた世界に帰ることはできないのだという確信があった。

 しかし、と私は考える。元いた世界と現在いる世界の間に本当のところいったいどれだけの違いがあるのだろう。色々な細部が違うにはせよ、基本的にはこのパラレル・ワールドは元いた世界と似通っていたし、私が気にしなければ気にならないような変化しかもたらされていなかった。配偶者が全くの別人だからといってそれが何だというのだ。職場が変貌していたからといってそれが何だというのだ。ケーが何だというのだ。「名前のよくわからないもの」が何だというのだ。

 私は配偶者と暮らすマンションのソファに座って思った。もうしばらく私はこの非常に奇妙で複雑なパラレル・ワールドで生きていくほかないのかもしれない。

 キュー氏=私の一日が(どんなことが起こるにせよ)また始まろうとしていた。

(完)

thx :)