ある一日の描写

 不安な夢を見ていたのか、朝まだ早い時刻に目が覚める。グレゴール・ザムザのように巨大な虫に変身していないことを(念のため)確かめてから、私は恋人を起こさないようにベッドを出る。キッチンに行ってコーヒーを作り、それを飲みながらカフカの『変身』について考える。

 私は二通りのバージョンの『変身』を読んだことがあった。高橋義孝訳のバージョンではザムザが変身したものが「一匹の巨大な虫」と翻訳され、多和田葉子訳のバージョンでは「ウンゲツィーファー(いけにえにできないほど汚れた動物あるいは虫)」と翻訳されていたことを思い出す。ウンゲツィーファー、と私はつぶやいてみる。本当に奇妙な響きの言葉だ。ウンゲツィーファー

 そのうちに恋人も起きてきて、リビングで朝の支度を始める。私と恋人は二人とも不定休の仕事をしていて、今日は恋人が仕事で、私が休日という日だった。恋人はバスルームに行き、シャワーを浴び始めた。その間も私は「ウンゲツィーファー」と繰り返し唇を動かしながら、二杯目のコーヒーを飲んでいた。

 「行ってきます」と言って恋人が仕事へ出かけてしまった後、私は家事を済ませてしまうことにした。昨日の夕食で使った食器類を洗って拭き、それぞれのスペースにしまった。洗濯機のスイッチを押して、何日分かためてしまった洗濯物を洗った。そして洗い上がった洋服類をベランダに干した。ベーコンと、目玉焼きと、鮭フレークをかけた白米というメニューの朝食を食べた。

 昼ごろに病院へ行った。一ヶ月に一回、私は持病のために病院へ行かなくてはならないのだ。待合室のテレビでは遠い国の戦争のニュースが報じられていた。アナウンサーは深刻そうな顔つきで戦況を伝えていた。その後にはいまだに世界中で流行している疫病の感染状況が伝えられた。

 順番がやって来る。先生はいつもの通り「あれからどうです」と質問をする。「変わりはないです」と私は答える。「あれからどうです」と聞かれても「変わりはないです」と答える以外にどう言えばいいというのだろう。それから数種類の薬をもらって病院から帰る。これはもはや毎月のルーティンだ。

 帰ってきてからはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の続きを読んだ。もう何度目かの再読だけれど、いまだに読んでいて飽きない。

「兄さんが叙事詩を書いたんですか?」

「いや、書いたわけじゃないよ」イワンは笑いだした。「それに俺は生まれてこの方、一度だって二行の詩さえ作ったことはないからな。でも、この叙事詩は頭の中で考えついて、おぼえてしまったんだ。熱心に考えたもんさ。お前が最初の読者、つまり聞き手になるわけだ。実際、作者としてはたとえたった一人の聞き手でも、失う法はないものな」イワンは苦笑した。「話そうか、どうしようか?」

「大いに聞きたいですね」アリョーシャが言った。

「俺の叙事詩は『大審問官』という表題でね。下らぬ作品だけど、お前にはぜひきかせたいんだよ」

 『カラマーゾフの兄弟』をきりのいいところまで読んでしまうと、私はしばらくソファに横になった。そのうちに眠ってしまったらしく、起きたときには夜になっていた。さいきんソファで眠るのが癖になってしまっていて、恋人からは「ちゃんとベッドで寝なさい」と叱られたばかりだった。

 LINEを確認すると恋人から「今日は外で夕食を済ませてくる」と連絡が来ていた。昼食を食べていなかったので腹が空いていた。私はパスタをひと束茹で、レトルトのカルボナーラソースをかけて食べた。それでもまだ足りなかったので、冷凍のピザを温めて食べた。

 恋人が仕事から帰ってきたとき、私は小説を書いていた。私は将来作家になりたかった。今年こそは何らかの新人賞に応募して、何らかの賞を受賞したいと思っていた。現在書いている小説はそのための作品だった。仮のタイトルは『新世紀探偵』。22世紀のディストピア社会で活躍するハードボイルドな私立探偵の物語だった(私が個人的に偏愛するチャールズ・ブコウスキー『パルプ』へのささやかなオマージュでもあった)。

 書きものがひと段落ついたところで、恋人といっしょに酒を飲み(私はウィスキーを飲み恋人はワインを飲んだ)、煙草を吸った。恋人は主に仕事についての愚痴を言い、私はゆっくりと頷きながらそれを聞いていた。

 我々はそれからベッドへ行って二回セックスをした。一回目ははげしいセックスで、二回目はおだやかなセックスだった。我々が愛し合っている間にも遠い国では戦争が行われていた。街が破壊され、人々は傷つけられ、政治家たちは一進一退の停戦交渉を繰り返し、世界はその状況をリアルタイムで注視していた。そして正体不明の疫病はいまだに世界中を覆いつくしていた。

 二人ともその後すぐに眠ってしまった。翌朝、恋人から聞いたところでは、私は寝言で何だかよくわからないことを叫んでいたとのことだった。

thx :)